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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨のおちつき場所でもあろうか

正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。

だが、この総会で、一つ解せないのは、人事が全く取りあげられなかったことである。どうも福井社長と栗田との間に、ある〝密約〟があって、今期は人事をイジらず、粉飾の後始末を福井

にやらせる、という感じである。亨の副社長もまた一息ついた、というところだ。

報知、日本テレ、タワーが駄目……

さて、日テレでの仕事がなくなったとなると、亨の行く道は、ジャイアンツのオーナーばかりである。読売巨人軍はどうなるか。

亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。同時に、川上との不仲を伝えて、巨人軍に変動がおきるという説もでてくる。しかし、プロ野球のオーナーと、株式会社の社長の経営的成果とは、同一には論じられまい。

読売巨人軍をもっているのは、読売興業株式会社で、野球部と新聞部がある(注。新聞部は、九州読売を経営している)。代表取締役は、正力の他に、務台、山岡重孝(読売専務)、亨の四人であった。亨オーナーというのは、読売興業の代取としてである。

亨と川上の仲は、いわゆる悪感情とか憎悪とかではない。川上の人柄のせいもあって、しかも、川上の正力依存の度が強かったことも加わり、決して、親しくはないが、不仲でもない。だから

正力が死んでも、亨が川上を追い出すといったような、〝異変〟がおこる可能性は全くない。

次期監督の立場におかれているのは、長島と藤田。しかし、藤田は個人的に夫人の系累問題で人望がなく、長島に水をあけられている。ところが、長島はまた、まだまだ現役プレイヤーとしての効率がよいから、川上の後任というには、ワン・ポイントあるとみられている。つまり、川上引退の時期には、暫定監督に、巨人出身者をもってきて、長島の時代になる、という観測が、おおむね順当のようである。

それよりも、正力の〝忠臣〟鈴木竜二セ・リーグ会長の後任如何が、巨人のあり方に変動をきたすという。つまり、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・スズキだ、というのである。それは、読売本社でもいえることだが、ポスト・ムタイと同じである。

セ・リーグの中で、巨人が日程その他すべての点で優遇されているのは、もはや、大正力の余光や亨オーナーの〝功績〟ではなくて、鈴木の正力への忠節だけだ、とみられている。その鈴木が、最近体力的に会長がムリになってきている、といわれている。

巨人のあげる収益は、最近はやや鈍化してきているとはいえ、年間一億円以上。やはり読売新聞にとっても、ドル箱である。

亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところで、しかも、かつてのように、父正力のモノ真似の

カミナリなども落とさず、「ア、それは議題として残そう」といったように、協調精神も芽生えてきたというから、まずは、巨人軍と川上野球も安泰、そして、亨オーナーも安泰と、ここばかりはメデタシメデタシというところ。亨のおちつき場所でもあろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 「私は共産党員でした」という書き出し

正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートした。報知新聞労組と報知印刷労組は常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」と経営陣をおびやかしてきたが、足並みが乱れてきた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートした。報知新聞労組と報知印刷労組は常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」と経営陣をおびやかしてきたが、足並みが乱れてきた。

亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところで、しかも、かつてのように、父正力のモノ真似の

カミナリなども落とさず、「ア、それは議題として残そう」といったように、協調精神も芽生えてきたというから、まずは、巨人軍と川上野球も安泰、そして、亨オーナーも安泰と、ここばかりはメデタシメデタシというところ。亨のおちつき場所でもあろうか。

報知新聞はどうなっているであろうか。事態の悪化に驚いた正力が、前述したように、選挙出馬を断念すると同時に、亨社長を外して、後事を務台に委ねざるを得なかったのであるが、務台は〝血族結婚〟を避けて、はじめて岡本武雄(元サンケイ常務)という〝新しい血〟を、正力コンツェルンの中に導入した。その報知の現況はどうか。

昭和四十四年十一月二十日、あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートしたのである。報知新聞労組と報知印刷労組とは、その創設以来、常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」という威かくを背景にして、経営陣をおびやかしつづけてきたのであったが、務台のりだしのカンフル以来一年足らずにして、共闘ははじめて崩れ、新聞労組は年末のボーナス闘争、印刷労組は配転拒否闘争と、足並みが乱れてきた。

もう一月ほど前のこと。報知関係者のもとに、一通のタイプ文書が郵送されてきた。報知印刷労組、元執行委員長、近藤仁という署名で、「皆さんに訴えます」と題したそのプリントは、「私は共産党員でした」という書き出しにはじまる。

「昭和四十四年九月二十一日、報知印刷労組第八回定期大会で、私を会場から『出て行け!』という決議がなされ、彼らは暴力をもって、私をムリヤリに会場から出そうとして、会場入口のトビラに私をはさみつけ、右半身に四週間の怪我を受けました。……私が入社したのは昭和三十五年五月、当時は組合のクの字も知らないズブのシロウトでした。……その後、彼と交際しているうち、同君から共産党に入党をすすめられました。ずいぶん、ちゅうちょしましたけれど、当時の私としては、人生を正しく生きるためには、共産党に入党し、活発な党活動をする以外にないと信じ、正式に入党したわけです。

……例えば、一七二日におよんだ春闘を、われわれ組合員は、一人々々が全力をあげて闘いました。その結果、われわれが得たものはなんであったか、いまさら、私が説明するまでもないと思います。

また春闘中、ほとんど日常的といってよいほどに慢性化したストライキ。果して、会社がどれほどの打撃を受けたというのでしょうか。むしろ、ストライキをあのように安易に、しかも無原則的に打ってきたために、一人一人の組合員が、どのような影響をうけてきたか。労働組合員として、最も基本的な問題に目を閉じているとしか思われない指導部の根源には、見すごすわけにはいかない決定的な誤まりが、かくされているといわざるを得ないのであります。

さらにこの春闘中、組合運動の名において終始行なわれた激しい個人攻撃。このまま、党の指

導に従って、組合運動をつづけてゆくならば、組合はどういうことになっていくのか。組合員の生活が真に守られるのかどうか。私は長い間、真剣に考え悩みぬいてまいりましたが、どうしても党の指導を肯定することができず、私はついに離党を決意したのです……

正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 長谷川〝出陣〟代取副社長兼編集局長

正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 母屋の報知新聞はどうか。報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 母屋の報知新聞はどうか。報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。

さらにこの春闘中、組合運動の名において終始行なわれた激しい個人攻撃。このまま、党の指

導に従って、組合運動をつづけてゆくならば、組合はどういうことになっていくのか。組合員の生活が真に守られるのかどうか。私は長い間、真剣に考え悩みぬいてまいりましたが、どうしても党の指導を肯定することができず、私はついに離党を決意したのです……

共産党の革命路線実現のために、組合員一人一人の生活が犠牲にされてもよいのだろうか。会社の一つや二つ、潰れてもよいという彼らの指導方針をウ呑みにして闘った、三星電機の組合員の悲惨な結末。また、英雄的に闘ったといわれる山陽労組が、いまどんな状態にあるか。それだけを思い起すだけで十分ではありませんか」

この近藤を中心として、二十六名の第二組合が生れたのである。岡本社長の印刷労組は、大正力の死とは全く関係なく、その後に、異変を示しはじめた。

母屋の報知新聞はどうか。務台直系の社長菅尾の補佐に、読売から長谷川がでていったことは前述した。代取副社長兼編集局長であるが、社会部出身、記者としても十分に有能な上に、読売で審議室長として労担の経験もある。記者時代は労働班長もやったという自信は、この破格の〝出陣〟に、なおのこと長谷川を張り切らせるのであろうか。八月末の異動で、務台のもとに挨拶にきた彼の顔は、晴れ晴れと満足気であった。

工場を別会社として分離している報知では、もちろん、編集が絶対的に中心である。ところが、

歴代の編集局長は、正力のサル真似ワンマン亨のもとで、その背後にある大正力をみつめながら、部下の方を振り向いてもみようとしなかった。そのため、報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。

部長クラスは、上からは叱りつけられ、下からは突きあげられ、読売へ逃げかえるか、読売出身でないものは、老後を考えて〝貯蓄〟に熱中するしかなかったのである。有名な話では、ある部長などは強度のノイローゼに陥り、社に上衣を脱いだまま失踪し、警察に捜索願まで出したところ、名古屋で発見されたという実例までがあった。報知で一番ミジメな人種は、部長クラスだったのである。

そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。局内はニワカに変り出した。

在来の意味からすると、〝ニコポン〟というのは、無能なる上司が、部下統卒のためにニコニコして近づき、肩をポンと叩いて、「君、今夜メシでも食おうじゃないか」と、いうことであった。

ところが、長谷川は決して無能ではない。無能ではないどころか、私も社会部の先輩として、敬意を払うに値するだけの実力のある記者であった。ところが彼は、社会部長を経たのち、次第に一般行政へと方向を転じ、彼の実力を惜しむ編集部内からは、「実ッツあん=通称=は、どうして編集局長として、筆政を目指さないのか」という声も出たほどである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 菅尾、岡本、長谷川のトリオ

正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩。正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、〝新生報知〟を築く。
正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩。正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、〝新生報知〟を築く。

長谷川は、決して怒りをあらわさない男である。いつも、ニコニコしている。すくなくとも、社会部次長以後に、彼の怒り顔をみた者はあるまい。そして、ポンと肩を叩いて、お茶に誘うのである。記者としての能力と実力とがありながら、なぜ、ニコポンを信条とするのかはわからないが、ある意味では、〝異常な出世欲〟であるかもしれない。

つまり、報知編集局にとっては、従来、見たことのない、人種の違う局長が出現したのである。まず、狼狽したのが、部長連中であった。上と下との断絶。その中間に位するがゆえに、仕事はサボれ、役得すらもあったのである。そこに、代取副社長という〝実権〟すらも持った、変り種の局長である。たちまち、上下の風通しがよくなりはじめたから、部長連は〝風にそよぐ葦〟である。

報知建て直しの、菅尾—岡本コンビは、ともかく、さきの近藤の文書にもある通り、組合に何も与えずに、一七二日の春闘に堪え抜いた。もちろん、与えはしなかったが、会社は休刊という深傷も負いはしたろう。これは、正力が生きている時の事実である。そして、正力からの解放感を背に、編集のわかる長谷川というトリオを組んだ。長谷川の評価は、まだこれからではあるが、これまた、新風をもたらしたことは否めない。

また、新聞と印刷の共闘打破、印刷労組の第二組合結成と、かつての報知では考えられもしなかった、金字塔が早くも打ちたてられたという事実は、これまた、報知も静かに変りつつあると

いうことだ。しかも、その変化は、〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩とみるべきであろう。

正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、私は、菅尾、岡本、長谷川のトリオが、今や、〝新生報知〟を築く、基礎の担い手だとみている。

竹内四郎の時代は、娯楽紙「報知」を、刷れば刷るだけ売れた時代ではあった。だが、最近では、競馬、競輪ファンたちは、より専門化してきて、一般スポーツ紙を離れ、それぞれの専門紙読者に移りつつあるため、スポーツ紙の部数は、横バイになりつつある。そのためにも、報知の経営は、さらにキビしいものとなるだろう。そこにこそ、新しい報知へと、脱皮の可能性があるのである。

ただ〝新しい報知〟への唯一の懸念は、菅尾、岡本のコンビに、大正力の死後の影響が、どんな形で投影してくるであろうか、ということである。今まで、報知の労担であった岡本の、組合工作は〝金〟であった。第二組合ができた時、第一組合は罵った。〝岡本の金で……〟と。第二もやり返した。〝オ前らだって、もらってるじゃないか〟と。この工作で、二人はどうなるか?

さて、こうしてみてくると、正力コンツェルンの有力メンバーである、日本テレビも報知新聞

も、どうやら、〝正力のモノ〟ではなくなりつつあるようである。ことに、日テレは公開会社だから、なおのことである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「正力コーナー」は〝死に欲〟の現れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。

さて、こうしてみてくると、正力コンツェルンの有力メンバーである、日本テレビも報知新聞

も、どうやら、〝正力のモノ〟ではなくなりつつあるようである。ことに、日テレは公開会社だから、なおのことである。

これらは、いずれも〝跡目争い〟などといった、低い次元の人事葛藤の揚げ句というのではなくて、報道機関であって、公共性企業だから、電波や紙面の〝私物化〟には、限度があるということである。

と同時に、大正力という偉人は、偉人であるだけに、ワンマンであり、自己を過信するあまり、他人を信頼しなさすぎた。その結果として、「組織」を無視しすぎたのである。組織のないところには、人材も後継者も育たない。実子の亨でさえ、父親を畏敬すること他人以上であった、ということでも、それがうなずけよう。

「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。

私は、四十年にそれを批判して書いた。

「昭和十八年の私の入社当時、編集局の中央に立ったまま、叱咤激励する正力の姿は五十九歳、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

国会議員に打って出、原子力大臣となり、勲一等を飾った正力は、読売の発展にすべてを使い果したヌケガラで、〝死に欲〟のミイラ同然になってしまったのである」と。

「正力コーナー」は、こうした、〝死に欲〟の現れとしか考えられない。この傾向は、衆院選出馬のころから現れだし、〝新聞とテレビと野球の先駆者、正力松太郎〟を賛美する、新聞四頁の社報号外となって、全国の読売への折りこみ配布からはじめられた。

当時、選挙違反担当の検事が、苦笑していったものだ。「これは、明らかに違反文書だけれども、読売の全国版に折りこまれているのでは、公判での立証が困難だ。違反もこれだけ大きなスケールでやられると、手が出ないね」と。

やがて、北陸の小都市高岡に、正力の出身地ということで、読売会館が建設され、北陸支社が設けられた。支社はすべて、正力の選挙事務所であり、読売記者とは名のみにして、北陸の寒村で、〝読売ランド〟の宣伝をして歩かねばならないのであった。

北陸支社から、大物支社長自らが電話器を握りしめ、一字一句の間違いがあってはならじと、送稿してくる〝ニュース〟とは、幾度か、当時の読売紙面を飾っているので、読者は御承知であろう。その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。

「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 武道館の竣功こそ最後の仕事

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。
「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

カンダカジチョウカドノカンブツヤノカチグリの新版である。これなんと、正力の銅像碑文の全文掲載であった。

あまりのことに、抵抗は本社社会部から起った。本社詰めの遊軍記者が十一時をすぎても出勤してこないのである。早く出てくると、ランド取材を命じられるからである。職制のデスク一人が幾つもの電話のベルに追い廻される破目になった。前記の〝大づくし〟記事を、省略して簡単な原稿にまとめ、それを整理部に廻した、記者とデスクは叱られた。たまりかねた社会部の組合執行委員の長済功記者が、「正力コーナー」を、正式に組合の議題としてとりあげた。

この経過は、さきに述べた通りであるが、こうして、異状な執着をみせた「衆議院議員」として、果して、正力は何をしたのであろうか。

原子力大臣として、初期の原子力行政に、その〝創意の人〟として、才能を振るったこととされているが、〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、私をはじめ大方にもピンとこないであろう。

それよりも、代議士としての正力の功績を探るならば、議員武道連盟を母胎として、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

そして、そこが、おのれの葬儀の場所になるであろうとは、正力も、そこまでは考えなかったであろうが、かつて、新宿西大久保に〝屋根つき球場〟建設を考え、その敷地を転用して、正力

タワーを発想しながら、ついに果さずして天寿を完うしたことを想えば、武道館の竣功こそ、最後の仕事だったのではあるまいか。議員として、もって瞑すべしである。

そして、武道館はまた、かつて読売東亜部におり、その後、長く浪人していた三浦英夫を常務として、経営的にも安定しているようである。巨人軍といい、武道館といい、大正力の死の影は、スポーツ関係では、何もないというのは、日本テレビ、報知と対比して、何と皮肉なことであろうか。

大正力の中の〝父親〟

最後に残ったものは、問題の「よみうりランド」である。生前の正力が、その建設を目して、〝私の悲願〟とまで叫ばせ、日テレに粉飾決算を強い、巨人軍の金田の契約金を分割にし、果ては、読売本社の経営を危うくするほどにまで、コンツェルン内部の現金という現金をかき集めて注ぎこみながら育てたのが、この「よみうりランド」であった。

しかも、「正力コーナー」として、その新聞人としての姿勢を糾弾されたのも、老いの一徹の〝ランド可愛いさ〟からであった。だが、この親の心は、子の誰にもわかってもらえなかった。