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最後の事件記者 p.224-225 私の「幻兵団」を大人の紙芝居と

最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。
最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕り、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任して報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件

で、ようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警祭がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような著意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連絡スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。

赤い広場ー霞ヶ関 p004-005 『LIFE』誌のラストヴォロフ手記を文春が転載

赤い広場ー霞ヶ関 4-5ページ 文芸春秋に掲載されたラストヴォロフ手記は一部が削除されていた
赤い広場ー霞ヶ関 About the note of Jurij Aljeksandrovich Rastvorov from the LIFE

つまりそれぞれに思想的背景があるか、もしくは集団的威力のある犯

罪の摘発をする係である。公安三課の中は、さらに欧米人、朝鮮人、中国人と三つの係に分れて、二百数十名の私服警官が、情報、捜査、翻訳などの仕事を分担している。

だが、いくら外人が関係していても単純な殺人、強盗、サギなどの刑法犯は刑事部捜査第三課にまかせており、出入国管理令、外国人登録法、刑事特別法の三法令に拠って、これら思想的犯罪を追っているのである。

もちろん捜査技術として、一般刑法や外国為替、外国貿易管理法などの事件も扱うことはいうまでもない。

戦後、「外事警察」という言葉がなくなったが、二十七年四月二十八日の独立以来、再びこの言葉が用いられはじめてきた。『外事警察なくして何の独立国ぞや』というところである。だから、ここの課員たちは誇りにみちて働らいている。

二 削除されたラ氏手記 ここまで書けばすでにお分りになったことだろう。この原稿というのは、文芸春秋誌三十年二月号に発表された「日本をスパイした四年半」という、元在日ソ連代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ氏の手記である。これは実はアメリカのグラフ雑誌「ライフ」の転載である。それは二十九年十一月二十九日号に第一回「赤色両巨頭の権力争奪戦顚末記――スターリンの死後表面化したマレンコフ、ベリヤ武装対立の大詰」、同十二月六日号に第二回、「極東における赤の偽瞞と陰謀――ロシヤ人が共産主義の武器として、いかに脅かし手段を用いたかを、元のスパイが暴露する」、同十二月十三日号に第三回、「赤色テロよ、さようなら」と題して揭載されている。

ところが、これはライフ誌のアメリカ国内版であって、外国へ出している国際版では若干変ってきている。従って、日本で市販されている国際版では、三十年の一月十日、十七日、二十四日の三号にわたって連載されているが、内容はある部分がまったく削除されてしまっているのだ。

このライフ誌のアメリカ版に手記が発表された当時、外電はそのつど内容を報じている。これを日本の新聞でみてみると、昨年十一月二十五日付読売には「ニューヨーク特電(AFP) 二十四日発」で第一回目の分を、十二月二日付產経には「 ニューヨーク一日AP=共同」で第二回分、十二月九日付産経には「ニューヨーク八日=UP」で第三回分の内容要旨が報じられている。

ラ氏はこの第二回で、その日本に対する工作の内容を明らかにしたのだ。この部分を文芸春秋誌でみると、「日本人をスパイに買収」(二月号一九八頁)という見出しがついている。これは原文では脅喝で動かされた新聞記者」となっている点が違う。参考までに文春の記事を引用 すると、