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編集長ひとり語り第17回 クリントンの隣りに立つ首脳は?

編集長ひとり語り第17回 クリントンの隣りに立つ首脳は? 平成11年(1999)6月26日 画像は三田和夫70歳(中央 古希の誕生日パーティ1991.06.11)
編集長ひとり語り第17回 クリントンの隣りに立つ首脳は? 平成11年(1999)6月26日 画像は三田和夫70歳(中央 古希の誕生日パーティ1991.06.11)

■□■クリントンの隣りに立つ首脳は?■□■第17回■□■ 平成11年(1999)6月26日

G8の各国首脳の記念写真が、新聞に掲載された。やはり、いつも中心にいるのは、アメリカのクリントン大統領である。我がオブチ君は、パフォーマンスのチャンスなのに、左から二人目。ノッポにはさまれて、見劣りがするのである。エリツィンは、最後の七時間だけ出席して、モテモテだったみたいだがカメラが動いて各国首脳の表情をみせる。クリントンは仏頂面していて、あまりゴキゲンではない。オブチ君は、クリントンの表情を気にしているような感じだった。

超大国の両雄だった米ソも、ソ連解体、ロシア不況とあって、アメリカだけが、全世界に口をはさみ、手を出している。ロシアは、コソボに勝手に小部隊を進駐させたり、小手先のパフォーマンスしかやれない実情にあることはいうまでもない。となると、中国はどうしたか、とあたりを見廻さざるを得ない。G9になって、中国が加われば、江沢民は堂々と、クリントンの隣りに並んで、記念写真に納まるだろう。それでもオブチ君は、キット左端か右端かに立つことになるだろう。決して、クリントンの両側を、江沢民と並んで占める、ということはあり得ない。

北朝鮮がミサイルの照準を合わせている都市のひとつに、熊本市があるというジョークがある。加藤清正が朝鮮出兵時に多数の朝鮮人捕虜を連れ帰ったウラミだというのだ。そこで、私はこんな幻想を描く。

周辺事態もガイドライン法もどうでもいいんだ。コソボ空襲を終えたアメリカが、余勢を駈って北朝鮮を空爆する。湾岸戦争でフセインをヤれなかった失敗から、今度は、金正日を狙い撃ちだ。たちまち、日本は北朝鮮のミサイルを浴び、人が死に、火事で焼け、大損害を受けるが、アメリカのやることだからオブチ君は「北爆を支持する」とコメントを出す。1、2カ月後、北朝鮮は消滅し、朝鮮半島は統一されてしまう。

サテ、そこでである。ロシアと中国はどう動くかである。ロシアは金がないし、軍の士気も低く、ポーズだけは、コソボと同じように、アメリカ批判をくり返すだろうが、実力行使はできない。第一、核がどうなっているかも、明らかではない。

北朝鮮の発射したミサイルは、韓国と日本に対してだけである。あるだけブッ放して、あとは焦土作戦。金王朝の滅亡である。そして中国は、どう出るか。コソボの中国大使館誤爆事件も、誤爆じゃない、狙ってやったのだろう、と、釈然とはしていないほどだから、ピョンヤンでまた大使館をやられ、死者も出たとなると、中国世論はおおいに盛り上がって…。もちろん、中国とアメリカが直接戦火を交えるということはあり得ないが、ロシアに代わって、中国がアメリカと対峙する超大国の立場を占めることになるだろう。二十一世紀は、まず米中対峙という形で展開してゆくだろう。

その時、ニッポンはどうなる。どうするのか? 平成11年(1999)6月26日

追記:来たる10月1日は中国の国慶節ですので、軍事パレードも行われるだろうとみられています。この前後の1週間ほど北京、上海と取材旅行に行く予定です。もし私の旅に同行されたい方がおられたら、メールにてご連絡ください。

迎えにきたジープ p.172-173 鹿地問題〝英文の怪文書〟

迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. "I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car."
迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. “I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car.”

さらにそれから一ヶ月後、一月二十九日の発信で、簡単に近況を報じて、『多分近日中に帰れると思います』という、前回と同じような書簡が、東京上落合の夫人宛配達されたが、それっきり音沙汰もなく九ヶ月という月日が経過した。

ところが、二十七年の総選挙も近づいた九月二十四日、大阪の国際新聞など一部の新聞に、〝英文の怪文書〟なるものが届けられて、一躍鹿地問題は、ジャーナリズムの表面に浮び上って来た。その全文は次の通りである。

作家並びに政治評論家として著名な鹿地亘氏は、一九五一年十一月二十五日以来、行方不明となっている。彼は手術をうけた後、神奈川県の鎌倉市に近い鵠沼で療養中であった。失踪当時は町の近在を、二十分間散歩する位にまで回復していた。そして彼は散歩の途中に行方不明になったのである。

しかし、本当に行方不明になったのではない。彼はワシントンに直結し、現在第一ホテルに宿泊中の米陸軍情報将校のG大佐に誘拐されたのだ。G大佐は中共のスパイという嫌疑で鹿地氏を捕えたが、彼は種々の反証をあげてこれを否認した。(中略)

鹿地氏は密告者によるねつ造された訴えで逮捕されたのである。密告者は、戦後アメリカから帰国した日本人牧師である。(中略)

逮捕後数週間、鹿地氏は非人道的で残忍な拷問を受けた。そして、一度野蛮な取扱いに抗議するために、便所でクレゾール液を呑んで自殺を企てたこともあった。

中共スパイとしての証拠を挙げることに失敗したので、G大佐は本年五月、遂に鹿地氏を釈放しようとした。

その時偶々日本に赴任して来たマーフィ大使は、鹿地氏の処置方法をG大佐に指示した。鹿地氏をアメリカのスパイとして日本共産党に入党さすべく、説得することになったのである。

この戦術転換の後、彼は〝賓客〟として取扱われるようになった。しかし嘆願や脅迫にも拘らず、彼はこれまでの凡ゆる提案を拒絶して来た。(下略)

夫人への手紙には、何者かに強制された作為が感じられ、ヘタクソな英文で綴った怪文書にも何か不自然さが感じられる。

ではこの間の消息を、鹿地氏自身の口から聞いてみることにしよう。

私は昨年十一月二十五日の夕食後の七時過ぎ、散歩中に逮捕された。場所は江ノ島鵠沼駅から藤沢に向って二百メートル位歩いたところで、偶々人通りがなかったが、前方から一台の乗用車が来て、ヘッドライトに眼がくらんだ一瞬、五、六人の制、私服の軍人に、ものも言わずに殴りつけられた。どういうことだか穏かに話してくれ、といったが英語で怒鳴られ、みぞおちを拳固で殴られ、手錠をはめられた上、白い布で眼かくしをされ自動車に担ぎこまれた。

車中二人の軍人に挾まれ、一時間以上かかって何処かへ運ばれた。その後で、名前を聞かれたが、知らないというと、棒のようなもので膝を殴りつけられた。何度もこれを繰り返された。

迎えにきたジープ p.174-175 アメリカのキャノン機関の仕業

迎えにきたジープ p.174-175 The two car abduction cases are undoubtedly the work of the Canon Unit of US. Only the Canon Unit can exert such a brute force and villainous gangster behavior.
迎えにきたジープ p.174-175 The two car abduction cases are undoubtedly the work of the Canon Unit of US. Only the Canon Unit can exert such a brute force and villainous gangster behavior.

その後横浜の病院に連れて行かれて、レントゲンを撮った。二十九日夜、目隠しされて川崎の別荘風の家に監禁された。鍵をかけた一室に閉ぢこめられ、べットに足かせをかけられたままの状態で、毎日米側から自分達の手先になれ、然らずんば死を選べと迫られ、精も魂も尽き果てて、十二月二日未明シャンデリアに帯をかけて自殺を図ったが果さず、それからクレゾールを呑んだがこれも失敗、これを見て飯運びの山田君が同情して、外部との連絡を取ってくれた(衆議院法務委員会における鹿地氏証言)

〝怪文書〟に衝撃をうけた池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に夫君の搜索願を藤沢市署に提出し、市署では家出人としての搜索を始めたので、ここではじめて一流紙の報道するところとなった。それから一ヶ月近く経った十二月七日、鹿地氏が突然自宅に姿を現わして、大騷ぎとなったわけである。

この二つの怪自動車は間違いなくアメリカのキャノン機関の仕業である。これほど強引でデタラメな、ギャング振りを発揮できるのはキャノン機関以外にはないのだ。

キャノン機関の所属するCIAの前身が、戦時中重慶にあったOSSであったことはすでに述べた通りであるが、この第二次大戦中の各国の秘密機関は、それぞれの特色を持っていた。

OSSの得意とするのは謀略と逆スパイ工作であるといわれている。

逆スパイとスパイの逆用とは、全く違うことである。常識的に使われる二重スパイという言葉も、厳密にいうと間違っている。三橋氏が二重スパイだといわれるが、これは誤りで、彼はソ連のスパイだったのが、逆用されてアメリカのスパイになったのである。

二重スパイというのは、二つの陣営に全く同じ比重で接触しているものをいう。第一次大戦以後の各国の秘密機関は、諜報、防諜両面で飛躍的な進歩を遂げたため、スパイというのはその末端で必ず敵側と接触を持っていなければならなくなった。

つまり、大時代的な、個人プレイだけでは何もスパイできなくなり、組織の力が大きくなったのである。そのため、各国の諜報線は必らずどこかでクロスしており、七割与えて十割奪う形態をとるようになってきた。いいかえれば、すべてがいわゆる二重スパイなのである。ただ、その力関係がどちらの陣営に大きいか、どの陣営により奉仕しているか、ということで、そのスパイは比重の大なる陣営のスパイといわれるのである。

だから三橋氏の場合はアメリカのスパイであり、鹿地氏もまた、アメリカのスパイである。正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイのことであり、複スパイとは、スパイを監察するスパイのことである。逆スパイとスパイの逆用との違いは、その取扱法の上でハッキリ現れている。