投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.216-217 上村保安課長は私の抗議を一蹴

読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」
読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「そのまま、そのまま!」
バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。
「そのまま、そのまま! 動くな!」
さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

俠客モノの映画などでは、手入れに敏速に反応して、灯を消したり、抵抗したりするのだが、それは、プロだからだろうか。

私の記者人生で、タッタ一度だけの、国際トバクの、現場の手入れは、従来のイメージとは、違っていた。

前出記事を、読み返すと、証拠保全のカメラは、なんか、ずっと遅いようだが、「そのまま」の声と同時に、フラッシュは、パッパッ光り出していたのだ。そして、客たちがほんとうに、我に返ったのは、私服につづいて、制服警官が入ってきて、その姿を見てからだった。その間、わずか、数分の出来事であった。

前出の記事の終わりの部分に、「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。本社で、原稿を書いている私は、警視庁クラブから、直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。

「なんだって、予備隊を動員したんだ。サイレンを鳴らして、本庁から出動したから、各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「エエ、現場で、上村とやり合ったのですが、庁内の第一予備隊を呼びやがった」

一足遅れて、マンダリンの二階に上がってきた課長は、四十人近い検挙者に、「これじゃ、手が足りない。予備隊を呼べ」と、係長に命令した。

そばにいた私が、抗議した。「予備隊を呼んだら、各社にバレる。約束が違う!」と。「この人数を見なさい。警官が足りない」と課長。「じゃ、庁内の第一は呼ぶな」「ほかでは、遠くて、時間がかかる。これだけの人数が騒ぎ出したら、一大事だ。ことに、外国軍人がいる!」

上村保安課長は、私の抗議を一蹴した。桜田門から銀座まで、サイレンを鳴らして、第一予備隊が、駈けつけてきた。

「でもキャップ。場内に入ったのは、ウチだけ。写真もウチだけ。仕方なかったンです。各社は、輪転機を止めても、見出し程度しか入れられませんよ」

「そうだナ。マ、よしとするか…」

原稿を出し終えてから、原四郎部長の家に電話で報告した。起きて待っていた部長は、

「十分だ、十分だ。朝刊見れば、ウチのスクープは歴然さ。ご苦労だった。いや、ご苦労」

いつも感ずることだったが、原四郎という部長は、実に、働き易い部長だった。「いいか、新聞記者というのは、結果論だ。書かなきゃダメだし、書いていれば、勝ちさ…」といっていた。

完璧な〝独占スクープ〟の狙いは、外れたけれども、この朝刊の紙面は、努力しただけのことはあった、のだった。

昭和二十七年秋の、「東京租界」の成功が、改めて、〝社会部の読売〟をアピールして、同年度を第一回とする、財団法人・日本文学振興会による、「菊池寛賞」の新聞部門を、原四郎が獲得したのであ

った。

読売梁山泊の記者たち p.218-219 「菊池寛賞」受賞

読売梁山泊の記者たち p.218-219 「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。
読売梁山泊の記者たち p.218-219 「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。

昭和二十七年秋の、「東京租界」の成功が、改めて、〝社会部の読売〟をアピールして、同年度を第一回とする、財団法人・日本文学振興会による、「菊池寛賞」の新聞部門を、原四郎が獲得したのであ

った。

「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。

選考は、同年二月二十四日、大谷竹次郎、山本有三、石川武美、阿部真之助、永田雅一五氏(振興会最高顧問)が出席、文学振興会が推せんを受け、かつ、独自にも選んだ候補から、五部門の授賞が決定された。

もちろん、読売社会部の「暗黒面摘発」は東京租界ばかりではない。原が社会部長に就任してから、新宿粛正やら、立正佼成会キャンペーンなど、読売の評価を高める、数多くの紙面活動があった。

それらの総合得点に、ダメ押しとなったのが、前年秋の東京租界だったのである。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

読売梁山泊の記者たち p.220-221 頭も人柄もいい次男坊

読売梁山泊の記者たち p.220-221 立松和博。エピソードに満ち充ちている男だった。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。
読売梁山泊の記者たち p.220-221 立松和博。エピソードに満ち充ちている男だった。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者

立松和博。朴烈事件の予審判事として著名な、父・懐清と、これまた、ソプラノ歌手として高名な、母・房子との血をうけて、頭も人柄もいい、次男坊であった。父は、早逝したが、その検察関係の友人たちが、立松を可愛がった。

父親と親しかったのは、検事ばかりではない。警視庁官房主事であった、正力松太郎もその一人で、海軍予備学生から復員してきた立松は、正力の口利きで、昭和二十年十月、人手不足の読売に入社した。

そして、戦前の司法記者であった、社会部長の竹内四郎にも、可愛がられた。私が入社した昭和十八年十月には、竹内は、筆頭次長であり、東京府立五中の第一回卒。私は、十六回卒だから、十五歳の差があったが、同じように、目をかけられたものであった。

そして、やがて、司法記者クラブ詰めとなって、立松と一緒に仕事をすることになる。まだ、法務庁の時代で、法務総裁は吉田茂首相の兼務。立松の紹介で、時の検務長官・木内曽益にも会う。木内と立松との会話を聞いて、立松の母・房子や、兄姉たちの様子をたずねる彼に、二人のつながりを感じていた。

この司法記者クラブ一年間の勤務は、ただただ、立松の華やかな、連続スクープのスターぶりに、圧倒されつづけていた。

昭電事件である。福田赳夫、栗栖赳夫、西尾末広と、読売は朝刊で、重要人物召喚を予告し、事態はその通りに展開したのだから、立松の活躍ぶりは、各社をして、歯ギシリさせていた。そのころ、政治家と役人とは「朝起きたら、まず、読売を広げて見る。自分の名前が出ていないのを確認して、ゆっくりと、朝日を読む」といわれたほどだ。

この立松について書き出したら、それこそ一冊の本になるほどの、エピソードに満ち充ちている男だった。そして、それをやったのが、本田靖春の「不当逮捕」(講談社)である。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。ドラマチックに生きた男の記録が、本田の名文で綴られている。

彼は、この著で、講談社のノンフィクション賞を得ている。その受賞パーティーが、東京会館で開かれた時、私は、彼にいった。

「おめでとう。立派な本で、受賞は当然だけど、立松と検察との問題で、ボクは意見が違うんだ。そのうちに『異説・不当逮捕』を書きたいよ」

売春汚職大誤報事件について、私も、本田の取材を受け、当時の検察について、質問されるままに、私の知識を語り伝えた。と同時に、立松の、当時の心理状態や、景山社会部長との関係についても、話したのだが、本田は、それを採らなかった。

本田の執筆態度を、非難しているのではない。その本の帯に謳われているように、「名誉毀損 逮捕 死 大新聞スター記者が越えられなかった、戦後史のハードル!」と、スターや英雄の最後が、悲劇

であることが、人びとに感動を与えるのを、認めてのことだ。

読売梁山泊の記者たち p.222-223 〝疑うことを知らなかった〟立松

読売梁山泊の記者たち p.222-223 ニュースソース、河井信太郎検事。野心家・河井検事に、利用され見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。昭電事件における連続大スクープというのは、河井の意図的なリークによるもの。翌日の逮捕状を新聞記者に見せるという、信じられない〈事実〉
読売梁山泊の記者たち p.222-223 ニュースソース、河井信太郎検事。野心家・河井検事に、利用され見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。昭電事件における連続大スクープというのは、河井の意図的なリークによるもの。翌日の逮捕状を新聞記者に見せるという

本田の執筆態度を、非難しているのではない。その本の帯に謳われているように、「名誉毀損 逮捕 死 大新聞スター記者が越えられなかった、戦後史のハードル!」と、スターや英雄の最後が、悲劇

であることが、人びとに感動を与えるのを、認めてのことだ。

読売記者時代の本田にとって、立松は憧れの人だったのである。何年かの、先輩、後輩の関係で、立松が、後輩には見せなかった〝素顔〟を知らず、かつ、そのニュースソースである、河井信太郎検事について、本田の取材は及ばなかった、のである。

立松は、確かに、悲劇の英雄であった。私をしていわしめれば、それは、野心家・河井検事に、利用され尽したあげく、見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。

裕福な家庭に、生まれ育ち、かつ、亡父懐清の〝遺産〟ともいうべき、人間関係に恵まれて、〝疑うことを知らなかった〟立松の、お人好しの悲劇でもあったのである。

誤報事件の本筋について、記述しておかねばならない。本田は、刻明に、時間的経過を記録しているので、私の、あいまいな記憶は避けて、その要所、要所を引用させてもらうことを、お断わりしておこう。

立松は、二度にわたって、両肺の胸郭成形手術を受け、そのための入院中に、ついでにと、胃潰瘍の手術もして、二年近くの療養生活を終え、社に戻ってきたばかりであった。

景山が、社会部長になって、初めての大汚職事件であった。私が、農林省の発表モノの特落ちをして、クラブ勤務から遊軍に配転されたのが、三十一年春ごろ。そして、約一年を遊軍ですごし、三十二年夏には、司法クラブ・キャップの萩原福三が、本社の通信主任となり、私が後任のキャップに出ていた。

そういう情況下で、立松が休職から復帰してきたのだった。もちろん、秋口だったと思うが、〝大遊軍〟勤務。当分は、遊んでいろという、景山の〝思いやり〟であった。

もうそのころは、昭和二十三年の昭電事件から十年近くもたっており、立松の〝輝かしいスクープ〟も、過去のこととして、半ば伝説化してしまっていた。病気休職などで、立松の存在感自体も薄れていたのだった。

昭和二十五年の社員名簿によると、当時の景山は、岡山市にあった中国総局長である。岡山の素封家の生まれであった景山は、地元に帰っていたのだろう。従って、昭電事件の本質も、立松のスクープの内容についても、十分な知識は、持っていなかったろう。

というのは、昭電事件における、立松の連続大スクープというのは、主任検事であった河井の〈政治的思惑〉からの、意図的なリークによるものだった。

それは、翌日の捕りものに用意された、逮捕状を新聞記者に見せるという、信じられない〈事実〉によって、裏付けされている。立松自身が、私にそう語っているからだ。

当時の検察のボスは、検務長官から、最高検次長検事になっていた、木内曽益だ。検事総長は、GHQ(連合軍総司令部)の指令で、法曹一元化が打ち出され、弁護士出身の福井盛太だった。

東京地検は、堀忠嗣検事正、馬場義続次席検事に、河井主任という態勢。そのボスの木内に、多分「立松の面倒を見てやってくれ」と、いわれたであろう馬場が、河井との間でどのような〝謀議〟をしたのだろうか。

読売梁山泊の記者たち p.224-225 検察が政治を支配していた

読売梁山泊の記者たち p.224-225 木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。
読売梁山泊の記者たち p.224-225 木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。

東京地検は、堀忠嗣検事正、馬場義続次席検事に、河井主任という態勢。そのボスの木内に、多分「立松の面倒を見てやってくれ」と、いわれたであろう馬場が、河井との間でどのような〝謀議〟をしたのだろうか。

当時の政治情勢を見ると、21・5・6に発足した、自由党総裁の吉田内閣は、第一特別国会招集の22・5・20に総辞職した。同6・1に社会党、民主党、国民協同党の、三党連立の片山哲内閣が発足。翌23・3・10まで続いたが、民主党の芦田均総裁に交代。社会党は、西尾末広国務相を入閣させた。そして昭電事件のため、半年後の十月十九日には、芦田内閣が倒れ、第二次吉田内閣になる。

これは、GHQ内部の対立が、そのまま、政界に反映したもので、右のGⅡウィロビー少将と、左のGSケージスとの、日本占領政策の対立であった。ウィロビーは、吉田茂を支持し、ケージスは社会党を支援した。つまり、木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。

いまにして思えば、GHQの威光で、検察が政治を支配していたのである。いまの検察が、政治に従属していることを思えば、〈政治的思惑〉で動く、野心家の検事がいたのだから、驚きである。

馬場は、福岡県甘木市の出身で、田川中学四修で五高に進む。あの容貌といい、出身といい、権力志向であったことは、容易に理解できる。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。

つまり、一社が(この場合は読売)、独占的に、かつ、継続にスクープしつづけることで、事件が、さらに強烈なインパクトを、各方面に与えることを、馬場と河井は計算済みで、それによって、GⅡが意図した、片山芦田内閣打倒に成功した、のである。

本田靖春は、こう書く。

《政府側の重ねての打ち消しにもかかわらず司法記者たちの目に、栗栖逮捕は時間の問題と映った。

そして、取材競争はかつてない熾烈な様相を帯びてくる。

彼らは、立松に一度ならず二度までも、痛打を浴びせられた。クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩にである。

もし、続けて三度、立松に名を成さしめるようなことがあれば、いよいよ鼎の軽重を問われる。ベテランたちにとって、ここは是が非でも、立松の独走を阻まなければならない場面であった。

しかし、彼らは、決定的な打撃を加えられる。立松は、地検の首脳陣が、部内に敷いた厳重な箝口令を、どのようにしてかい潜ったのか、九月三十日付の一面トップに、〈栗栖経本長官きょう召喚/昭電事件・任意出頭のかたちで〉の四段見出しで、鮮やかなスクープを決めたのである》

本田は、「箝口令をどのようにして、かい潜ったのか」と、講談調で扇子を叩いているが、その首脳陣がリークしているのだから、なんのヘンテツもないことである。

立松は、その後、警視庁クラブへ移り、捜査二課担当となる。が、ここでも、しばしばスクープを放つ。二課の刑事たちは、「読売サンは、デカ部屋に顔を出さずに、よく素ッパ抜いてくれるヨ」と、コボした。

それは当然である。大きな事件であれば、警視庁は、地検の指揮を仰ぎながら、捜査を進める。立松は、河井の自宅を〝夜討ち朝駈け〟で、話を聞いてくるのである。 当時の、東京地検の主任検事だった、河井信太郎との〝デート〟がなければ、情報が取れないのである。しかし、主任検事だから、各社とも、夜討ち朝駈けでマークしているのは、当然である。

読売梁山泊の記者たち p.226-227 ネタモトが河井検事

読売梁山泊の記者たち p.226-227 私が問題にするのは、河井検事のあり方である。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまった。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。
読売梁山泊の記者たち p.226-227 私が問題にするのは、河井検事のあり方である。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまった。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。

当時の、東京地検の主任検事だった、河井信太郎との〝デート〟がなければ、情報が取れないのである。しかし、主任検事だから、各社とも、夜討ち朝駈けでマークしているのは、当然である。

立松は、他社の記者との鉢合わせを、避けなければならない。そうでないと、ネタモトが河井検事だ、とバレてしまう。そのための細心の注意が必要で、夜討ちの場合は、河井の自宅から、ずっと離れたところに車を止め各社の様子をうかがう。

そのためには、各社の記者の、何倍もの時間が必要になる。睡眠不足と体力の消耗。彼は、そのころ流行していた、ヒロポンを用い出し、不規則な生活に、荒れていた。

こうして、立松の身体を蝕んでしまった原因は、〈昭電事件の立松〉という、スターの虚名であった。

この二年ほどの病欠。復職してきたとはいっても、心身ともに、充分でないことは明らかだった。

つまり、私が問題にするのは、河井検事のあり方なのである。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまったことである。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。

本田は、「…クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩、にである」と、書く。「司法記者会に入会したときは、弱冠二十四歳であった」とも。

ということは、ほとんど、マトモな記者としての訓練を受けていない、ということでもある。父親のコネで、検察幹部に可愛がられ、たまたま野心家の河井に出会った。その河井に、利用されて、リークされていただけの〝スター記者〟だったのである。

それはとにかくとして、本田は、売春汚職に、立松がタッチしてくる経過を、次のように描く。

《この十月十六日の夕刻、司法記者クラブ員だった滝沢記者が、日比谷公園の松本楼に呼び出されて、立松に相談を持ちかけられる。

滝沢記者は、立松に、全性連という、遊廓業者の団体の、幹部の浮き貸しの話を聞かされた。だが、滝沢は乗ってこないのだ。

「君、どう思う。これじゃ弱いか」

立松のことだから、復帰の初仕事は、トップ記事で飾ろうと、意気込んでいるに違いない。そうだとすれば、かりに、彼の仕入れた情報が正しいとしても、特捜部が追う本筋からは枝葉であり、いかにも弱い。

滝沢が沈黙していると、立松は彼の答えを先取りするようにいった。

「やっぱり、代議士が出てこないことには、しようがないか」

代議士といわれた滝沢は、小耳にはさんだばかりの噂話を、立松に、してみる気になった。

「マルスミっていうの、聞いてます?」

「競馬うま、かい」

「丸で囲った〝済〟の判こが押されているから、丸済み」

「それが、どうかしたのか」

「全性から、どういう経路をたどったのか。ともかく、献金リストが政界筋に流れて、その中の代議士のうち、何人かの名前の上に、丸済みのマークがある、というので、ちょっとした騒ぎになってい

るんだ、そうですよ」

読売梁山泊の記者たち p.228-229 もう一度ウラ付け取材を

読売梁山泊の記者たち p.228-229 立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」
読売梁山泊の記者たち p.228-229 立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」

「全性から、どういう経路をたどったのか。ともかく、献金リストが政界筋に流れて、その中の代議士のうち、何人かの名前の上に、丸済みのマークがある、というので、ちょっとした騒ぎになってい

るんだ、そうですよ」

椅子の背もたれに、両肘をかけて、天井へと立ち上る紫煙を、目で追っていた立松が、滝沢の説明の途中から坐り直した。

「おい、それだ。その線を追っかけよう」

「でも、全性の献金リストが、そう簡単に表に出るでしょうか。ガセネタかも、知れませんよ」

「ガセかどうかは、裏を取ってみれば分る。ともかく現物、それがなければ、写しでも手に入れるのが、先決だ」

「写しといえば、もう地検の手に渡っている、という話ですよ」

「そうか、それならなんとかなるだろう」

立松は、自信ありげに二度、三度うなずいて、やおら、火の消えかかったパイプを、口元へ運んだ》

本田は、「不当逮捕」の文中、立松が、落とし穴にはまりこんでゆく姿を、こう描写している。本田が、意識して描いたのか、どうかは、つまびらかではないが、滝沢の、「もう地検の手に渡っている」という話に、立松が、自信を得たフンイキが、良く出ている。

今でも、ハッキリと覚えているのだが、立松のメモを原稿に直した滝沢と、立松と私の三人が、その原稿をデスクに出す、という最後の段階で、私がいった。

「オレには、宇都宮が、そんな汚い金を受け取るとは、とても信じられない。明日、もう一度、ウラ付

け取材をしたらどうだね」

滝沢は黙っていた。彼は、私の部下であると同時に、立松の後輩であり、かつ、友人でもあった。

立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。

「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」

もちろん、〝政治家オンチ〟の立松のことだから、宇都宮や福田が、どんな政治家であるかなんて、知りもしないし、考えてみたことも、なかっただろう。

立松が、そこまでいうのだったら、もう仕方がない。彼に対して、私には指揮命令権がないのだから…。

こうして、読売新聞の大誤報、といっても朝日の伊藤律会見記よりは小さいが(というのは、朝日の架空会見記は、保存版から削除されて、白地になっているが、読売のは、マイクロフィルムにキチンと写されて、いまでも入手できる)とにもかくにも、つづいて「立松記者逮捕事件」へと発展する大誤報は、輪転機のごう音のなかで、何百万部と刷られていった。

三十年後に明かされた事件の真相

そしてさらに、三十年と六カ月の月日が流れて、昭和六十三年五月二十日、朝日新聞朝刊の呼びものであった、前検事総長・伊藤栄樹の回想記「秋霜烈日」の第十三回が、意外や意外、売春汚職事件 の内幕を、ズバリとバクロしてくれた。

読売梁山泊の記者たち p.230-231 〈真相〉だけは明らかにしておかねば

読売梁山泊の記者たち p.230-231 《そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである》この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。
読売梁山泊の記者たち p.230-231 《そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである》この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。

そしてさらに、三十年と六カ月の月日が流れて、昭和六十三年五月二十日、朝日新聞朝刊の呼びものであった、前検事総長・伊藤栄樹の回想記「秋霜烈日」の第十三回が、意外や意外、売春汚職事件

の内幕を、ズバリとバクロしてくれた。

《…売春汚職の捜査においては、初期からしばしば、重要な事項が読売新聞に抜け、捜査員一同は、上司から疑われているような気がして、重苦しい空気であった。

そのうち、読売新聞に抜ける情報は、どれも赤煉瓦(あかれんが=法務本省)へ、報告したものであることが、わかってきた。だんだん、しぼってゆくと、抜けた情報全部にタッチした人は、赤煉瓦にも一人しかいない。

そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである。事の反響の大きさに、あわてはしたが、犯人がわかって、ホッとした気分がしたのも、正直なところであった》

伊藤栄樹・前検事総長は、このあとにつづけて、《あれから三十年余、赤煉瓦にいた男の名前も、捜査員のなかで、ガセネタを仕掛けた男の名前も、すっかり忘れてしまった》と、わざわざ断わり書きをつけている。

この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。

この、売春汚職大誤報事件にひきつづいて「立松記者逮捕事件」となる。本田靖春の「不当逮捕」とは、このことをさしているのである。

立松が早逝し、河井も伊藤も幽明境を異にしてしまっている。当時の読売司法記者クラブ員、滝沢も寿里も、故人となってしまった。立松逮捕を指揮した、岸本義広・東京検事長もまた、失意のうち

に世を去ってしまっている。

この事件の当事者のうち、生き残っているのは、私ひとりである。やはり、どうしても〈真相〉だけは、明らかにしておかねばならない。

伊藤栄樹・検事総長が、その遺書ともいうべき、朝日新聞朝刊に連載した「秋霜烈日」(のち、単行本として出版)は、死期を悟っていた伊藤が、異例の退官直後の回想記執筆という、〝偉業〟をやってのけた、のであろう、と思う。

実際、伊藤が、あの〝赤煉瓦の男〟について、真相を語らなかったら、河井信太郎という検事は、日本の歴史に、最後まで、〝社会正義の権化〟であり、〝特捜の鬼〟として、その虚名を、実像としてとどめることになったであろう。

そしてまた、本田靖春の「不当逮捕」はまだしも、いまの若いジャーナリストたちは、新聞社の資料部から、むかしのスクラップを借り出して、無批判に、〝特捜の鬼〟と、河井を美化して書く。

昭電事件のころは、立松が大スター記者に祭りあげられていたのだから、河井の〝私的な利用〟であっても、まだ、よしとしよう。しかし、立松は、そのために、ヒロポンを打ち、身体をこわしてしまう。そして、売春汚職の大誤報事件では、河井の〝情報〟のせいで、立松は逮捕される。

それを見殺しにして、自分は、出世街道を進んで行く。立松のほうは、それから心身ともボロボロになり、不遇のうちに早逝したのである。あの時、なんらかの救済の道を探り、努力すべきが、人の

道であろう。

読売梁山泊の記者たち p.232-233 傲岸そのものの奴が多い検事

読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。
読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。

それを見殺しにして、自分は、出世街道を進んで行く。立松のほうは、それから心身ともボロボロになり、不遇のうちに早逝したのである。あの時、なんらかの救済の道を探り、努力すべきが、人の

道であろう。

さて、当時の読売司法クラブは、昭和十八年入社の三田をキャップに、同二十四年入社の滝沢国夫と、寿里(すさと)活の、計三名だった。前任のキャップの萩原福三は、本社の通信主任(サツ・デスク)となっていた。

昭和二十三、四年ごろ、立松、萩原と私の三人が、稲垣武雄キャップの下で、兵隊勤務をしていたのだが、本田靖春が「不当逮捕」に書いているように、立松が河井検事をネタモトにして、華やかに振る舞い、それを、マジメな萩原が、法律的に勉強して、後方支援するという体制だから、私は、張りこみなどの雑兵(ぞうひょう)勤務である。

そして、約一年で、国会遊軍に移るが、萩原だけは、そのまま司法クラブに残り、通信主任になって去るまで、ずっと、居ついていたものだ。その萩原のもとで、司法クラブにいた滝沢が、居残ることを条件に、私もキャップを受けたのだった。

というのは、藤原工大出の技術者である寿里が、新しい兵隊というのだから、滝沢が居てくれねば、戦力が落ちる。さらに、好都合なことには、滝沢は立松の弟分で親しい。大事件が起きれば必ず、立松に情報を頼みに行くだろう。

寿里は、その学歴にふさわしく、社会部記者としては、型破りであった。四季一回ぐらい、地検との呑み会が、会議室などで催されるが、ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。

「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」

はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。近くで、成り行きを見ていた私は、頃あいと見て、止めに入って、滝沢に連れ出させた。

寿里でなければできない芸当である。いまは、三塚派の長老に納まっているので、実名は避けるが、そのころは、政治部記者だった男が、吉原の小さな女郎屋のお内儀を、愛人にしていた。寿里の月給袋は、いつも、その店に〝直行〟してしまう。

「いやネ、その店には、読売の社員名簿があって、序列が、部員のマン中より上なら、貸してくれるんですよ。女郎屋のツケ、なんていうのは、この店だけだったでしょう」

私も、検事の自宅に、夜討ち朝駈けなど、ほとんどしなかった。それは〝物乞い〟同然で、私の新聞記者のプライドが、それを潔しとしないのである。エリート然として、まさに傲岸そのものの奴が多い検事に、ネタの物乞いをすることだからであった。

だから、寿里もハラに据えかねることがあったのだろう。酔った機会に、バクハツしたのだから、私は、心中、快哉を叫びながら、様子を見ていたのだ。

それに反して、滝沢は、やはりマジメで、兵隊の仕事、として、割り切っていた。萩原が、十年も司法クラブが勤まったのは、ハラの中で、検事たちをバカにしていたからだ。頭がいいから、過去の事件のケースから、判例に至るまで、良く記憶していて、若い検事などには、反対に教えてやるから

だ。オ説教をするのである。

読売梁山泊の記者たち p.234-235 これが新聞記者をダメにする

読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。
読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。

それに反して、滝沢は、やはりマジメで、兵隊の仕事、として、割り切っていた。萩原が、十年も司法クラブが勤まったのは、ハラの中で、検事たちをバカにしていたからだ。頭がいいから、過去の事件のケースから、判例に至るまで、良く記憶していて、若い検事などには、反対に教えてやるから

だ。オ説教をするのである。

昭和十八年入社の、青木と萩原と私とは、その性格から、よくこういわれた。デスクに仕事をいいつけられ、「そんなの、ダメですよ。モノになりっこありませんよ」と、言下に断わる三田。

デスクの前では、「ハイ、やってみます」と面従しながら、「こんな企画を出すデスクの下で働くのは大変だよ」と、腹背の萩原。それに対し、デスクの前で「ハイ」、実際に動く青木——仲間たちは、「青木が一番出世するナ」といっていたが、報知の編集局長で早逝した。

滝沢は、福島民友新聞の編集局長で役員にまでなったが、オーナーに嫌われて去り、これも逝った。寿里は、読売の閑職にいて、講演先で、酒を呑んで温泉に浸って死んだ。

話がそれたが、司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、その渕源は、昭電事件での、立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄ごろから、それが定着してきて、ロッキード、グラマンとなると、もう、検察批判などできない。「特捜部出入り禁止」などと、検事が思い上がってきたからである。

政治部の新人が、大臣や実力者に群がって、金魚のウンコになり、社会部では、中堅が検事の夜討ちに奔命する——これが、新聞記者をダメにする。

伊藤栄樹・元検事総長の遺書「秋霜烈日」は、伊藤ら特捜部の検事たちが、人事権を握る馬場義続・事務次官のもとで、前任の岸本義廣次官によって、法務研修所の教官にトバされていた河井信太郎を、

法務省刑事課長に呼び戻した事実から、やがては、特捜部長に返り咲くことを、憂えていたことを、示唆している。

そして、そのために、売春汚職の捜査資料(伊藤は、ガセネタ=偽情報、と表現する)を、河井刑事課長に流してみる。しかし、伊藤の叙述のうち、やや不正確な部分がある。

伊藤は、こう書いている。

《…売春汚職の捜査においては、初期から、しばしば重要な事項が、読売新聞に抜け、捜査員一同は、上司から疑われているような気がして、重苦しい空気であった。

そのうち、読売新聞に抜ける情報は、どれも赤煉瓦(あかれんが=法務本省)へ報告したものであることが、わかってきた》

この部分が、オカシイのである。前述したように、売春汚職を担当していたのは、司法クラブへきたばかりの寿里記者。古い滝沢は、まだ手を出していない。立松は、病欠中であり、本田が書いているように《…その点、わが社は初めに甘く見て少々出足がおくれている。こないだうちは朝日にやられて、今日は毎日だ…》と、《初期から、しばしば読売に抜け》ている事実は、なかったのである。

だからこそ、景山社会部長があせり、病欠上がりの立松を、直轄で起用するのである。戦線に投入された立松が、見ず知らずの若い検事の自宅に、夜まわりするハズがない。立松が顔を出したのは、河井刑事課長室ぐらいのものであろう。

カンぐれば、立松が現われたというニュースが伊藤らに伝わり、それなら、昭電事件以来の、河井

のリークを立証しよう、として、ガセネタを流した、とも考えられる。

読売梁山泊の記者たち p.236-237 馬場次官対岸本検事長の対立

読売梁山泊の記者たち p.236-237 河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。
読売梁山泊の記者たち p.236-237 河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。

だからこそ、景山社会部長があせり、病欠上がりの立松を、直轄で起用するのである。戦線に投入された立松が、見ず知らずの若い検事の自宅に、夜まわりするハズがない。立松が顔を出したのは、河井刑事課長室ぐらいのものであろう。
カンぐれば、立松が現われたというニュースが伊藤らに伝わり、それなら、昭電事件以来の、河井

のリークを立証しよう、として、ガセネタを流した、とも考えられる。伊藤のいうように、《初期から、しばしば重要な事項が読売に抜け》たのは、昭電事件の時だけである。

伊藤らの〝仕掛け〟が、立松逮捕にまで発展するとは、決して予想はしなかったであろう。伊藤らは、やがて、特捜部長、次席検事と、彼らの上司になるだろう河井の、〝政治的な動き〟を牽制すべく、ガセネタを流してみた。それを、単発的な行動としては、工合が悪いので、《初期から、読売に抜け》と、表現したのであろう。

しかし、地検特捜部という〝現場〟があるのに、河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。

当時、馬場次官対岸本検事長の対立は、岸本の検事総長就任の可能性をめぐって、ギリギリのところにきており、伊藤らは、そのような対立を批判して、立松復帰を絶好のチャンスとして、〝仕掛け〟を考えたに、違いないだろう。

あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。ただ、「秋霜烈日」にまとめるに際し、昭電事件当時を想起して、「売春汚職では、初期から…読売に抜け…」という、表現をしたとみるのが、一番、真相に近いと思われる。

なぜなら、伊藤らには、宇都宮、福田両代議士が、岸本のいる高検に、告訴することなどは、判断も、予想も、できないからだ。

さて、本田の「不当逮捕」は、そのあたりを、どう、書いているのだろうか。

《滝沢が待つ銀座裏の「憩」に立松が姿を見せたのは、約束の時刻を二時間も過ぎた午後十時であった。

「とれたぞ」

立松は向かい側の椅子に腰掛けるなり、メモ帳を背広の内ポケットから取り出して開いて見せた。

「これがさっき君のいってた丸済み議員だ」

いわれて滝沢は、そこに書かれてある名前を一つずつ目で追った。いずれも都内選出の自民党代議士で、計九人である。

「この中の五人は容疑がかたまっているという話だった」

立松の説明に滝沢は、ウェイトレスが振り向くほどの声を上げた。

「へえ、すげえや」

その言葉に誇張はない。売春汚職の取材を始めてから五日目、丸済みメモの噂を耳にしてからわずか五時間で、立松は捜査の核心部分と思われるあたりをわしづかみに持ち帰って来たのである。…。

立松はニュース・ソースを打ち明けた。かつて東京地検特捜部で大型疑獄の摘発に凄腕を振るった人物であり、いまは現場を離れているが検察官の身分にかわりはなく、捜査の流れを知り得る立場にいる。

立松によると、その人物は次のようにいって、丸済み議員のリストを彼の前に出したという。

「立松君、元気になってよかったね。貧乏検事にはなんのお祝いも出来ないが、これはぼくの気持だ」…。

読売梁山泊の記者たち p.238-239 丸済み議員のリスト

読売梁山泊の記者たち p.238-239 「明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします」こうして、読売の特種が社会面トップに組み込まれた。《捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ》
読売梁山泊の記者たち p.238-239 「明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします」こうして、読売の特種が社会面トップに組み込まれた。《捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ》

立松はニュース・ソースを打ち明けた。かつて東京地検特捜部で大型疑獄の摘発に凄腕を振るった人物であり、いまは現場を離れているが検察官の身分にかわりはなく、捜査の流れを知り得る立場にいる。
立松によると、その人物は次のようにいって、丸済み議員のリストを彼の前に出したという。

「立松君、元気になってよかったね。貧乏検事にはなんのお祝いも出来ないが、これはぼくの気持だ」…。

翌十七日の昼前に出社した立松は、景山社会部長に取材の成果を報告した。そして、鈴木顧問の浮き貸し事件と、代議士に対する業界からの贈賄の、どちらを先に出稿するかについて指示を仰ぐ。…。

その間に立松が戻って来て、滝沢と原稿の相談が始まる。

「九代議士に丸済の疑惑、といったかたちで全員の名前をばあっと書いちゃおうか」

意気込む立松に滝沢がブレーキをかけた。

「九人全部っていうのはどんなものでしょうか」…。

そこへ、司法記者クラブ詰め主任の三田和夫がやって来た。それから立松が結論を出すまで、そう長い時間はかかっていない。「今日のところは、滝沢君がいう通り、確実な線に絞ったほうがよさそうだ。その線でもう一度、念を押してみよう」

彼は床の間のわきの室内電話に手を伸ばし、帳場に都内のある電話番号を告げた。

外線につながって、確認が始まる。三田、滝沢にはその内容を聞くまでのこともなく、相手は前述のニュース・ソースと知れた。

「くどいようで申しわけないんですが、九人のうち五人については、かなりクロっぽいというお話でしたね」

「——」

「そのうちはっきり裏がとれているのは、だれとだれですか。もう一度名前を読み上げてみますから」

「——」

「実はこれから原稿を書くところなんですが、その線なら動きませんか」

「——」

「わかりました。それじゃ明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします。どうもたびたびすいません。ありがとうございました」

受話器を置いた立松は、メモ帳の中の九代議士の名前のうち、二つをボールペンで囲って三田に示した。

「たびたびすいません」というからには、今日の午後も立松は、ニュース・ソースと接触を重ねていたのであろう。自分の目の前でさらなる確認をとりつけた同僚に、三田はいうべき何物もない。すべてを彼に任せた…。》

こうして、読売の劣勢を一挙に挽回するはずの特種が、昭和三十二年十月十八日付け朝刊の十四版から、社会面トップに組み込まれたのである。

《(注=その記事後半部分)当局では三幹部(引用者注・鈴木明全性理事長、山口富三郎同専務理事、長谷川康同副理事長)を全性本部が全国ブロックに呼びかけて地元毎に政界工作にあたらせた参謀とみて、まず同本部の心臓部である東京都連——地元(東京出身議員)を結ぶ汚職ルートに摘発のメスを入れることに決定、捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五

十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ。

ワイロの手口としては、三幹部の指示により、地域別の業者を〝政界工作員〟として、めざす議員の巡りに一人または二人ずつつけ〝運動〟したのち手渡していたとみている。(中略)このほか地元出身のK、S、Nの三代議士についても、同様の丸済という印がつけられているので、その裏付け捜査を急いでいる。(後略)》

読売梁山泊の記者たち p.240-241 間違いなく河井の自宅の電話番号

読売梁山泊の記者たち p.240-241 宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。
読売梁山泊の記者たち p.240-241 宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。

《(注=その記事後半部分)当局では三幹部(引用者注・鈴木明全性理事長、山口富三郎同専務理事、長谷川康同副理事長)を全性本部が全国ブロックに呼びかけて地元毎に政界工作にあたらせた参謀とみて、まず同本部の心臓部である東京都連——地元(東京出身議員)を結ぶ汚職ルートに摘発のメスを入れることに決定、捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五

十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ。

ワイロの手口としては、三幹部の指示により、地域別の業者を〝政界工作員〟として、めざす議員の巡りに一人または二人ずつつけ〝運動〟したのち手渡していたとみている。(中略)このほか地元出身のK、S、Nの三代議士についても、同様の丸済という印がつけられているので、その裏付け捜査を急いでいる。(後略)》

K、S、Nは記事の中でもイニシアルだけの扱いになっている。これは滝沢の助言を入れて、立松が大事をとった結果である。(注=九人のうちのクロっぽい五人の残り三人)

《両代議士は翌十九日、名誉毀損の訴訟を東京地検に提起した。告訴の対象は、読売新聞社小島文夫編集局長および問題の記事を執筆した記者某、これに情報を提供した検事某およびその監督者としての東京地検野村佐太男検事正、および検察最高責任者である花井忠検事総長の五人であった。

彼を指揮命令する監督者責任を合わせて問うのであれば、東京地検の検事正と検事総長の他に、もう一人、東京高等検察庁の検事長も告訴しなければ筋道に合わない。

しかし、故意か、偶然か、東京地検の上級機関である東京高検の検事長は告訴の対象からはずされており、その職にある岸本義広が被告訴人に名を連ねていないという理由で、東京高検を指揮して、この告訴事件の捜査に乗り出すのである。》

本田の「不当逮捕」は、以上のように、誤報が読売社会面のトップ記事になる経過を、詳しく描写

している。なお、引用文中に「…」とあるのは、中略部分を意味している。

最後のツメに、河井検事の自宅に電話する部分は、一階の電話ボックスに行って、私と滝沢が立ち合ったもので、室内電話ではない点が違うだけだ。

というのは、宇都宮代議士は、私が国会担当時代、取材で人柄を知っており、赤線業者のワイロを受け取る人物ではないと、疑問を提起したからで、それなら、河井にツメてみよう、ということになったのである。

司法クラブのキャップである私は、立松の話を聞いて、フト、一抹の不安を覚えたのである。宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。

もっとも、立松は社会部長直轄の遊軍で、私の部下ではないから、彼の原稿で、私の責任は生じない。しかし、親しい友人の立松に赤恥をかかせるわけにはいかない。

五人のうちの〝クロっぽい〟二人について私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。彼が、私と滝沢の見守る中、間違いなく、河井の自宅の電話番号をまわした。

政治的思惑で立松を利用した河井検事

そして、本田の最後の部分、「岸本が告訴洩れになった」ことについて、「故意か、偶然か」と、表現しているが、司法記者の常識として、一流日刊紙の名誉毀損被疑事件で、担当記者が逮捕されるこ

となど、あり得ないことであった。

読売梁山泊の記者たち p.242-243 河井の政治的思惑

読売梁山泊の記者たち p.242-243 ここの部分が、重要なのである。芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたったことが、実証されるのである。河井の政治的思惑について、説明しなければならない。
読売梁山泊の記者たち p.242-243 ここの部分が、重要なのである。芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたったことが、実証されるのである。河井の政治的思惑について、説明しなければならない。

政治的思惑で立松を利用した河井検事

そして、本田の最後の部分、「岸本が告訴洩れになった」ことについて、「故意か、偶然か」と、表現しているが、司法記者の常識として、一流日刊紙の名誉毀損被疑事件で、担当記者が逮捕されるこ

となど、あり得ないことであった。

だから、結果論として、「故意か」と思っているようだが、「故意」とは、宇都宮、福田両代議士が、事前に、岸本検事長と謀議して、告訴洩れにするから、逮捕しようと、計画したことを意味する。これまた、まったくあり得ないことである。

のちに、宇都宮代議士に直接たずねてみたが、本人は弁護士まかせ。弁護士は、地検の監督責任は最高検と考えた、とのことだ。

そこで、今度は、伊藤栄樹らの、ガセネタ流しについて、考えてみよう。前述したように、「売春汚職で、初期から読売に抜けた」ことはない。これは、河井にガセネタを流してみることの、修飾語であろう。昭電事件以来の疑惑に、結論を出そうとしたのだろう。いずれにせよ、もはや、この部分の真実は明らかにはできない。

しかし、河井が、立松に対して、九名の国会議員のうちの五名が、容疑が濃く、そのうちでも、二名の捜査が進展している、と、リークした。そうすると、伊藤らが、法務省刑事局に報告したのは、五名の名前であろう。

その様子は、本田の描写(立松の電話の受け答え)で、ほぼ明らかである。すると、その五名のうちから、宇都宮、福田両代議士を特に指名したのは、河井の判断、ということになる。

《「そのうち、はっきりウラが取れているのはだれとだれですか。もう一度、名前を読み上げてみますから…」》

と、立松は河井にいい、丸済メモのうち、宇都宮、福田の名前の上に印をつけた。片手に受話器、片手で印(しるし)をつけたのを、私は目撃している。

《「——」

「わかりました、それじゃ、明日の朝刊は、その二人だけ、実名でいくことにします」》

つまり、伊藤らのガセネタ流しでは、この二人の名前だけではなく、読売紙面での、K、S、Nのイニシャル三名も含まれていたのに、河井の〝判断〟で、二名がえらばれた、ということになる。

ここの部分が、重要なのである。そして、そこに、芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたった、ということが、実証されるのである。

河井の政治的思惑について、説明しなければならない。それには、当時の政治情勢を見なければならない。

昭和三十二年はじめ、岸内閣にただ一人魅力ある新人として、藤山愛一郎が入閣した。財界出身で国会に議席を持たない新人である。これは当然、次の総選挙には出馬する、という含みである。

そして、その夏。東京都知事安井誠一郎が衆院選出馬を声明した。昭和三十四年春までまだ、任期が一年半もある、というのにである。

この二人の〝新人〟の衆院選出馬は、どのような影響を、当時の政界地図に及ぼすであろうか。現役の代議士にとっては、実に重大な問題である。

読売梁山泊の記者たち p.244-245 だからこその安井都知事の衆院選出馬

読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。
読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。

そして、その夏。東京都知事安井誠一郎が衆院選出馬を声明した。昭和三十四年春までまだ、任期が一年半もある、というのにである。
この二人の〝新人〟の衆院選出馬は、どのような影響を、当時の政界地図に及ぼすであろうか。現役の代議士にとっては、実に重大な問題である。

安井都知事の身辺をみてみよう。昭和三十年春の都知事選は、まったく危うかった。当時の都庁は伏魔殿、とさえいわれ、安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。占領期間に引きつづいての二選、そして三度目の出馬である。

都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほどで、私が、昭和二十七年から三十年までの、三年半ほどの、警視庁記者クラブ詰だった間に、「都庁汚職」として摘発された事件は、ただ一度だった。

それも、三十年春、都の結核療養所の建設をめぐる、小さな贈収賄事件である。

「警視庁がやれないなら、地検でやる」

正義感に燃えた若手検事が、そう意気込んでみても、「都庁汚職」は一つとして、伸びなかった。

「官庁バス路線買い上げ事件」というのがあった。これを担当した検事たちに、二通りの声があった。この事件には〝メモ〟があって、献金一覧表ができていた。

これに対し、「メモが事実だとしても、時効サ」と、こともなげに諦らめ顔の検事と、「いい筋なのに、惜しいネ」と、未練気な若手検事——。事件は不発に終わった。

前警視総監田中栄一派の選挙違反がのびてきて、安井謙参院議員まできた時、やはり、ストップがかかったといわれる。実兄の安井都知事が、「一回だけは、安井謙議員の調べを認めるが、都知事選を目前に控えて、都庁にだけは、手をつけないでもらいたい」と、某筋へ要求した、といわれたほどであった。

警視庁どころか、東京地検でさえ、都庁、すなわち、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。

ナゼだろうか。

社会党が、安井三選阻止を唱えて、元外相有田八郎を擁した、昭和三十年の都知事選での、安井、有田の得票差は、僅か十万票であった。つまり、プラスマイナスすれば、あと五万票で、有田は勝てたのである。

この都民の審判が、自民党首脳をガク然とさせた。次回で雪辱を期して、孜々営々と、日常活動をつづける有田派の実力は、悔りがたいものがあった。

だからこその、安井都知事の衆院選出馬声明であった。安井派が三十年の選挙で準備した金が、一億円といわれているが、それであの少差である。次回三十四年には、何億にハネ上がるか? それなら、衆院選のほうがラクである、という計算もあっただろう。

では、次回に、有田と闘うのは誰か。その時点から、候補探しが始まった。首都の知事を革新陣営には渡せないという、至上命令があるのだ。

当時、浮かんでは消えた人名を、列挙してみよう。第一に、中山伊知郎、松下正寿らの学者グループ。松下などは、「選挙費用が五千万円」と聞いて、乗り気だったのが、一度に〝その気〟をなくした、という。

藤山愛一郎、一万田尚登、高碕達之助、鮎川義介、渋沢敬三、河合良成らの財界人。つづいて、吉

田茂、鳩山一郎、石橋湛山の元、前首相ら。鳩山の場合など、本人がダメなら大蔵官僚の長男威一郎、薫子夫人の名前まで出たが、都議団に笑い飛ばされて、消えてしまったほど。

読売梁山泊の記者たち p.246-247 安井・藤山をどうしても当選させねばならない

読売梁山泊の記者たち p.246-247 現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。同一選挙区に、同系候補がふえれば、基礎票が割れるのである。
読売梁山泊の記者たち p.246-247 現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。同一選挙区に、同系候補がふえれば、基礎票が割れるのである。

当時、浮かんでは消えた人名を、列挙してみよう。第一に、中山伊知郎、松下正寿らの学者グループ。松下などは、「選挙費用が五千万円」と聞いて、乗り気だったのが、一度に〝その気〟をなくした、という。

藤山愛一郎、一万田尚登、高碕達之助、鮎川義介、渋沢敬三、河合良成らの財界人。つづいて、吉

田茂、鳩山一郎、石橋湛山の元、前首相ら。鳩山の場合など、本人がダメなら大蔵官僚の長男威一郎、薫子夫人の名前まで出たが、都議団に笑い飛ばされて、消えてしまったほど。

次は、沢田廉三、鶴見祐輔、永田清らが出たのち、グッと現実的になって、花村四郎、中村梅吉といった、地元議員になった。これには都議団も賛成したが、本人たちが受けない。そして、松永東、東竜太郎と動いてきたが、これまた固辞して、振り出しにもどった感じ。

都知事の後任問題は、まったく目鼻さえつかなかったが、藤山、安井両氏の出馬は確定し、しかも、国会には〝解散風〟が吹きはじめていた。選挙の見通しは、早期解散ならば翌三十三年春。おそくも、秋には、という声がしきりであった。

安井の出馬は、都知事だったのだから、当然、東京である。そして、一区の安藤正純の地盤のアト釜かと見られた。東京一区は、鳩山一郎、安藤正純、原彪、浅沼稲次郎という保守、革新の大物、ベテランが四議席を二分していたが、安藤が死亡して、空いたのであった。

一区が駄目なら、三多摩の七区。十二年の在任中に、そのことあるを予期して、三多摩には、十分に金をマイていた、といわれる。安井の出馬は、一区か七区というのが、決定的であった。

一方の藤山はどうか。「芝で生まれて、芝で育ったボクは、芝以外からは選挙に出られない」と公言していた。学校も慶応だから、芝一本槍の方針だ。芝といえば、東京二区である。

なにしろ、入閣に当たって、一九四社という、関係会社に辞表を出し、七つの会社の役員会を招集して、奇麗サッパリと、財界から足を洗っての、政界入りだから、出馬→当選は必死である。

だが、選挙という〝怪物〟は、生やさしいものではない。出たい人が出て、その政見が選挙民に支持されれば当選する、といった、公式通りにはいかないのである。

ことに、現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。選挙の見通しは、地盤という、基礎票からスタートする。同一選挙区に、同系候補がふえれば、この基礎票が割れるのである。

安井は、地検にすら、都庁に手を入れさせなかった、東京の〝実力者〟である。安井の応援がなくては、例えば、吉田茂が都知事に立候補しても、安井系の票がすべて離れたら落選の可能性が強くなるのである。

「都知事は保守で」を、至上命令としているのが、岸首相ら自民党首脳であるならば、安井の発言権が、強まるのも当然である。また議席のない藤山を、内閣に迎えたのも岸首相である。

とすると、安井、藤山両氏を、どうしても当選させねばならない、という人——それは岸内閣の主流派である。当時、主流派とされたのは、岸派、大野派、河野派、佐藤派の四個師団である。

さて、安井の七区、藤山の二区という、その出馬予想区の現況はどうか。

別表を見ていただきたい。二十二年四月の総選挙から、二十四年一月、二十七年十月、二十八年四月、三十年二月と、三十二年秋、現在において、過去五回の選挙が、同一選挙区、同一定員で行なわれている。そのうち、問題の二区、七区の当選議員と、その得票の実績である。(点線より下の人名は次点以下)

読売梁山泊の記者たち p.248-249 「立松事件」の重要な背景

読売梁山泊の記者たち p.248-249 このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。
読売梁山泊の記者たち p.248-249 このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。

二区でみると、宇都宮は二十四年に初出馬だから、四回の選挙だ。そして、次点、二位、三位、三位の成績。三名の定員を、保守二、革新二の四名で争って、その四回の選挙で各人とも公平に一度宛、次点となって休んでいる、という実態だから、次の選挙では、誰かが、二度目の次点を味わうことになる。

そこに、藤山が加わるというのだから、保守三、革新二、もしかすると、宇都宮、菊池両氏が次点以下、という可能性…それどころか、割りこんできた藤山自身が、落選ということもあり得るのだ。

七区にいたっては、さらに保守の同士討ちである。並木芳雄が五回とも堂々当選して、しかも次第に上位になって、堅実になっていくのに対し、福田は、次点、三位、次点、四位、五位と、二回落選という、不安定な状態にある。

藤山も、初めは一区出馬を望んだ。安井も一区となると、予想では、鳩山、安井、原が確実で、残る一議席を、浅沼、藤山で争って藤山が落ちる、と見られた。

二区ならば、加藤、松岡両社会党候補が当確で、残る一つを、宇都宮、菊池、藤山で争って、下手すると、三人共落選、とも読まれたのであった。

そのため、安全を期して、五区の中村梅吉を都知事候補とし、その地盤をユズリ受けてと計画されたが、中村が都知事を受けないので、五区出馬はダメ。

次の手は二区である。菊池を参院にまわらせて、その地盤をというのだが、菊池が選挙区を金にかえて、売り飛ばすことはできないと、断わったといわれている。

このような、東京都知事選もからんだ、東京選出の代議士をめぐっての、微妙な政界事情が、この「立松事件」の起こった、昭和三十二年十月ごろの政治情勢だったのである。

そして、この動きは、安井都知事の出馬声明の夏から秋にかけて、急テンポで動きはじめ、しかも、解散近しの空気とともに、次第に厳しさを増してきていた。

これは「立松事件」を解明するためには、見落とすことのできない重要な背景である。

このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「明日の朝刊に、二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。

つまり、売春汚職という、いままでの汚職のうちでも、もっとも汚い、といわれた事件で、読売に

大きくその名前が報道されれば、この二人の落選は、まず、間違いのないところだ。

読売梁山泊の記者たち p.250-251 〝弱そうな二人〟を落とそうという陰謀

読売梁山泊の記者たち p.250-251 つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。…《河井検事は、法律家とはいえなかった》
読売梁山泊の記者たち p.250-251 つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。…《河井検事は、法律家とはいえなかった》

つまり、売春汚職という、いままでの汚職のうちでも、もっとも汚い、といわれた事件で、読売に

大きくその名前が報道されれば、この二人の落選は、まず、間違いのないところだ。そして、そのそれぞれの選挙区に、安井、藤山の新人二人が、立候補する。

河井の狙いは、この新人二人の当選を期するにあった、というべきであろう。

伊藤栄樹・元検事総長らの、河井信太郎・法務省刑事課長へのガセネタ流しは、いわゆるマルスミメモのうちの、東京出身の九名の議員。そのうちの五人を、〝黒っぽい〟として流したものであろう。

それは、当時の関係者たちに取材した、本田靖春著「不当逮捕」に、描写されている通りであり、最後の河井宅への電話取材に、立ち合っていた、私の記憶の通りでもある。

つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。

そしてそれは、私が、当時の政治情勢を調べてみると、安井誠一郎、藤山愛一郎という二人の大物新人の当選を期するため、東京二区と同七区とで、〝弱そうな二人〟を落とそうという、陰謀をめぐらせた、としか、判断できないのである。

もしデマのネタモトを暴露していたら…

伊藤は、その遺書「秋霜烈日」の、冒頭部分(63・5・10付第五回)で、河井についてこう書いている。造船疑獄の部分だ。

《…それにもまして、河井信太郎主任検事との、捜査観の相違とでもいうべきもの、それと、判事出

身の佐藤藤佐(さとう・とうすけ)検事総長の人のよさに、相当な不安を抱いていたのである。

河井検事は、たしかに不世出の捜査検事だったと思う。氏の、事件を〝カチ割って〟前進する迫力は、だれも及ばなかったし、また彼の調べを受けて、自白しない被疑者はいなかった。

しかし、これが唯一の欠点、といってよいと思うが、氏は、法律家とはいえなかった。法律を解釈するにあたって、無意識で捜査官に有利に、曲げてしまう傾向が見られた。

…佐藤検事総長は、まことに人柄のよい方であったが、もともと、裁判官の出身であったため、捜査会議の欠点を、十分ご存知なく強気の意見に引きずられがちであった。

全国からの応援検事を加えた、三十人以上の検事が、捜査に従事したこの事件の、節目節目の捜査会議では、まず、河井主任検事の強気の意見が開陳され、地方からの応援検事を筆頭に、次々と、これに同調する意見が述べられる。

慎重な見解は、東京プロパーの検事から述べられるが、その意見は、しばしば総長によって、無視されてしまった。会議において、トップの者は、原則として、消極意見を述べて、吟味をさせるべし、というのが、検事の社会の常識なのだが。

K参院議員の処分をめぐって、証拠の評価が分かれ、その取り調べにあたった、Y検事自身が涙を流して、起訴はむりだと主張し、私も及ばずながらこれを支持したのだが、圧倒的に大きい強気の意見は、起訴すべしとした。裁判の結果は、無罪。今でも、あの涙は忘れられない》

これを読み通してみると、伊藤は、「捜査観の相違」として、八年先輩の河井批判をしている。Y検

事の涙も、〝強気の意見イコオル河井の意見〟の然らしむるところだ、と怒っている。

読売梁山泊の記者たち p.252-253 検察権の行使が政党内閣の恣意(しい)によって左右

読売梁山泊の記者たち p.252-253 《検察権は行政権に属する。指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件。今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えた》「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の痛烈な批判がうかがえる。
読売梁山泊の記者たち p.252-253 《検察権は行政権に属する。指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件。今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えた》「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の痛烈な批判がうかがえる。

これを読み通してみると、伊藤は、「捜査観の相違」として、八年先輩の河井批判をしている。Y検

事の涙も、〝強気の意見イコオル河井の意見〟の然らしむるところだ、と怒っている。

その造船疑獄の発端について、伊藤は、こう述べている。(5・9付第四回)

《検察権は、三権のうちの行政権に属する。だから、内閣がその行使について、国会に対して責任を負う。一方、検察権は、司法権と密接な関係にある。検察権の行使が、政党内閣の恣意(しい)によって、左右されることになれば、ひいては、司法権の作用が、ゆがめられることになる。

そこで、検察庁法は、具体的事件の処分に関する、法務大臣の指揮が実現されるか、どうかを、検事総長の判断にかからせたのである。多くの場合は、〝大物〟である検事総長と法務大臣との、話し合いによって解決するのだろうが、極端な場合、検事総長が職を賭して、大臣の指揮に反対する命令を、主任検事に下せば、大臣の意志は、無視されることになる。

法務大臣の検事総長に対する、具体的事件に関する指揮は、「指揮権発動」と、呼ばれる。歴代法務事務次官や、刑事局長の重要な使命の一つは、およそ、指揮権発動というような、事態が起きないように、事前に、十分の調整を行うこと、であるとされている。それにもかかわらず、指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件である。

この指揮権発動は、捜査が次第に核心に迫り、昭和二十九年四月二十一日、検事総長が時の与党自由党の幹事長・衆議院議員佐藤栄作氏を、収賄容疑で逮捕したいと、大臣に請訓したときに、犬養法務大臣によってなされた》

伊藤は、この続きの部分で、ふたたび、河井の〝強気捜査〟を批判する。

《佐藤氏についての逮捕理由は、公表されていないが、日本造船工業会の幹部から、造船助成法案の有利な修正などの請託を受け、その謝礼として、一千百万円を自由党に供与させたという、『第三者収賄』の事実であったと思う。

指揮権発動の後、この事実では、党に対する政治献金みたいなもので、佐藤氏が私腹をこやしたわけでもなく、迫力がない。

他に佐藤氏が、故人の預金口座に入れた口が、いくつかわかっており、中には、これまで名前のあがってこない、海運会社からの分もあったのだから、どうして、そっちで逮捕しようと、しなかったのだろう。

今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えたことにも、よるものではあるまいかなどと思ったものであった》

この第四回、第五回を読めば、順不同ながらも「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の、遺書らしい痛烈な批判が、うかがえる。

佐藤総長には、さらにもう一項がある。

《…佐藤総長は、当面、必要最小限の指図をしたら、パッとお辞めになるべきだった、と思っている。

当時の新聞が、最高検検事全員が、総長に「われわれは総長と進退をともにする。どうか、検察全体のことを考えて、隠忍自重していただきたい」と、申し入れたと報じたが、最高検検事ともあろうものが、筋の違ったことをするものだと、苦々しく思ったことであった。…》

読売梁山泊の記者たち p.254-255 GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗

読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。
読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。

この、伊藤のガセネタ流しが、朝日紙上で活字になった時、本田靖春は、その紙面の末尾に、談話をのせている。

《これ(不当逮捕)を書いた時、私は問題の記事は、おそらく誤報だろう、と思っていたが、T記者のネタ元とみられた、法務省の幹部が、なぜ、ガセネタをもらしたのか、がわからなかった。しかし、今回の秋霜烈日で馬場次官の右腕だったこの幹部を、あぶり出すために、ガセネタ流しが仕組まれたことを初めて知った。仕組んだ人間は、岸本派といえぬまでも、非馬場派の立場ではないか。
検察内部にあった、権力闘争の恐ろしさを改めて、感じさせられた》

本田は司法記者の経験がないので、多分、朝日記者に、この原稿を見せられて(あるいは、話を聞かされて)、動転したのではあるまいか。また、この「秋霜烈日」を、最初から読んでいなかったのであろう。

第四回、第五回の「造船疑獄と指揮権」の項を読んでいれば、「検察内部の権力闘争の恐ろしさ」とは、捉えられないからである。彼は、朝日記者の取材に対して〝売れッ子〟らしく、当たりさわりのない「権力闘争」と答えたのであろう。

ナゼか、といえば、「不当逮捕」のなかで本田は、造船疑獄から、売春汚職に至る間の検察に対して、「検察は政治に屈服し」と、書いているからである。

つまり、「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしているのであって、検察権は、行政権に属し、内閣が国会に対して、責任を負う、ということである。法務大臣、ひいては総理大臣の責任

のもとに、はじめて検察権の行使がある、ということである。

もし、法務大臣の指揮権に、検察として、検察権の行使に関して不満があるならば、検事総長は、スパッと辞任せよ。そして、次の検事総長もまた、改めて、請訓をして、これまた、指揮権を発動されたら、また辞任せよということだ。

こうして、検事総長の辞任が相次いだならば、もはや、主権者たる国民が、黙っていない、ということになる。

昭電事件から、造船疑獄にいたる六年ほどの間に、検察を代表しているかのような、河井検事の「法律家でない」ところから、いうなれば、検察が暴走した、ということだ。

それは、ひとえに、GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗して、〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった、ということである。

だからこそ、馬場、河井の影響力が、まったくなくなった時期の、ロッキード事件では田中、小佐野、児玉の三人が、いずれも、逮捕の憂き目を見ている。私は、これを、検察のバランス感覚とみている。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。