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正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 「ナンダ。たべないのか」

正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。
正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。

報知労組が、そして常に共闘する報知印刷労組が、いわゆる〝強い組合〟になってしまって、報知が〝会社でない〟状態にまで陥ってしまった遠因はここにあった。いま、隼町界隈でみる、あのウソ寒いドロ沼闘争の芽は〝中興の祖〟竹内の衣鉢を継ぐものに、人を得なかったというに

ある。

竹内は、アダ名を〝無法の竹〟といわれた親分肌の男であった。弁説さわやかならず、よく社会部記者になれたと思えるほど。それなればこそ、能く〝中興の祖〟たり得たのであろうか。これに反し、亨社長は〝奇行〟の人であり、大の組合ギライであった。組合ときけば、手にフルエがくるといわれるほど。

亨と面識すらない私には(彼の読売幹部時代にスレ違いで、私が退社した)、彼の人柄を語れない。しかし〝風聞〟のエピソードを紹介すれば、彼の〝奇行〟が納得されよう。

報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。亨社長は、自分の前におかれた天ドンをとりあげるや、早速やりだした。しかし、傍らの連中にはたべろとすすめない。

社長から遠くはなれた末席の連中は、ガヤガヤとやり出したが、近くの連中は、社長がすすめないので、手もつけられずにいたところ、自分の天ドンをくいおわった社長は、フト隣席をかえりみて、「ナンダ。たべないのか」というや、その一つに手を伸ばしてフタをとり、天ぷらだけを食ってしまった、という。

また一日、読売の編集局長を招いて、レクチュアをさせたという。そして、社長は局長と自分

とにだけ、コーラをたのんで、うまそうに飲みほした。列席の他の者たちにはお構いなしなので、これを怪んで読売の局長が問うたところ、「貴方はしゃべってノドが渇いたろうから御馳走する。私はのみたいからのんだ。みなも、ほしいものは、自分で金を出してのめばよい」と、答えた。徹底した合理主義である。

合理主義も結構である。そして、千円以上の会食申請書(取材で誰かにあって、のみくいする費用が、千円を越す場合には、申請書を出すのだそうである)は、社長の決済印が必要だとして、自分でハンコを押すのも結構である。だが、新聞という不思議な企業は、それこそ、「人」が資本なのである。合理主義に徹して、企業の合理化は図れない。

例えば、取材の電話代である。出張先からの電話送稿の場合、週刊誌などでもそうであるが、地方から本社に電話を入れ、自分の所在地の電話番号を教えて切る。数分後に、本社から電話がかかってくる。通話料を本社の直通電話に負担させて、送稿をするが、出張の精算書では、抜け目なく「電話料」をとるのである。こうして数千円の金を浮かせるのが、記者の英気を養う小遣い銭になる。天ドンやコーラや、千円の会食費審査のアミにはかからない〝不合理〟なのである。

記者経験しかない補佐役に、合理主義の社長のもとで、組合側はドンドン力を伸ばし、すぐ時限ストの実力行使に入り、会社側には十分な人事権すらない労働協約までモノにしてしまった。そして、印刷所とは常に共闘である。組合員五九〇名だから、会社側の管理職だけでは、新聞の

発行ができない。それどころか、印刷工場(二六○名)の同調で、刷りにも困る。こんな事情もあって、会社はつねに譲歩に譲歩を重ねた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 〝無法の竹〟竹内ならバカヤローッの大喝

正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。

記者経験しかない補佐役に、合理主義の社長のもとで、組合側はドンドン力を伸ばし、すぐ時限ストの実力行使に入り、会社側には十分な人事権すらない労働協約までモノにしてしまった。そして、印刷所とは常に共闘である。組合員五九〇名だから、会社側の管理職だけでは、新聞の

発行ができない。それどころか、印刷工場(二六○名)の同調で、刷りにも困る。こんな事情もあって、会社はつねに譲歩に譲歩を重ねた。

もしも、〝無法の竹〟こと竹内が社長であったなら、バカヤローッの大喝で、組合とは決裂しても、譲歩はしなかったであろう。労担重役となった藤本も、東大卒で、本人自身が論理的人物であるだけに、極めて論理的な攻撃には弱い、誰にでも好かれる好人物であるから、労担重役には向かない男だ。社長がジイサマの御曹司とあれば、サラリーマン経営陣が弱体であるのは当然である。編集局の部長クラスに出向してくる読売記者はみな組合に突きあげられて、ほうほうの態で本社に逃げ帰るものが続出した。

これでは、報知の今日を築きあげた、竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神は、全く別な形で実現してしまったようである。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。六百の社員に七十万の部数。一人当り千部という新聞経営の理想的な状態にありながら、十分な収益をあげられない実情にあったのではあるまいか。

正力の胸中にも、亨の経営責任が去来したのであろうか。同時に販売店からの読売務台副社長への突きあげもあったのであろう。しかし、報知のこの現況を、亨社長個人にのみ追求するのは酷にすぎよう。社会部記者のみで幹部を固めた竹内の意図と、その期待に応え得なかった社長側

近にも、その一端を負わすべきである。

伝説断絶の日本テレビ

正力の女婿小林与三次が、自治省次官を辞して読売に入ってきたころ、代議士の後継者は小林といわれていた。正力の地盤は高岡である。すでに当選五回、トップの松村謙三は破れないものの、前回で、定員三名の二位、六四、九○二票を得て、三位の社会党と一万弱の差である。だが、高岡が新産業都市に指定されて、漁民がひっそくし、工員とその家族がふえてくると、他府県からの流入人口が多くなり、正力支持票が減少しているようである。ことに、地元の富山県知事が、前から出馬したがっているのを抑えてきてもいるし、公明党が立候補すると、晩節を汚すおそれも出てくる。

正力の名前ならば、地元民にも利くけれども、小林姓になれば、たとえ女婿でも馴染みがうすくなる。小林は人物、識見とも立派だが、女婿にゆずるというほど強固な地盤というものではない。では正力亨はどうかとなると、あの〝合理主義〟では地方の選挙民がついてこられるものではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.190-191 電光石火の社長交代劇であった

正力松太郎の死の後にくるもの p.190-191 かつては〝報知は亨、日本テレビは武〟とみられていた。武に柴田秀利、亨に棚橋一尚が、秀頼と石田三成の関係に見たてられていた。ところが、柴田去り、棚橋は追われという、大番狂わせである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.190-191 かつては〝報知は亨、日本テレビは武〟とみられていた。武に柴田秀利、亨に棚橋一尚が、秀頼と石田三成の関係に見たてられていた。ところが、柴田去り、棚橋は追われという、大番狂わせである。

あれを想い、これを考えると、どうしても「引退」の線しか残らない。こうして、冒頭の引退発表とはなったものの、正力にはまだ跡目の問題で諦らめきれないものがあったに違いない。それが、「郷土には人材が多く後進に道をゆずる」の一行を、やはり削除しておこうという思いつきになったのであろう。もしも、読売をはじめ、報知、NTVなどすべてが安泰であれば、小林を読売から引き抜いて、郷里で選挙に専念させられるであろうのに……という、正力の苦悩が読めるのだ。

報知の事態は、もう瞬時の遅延も許されなくなっていた。このまま推移せんか、正力亨にキズがつくばかりであった。ということはとりも直さず、亨社長ではすでに処理しきれなくなっていた、ということでもある。

そして、電光石火の社長交代劇であった。新社長の菅尾でさえ、事前に十分には知らされていなかったという。菅尾は務台副社長系列の業務畑出身。一時新聞をはなれて遊んでいたのを、読売系地方紙の部長に迎えられ、大阪読売の発刊当時に、読売へもどってきた大阪読売の業務、さらに九州で西部読売発刊当時にも派遣されたという、根っからの業務人。一方、棚橋に代って報知印刷の社長になった岡本は、サンケイが前田久吉から水野成夫に交代した時の人事部長である。いうなれば、〝無能〟な編集出身者にかわって〝首きり浅右衛門〟がのりこんできた、というところであろうか。

それでこそ、「岡本体制、断固粉砕」とか「組合つぶしをやめろ」の、アジビラかハハンと読めるのである。とすると、菅尾、岡本の両社長は、報知建て直しのため、正力の御馬前で討死を覚悟の、辛いお役目とも見られるのである。すると、正力亨を温存のための交代とも思えてくる。

かつては、〝報知は亨、日本テレビは武〟とみられていたので、これらの〝幼君〟のお守り役が、いうなれば〝先物買い〟で現れてきたのである。前述したように、武に柴田秀利、亨に棚橋一尚が、秀頼と石田三成の関係に見たてられていた。ところが、柴田去り、棚橋は追われという、大番狂わせである。亨が日テレに取締役副社長で入ってくると、武は、よみうりランドへ移った。こうして、武はまだ読売興業には重役として加わってはいないが、武の分担はこの部分ということになるらしい。

さて亨を迎えた日テレはどうか。柴田専務の退社が、一般局員には何の影響も起さなかったように、亨副社長の入社も、何ということもなかった。古い局員の一人はいう。

「テレビは新聞とちがって、徹底した機械のメディアでしょう。機械がわからなければ、さらに口出しはできませんよ」と。

さらに気づいたことは、亨は巨人軍のオーナーでありながら、球場へ現われることが少くなったし、何かと公的な席へ出ること、つまり、新聞紙面に登場してくることが、以前にくらべると、はるかに減ってきたということがある。

正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 上中下三つの断層がある

正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。「これでは〝伝説〟が生れない——」
正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。「これでは〝伝説〟が生れない——」

それらを考えあわせると、亨の日テレ副社長というのも、正力タワー建設の大偉業をやり抜くための、後継者ではないかとみられることである。

日テレの創業時の〝感激〟を、中堅以上の古い局員たちは懐しんで語る。「アメリカのテレビは、受像機がレーダーの研究からできてしまった。商品の受像機を売るには、放送をするしかない。というので局ができ、放送がはじまった。ところが、日本のテレビは、局ができて、放送がはじまった。そこで、メーカーが受像機を造って売り出した……と全く逆なのだ。そこに着眼した、〝正力テレビ〟の街頭受像機の設置という構想は、実にすばらしいものだった——」

構想はすばらしくとも、誰も理解してくれなかった。正力は、資金集めにかけずりまわり、青息吐息であった。だが、その苦心が実って、保全経済会の伊藤斗福の一億円を皮切りに、ようやく事業は緒についた。

「盛り場に設置された街頭テレビの前は、黒山の人だかり。誇らしげに読売の販売店のオヤジさんがかけまわり、私たちもカメラマンの脚立が倒れないように押えてやったものでした。あの感激は、終生忘れられないでしょう。……だから、私たちには、読売新聞というのは、本家とも実家とも感じられます」

四十三年九月期の有価証券報告書をみると、大株主名簿には、もちろん、「保全経済会」などという、〝忌まわしい〟サギ団体の名前などはない。読売テレビ(大阪)の八・○○%を筆頭に、

読売新聞七・三六%、以下、東洋信託、光亜証券、野村証券、大和銀行、第一生命、日本生命、同和火災、三菱信託と、一流どころがズラリと並ぶ。総勢二十七名にもおよぶ役員は、監査役の京成電鉄相談役が四、五六○株をもっているのを除いて、正力会長以下誰も一株ももっていない。

創立当初、朝日、毎日にも協力してもらった義理もあってか、平取ではあるが、毎日梅島社長と、朝日谷口取締役(現社友)とが入っている。しかし、読売で十五・三六%の株をもち、正力一家三名が重役に列していながら、日テレ全体の雰囲気は、全く冷たくよそよそしくて、読売人や報知人にとっては、他人の家である。

「それは、日本テレビが開局十七年にもなろうというのに、上、中、下という大きく三つにわけて、断層があるのです。コミュニケーションが全くないのです」

武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。それもまた突然であり、何の説明もなかったのであった。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。

「これでは〝伝説〟が生れない——」

こういって、古手の、開局当時を知っている連中が嘆く。〝伝説〟のないところに、上下のコミュニケーションは生じないという。

どこの社でも、幹部の異動などは、社内で下馬評が生まれ、二、三の意外性をのぞいては、お

おむね、下馬評通りの発令になるというのが定石である。それが、日テレではついぞそんなことはなかったという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 〝務台教〟とその信者

正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。
正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。

どこの社でも、幹部の異動などは、社内で下馬評が生まれ、二、三の意外性をのぞいては、お

おむね、下馬評通りの発令になるというのが定石である。それが、日テレではついぞそんなことはなかったという。

社のウラの自家用車置場。アイボリーや赤の小型、中型車がズラリと並んで、若い女性局員たちがさっそうとのりまわしている。

——確かに、新聞よりはサラリーがいい、若い連中ほど、そうかもしれない。しかし、マスコミという仕事は、そんなふうに、上の人事に無関心で、自分のサラリーだけ働けばよい。労働の報酬なんだと、割り切ってすむものなのだろうか。

〝伝説〟がない、と嘆いた古手局員の述懐である。そして、それは確かである。正力の手がけた事業の中で、〝一流中の一流〟となりつつあるのは、読売新聞だけである。

報知は、スポーツ紙としてはAクラスなのだろうが、一位の座は日刊スポーツに占められ、しかも、次第に水をあけられている。テレビでも、草分けの日テレがTBSに大きく引離されているのである。それなのに、何故、読売新聞だけは、大朝日が百年を費して築いた五百六十万部に対し、半分の五十年だけで迫ろうとしているのだろうか。しかも、その四十万部の差は、すでに刻々と縮められつつあり、読売の戦う姿勢は十分なのである。

〝務台教〟に支えられる読売

これらの〝正力コンツェルン〟の本家、読売新聞には、それに相応しく〝伝説〟が、いろいろとある。その一つが〝務台教〟とその信者であろう。

務台光雄。読売副社長である。務台はそれこそ〝業務と販売の神様〟なのだから、〝務台教信者〟が現れても不思議はない。彼にまつわるエピソードは極めて多い。ある読売関係者が私にこうきいたものである。

「務台さんという方は、全く立派な方だそうですネ。……停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。そして、その夜は、本人の好みに応じてツキ合ってやり、翌朝また電話して、身体は大丈夫かと問合せてくる——という話ですが、本当でしょうか」

そのほかにも、務台にまつわる逸話は前にも述べたが、ここに紹介しきれないほどである。私自身の体験からいっても、務台の人柄には、人の心にジーンとしみこむものがあるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 新聞記者としては額にうけた向う傷サ

正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、当時の小島編集局長は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、当時の小島編集局長は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。

昭和三十三年七月、私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、私は務台に挨拶にいった。当時の小島編集局長(故人)という、私の上司は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。

「ウム。事情はきいたよ、ナーニ、新聞記者としては、額にうけた向う傷サ。サッパリ片付けたら、また社にもどって働いてくれ給え。元気でナ」

警視庁へ出頭する前のこの言葉は、どんなにか私を感激させてしまったことだろうか。務台の人間的な魅力、人使いのうまさは、ここにあるようだ。そして、これらの言葉は、決してその場限りのものではなく、退社後も何回か、人づてに「務台さんが、三田はどうしたかナ、と心配されてたよ」と、激励の言葉をきかされているのだった。

報知と報知印刷とに赴いた、菅尾と岡本も、多分、務台の懇請に応じて、いわば死地に出陣したものであろう。ここで想起されるのが、昭和四十年春のいわゆる「務台事件」である。

その年の春闘で、読売労組は「七千五百円アップ」の賃上げを要求して、スト権確立の全員投票までを決定した。闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務の務台は、「所感」をもって代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまった。

その詳細は、さきに述べた通りであるが、この「務台事件」の結果、〝正力の読売〟とは、その

前置詞として〝務台あっての〟正力の読売であることが、明らかにされた。

正力と務台との出合いは、今から四十年も前の昭和四年、当時全盛の報知新聞の市内課長であった務台を、販売部長として読売に迎えたのにはじまる。こうして、務台は正力の女房役として、販売一本槍で四十年を共に歩んできた。今日の読売の大をなした正力も、確かに、務台あったればこそのことであった。

務台は、明治二十九年六月六日生まれ。早大政経科を大正七年に出て、新聞界に入った。

思えば、わずか四年前のあの務台事件当時の危機を脱し、隆々たる今日の実力を回復したのは、果して何であろうか。

「朝日」取材の時に、朝日大阪編集局長の泰はいった。「宅配制度の崩壊は、時の流れでもあろう。読売の強力な追いあげに、朝日も懸命である。そして、三紙てい立の維持に必死の毎日——販売費はいよいよ高騰し、小刻み値上げが断続し、各社ともに戦力を使い果したとき、ようやく共販・共同集金などの合理化が検討されよう。その時、どの新聞が生き残っているかが問題である」と。

販売費の高騰——ということは、各社が血みどろの販売合戦に、どれだけ経費を注ぎこめるか、という、〝金融能力〟にかかってきている。

朝日は、大阪、名古屋などの新社屋建設のために借入金が増大し、毎日は、もはや担保に入れるべき自社社屋を失って、パレスサイド・ビルの借家人である。その時、読売が借金のできる体

制であることは、大変な強味であろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 〝非現代的〟な人間模様の闘い

正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。

朝日は、大阪、名古屋などの新社屋建設のために借入金が増大し、毎日は、もはや担保に入れるべき自社社屋を失って、パレスサイド・ビルの借家人である。その時、読売が借金のできる体

制であることは、大変な強味であろう。

さて、一応の結論へと進まねばならない。ポスト・ショーリキとは、事実上はポスト・ムタイであるということである。正力は〝郷土の後進〟に選挙区をゆずるよりは、やはり、小林に渡したい気持ちは十分なのであろうが、今、読売が、正力、務台とたてつづけに失ったならば、一体どうなるであろうか。

原四郎編集局長は、務台に極めて近い、とされている。事実、務台——原ラインが、今の読売新聞をガッチリとおさえて、朝日打倒の陣を進めているのであろう。しかし、ポスト・ムタイである。小林を今読売から抜いたのでは、その時が心配なのであろう。

報知の〝正常化〟は、務台がのりだしたからには一安心。亨にはテレビ塔に専念させれば、レールは自分がひいておくから、これまた安心。他の細かいものは、武にみさせる。こんな〝跡目〟青写真が、正力の脳裏に描かれていたのであろう。私はそう考える。

問題は、日本テレビである。

正力亡きあとに、〝正力コンツェルン〟から、脱落し、あるいは離反するものは、日本テレビに違いない。

新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられ、織りこまれていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆる

ものが巣喰っているのである。

毎日のある記者がいう。「朝日には〝大朝日意識〟がある。読売は〝読売精神〟というでしょう。だが、毎日には何もない」と。

この言葉と、日テレ局員のいう「日テレには〝伝説〟がない」という言葉とを考え合わせるとき「新聞」という奇妙な近代企業の、不可思議な体質が暗示されるのである。現実に朝日新聞百年の王座を支えてきたものは、〝大朝日意識〟であったし、読売五十年の躍進を可能ならしめたものは、〝読売精神〟でもあった。そして、毎日が東京日々新聞以来の有楽町の古いビルをすてて、〝伝説〟を断絶させた時からの斜陽ぶりが、それを事実として示しているのだ。

朝日と読売という、超巨大紙の角逐は、実にこの〝非現代的〟な人間模様の闘い、とでもいい得よう。

〝伝説〟と〝神話〟との闘い——果して、六百万の大台に早くのるのは、朝日であろうか、読売であろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 正力が高文合格者いずれも内務官僚

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。
正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

小林副社長〝モウベン〟中

正力松太郎の政界引退声明にこめられた〝声なき声〟を承けて、その女婿の小林与三次は、今や真剣に「読売新聞」に取組んで、猛ベン中である。

というのは他でもない。ここ数カ月来、小林は編集各部の中堅デスク・クラスと、〝勉強会〟を継続的にもっているからである。

小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。正力が明治四十四年採用の高文合格者であり、長く僚友として読売をもりたてた品川主計が、同四十五年の一期後輩。また、副社長を勤めた高橋雄豺は大正四年の、田中耕太郎や唐沢俊樹(故人)らの同期生である。そして、娘のムコとした小林が、昭和十一年採用という、いずれも内務官僚である。小林の同期といえば、元警視総監の原文兵衛、陸幕長の山田正雄らがいる。そして、小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

読売に入社した小林は、衆議院議員正力松太郎の後継者と目されていた。というのは、業務に務台光雄、編集に原四郎という〝大黒柱〟があって、小林の〝戦闘正面〟に特記すべきものがな

かったからである。いわば予備隊的存在に近かったからである。

それこそ、務台は〝業務と販売の神様〟であり、原は法政を出て国民新聞に入り、昭和十一年読売に移籍。社会部長在任七年にもおよんだ、というベテランとあってみれば、小林が代議士の跡目とみられたのは、その官僚経歴からしても当然であろう。

だが、事態は変った。

前に述べたように、正力の政界引退声明には、読売だけ削除はしたものの、「郷土には人材も多く、後進に道をゆずることが、最善だと考えている」旨の正力談話があり、小林を指名していないのである。

そして、小林の〝勉強会〟の講師は、決して部長や古参次長ではなくて、もう一クラス下の、いうなれば四、五年先の部長候補クラスなのである。これは、何を物語るのであろうか。

小林は、読売の副社長である。彼に編集各部の仕事の内容や実情について、御進講申しあげるべき人物は、部長でなければ、筆頭次長(注。新聞は朝夕刊あるので、勤務が交代制になるため次長が三~七名ほどいる)クラスであるのが、自然というべきである。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 いわゆる〝務台文書〟配布事件

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

このことは、本稿冒頭でもふれたように、小林には、務台と対立拮抗しようという意志がなく、五、六年先の政権担当を描いているということである。務台も、もうそのころには、八十歳に手がとどくころで、新社屋の建設も終って、正力に托された〝正力の夢〟を実現して、功なり名をとげての引退、という時期である。

従って、読売においては、実に、ポスト・ショーリキではなくして、ポスト・ムタイが現実の問題だということである。だが、ことさらに騒ぎを好むヤジ馬の常として、務台と小林の動きを、対立させて考える動きがあるのである。

読売の重役会の様子をきいてみると、常務会などでは、原四郎の独り舞台だそうである。他の常務たちは、そこで、何か仕事をしようという時には、どうしても、務台か小林かの、どちらかの副社長を立てて、やらざるを得ない。そのため、ともすれば、務台、小林の〝対立〟なるものが、秘やかに〝喧伝〟されるということになるらしい。

さきごろの、いわゆる〝務台文書〟配布事件というのも、〝怪文書事件〟扱いをされているが、務台が、務台の個人名で発送したことを認めているのだから、〝怪文書〟ではない。そして、務台側近のいう「意外な反応」とは、このようなことである。

コピーの配布を、〝務台の先制攻撃〟とみるのが、いわゆる〝意外な反応〟なのであった。つまり、これは、務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。オレが読売に入社し、終戦の年に正力に殉じて去り、ふたたび復社するについては、これだけの経緯があってもどったのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

そのカングリは、さらに、「それでは、務台、小林間に、すでにそのような〝情勢〟がかもし出されていたのか!」と発展し、一波乱はまぬかれないものと、期待する向きも出てきたのである。そのような〝向き〟とは、必ずしも、読売社内だけとは限らない。当面の外敵、朝日もそうであるし、毎日、サンケイ、あるいは、報知、日本テレビなどの、コンツェルン系統にもあろう。

これらは、あくまで〝下司のカングリ〟にすぎないのであるが、私は、これを別な形でとらえて、「務台の政権担当の決意表明」ととる。もちろん、全社員への〝檄〟の意味もこめられていよう。

私の務台インタビューの時点で、まだ、発送こそされてはいなかったが、計画は進んでいたハズである。しかも、務台の話の中で、それらの片鱗は現れているのだった。私が、「決意表明」とみる理由はこれまで、しばしば示してきた務台のあの〝熱気〟である。だからこそ、朝日打倒と新社屋建設が、務台の〝男の花道〟というのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 充実感のウラ側の不安と落胆

正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく
正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく

だが、一方では、全社員六千名に、〝檄〟を飛ばさざるを得ないという務台の気持を、裏返してみるならば、「読売も大きくなりすぎたなあ」という、深い充足感と、わずかながらの不安、落胆の入りまじった、ある感慨にふけっているのではなかろうか。

わずかながらの不安、落胆! この心理のカゲは、幸福すぎる時にフト心をよぎる、この幸福を失うことへのおそれ、とは、ニュアンスが少し違う。

マスコミの集中化が進んで、読売、朝日という二巨大紙が、さらに超巨大紙へと進む時、そこでは、もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていくに違いない。務台が、前述の復帰第一声の中で述べた、「新聞」と「読売」とへの愛情などは、もはや、誰にも理解されなくなるのである。充実感のウラ側の不安と落胆とは、その現実への〝予感〟である。

八幡製鉄の子会社、松庫商店の業務上横領事件を、取材していると、八幡幹部の経理面の不正が、いろいろと出てくる。たとえば、某社長夫人の葬式に、八幡と関係が深い人物だったので、八幡から香典が供えられた。

その中身は二十五万円也。ところが、八幡の経理からは、五十万円が出金されている。なるほど、香典などは、受取証の出ない金なのだから、担当者がフトコロに入れてしまったのだろうか。

これでは、死者への礼を欠くどころか、死んでもなお、関係者の〝汚職〟に利用されて、霊魂も浮ばれまい。

私の「読売も大きくなったなあ」という感慨とは、この八幡製鉄のケースから考えてのことである。務台が、今さら〝読売精神〟を訴えんとすれば、これは、「小林副社長との対立か?」と、カンぐられる時代になっているのである。そして、務台側近筋の〝思いもかけない反応〟という言葉が、その時代の流れを〝読みきれない〟ということを、裏書きしていよう。

現に、〝販売の神様〟であった務台にとっては、新聞業界紙が、匿名で取りあげた「某紙某局長が私財一億円を貯めこんだ」という記事を目して、〝一億円局長〟を、読売の局長になぞらえられたり、販売部門の部下が、悪徳店主と〝組んだり〟して、新聞販売店従業員を学校に入れるという読売奨学資金制度を〝食いもの〟にしているなどとして、善良店主の造反がおきたりしている、ということは、かつての読売精神からは考えられないことであろう。

その時、さる四十四年八月十日付の朝刊一面で、大手町の新社屋建設計画が公表された。地上十階、地下五階の、最新、最大の設備で、この八月から二年計画で工事を進め、昭和四十六年十月を期して、移転するというものだ。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 「ゴ、五万円出す。その男を」

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

薄給にあまんじ、読売と共に生き、読売とともに死ぬ——この〝読売精神〟に徹するためには、読売はあまりにも、大きくなりすぎてしまった。

私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「ウム。今年、大学を出て、読売を受けたが落ちた男がいる。だが彼は『どうしても新聞記者になりたい』というので、来年もまた読売を受ける、というんだ。……一体、いくら(月給)出すのだ?」

どうしても新聞記者になりたい! 何という、カッコいい言葉であろうか。私は反射的に叫んだ。

「ゴ、五万円出す。その男を、ゼヒ紹介してくれ!」

地方紙の、ある古手の記者に、こんな話をきいたことがある。社会部は事件なんだと、若い記者の何人かを、子分同様にして、育てていたんだ、という。それこそ、夏場に〝女〟を買いに行けば、若い記者が背中をウチワであおぐほどであったと。

それだけをきけば、封建的な徒弟制度、ヤクザの親分、子分の関係のようであるが、この話には、それなりに「新聞記者の基礎教育」における、先輩と後輩の関係を、象徴しているものがある。

私は本稿の中で、先輩たちに与えられた教育や言葉を例示してきた。「新聞記者は疑うことで始まる」「名誉棄損の告訴状が、何十本と舞いこんでも、ビクともしない取材」と、いったような言葉である。

そしてまた、新人の教育とは、次のようなものであった。拙著「最後の事件記者」(昭和33年実業之日本社)の抜粋だ。

イガグリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働きはじめていた。実に清新、爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二十五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が、六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、わが子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 「読売の方が経済的に安定していますから」

正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、『竹製品展示会』である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内をみまわして、『これは本当だろうか!』とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)からバスにのれば、十五銭ですむのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり、七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいかわからない。怒

るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけられ、アッと思う間もなく、反古としてもちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのはこの時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった」

どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。

だが、数日後に、私は、正論新聞のスタッフとともに、新聞論をたたかわせながら、新宿のバーで泥酔していた。その青年からの返事が、その仲介者を通じてもたらされたのであった。青年は、来年の再受験に備えて、読売の都内支局に、バイトとして働いていた。

「読売の方が、正論より、経済的に安定していますから……(正論へ入るのは見合わせたい)」と、いっているという。

私は、バーのカウンターを、手が痛くなるほど叩いた。

「バカヤロー奴が! ナニが、どうしても新聞記者になりたい、だ。奴のは、新聞記者になりたい、ではなくて、読売社員になりたいということだ。こんな、ボキャブラリイの少ない男が、記者などと口にするな!」と。

正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「週刊現代」誌の記者の断定

正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。

社長のいない大会社

かくの如く、〝大きくなりすぎた〟読売新聞には、もはや、〝読売精神〟など、小指の先ほども残ってはいないのだ。それなのに、務台は、「読売精神」を喚起すべく、社中に〝檄〟を飛ばした、という。これが、務台攻撃派に乗ぜられないでおられようか。

八月末ごろのある日、私は用事があって、読売本社を訪れた。たまたま、廊下で務台副社長に出合った。

「キミ、君の指摘した販売店従業員の工科大学校の件ネ。あれは、読売が直接やることにしたよ。これで問題は一まず解決だ。読売本社が、直接、学校にタッチするんだ。……たったいま、会議で決めてきたよ」

私も、わがことのように嬉しくなって「ハ、ハイ。ありがとうございます」と、お礼の言葉を述べていた。私を信じ、私の書く「読売論」を信じて、その苦衷を訴えてきた、一人の〝販売店主〟の声に、こんなにも、卒直に反応する務台の、読売への愛情が私を打ったのであった。

私は、その、嬉しそうに話しかける務台の姿にオーバーラップして、数日前、訪問を受けた、「週刊現代」誌の記者の姿を想い出していたのである。

「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、すでに、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」

私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。

「証拠はこれです。そう話してくれる人は、二、三人いるのですが、いずれも、誌上に名前を出すのはカンベンしてくれというので、あなたに、名前を出して語ってほしいのですが……」

その記者は、〝務台文書〟を示しながら、読売の内紛、と断定した、カサにかかったいい方をして、私を促した。

彼が社を出る時の、この企画の担当デスクとその男との、会話のヤリトリまでが、ほうふつとするようなインタビューであった。

読売の内紛! 週刊誌のデスク・プラン——それこそ、〝机上の空論〟が描いた青写真は、務台光雄・小林与三次両副社長の対立ということである。この二人の副社長(共に代表取締役)が、ポスト・ショーリキに、社長を争う——ことがあり得るであろうか。

まず、戦後の読売史をふりかえらねばなるまい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 戦後の読売には「社長」はいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

戦後の読売には、正力の留守居役であった馬場恒吾を除いて、「社長」はいないのである。社員名簿が、それを雄弁に物語る。しかも、正力もまた、社長の地位にはついていない。戦犯容疑で巣鴨に収容され、釈放。つづいて、追放指定、同解除となってからもである。

戦後はじめて、名簿がつくられたのが、二十三年二月現在のものだが、「有限会社」時代で、「代表取締役社長」に馬場がおり、他にヒラ「取締役」が五名。二十四年度は、馬場は変らず、取締役主筆に安田庄司、常務取締役に武藤三徳、ヒラ取四人に監査役が加わる。

二十五年度は、「株式会社」となったが、馬場が社長で、安田が副社長。ヒラ取が六人にふえて、この時はじめて、務台がヒラ取で名を出した。二十六年度は、馬場が顧問となって、安田が「代取副社長」、武藤常務の名が全く消えて、務台が代って常務になった。ヒラ取も一人ふえて七名になる。

二十七年度。安田副社長、務台常務は変らずで、ヒラ取がまた一名増の八人。ただし、馬場顧問と並んで高橋雄豺が顧問に列した。二十八年度も、この陣容のままで、二十九年度は、監査役が一名増の二名になっただけ。

ところが、三十年六月十五日現在の社員名簿になると、第一行目に「社主、正力松太郎」の名が加わり、「代表取締役副社長」高橋雄豺、「代表取締役専務」務台光雄の連名となる。翌年には、ヒラ取から二名が常務になって、このまま推移してゆく。

この経過で明らかな通り、正力の公職追放もあって、内務官僚で四年後輩の高橋を副社長に据えて、正力は「社主」という新らしい地位(呼称というべきか)に、ついたのであった。その時の用意に高橋は三年前から顧問の地位にあったのである。新聞社の役員は、新聞業務の経験者でなければならない。小林与三次が官を辞したあと、若干期間、主筆として勤務したのちに、取締役になったのと同じである。

正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

さて、ポスト・ショーリキで、果して、務台は、人と争い、抵抗を排除してまで、「社長」の地位を得ようとするのであろうか。務台文書の中にも、「昔から、派閥のある新聞は、必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります」(25・3・11付「新聞通信」務台演説)と、自ら講演している務台が、事実上の〝社長〟の地位にありながら、単なる「社長」の名を求めてその晩節を汚すの愚を、あえてするであろうか。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 〝読売の跡目争い〟を興味本位に

正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。

さらにまた、小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。現時点で、務台を追放してみても、なんのメリットがあるだろうか。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。新聞界に日の浅い小林には、到底無理なことである。

毎日新聞において、本田親男から上田常隆へと、社長が交代したのは、一種のクーデターであった。そして、上田は、政権交代のための、暫定社長であったといわれている。だが、毎日の今日の斜陽を招いたものは、このクーデターによって、銀行金融筋に、もっとも信任あつかった、原為雄を失ったからだという、説をなす新聞人もいる。

新社屋完成は二年後。務台に花をもたせて、ポスト・ムタイの構想を描くのに、小林にとって、三年、五年を待つのは、少しの難事ではあるまい。しかも、九月十三日付の読売PR版をみると、八月二十九日の地鎮祭で、「クワ入れする小林副社長」の写真が掲載されている。務台は、それだけの礼儀をわきまえた紳士である。

こうみてくると、週刊誌記者が、〝読売の跡目争い〟を、興味本位に書き立てようとしても、ケムリすらないのである。では、どうして、務台の〝読売精神〟作興への檄が、このようにネジ曲げられるのであろうか。

この時、示唆に富んだ一本の外電がある。別項で解説した、岩淵辰雄のいう〝疑い深くなった正力〟にも似た話である。

「米国に亡命したスターリンの娘、スベトラーナさんが、今月末『わずか一年』と題する新しい本を出版する。彼女は、新著でもスターリン首相を『冷酷ではあったが、きちがいではなかった』とかばっている。

同女史によると、スターリンは一九三〇年代の粛正のときには、正気を失わず、反対派を弾圧しただけだった。だが、晩年は病人とおなじで、陰謀がくわだてられているのではないかという、疑惑と妄想になやまされ、少しでも疑いをもつと、忘れることができなくなっていたという」(四十四年九月十九日サンケイ紙)

そればかりではない。務台とガッチリ組んだ編集局長原四郎の存在がある。

新社屋建設の金繰り、朝日との六百万部の大台のせ競争という、苦しく困難な命題を抱えた務台の後釜というのはさておき、「編集局長」のポストなら、オレにだって、という対抗馬の何人かがいるのである。

また、亨、武という、正力の二子をいままでカツいできて、アテの外れた人たちもいるであろう。——それらの人々にとっては、務台—原体制が、まだこれから数年もつづくのでは、自分の年齢、客観情勢からみて、〝出番〟がなくなってしまう、というアセリがあるのではなかろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 週刊誌に〝売りこんだ〟男がいる

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

新聞、週刊誌に追尾す

読者は、ここで、さきほどの記者になりたい、青年の話を想い起して頂きたい。

もはや、〝大きくなりすぎて〟しまって、読売精神さえ地を払っている読売で、読売精神を鼓吹しようとして檄を飛ばし、それゆえに内紛を喧伝される——務台の悲劇的とさえもみられ得る姿。そしてその務台自身が、六百万部を目指し、輪転機九十六台が稼動する工場を内蔵した、大社屋建設の巨歩を進めつつあるという現実。

読売は〝大きくなりすぎた〟のではなくて、務台自身の努力で、〝大きくしすぎた〟のである。昭和四年の読売入社から四十年。その人生のすべてを賭け、正力を助け、女房役に甘んじ、販売店主が〝造反〟したときけば自らのり出して解決するという、母親がわが子を育てるほどの、こまやかな愛情をそそいで、それが大きく成長した今日、もはや、務台の〝読売への愛情〟は、読売社員に理解されなくなっているのである。——

業務の務台ばかりではない。編集の原とて同じである。

〝務台文書〟のような、直接のキッカケこそないが、編集局長原四郎に対する、〝批判〟の声は、

澎湃として起っている。そして、キッカケのないことが、務台攻撃を一そう強めたとみられるのである。

週刊誌記者は、以上のような私の〝解析〟の前に「読売の内紛」を記事にすることを諦めたのであった。私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもないのであった。全くのところ、あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、あまりにも真実に眼をおおい、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

「これでは、企画通りにゆかなくなった。絵にならないなあ(記事にならない)。折角の材料だったのに……」

週刊誌記者は、アキラメの悪いツブヤキを残しながら、私に一礼して去っていった。そして、明らかな事実として残ったことは、そのようにネジ曲げた趣旨で、この話を週刊誌に〝売りこんだ〟男が、読売社内にいる、ということであった。

現実に、読売には〝内紛〟などはないし、しかも、務台—原体制は、さらに続くということである。そして、務台—原体制にアダをしようという動きも、その体制が育て、培ってきた「読売新聞」そのものがさせるのである。ここに、従来の意味における「新聞」で従来の意味の「新聞人」として成長した、務台—原ラインの、現実とのギャップがあるのである。

務台—原体制が、さらに三、四年もつづくであろうという、見通しの根拠を述べねばならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 原の後釜を狙える者はまずいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。

もちろん、二年後に完成を予定される、新社屋という大事業がある。これは、務台をおいては、他に人を得られないことだ。原為雄を失った毎日新聞の前例があるのだから、読売がその轍を踏むことはあるまい。

さらに人事体制がある。

報知の救援に、務台直系の菅尾と、乞われた岡本が赴いた経緯は詳述した。そして、さきごろ報知のド口沼ストが、ひとまず解決したのであるが、これは、労使ともにみるべき成果がなく、数回の休刊という犠牲を払って、なおかつ〝停戦〟的解決でしかない。

ところが、昨秋、報知入りして、平取締役(広告担当)にすぎなかった金久保通雄が、さる四十四年二月十七日、常務・編集局長に選任されて、ド口沼ストを経過しておったのだが、さきごろ、スト解決とともに、突如として解任されて、非常勤の平取締役に格下げされた。そして、読売本社から審通室長(役員待遇)で元社会部長の長谷川実雄が派遣され、代表取締役副社長兼編集局長という、破格の待遇が与えられた。

この解任劇は、もちろん、報知社内でも何の説明も行なわれていないのだが、さきごろのスト解決とは無関係ではないらしい。

金久保は、社会部長、出版局長というポストで、原の後を追うようにピタリとついてきた男だ。いうなれば、原の次期編集局長としては、対抗馬ともみられてきていた。それが、報知入りをし

て、編集局長となった時、その〝施政方針〟演説をして、「紙面で巨人軍優遇はしないし、労使の紛争解決のためとはいっても、休刊などは絶対すべきではない」旨の、組合迎合ともとれる〝スジ論〟をブッたといわれている。

このような態度が、荒廃した報知経営陣再建のため、菅尾—岡本体制を造った務台にとって、決して、愉快なものではなかったと思われる。その揚句の、解任、非常勤である。もちろん、読売復帰は望むべくもないし、原の対抗馬はこうして〝落馬〟となった。

後任の長谷川は、もちろん編集出身。なかなかのヤリ手で、労担であったのだが、代表取締役副社長というのだから、全く、金久保と違って、会社側の編集局長である。ところが、長谷川もまた、金久保にピタリとつづいたポストで、出版局長こそ経てないが、やはり、読売編集局の部長クラスに〝子分〟をもつ、原の対抗馬の二番手であった。

それが、務台直系の菅尾社長と棒組みで、代取・副社長となったということは、〝報知に骨を埋め〟にやらされたワケで、これまた読売編集局長としては、〝落馬〟である。こうなってみると読売の重役その他では、編集局部長クラスに有力な〝子分〟をもち、原の後釜を狙える者はまずいない。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 「サンケイは『新聞』をかえます」

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

青木は、原社会部長時代に、大阪社会部へ出たりもしていたが、生粋の社会部育ちとあってみれば、原直系といえよう。そして、後任に、世論調査室長で社会部出身の竹内理一をもってきた。竹内は「日本総点検」担当の論功行賞とみられるが、重症の〝原チン恐怖病患者〟といわれており、また、従来の政治部を徹底解体して派閥を破壊し、さらに、経済部長の河村隆をも局次長に登用したことによって、政治、経済、社会の三部を、完全に掌握した形となった。しかも、局長、二総務、三局次長のピラミッド形で、編集総務の為郷恒淳、鷲見重蔵が、間にはさみこまれるスタイルである。

このような、最近の人事の動きをみてみると、これは、務台—原体制強化である。と同時に、務台文書の趣旨を、故意にネジ曲げて読売の〝内紛〟を宣伝しようとする動きに対しての、無言の解答でもあろう。

務台の〝花道〟ともいうべき、大手町の一角に立ってみると「読売新聞社本社建設用地」と、大書された板囲いの中では、早くも工事が進められているのがうかがわれる。その用地の向う側には、サンケイ新聞の社屋があって、フンドシ(垂れ幕)が一本。

「サンケイは『新聞』をかえます」

八月の末ごろ、サンケイのPR版が都内に配られた。「九月一日から新紙面!」と謳ったそれ

にも、「サンケイは『新聞』をかえます」とある。

「どの新聞も同じようなもの——個性時代だというのに、日本の新聞は、このような批判をうけています。サンケイ新聞は、この批判にこたえる決意をしました。九月一日から、朝刊紙面を大刷新します。ありきたりの紙面改善ではありません。新しい時代が要求する新聞、読者が心から待ち望んでいる新聞、それをサンケイは一年以上にわたって、徹底的に追求しました。ほかの新聞と、どこがどうちがうか——」

そのPR版の冒頭の言葉である。これが、フンドシにいう〝新聞をかえ〟る、ということである。

ここがちがいます——新聞もどうやら、スーパーのバッタ商品のようなキャッチ・フレーズを使うまでに、〝身を落し〟たようである。試みに、九月十九日付サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。

全二十頁を、ご主人向き十二頁、奥さま向き八頁の二本立てにわけてある。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用にとなっていて出勤の時にもち出されても、自宅では困らない、というのが特徴である。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

読売梁山泊の記者たち p.166-167 ソ連女性たちが物見高く集まって

読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」
読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

そして、シベリアに列車が入ってゆくと、ハダシの子供たち、新品の軍服をほしがる男たち、布地を求めて集る母親——どちらが、戦勝国なのか、錯覚に陥るほどであった。

日本が敗戦国で、自分たちは軍事俘虜である、ということを痛感させられたシーンが、いまでも、思い起こされる。

長い貨物列車の旅が終わり、バイカル湖の西岸のチェレムホーボ収容所に着いた時のこと。将校だけ集められて、門外に長く待たされていた。まわりには、ソ連女性たちが、物見高く集まってきていた。

何の指示も命令もなく、何時間も待たされていた時、応召の内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。

「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

「エッ?」

敗戦の日から、もう二カ月ほどが経ち、それこそ、落着いて物事を考えるゆとりなど、まったくなかったが、公主嶺の貨物廠から持ってきた、旧日本軍の備蓄糧秣のおかげで、三食白米の日本食だか

ら、健康そのもの、体調も良く、〝女〟などは考えも及ばなかった。が、〝去勢〟となると、人生の〝重大問題〟である。捕虜に対して、そんなことがあっていいものか、と、軍医の言葉だっただけに、ガク然としたものだった。

ずっとあとで分かったことだが、あの時の女たちが、私たちの誰、彼を指差していたのは、それぞれの好みで、「私はあの男が…」「イヤ、私ならアッチの男がいいわ」と、性的対象として、品定めをしていたのだった。

さて、「幻兵団」の裏付けとして、国警長官が国会で明らかにした、一連のソ連製スパイ事件を「鹿地(かじ)・三橋事件」と呼ぶ。つまり、鹿地亘に米ソの二重スパイを強要していた、米軍情報機関は、昭和二十七年九月二十四日付の「国際新聞」などに、英文の怪文書が掲載されたので、鹿地を釈放せざるを得なくなり、同年十二月七日、鹿地は新宿・上落合の自宅に帰ってきた。

外国の官憲が、日本国民を恣意に逮捕したり、監禁したりというのだから、人権問題はいまほどではなくとも、「反米感情」は高まる。そこで、米軍機関は、鹿地問題の〝火消し役〟に、かねてから〝二重スパイ〟として利用していた三橋を、国警(国家地方警察。自治体がもっている自治体警察の、所轄以外の部分をカバーする警察。現在は、この分類が廃止され、警視庁以外はすべて警察庁の所管)本部に自首させたのである。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

読売梁山泊の記者たち p.168-169 ソ連のスパイである一人の男を逮捕

読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。
読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

七日、鹿地が帰宅するや、すぐさま、社会党の猪俣浩三代議士らが動き、衆院法務委員会が、調査を開始した。その第一回が、十二月八日(帰宅の翌日)、第二回が同十日、第三回が同十一日、第四回が同二十三日と、第七回までつづく。これらの、法務委での、鹿地証人の証言から、その人物像を浮かび上がらせてみよう。

明治三十六年五月一日生まれ。昭和二年三月、東京帝大文学部国文学科を卒業。プロレタリア作家として活動。昭和九年の春、治安維持法によって逮捕され、翌十年末、懲役二年執行猶予五年の判決を受けた。

昭和十一年一月、中国文学研究のため、上海の中国文学者として著名な、魯迅のもとに行く。日本軍部の戦争政策に反対して、中国人とともに、反戦運動に入り、国民党政府の軍事委員会顧問として、漢口市で、日本兵捕虜の洗脳教育を担当していた。戦後の二十二年五月、中国から帰国。帰国後は、結核に冒されて、療養生活に入っていた。

怪文書事件に衝撃をうけた、池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に、夫君の捜索願を藤沢市署に提出し、市署では、家出人としての捜索をはじめ、ここではじめて、日刊紙の報道するところとなった。それから一カ月近く経った十二月七日、鹿地が、突然自宅に姿を現わして、大騒ぎとなったわけである。

では、鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、

彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

第一の時期は、日本軍閥に反抗して中国に渡り、当時の国共合作時代の重慶(国府)、延安(中共)と、これを後援していた米国の三者側についた。

それがのちに二つに割れ、中共をソ連が応援しだすと、まず延安側についた。左翼作家だった鹿地としては、当然のことである。

ところが、次の時期には、重慶側についたのである。日本の敗戦時には重慶におり、マ元帥顧問だ、と自称して、得意満面のうちに帰国してきたのだ。

この米・国府側対ソ・中共側との間の往復回数は、さらに多かったかもしれない。しかし、戦後帰国したさいには、重慶で米国のOSS(戦略本部)や、OWI(戦時情報局)に、働いていたほどだったから、当然、米国側について、重慶時代と同じように、諜報や謀略の仕事を、していたに違いない。

一方、米国側では、前に述べたように、〝幻兵団〟の存在を探知して、これの摘発に懸命に努力していたのである。そして、その一味である「三橋正雄」なる人物を摘発、これを逆スパイとして、利用していた。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、 判ったから大変だ。