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赤い広場ー霞ヶ関 p.080-081 吉野松夫・元関東軍ハルビン特務機関員

赤い広場ー霞ヶ関 p.080-081 Matsuo Yoshino, the Harbin secret military agent of the Kwantung Army
赤い広場ー霞ヶ関 p.080-081 Matsuo Yoshino, the Harbin secret military ex-agent of the Kwantung Army

しかし、ラ事件に関する日米往復文書をみると、一月二十七日付アリソン大使の通報に対し岡崎外相は翌二十八日付で、実に完全な抗議の申入れを行っている。「厳重に貴大臣限りの極秘の情報」という条件付文書に対し、外相の返事は完璧なものであるから、これには当然事務当局が関係しており、しかも捜査当局も参画した形跡があるので、この異動が無関係とはいいきれないと思う。複雑怪奇な外務省高官たちではある。

この間の真相を村井氏は否定するが、日暮氏は知っていた。そして「アカハタ」はラ氏失踪が、村井―日暮―曾野の三角関係の謀略だと、先手でいっている。

四 志位自供書に残る唯一の疑問

「山本調書」にはさらにラ氏の供述として「吉野松夫」なる人物についての、詳細な活動状況が書かれてある。この吉野氏は前述のアカハタでは〝警察の手先〟として、激しい罵言を浴せられているのは、すでに紹介した通りである。

これは一体どうしたことであろうか。ラ事件に関連して、吉野氏の名前が公けにされたのは、アカハタについで、私が二回目だ。つまり、私が彼の名前を明らかにする以前に、アカハタが彼を敵陣営の人間として極めつけているということだ。しかし「山本調書」には、吉野松夫氏が如何なる人物を使用し、如何なる手段で、如何なる情報を入手して、そして、その情報をラ氏に提供していたかということが、ラ氏の任意の供述として記録されている。

このように、その情報原や獲得法などの詳細についてまで報告していたことについては、ラ氏は『その情報が如何に確度が高く、如何に経費を投じ、如何に努力をしたか、ということで、報酬を多額に要求しようとする伏線だと考えていた』と、吉野氏を批判しているという。

同氏は元関東軍ハルビン特務機関員で、白系露人工作を担当、チョウル白系開拓団の監督官ともいうべき形で副村長をしており、セミョーノフ将軍(白衛軍、日本側白系軍の軍司令官)の姪を妻にしていたといわれる。終戦時にはハルビンでソ連側に逮捕されたが、特務機関員なのにもかかわらずシベリヤ送りにもならずに、二十一年大連経由で引揚げてきた。もちろん、妻やセミョーノフ将軍は処刑されたことはいうまでもないことである。その後、露語に巧みなところから、日ソ通信社や旧朝連(朝鮮人連盟)に関係、二十七年には日ソ貿易商社進展実業の通訳として、樺太炭の積取りのため樺太へ出張したこともあるという人物である。

ラ氏の吉野氏に関する供述内容は、さる二十五年春ごろ、元ソ連代表部員ポポフ氏と歌舞伎座付近の某料理店ではじめてレポをし、以来ポポフ氏の帰国に際してラ氏に申送られて、ラ氏が失踪するまでの約四年間にわたって、月三―四万円の報酬で、①在日白系露人(戦後ソ連籍を取得した赤系も含む)情報、②米空軍関係情報、③日本側警察情報などを流していたという。そしてその情報原として義弟S氏(船員)、元ハルビン機関員H氏(ジョンソン基地勤務員)ら

の名前をあげていたという。

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 眼下の路地で口笛が鳴った

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. "Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)"
赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. “Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)”

ユーリは、はじめのうちには二、三人のソ連人と一緒にやって来たが、一年目頃からは、一人で車を飛ばして、連絡場所にやって来るようになった。

東京における、彼らソ連人の行動は、私にとってなかなか興味深いものであった。(中略)

二月三日の夕暮れどき、当時すでに幡ヶ谷のアパートに転居していた私は、二階の自室で節分の豆撤きしながら、何気なく窓を開けると、眼下の路地で口笛の鳴ったのを聞いた。

ピューッというソ連人独得のあの鋭い口笛だった。誰か連絡に来たのかも知れない、と咄嵯に考えて、私はオーバーを着込んで外へ出た。口笛のした方向に二、三間注意深く歩いて行くと、電柱の陰から一人の男が現われて、私に触れんばかりに近寄り、声を殺して冷たくいった。

『サヴェルシーチェ・サマウビーストヴォ!(自殺しろ)』

その男はそれだけいうと、そのまま甲州街道のほうに去ってしまった。

私はその瞬間、恐怖にとらわれて全身を硬ばらせた。が、その次には無性に癪にさわって、怒りの感情がこみ上ってくるのを覚えた。(中略)

二月四日の夜は都内の旅館に泊った。そして私の考えた結論、それは『私の運命を決めてゆくのはこの私自身だ』という平凡なことであった。五日の朝、私は東京警視庁の石段を登っていった。私の「独相撲」には終止符が打たれたのである。

この手記のうち間題となるのは、〝自殺せよ〟とささやいた男の件りである。ラ氏が失踪してからのち、彼の協力者であった志位氏のもとに、果して誰が何の目的で〝自殺せよ〟とささやく必要があるのであろうか。

抹殺する必要があるなら、ささやくよりも黙って殺すであろうし、脅かせば敵陣営内に逃げこむことは、その後の事実の通り明らかである。志位氏は私のこの疑間に対しても、『自分自身も何のため、このようにささやかれたか分らない』と答えて、その場の状況を、手記の通りに繰返すばかりであった。

捜査当局では、志位氏の供述によって、この〝ささやいた男〟を捜査した。志位氏は、この手記では「一人の男」とのみ書いているが、週刊読売には「一人の見知らぬ男―多分東洋人であったろう―」と書いているし、当局への供述では『最初のレポのジープの運転手だったような気もする』といっている。 そこで、当局では元ソ連代表部に関係のある人物すべてを網羅した、然るべきアルバムをみせて、一人一人の〝面通し〟をしたところ、『これではないか』と、彼が記憶を頼りに指摘した数人の人物は、いずれも当時は日本にいない人物だった。その結果、当局では志位氏の記憶が不正確なのか、或は故意に適当な人物の写真を示したのか、というようなアイマイな結論を出したが、当局もまたこの部分の信ぴょう性について、深い疑問を抱いたままでいる。

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 「仔豚は育ってきた!」

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”
赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”

ソ連の手口である。ラ氏の失綜は形式的には、アメリカの拉致である。だが、真相は謀略的亡命である。わざと拉致されたのだ。そして敵の手中に入ってから、味方の意図するような自

供をする。ひったくりという、アメリカの手口に、つけこんだのである。

諜報謀略の原則は、七割与えて十割取る、肉を切らせて骨を切る、と同じである。「宗谷岬に漂うソ連兵の死体」で述べた、死体謀略の逆手ともいうべき、〝生体謀略〟である。つまり死体の携行書類の代りに、生きて口でシャベるのである。しかも、十年もたってから、ラ氏が米国内で自由の身となれば、敵中に一拠点を設けられるということだ。

『ウーム、それならば一切の疑問が解決する』

アナリストは、この著想に思わず唸りながら、急いで日ソ双方の全権団名簿を取出してみつめた。

交渉地ロンドンの、駐英ソ連大使を兼ねるソ連全権はマリク氏である。マリク氏は終戦時の駐日大使で、スターリン調停を依頼して煮湯を飲ませた男である。当時の外相は重光現外相、当時の外務次官は松本全権。

ソ連随員のゲオルギー・パブリチェフ氏は、終戦時のハルビン総領事で、その謀略性には流石の関東軍特務機関も、手をあげさせられた男である。しかも、戦後は代表部員でずっと日本にいた。ソ連随員で通訳のアデルハエフ氏は、政治上級中尉で、戦前から二十二年まで代表部に勤務し、二十九年と三十年の二度にわたって、エカフェ代表として日本を訪れている。

そしてまた、日本随員の都倉氏は、パブリチェフ氏と同じように、終戦まではハルビン勤務、しかも、戦後は同じ東京にいた。

――何という、奇縁に連らなる人々ばかりだろうか!

――そして、そこへ、清川特派員がモスクワからロンドンへ来ていたとしたら……?

『仔豚は育ってきた!』

こればかりは氏名を明かにできないのだが、この〝当局のアナリスト〟は、こう叫んで立上っていた。

斎藤警察庁長官が、小坂質問に答えて『ラ事件の関係日本人は、六十数名いる』といった。また二十九年八月二十日付の毎日新聞によると、当時の小原法相は『近く第二次発表を行い、関係民間人二十数名の氏名を明らかにする』と、記者会見で語っているが、何故かこの発表は行われなかった。

もちろん、そのかげにはいろいろな政治的理由があろうが、小原法相のいう「二十数名」は丸十ヶ月後には斎藤長官のいう「六十数名」と、三倍にハネ上っている。依然として捜査が続けられていた証拠である。

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。