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雑誌『キング』p.116中段 幻兵団の全貌 C氏の場合

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.116 中段 写真・日の丸引揚
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.116 中段 写真・日の丸引揚

でいるような男もいた。私は反動で、ナホトカでは毎日のように吊るしあげられていたが、誓約書のこともすぐに皆にしゃべってしまった。

三、C氏の場合(談話)

C氏(特に名を秘す、三十歳、元軍曹、大学卒、会社員、東京都、バルナウル地区より二十三年に復員)

迎えにきたジープ p.206-207 その命を自らの手で絶っている

迎えにきたジープ p.206-207 Even if I enumerate as I can think of it, more than 10 Soviet repatriates have abandoned their lives that should be happy! What the hell is going on!
迎えにきたジープ p.206-207 Even if I enumerate as I can think of it, more than 10 Soviet repatriates have abandoned their lives that should be happy! What the hell is going on!

二十五年四月六日、「徳田要請(徳田球一氏がスターリン首相に反動は帰さないで欲しいと要請したという問題)」の証人として、国会に喚問された菅季治通訳が、『人間バンザイ、真理バンザイ』を叫んで、三鷹駅付近で中央線電車に飛込自殺をとげたことがある。

なぜ菅通訳は自殺せねばならなかったのだろうか。菅氏は在ソ間の後半期は、極めて積極的な行動をとり、カラカンダ地区という特殊な地区の、政治講習会を主宰した日本側の最高責任者だった。そしてこの講習生は、教育の最後に一人ずつ「幻兵団」の命令を与えられ、彼はその場に通訳として立会っていた。

しかし帰途には、彼は日和見主義者として吊し上げを受けた。徳田問題が起きてからはその対策に腐心して、声明発表など作為的に行動し、遂に証言の信ぴょう性を疑われだしたのであった。菅氏もまた憐れな日本人の一人として死んでいったのであった。

そしてまた、「吉村隊」事件の証人渡辺広太郎元軍曹が、二十四年五月十日に縊死した。更に同年九月二十九日、栃木県芳賀郡の川又雄四郎さんが引揚列車から転落死し、十一月二十六日深更、宮崎県宮崎郡佐土原町の恒吉好文さんが舞鶴入港前夜に入水した。

年が変った二十五年には、関東軍暗号班員松浦九州男元少佐が自殺し、埼玉県所沢市の小暮喜三さんが飛込自殺し、また、元関東庁内務部長中野四郎さんが入水し、高知市の元満鉄錦州

鉄道局露語通訳甲藤忠臣さんが服毒している。

思いつくままに列挙しても、十指に余るソ連引揚者が、幸多かるべきその命を、自らの手で絶っているではないか!

これは一体どういうことなのか!

最後の事件記者 p.158-159 ナホトカ天皇との対面

最後の事件記者 p.158-159 デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特ダネですよ」と、予約をした。
最後の事件記者 p.158-159 デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特ダネですよ」と、予約をした。

ナホトカ天皇との対面

津村委員長は、党内において、①徳田要請問題の否定的資料を集めることを拒否し、肯定資料はあるけれども、否定資料はないという発言を、数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ(註、二十九年来日のソ連スケート団の監督、ラストボロフ帰国命令の護送者)を通じて、ソ連側へ呈出していたが、それが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見を数々の偏向ありと指摘し、その弟睦夫をボスとして批判した、という三点から肅正された事実が明らかになってきた。

しかも、その吊しあげは、袴田の命令をうけた市民対策部の久留義蔵が、津村らナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝ら)を、三月九日から十三日までの五日間、産別会館に軟禁して、徹底的に吊しあげを行い、そのあげくに、党活動停止の処分にしたのであった。

私は、そこまで調べ終ってから、翌日の朝刊のトップに書こうと考えた。社を出る時、デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特

ダネですよ」と、予約をした。取材のしめくくりは、当の本人にインタヴューすることだ。私は、津村を世田谷のはずれの千歳烏山引揚者寮におとずれた。

薄汚い四帖半たらずの部屋の中には、ロープを張りめぐらして、破れかかった色とりどりのオシメが、生乾きのままでブラ下っていた。部屋の中央には、センべイ布団が一枚敷かれて、半年ぐらいの良く肥った可愛いい男の子が、スヤスヤと寝入っている。

妻はもう小一時間もの間、黙ったままで主人と私との会話を聞いていた。妻というのが追放の一つの理由になっている、「婦人問題」の人物、元陸軍看護婦でソ連に抑留され、ナホトカの民主グループで働らいていた須藤ケイ子であった。

私は躍りあがりそうな胸を静めながら、先程、口をつぐんでしまった津村の顔をみつめて、その喉元まできている次の言葉を待っていた。

しばらくの間、沈黙がつづいている。彼はやがて、キッと顔をあげて私を見た。そして、ただ一言を呟やくと、また下を向いた。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』と。

彼は、さきほどから、私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く 意外であった。