国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力
的にスラスラと一切を自供に及んだ。
上野の岩倉鉄道学校を卒業後、昭和十年に帝国電波会社に入り、十九年千葉の野戦重砲隊に召集され、続いて新京の関東軍固定通信隊司令部に転属、通信一等兵として無電技術を覚えた。
入ソしてからは、欧露マルシャンスク収容所にいたが、二十一年春に、〝モスクワから来た少佐〟に調べられた挙句、脅迫されてスパイ誓約書に署名した。
それから七月になって、モスクワ郊外にあるスパースクの特殊収容所に移された。ここは収容所というものの、実はスパイ学校で、各地から集められた連中が、無電、暗号、スパイなどの特殊技術を教えられるのだ。ここで約一年間、二十二年十月まで教育をうけた。
それから日本人将校と同道でハバロフスクに移され、病弱者として十二月三日舞鶴入港の朝嵐丸で帰国した。帰国の際、上野公園付近で、合言葉の男と連絡をとるように命ぜられた。
翌二十三年四月十七日、上野公園入口交番裏の石碑付近で、ソ連代表部員クリスタレフ氏とはじめて逢った。この男は無電技師だということだった。合言葉は不忍池のそばで、『この池には魚はいますか→戦時中はいましたが今はいません』というものだ。
それからは毎月一回、都内の各所でレポに逢い、無電機やら二、三万円の現金を受取った。レポは、三人のソ連人らしい男と日本人で、日本人として最初のレポは、二十四年三月から元駐ソ日本大使館付武官佐々木克己氏で、鹿地氏がレポになったのは二十六年五月からだった。
ところが二十四年春頃、東京駅前の郵船ビルに呼び出され、ソ連スパイとして追究をうけ遂に一切を自白して、逆スパイになることになった。それからは、レポの日時、人相、さらにソ連側から打電を命ぜられた暗号文などを、みんな米側に報告することになった。
二十六年十一月頃、米側から新しいレポとの連絡を報告するようにいわれ、鵠沼で逢うことを話したところ、そのレポ中に米側の係官がやって来てレポを逮捕してしまった。その後米側で写真をみせられ、その男がはじめて鹿地氏だと分った。
レポとの連絡方法は、指令された場所に行きレポと逢い、土中に埋められた送信用の暗号電文と現金を受取った。殆ど会話はしていない。都下北多摩郡へ移転してからは石神井公園や、自宅近くの稲荷神社脇の土中に暗号電文が埋められ、それは金属性のマッチ箱大の箱に入れてあった。
レンガがそこに置いてあれば、埋めてある知らせだった。こちらで受信したものはその代りに、箱へ入れて埋めていた。
さる六日(二十七年十二月)レンガは置いてあったが、暗号電文はなく、こちらが埋めて置いたのがそのままになっていた。そんなことは今までになく、自分が米側に協力していることが分ってしまったと思い、不安がつのり自首してきた。
この自供に基いて国警当局は、直ちに鵠沼をはじめ、都内十数カ所の現場検証を行った。そして、自供通りの現場をみて、自供は真実なりとの結論を下した。