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最後の事件記者 p.052-053 名門府立五中へと進んだ

最後の事件記者 p.052-053 雑誌部で「開拓」という校友会雑誌を編集してみたり、真船豊の芝居を上演したり、学生新聞の発刊を計画したり…左翼ヅイていたのだった。
最後の事件記者 p.052-053 雑誌部で「開拓」という校友会雑誌を編集してみたり、真船豊の芝居を上演したり、学生新聞の発刊を計画したり…左翼ヅイていたのだった。

キリスト教会の幼稲園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ

移り住んだのである。当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三カ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

五中というのは、「創作、開拓」をモットーとした、自由主義校であった。私の人間形成に、この中学の影響は極めて大きかった。人生の最初の関門ともいうべき、この中学へ合格できたという誇りが私を官僚志望へと向わせた。

級友の兄の少壮大蔵官僚に刺激されて、役人を目指して勉強にはげんでいた時代が、この私にもあったのだから懐かしい。一高、浦和を目指すこの秀才少年も、やがて、上級生の中に、後の左翼評論家キクチ・ショウイチを知るにおよんで、早くもコースから外れてしまった。

中学二年のころ、五中の先輩故金杉惇郎の主宰する新劇団「テアトル・コメデイ」というのが活躍していた。金杉夫人の長岡輝子の母堂が、私の母の女学校時代の先生だったので、お義理の切符が家に廻ってきた。私はそれをもらって、はじめて築地小劇場に行って、たまらない魅力を感じてしまった。

五中生の創作活動というのは、学校の奨励と相俟って、極めて盛んだった。その時、キクチ・ショウイチが演劇部というのを新設したものだから、私はイの一番に参加した。そうして、新協、

新築地、文学座などと、当時の新劇公演をみて歩くうち、「役人になろうなんて、何てバカヤローだ」と、考えるようになってしまった。

上級に進むにつれ、私は「官僚」を完全に投げ出していた。校友会の雑誌部で、「開拓」という校友会雑誌を、論文と創作だけで編集してみたり、真船豊の芝居を上演したり、学生新聞の発刊を計画しては、先生に叱られたりといったように、どちらかといえば、左翼ヅイていたのだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には 十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢法薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。

当時は高等学校に入れば、大人の仲間入りである。二人は大人になったつもりで、水戸の駅裏にあったカフェー「ルル」という店に入って、はじめてタパコを吸い、ビールや酒を呑んだものである。おっかなビックリ、女の肩も抱いてみた。

深更、勝利の美酒に酔い痴れて、旅館に帰ってきたはいいが、どういうものか寝つかれない。

最後の事件記者 p.054-055 三浦逸雄先生によりジャーナリズム開眼

最後の事件記者 p.054-055 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。
最後の事件記者 p.054-055 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。

深更、勝利の美酒に酔い痴れて、旅館に帰ってきたはいいが、どういうものか寝つかれない。

私が反転すれば、山崎も寝返りを打つという有様で、雨戸のスキ間から朝日がさしこみはじめて、ようやくウトウトとした。

女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、文科は口試、理科は体検と別で、翌日はその逆だ。寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。曲りなりにも試験だけは受けさせてもらったが、結果はもちろんダメ。山崎も、カフェー「ルル」のせいか、卒業まで裏表六年かかるという始末だった。

「畜生メ、見ていろ」

浪人生活に入った私は、もう完全に演劇青年だった。やはり、五中の先輩のいた劇団東童で実践活動に入ってしまった。母親はこのグレた末息子に手を焼いて、徴兵の年がくると、「どうか、学校だけはいっておくれ、お父さんに顔向けできないよ」と哀願した。

父亡きあとの長兄は、二高、京大理学部、東大大学院というコースの、徹底した官学主義者であった。「男は東大か京大、女はお茶の水にあらざれば人にあらず」といったコリ固りだった。だから、もちろん私の私大入学など認めようとしない。

徴兵逃れに、私は母の頼みで上智大学に入ったが、ドイツ語をサボったので二年に進級できない。私は演劇青年だから、落第したのを機会に、日大芸術科へ入学するといったけれども、長兄が「学資を出さない」と、日大入学を認めてくれない。

それを聞いた次兄が乗り出してきた。次兄は早大理工の、これまた徹底したアンチ官学派であった。「ヨシ、学費はオレが心配してやるから、その代り小遣いは自分でやれ」といって、私の日大入学を支持してくれた。

私は日大の芸術科に入ったが、その時、どんなつもりだったのか、演劇科や映画科をえらばずに、新設の宣伝芸術科というのを、専攻に選んでしまった。その理由は今では覚えていないが、時局はいよいよ急迫しており、国家宣伝という、与論形成のプロデューサーともいうべき、この科に何となく興味を覚えたものらしい。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。

『ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!』

私はそう決心した。しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束 もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。

最後の事件記者 p.056-057 「畜生メ、見ていろ」

最後の事件記者 p.056-057 三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。
最後の事件記者 p.056-057 三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。

三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。

『ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!』

私はそう決心した。しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束

もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。

太平洋戦争が始まり、日本軍がマニラを占領するや、ライフの向うを張って、フィリピン向けに作られた、国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、午後からその編集部につとめて、故人のユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。

そして、日大卒業の時がきた。戦争はすでにたけなわになっていて、我々は半年の繰り上げ卒業であった。私の日大入学に反対した官学派の長兄とは、その時以来ケンカ別れであった。同じ家にいても口一つきかなかったのだ。私はこの卒業の時に、何とか長兄をヘコましてやりたいものだと考えた。

そのため、もちろん兵隊に行って、戦死をするに違いないと思ったが、公募する会社の入社試験を受けて、長兄と仲直りする機会を作ろうと思ったのである。三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。

試験問題をみると、さすがにどこでも時局色があふれていた。朝日の作文は、「戦争と科学技術」

単語には、承詔必謹とか七生報国といった類いで、読売も、論文が「決戦下新聞の使命について」、単語となると、波動兵器、応徴士、広域行政などで、和文外国訳が東条首相の訓示といった有様だった。

成績には、三社とも十分な自信があったのだが、朝日からは「残念ながら、貴意に添い難く……」の返事がきた。不思議に思った私は、同郷の大先輩であった故伊東圭一郎出版局長をたずねて、事情を調べて頂いた。すると、「試験成績は合格圏内だったのだが、出身校が……」と、いい難そうに説明されたのである。

激怒した私は、数寄屋橋の上から朝日新聞社を振り仰いで、ハッタとばかりにニラミつけた。

『畜生メ! 見ていろ、あとで朝日が口惜しがるような大記者になって見せるゾ!』

と、誓ったものである。朝日の三階のバルコニーから、演説をしてみたいというのが、私の夢だったからだ。

官学出と私学出

読売とNHKとからは、予期通り採用通知がきた。読売は約五百名の志願者から、十名を採用 したが、一番が慶応、二番が私の日大、東大が五番、京大が七番であった。何故こんなことを覚えているかというと、わざわざ人事部へ行ってきいてきたからである。

最後の事件記者 p.058-059 官学出と私学出

最後の事件記者 p.058-059 私はその入社成績を長兄に示していった。『どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか』と。
最後の事件記者 p.058-059 私はその入社成績を長兄に示していった。『どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか』と。

読売とNHKとからは、予期通り採用通知がきた。読売は約五百名の志願者から、十名を採用

したが、一番が慶応、二番が私の日大、東大が五番、京大が七番であった。何故こんなことを覚えているかというと、わざわざ人事部へ行ってきいてきたからである。

それには魂胆があってのことだった。私はその入社成績を長兄に示していった。

『どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか』と。

官学派の長兄は、一時日大の講師をしたことがあって、例の日大騒動の時にやめたのだが、以来、日大などはポン大(ニッポン大学の真中をとった呼び名)といって、軽蔑していたのである。

私はこのような長兄の官学主義にタテついていたのであった。当時の日大芸術科がそんな立派な学校であったとは、私も思ってはいない。しかし、私は上級の学校教育の最大の価値は、良い先生と良い友人とを得られるかどうか、ということだと思っている。大学から得られる知識などは、独学でも得られるはずである。

例えば、読売には、社会部だけでも日大芸術科の先輩が二人もいて、それぞれ次長にまでなっていたし、学歴がなくても、名次長として後輩たちの信頼を集めている人もいた。

こんな話がある。東大法科を出た新米記者がいた。その記者は適性がなかったのか、いつまでもウダツがあがらず、いつまでもサツ廻り(警察廻り)であった。ある日、受持ちの警察へ行っ

て、署長室へ入ろうとすると、巡査が彼をおしとどめた。

『今検事さんがきていらっしゃいますから、入らないで下さい』と。彼は、そんなにエライ検事とは、一体どんな奴だろうかと、ガラス戸ごしにのび上ってみると、何と東大時代の友人ではないか。彼は一介のサツ廻りであり、先方はエライ検事だ。その時ほど情なかったことはない、とコボしたそうだが、やがて、その記者は社会部という、新聞社の一流コースから脱落して、地方支局ヘトバされてしまった。

戦後の新聞記者熱で、入社試験は大変な盛況である。ところが、入社してくる顔ぶれをみると、官学が圧倒的に多くて、私学が少なくなっている。大分以前のことだが、私たちは社の前の夜明し呑み屋で、新聞記者に私学出が少なくなることを嘆いて、気焔をあげていた。そこへ、人事部長が表を通りかかったものだ。早速引ッ張りこんで、「どうして東大ばかりをとるのだ」と、ネジこんだものである。

すると、人事部長は「これが入社試験の厳正さを証明するものだ。今の入社試験では、答案の書き方の技術からいって、官学のふえるのは当然だ」という。私どもは、この答えにグーの音も出なかったのであるが、新聞がつまらなくなってきた原因の一つにも、こんなことがあるのでは

あるまいか。

話をもとにもどして、私はこうして、一つ家にいながら、口も利かなかった長兄と、やっと仲直りしたのだった。昭和十八年秋のことだ。

最後の事件記者 p.060-061 伊東局長は「NHKになさい」と

最後の事件記者 p.060-061 右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。
最後の事件記者 p.060-061 右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。

新聞がつまらなくなってきた原因の一つにも、こんなことがあるのでは

あるまいか。

話をもとにもどして、私はこうして、一つ家にいながら、口も利かなかった長兄と、やっと仲直りしたのだった。昭和十八年秋のことだ。

新聞かラジオか

だが、読売をとるべきか、NHKをとるべきかで、私は大いに迷った。いろいろと御相談に乗って頂いた朝日の伊東局長などは、「NHKになさい」とすすめて下さった。今にして思えば、実に将来を見通されていたお言葉だったのであるが、私はついに読売をえらんでしまったのである。

その第一の理由は、すでに徴兵検査を受けており、何時召集されるかわからないし、召集されたなら、生きて再び社へ帰ってくることは期待薄だったのである。私は考えた。

『戦死ならば良い。しかし、負傷だけで帰ってきたらどうしよう』と。

私は少年時代からギッチョになり、字も左右両方で書けるのである。右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。そう思ったのだ。

それと、もう一つの理由。それは、新聞とラジオとの、本質的な問題を、私は、もっと雰囲気を出して、ロマンチックに考えていたのだった。

今、官庁をはじめ、どこの記者クラブにも、新聞記者とラジオ記者とが同居している。この間の、皇太子妃の決定発表でも、新聞とラジオとがウマク協定したからよかったが、新聞とラジオとは本質的な違いがある。ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。

ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。もちろん、携帯ラジオで、自分の原稿の行方を確かめている記者の姿を、私はまだ一度もみたことがない。

ラジオ記者は、よくそれで不安も悩みも、ましてやよろこびも感じないで、生きていられるものだと、感嘆する。新聞記者の場合は全く違う。一字一句をおろそかにしないで原稿を書く。テニオハ一つでも、意味が変ってくるからだ。 ゲラになってから、何段でどんな見出しがついて、どんな扱いになっているかを、また見なければならない。もし、扱い方や見出しが内容と違っていれば、次の版ですぐ直さねばならない。

最後の事件記者 p.062-063 たとえ駄菓子袋となろうとも

最後の事件記者 p.062-063 新聞の最大の強味は記録性である。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。
最後の事件記者 p.062-063 新聞の最大の強味は記録性である。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。

私は、トップ記事ならば、必らず、大ゲラが出るまで残って、自分の記事の内容とその扱い方とについて、納得がいかなければ帰らなかったほどである。

それが新聞記者のよろこびであり、一文能く人を殺し得る記者の責任でもあるはずだ。 〝新聞にコロされた〟例はあるが、〝ラジオにコロされた〟というのはきかない。

最近、ラジオやテレビの人たちの、仕事があとに残らない嘆きを聞く。テレビも電気紙芝居と自嘲する。新聞の最大の強味は記録性である。ラジオとの本質的な違いである。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。

あこがれの新聞記者

というのは、昭和十八年といえば、もはや戦争をはなれて、何一つとして判断できない時期である。私は、天皇陛下のために、一命を鴻毛の軽きにおくことに、いささかもちゅうちょしない青年だったのである。

戦争に征くからには、想い出を持っていきたかった。息を引きとる最後の時には、天皇陛下万才というよりは、もっと身近かなことを考えたいと思った。母親! それもよい。だが、少し違う。

私は、一人の女性のことを想った。その人とは、もう別れて何年にかなる。青森県の片田舎で、人妻になったとか聞く。その人のことを、何かほのぼのとした気持で懐しんでいたのである。何故ならば、私はその人で、満二十才の誕生日の夜に、男になったからだ。

何人かの子供が生れて、村の駄菓子屋で子供にせがまれるまま、鉄砲玉を買ってやるその人。黒い飴玉を一粒、一粒、古新聞の袋からハガして、口に運んでやっている時、フト、彼女の視線が一点に凝集される!

その袋の上の黒い幾つかの点、活字が次々に大きくなって、彼女の眼に飛ぴこんでくる。そこに書かれた文字は、〝◯◯にて、三田特派員発〟という、私の署名記事である。

彼女はハッと胸をつかれて、その文字を確かめるように読みかえすであろう。袋のシワをのばしのばし、アチコチと千切れてしまっているその記事を読みふけって、あの夜のことを想い起す。もしや、この人は……。

そのころ、或は私は、祖国を遠くはなれた異境で、誰一人みとりする人とてなく、静かに眼をつむり、魂は神となって鎮まろうとしているかもしれない。それでいい。あの人に今一度、我が

名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。

最後の事件記者 p.064-065 亡者原稿が、処女作品

最後の事件記者 p.064-065 新入社員九名が社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

あの人に今一度、我が

名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。

NHKには、「採用御辞退願」という、奇妙な一文を草して郵送し、私はあこがれの新聞記者になったのである。

当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。朝気みなぎるというのであろうか。

感激の初取材

編集局の中央に突っ立っている、正力社長の姿も良く毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいては話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた。

イガクリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働らきはじめていた。実に清新、

爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授の山岸光宜文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日、毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、「竹製品展示会」である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内を見廻して、「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

最後の事件記者 p.066-067 新聞とは冷酷無残なり

最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいか分らない。怒るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく、反古として持ちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのは、この時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった。

ビンタ教育

このような教育をうけた記憶は、軍隊時代にも一度ある。北支は河南省、温県という旧黄河沿いの一寒村に甲種幹部候補生として、保定への入学を控えていたころだった。

この温県は大変水の悪い所で、飲料水は村にたった一つの井戸だけ、他の井戸は雑用水にしか使えなかった。そこで、隊にも炊事の前に二つのドラムカンがあって、一つが飲料水、他が雑用水として汲み置いてあった。

ある日、演習が終って、班長の洗面水を汲むため、私は戦友より先にかけつけた。雑用水の蓋をとってみると、南無三、カラッぽである。飲料水はとみると、満々と入っている。ところがヒシャクが見えない。兵は拙速を尊ぶのだ。あたりを見廻したが、幸い人影がない。ままよとばかりに、私は洗面器を飲み水のドラムカンに突込み、班長のもとにかけつけた。

その夜である。ローソクの灯で自習をしていた私は、下士官室へ呼ばれた。すでに消燈はすぎて、夜も大分ふけていた。私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九才ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より

数年も若いのだ。

最後の事件記者 p.068-069 『下腹に力を入れ、歯を喰いしばれ!』

最後の事件記者 p.068-069 十九か二十才のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。
最後の事件記者 p.068-069 十九か二十才のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。

私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九才ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より

数年も若いのだ。

『三田候補生。下腹に力を入れ、両脚を開け。眼を閉じ、歯を喰いしばれ! 何で呼ばれたか判っているか。人が見ている、見ていない、それによって、行動が変ってよいか』

『………』

『お前はやがて将校になる兵隊だ。将校とは皇軍の根幹だ。心にやましくして、部下を率いられると思うか』

『心の弱い者には、班長はこのような教育はしない。心の強い者には、強い教育が必要なんだ!』

飯田伍長は激しい言葉でそう叫ぶと、身構えた。カチャと、帯革のサンカン(バックルというか、尾錠というか)が鳴った。私は眼をつむったまま、これは大変だゾと心で身構えた。眼を傾けないようにギュッとつぶり、ホオの肉をちぢめて、口の中を歯で切らないように力を入れた。

ビシリーッ、あの幅広の兵隊バンドが、私の下アゴに喰い入ると、その先のサンカンが反対側の首すぢにビシッと当る。班長がバンドを引ッ張ると、よろめく私は、たちまち次の一撃を喰って立止る。ビシリーッ、ビシリーッ。

私の耳と、眼を、故意にさけているその叩き方に、班長の〝愛情〟が感じられて、私は冷静に

眼を見開いた。背の高い私に、班長は躍り上るような感じで、帯革を振う。だが、その両眼からは、大粒の涙がさんさんと流れ出ているではないか。

『三田、覚えていろ! 強い奴には強い教育が必要なンだゾォ!』

十九か二十才のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。——この男も、南方に転戦して連隊と一緒に、あの焔のような生命を消してしまったと聞いている。

この松木次長には、ただの一度だけれども、教官らしく教えられたことがある。兵器の部分輸送の包装紙として、古新聞の供出運動が行われた。私はその記事の中で、「一世帯あたり三十枚の割当も、〝古新聞も兵器だ〟の合言葉に応じて……」と書いたものである。

第一夕刊のその記事には、〝古新聞も兵器だ〟という見出しが使われていた。インクの香も快よい刷り上りの夕刊をみて、松木次長はいった。

『見出しに使える言葉を、原稿の前文に入れるのだ。それが原稿の優劣さ』と。

ニコリともしないこの一言が、松木次長の教育らしくない教育の中での、たった一度だけの教育らしい教育だった。

最後の事件記者 p.070-071 「大本営報道部で会おうな」

最後の事件記者 p.070-071 今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。
最後の事件記者 p.070-071 今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。

恵まれた再出発

ソ連軍を迎えて

八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、すでに満ソ国境に布陣していた師団主力へ追及できず、新京に止まっていた。すでにソ軍は満領へ侵入を開始していたので、私たちの大隊は新京防衛部隊に編入された。

八月十四日の命令で、明十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、各隊はそれぞれ徹夜で陣地構築に努めていた。私の隊は、全満随一の文化設備を誇った錦ヶ丘高女に宿営し、日本間の作法室で、金ビョウブに抹茶茶碗でハンゴウ飯を食べたりして、最後の日本気分を味ったのち、タコツボに潜んだ。

湧き水が冷たく尻をぬらす。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束

手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。ジッと前方の闇をすかしてみる。地に耳をつけて、キャタピラの轟音を聞きとろうとする。何と死への時間の空しく退屈だったことか。

読売同期の秀才、大阪読売社会部次長の青木照夫とは、東京駅で手を握り合って、「大本営報道部で会おうな」と別れた。身に軍服をまとおうとも、新聞記者でいたかったのである。私としても、再び社へ帰って、鉛筆を握れる日があろうとは、期待もしてみなかったことである。

短かいながらも、新聞記者になって、精一杯働らいたのだから、もう思い残すことはなかった。あとは、軍人として祖国のために死んでゆけることを、わずかに誇りとしなければならないことが、残されているだけだ。

ジッと回想にふける。南の空はまだ暗い。銃声一つ、しわぶき一つ聞えない静寂だ。この台地一帯に散らばった、三田小隊五十四名が、それぞれに、考えにふけっているのだろう。咋夜、錦ヶ丘高女の教員室で、電話帖をめくって、読売新京支局を探し出した。

一言、別れの言葉を本社に、そして母親に托したかった。もしかしたら、社会部の先輩が支局長でいるかも知れぬ。受話器を耳にあてて、胸をドキドキさせて待っていたが、リーン、リーン

と、空しくコーリングが鳴るだけ。時間に余裕があれば、馬を飛ばしてでも行ってみたかった。

最後の事件記者 p.072-073 やがて正午の玉音放送だった。

最後の事件記者 p.072-073 学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じている」とあるではないか。
最後の事件記者 p.072-073 学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じている」とあるではないか。

一言、別れの言葉を本社に、そして母親に托したかった。もしかしたら、社会部の先輩が支局長でいるかも知れぬ。受話器を耳にあてて、胸をドキドキさせて待っていたが、リーン、リーン

と、空しくコーリングが鳴るだけ。時間に余裕があれば、馬を飛ばしてでも行ってみたかった。

教員窒に一人女学生がいた。その日、学校で行われる篤志看護婦試験をうけようと、やってきた子だった。去り難いのか、女の先生と二人で何やら話し合っていた。

『兵隊さんは、お国どちらですか』

先生の声に、私は受話器をおいた。

『東京です。読売新聞にいたんです』

『マア、東京⁉ あたくしも!』

女学生がハズンだ声を出した。聞けば、巣鴨の十文字高女から、昨秋転校してきたのだという。五中生の私と、話が佳境に入ろうとした時、伝令が迎えにきた。

『大隊長殿のもとに準士官以上集合です』

あの女学生はどうしたかナ。そういえば、オレは駄菓子の袋に残すべき、署名原稿をとうとう書かなかった。

「読売新聞シベリヤ特派員」

——徳間の奴!

その年の早春、まだ見習士官で駐屯地の古年次兵の教官をしていた時、時局解説というのを週一度やっていた。ネタは、一週間おくれで、一週間ぶりが一度にとどく、華北新報という新聞だった。

ランプの中隊事務室で、学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。

一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じている」とあるではないか。つづいて、「○○にて徳間特派員発」の文字!

——どうして奴は兵隊に行かなかったのだろうか。あんなに良い身体をしていて!

彼はやはり読売の同期生だった。私は口惜しくて、その夜はねむれなかった。軍服を着ている自分がうらめしかった。どうして、私は記者として社へ残れなかったのだろうか。社へ残った徳間は、もう署名原稿を書いているではないか。

朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。

昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。ベストを尽した試合が、敗戦に

終った感じだった。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。

最後の事件記者 p.074-075 「またペンが握れる」

最後の事件記者 p.074-075 たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。
最後の事件記者 p.074-075 たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。

昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。ベストを尽した試合が、敗戦に

終った感じだった。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。

部隊は武装解除されて、シベリアヘと送られた。だが、私は「読売新聞シベリア特派員」だったのである。出発前には、錦ヶ丘高女の女学生の家をたずねたり、日本人家屋から日用日露会話という、ポケットブックを探しだしてくるほど、張切っていたのである。

『三田さんは読売本社なら東京ですな』

『エエ、東京で逢いましょう』

『短気を起さず、身体に気をつけてな』

その人は、今、池袋で法律書を出版している、大学書房の石見栄吉氏だった。私がたとえシベリアで倒れても、消息はこれで、東京へと伝わろう。私は明るく別れをつげた。

私は日露会話の本で、輸送間に警戒のソ連兵にロシア語を習った。沿線の風景をはじめ、見聞するすべてを頭の中ヘメモした。

ロシア語はたちまち上達して、取材は八方へとひろげられた。作業へ出ると、警戒兵を買収して、一緒に炭坑長や現場監督の家へも遊びに行った。労働者の家庭生活をみるためである。身分

は、たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

「またペンが握れる」

こうして丸二年、私は不屈の記者魂を土産に持って、再び社に帰ってきた。第二次争議が終ったばかりの読売には、同期十名のうち半分はいなくなっていた。つまり兵隊に行かなかった連中は、すべて、第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまっていた。迎えてくれたのは東京社会部の労働班長金口進一人だけだった。

去っていったのは、北海道の国鉄職場離脱斗争を指揮した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。その中、連絡のとれているのは、アサヒ芸能社長の徳間だけだ。 私の仕えた初代社会部長小川清も去り、宮本太郎次長はアカハタ紙へ転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知新聞社長)が社会部長に、森村正平次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋のことだ。

最後の事件記者 p.076-077 『ウン、つまらんね』

最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。
最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

『何か書くかい? 書けるかい?』

『エー、もちろん、書かせて下さい』

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。

『ウン、つまらんね』

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。

『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一

枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記

本社記者 三田和夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

最後の事件記者 p.078-079 彼らには粗衣もなかった

最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。
最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。

そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という、極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チエレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。

日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内で、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。

雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女も、みな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働らいていた。クツ下はバルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。

「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働らかないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。

私の作業隊の監督は、一家六人暮しであったが、父親が炭坑の監督、長女(一六)がハッパの火薬かつぎ、長男(一三)が馬方と、三人が炭坑で働らき、日に三・六キロのパンをもらい(一・二キロ宛)、母親と次男(一〇)次女(八)とも六人で、日に一・六キロのパンを食べ、二キロのパンはバザールで売って生活を立てていた。彼らの生活は食うことで一ぱいであった。

最後の事件記者 p.080-081 人間による搾取のない国

最後の事件記者 p.080-081 富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。
最後の事件記者 p.080-081 富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。

食うためには働らかねばならない。ここから彼らの勤労観は出発する。働らくよろこびなどおろか、作業の固定しているものなどは、ひたすら八時間の経過を待ちこがれ、歩合のものは労力を最小限に惜しむ。

ソホーズ(国営農場)コルホーズ(集団農場)は雑草のはびこるにまかせ、種芋を八トンまいても収穫が五トンしかないという事実が起きるが、住宅付属地として私有を許された自分の畑は、一本の草もなく豊かな稔りをみせる。憲法によって享有されている「労働の権利」は、「労働の義務」となって重たくのしかかっていた。

富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。「人間による人間の搾取のない国」で、一方は肥え太って美服をまとい、ラジオを備え、ミシンを買い、高い程度の生活をしているが、片方では「教育の権利」すら放棄して、食うことに追われている。

          ×    ×    ×

四十九種族を包容するこの国には、ロシア語を話せない国民が沢山いる。私は入ソの車中、満州で拾ったロシア語の本で勉強したおかげで、警戒兵をだまして四、五軒の家庭にも行き、多く

のソ連人と話し合うことができた。彼らは私の片言のロシア語を聞いて、何年間日本でロシア語を習ったかとたずね、シベリアで習ったといっても本気にしない。

二十二、三才の学校出が、技師と呼ばれて別世界の人間のように尊敬されている。子供たちも学校へ行かないものが多い。八年生の歴史の教科書をみると、秀吉の木版のさしえがあって、朝鮮征伐のことが出ていたので、誰かと聞くと、日本の昔のゲロイ(英雄)だと答えたが、日本の帝国主義的侵略だと教えている。

女の軍医上級中尉に、地図を描いて千島列島を示したところ、フィリピンかといった。国内警備隊の地区司令官が盲腸炎になって、収容所内の病棟に入院し、日本軍医に執刀を求めるのも当然であろう。

機械類および自動車はすべて米国製で、ソ連製品はあってもほとんど動いていない。自転車や自動車を指し、真顔で「日本にこんな機械があるか」という質問を受けたことは、一度や二度ではなかった。

大きな炭坑町でありながら、小さな図書室とラジオが一つあるだけで、文化設備などもほとんどなく、満州からもってきたポータブルが一台、警戒兵の兵舎で、毎日「アメアメフレフレ」と

「モシモシカメヨ」をうたっているだけで、児童劇場など欧露の大都市のことだろうか。

最後の事件記者 p.082-083 「スターリン・プリカザール」

最後の事件記者 p.082-083 愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。
最後の事件記者 p.082-083 愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。

大きな炭坑町でありながら、小さな図書室とラジオが一つあるだけで、文化設備などもほとんどなく、満州からもってきたポータブルが一台、警戒兵の兵舎で、毎日「アメアメフレフレ」と

「モシモシカメヨ」をうたっているだけで、児童劇場など欧露の大都市のことだろうか。

ソ連の言葉に、「八時間労働、八時間睡眠、八時間オーチェレジ(買物行列)」というのがある。この三番目のオーチェレジは、イバーチ(性の遊戯)あるいはクーシャチ(食べもの)と、訂正されねばならない。それほど、この二つの問題が大きく浮び上っていた。ソ連人はすぐスパーチ(眠り)といって、手枕の格好をする。身を横たえる寝台一つに過ぎない住いは、一室に夫婦者、独身者、親子連れと雑居し、夫は零時から八時の深夜作業に行き、妻は八時より十六時の作業にという生活の食い違いに、ますます性道徳は乱れ、小さな子供までが、平気で性に関する言葉を放っている。

正当なる住民たちは、何も知らないでただ生きている。たのしい生活を、人間らしい生活を希求するまでに、彼らの知識はひらかれていない。こうして、愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。

「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)の一言で、一切が解決される。〝言論の自由〟を与えられ、戦後第三年にいたるも、民需生産を抹殺している現政権の下に、人類の平和

と幸福のシムボルという赤旗を掲げながら……

          ×    ×    ×

最近、ソ連では人類愛的な見地から、死刑を廃止して二十五年の矯正(強制?)労役に服させることになったと報じられた。やがて収容所の糧秣係をしていた軍属が、糧秣を一般人に横流ししていたのが発党して、逃亡した。

芋畑に小銃を持つ番人がいる位に、ものを盗むことは重罪である。その軍属が捕えられた時に、ソ連主計大尉に「なぜこんなに刑罰が重いのか」とたずねたところ、彼は「重罰を課して再び前者の轍を踏ませないためである」と答えた。だが、数ヵ月後に新しい糧秣係が再び逃亡した。

ここで二つの解釈が下される。一つは重罪の危険をおかしてまでも、やらなければ食って行けないことであり、他の一つは、悪いことをやらなければ損なくらい、組織制度に欠陥のあることである。後者は二年間の各種作業場で知ったことだが、労働の量と質とを査定するところに、原因がひそんでいる。

一トン積のトロ台数で計算される採炭量は台数の計算係を買収することによって、自由に作業成績を向上し得る。収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

最後の事件記者 p.084-085 「アメリカはすばらしい」

最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…
最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…

収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

記録上で完成されねばならない仕事も、事実は未完成なため仕事は延長され「失業のない国」の理想のみ実現されている。

死刑囚まで働らかねばならないシベリアこそ、失業のない国の宝庫である。独ソ戦で独軍の捕虜となり、祖国戦勝の基を築いた二百万と称する勇敢な兵士たちは、米軍に接収されて、母国帰還と同時にシベリアに送られてしまった。

被占領地区で独軍に協力したという理由で、数多くの女子供が同様に送られてきている。また革命の時、現政権に好意をよせなかった人々も、囚人もみな五ヵ年計画によるシベリア開発に挺身しているが、彼らは何を感じ何を想っているだろうか。

          ×    ×    ×

帝政時代のクラーク(富農)の老人は、

『ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら、同じ目にあうからお前たちは可哀想だ』

と、帝政の昔をなつかしがり、独ソ戦の光栄ある捕虜の若者は、

『アメリカはすばらしい。うまい食べ物がたくさんあるし、よい服をくれたし、作業は楽だし、ほんとうにアメリカはよい国だ』

首に十字架を下げたウクライナの女は、

『私の夫はソ連兵に殺された。私の子供はどこかに連れさられた』と。

彼らは私とほんとうに二人切りの時に、語ってくれたのだった。彼らは知っている。身廻りのどこにいるかもしれない、おそろしいNKVDの銃口を!

元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカヘ出るアメリカヘの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。ソ連側から放送される米ソ戦の危機は、全シベリア住民の関心をたかめているが、彼らはいう。「その時は銃をすてて投降するサ」と。

シベリアの親米反ソの胎動は、NKVDの黒い幕のかげで起りつつあるが、スターリンの恐怖独裁政治は、まだしっかりとその幕を押えている。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日 本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

最後の事件記者 p.086-087 「悪質な反ソ宣伝だ」と

最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日

本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

反動読売の反動記者

もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、 数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかったようである。

私のこの署名処女作品は、その日の記事審査日報で、こんな風にほめてくれたのだ。

「内容はこの方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上でシベリアの一部分だけの面であるが、しかし限定されているだけに内容が詳しく、かつ新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では読ませる紙面となった」

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、記者会見を行い、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明を行うほどの反響をまき起したのだった。

やがて、サツ廻りとして、上野署、浅草署を中心に、あの一帯を担当した私は、上野駅に到着する引揚列車に注目し、出迎えの老母や愛児にみむきもせず、代々木の日共党本部を訪問しようとする愛情のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を、ハッキリと押されてしまったのである。

だが、このレッテルは必らずしも当っていない。当時のニュースの焦点は、日共だったのである。シベリア印象記も、はじめに書いた抑留記が、森村次長によって、ボツにされてから、それでは今、何がニュースの焦点なのかを考えたのだ。

いや、考えたのではない。新聞記者としての第六感が、戦後の日本に帰ってきて、まだ数日しか経ってない私に、〝コレダ!〟と教えてくれたのであった。そして、生れたシベリア印象記である。それが、キスレンコ声明などで反響を呼び起したのであった。私は、反動記者ではなく、〝ニュースの鬼〟だったのである。

かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムヘ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。 私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。

最後の事件記者 p.088-089 学生仲間は戦死し、女は嫁に行き

最後の事件記者 p.088-089 彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。
最後の事件記者 p.088-089 彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。

私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。それが、ニュースである限りにおいては、それこそ、体当りで突っこんでいった。私を、反動記者と攻撃する左翼ジャーナリズムが、私の書いた、反政府もしくは反米的な記事を、今度はその左翼系紙が「何月何日付の読売によれば」と、デマ、ウソと攻撃した記者の記事を、そのまま全面的な信頼のもとに、幾度か引用しているではないか。

恵まれた再出発

この最初の署名記事の、何にもましての反響は、この記事の結ぶえにしで、私と妻とが相逢ったのであった。

私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。

彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。その老母の傍らで、心配そうに、マ

ユをひそめている若い娘、その人が彼の妹だと紹介された。和子といった。

社に復職した私は、当然、また社会部へともどった。いくらかずつか、ずっと続いていたサラリーをためて、私が再び着ることはあるまいと、兵隊に征く前に、全部質屋にブチこんで飲んでしまった背広を、私の母が全部請出していてくれた。

幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。

恵まれた再出発に、私はすっかり気負いたって、エライ新聞記者になりたいと願っていた。社の同期生はタッタ一人。そして学生仲間たちは、多く戦死し、女は嫁に行き、仕事に熱中する以外に、私には、興味を引かれる何ものもなかったのだった。

最後の事件記者 p.090-091 シベリア印象記の結ぶ恋

最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。
最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。

サツ廻り記者

印象記の結ぶ恋

当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。

深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。

長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、

引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起るのに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、 調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。

そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。

私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。