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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 草柳大蔵と佐藤信

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

著者の経歴紹介は、読者にその文章に判断の根拠を与えるもの、でなければならない。フリーの新聞記者という職業がない日本のことだから、社名のない「新聞記者」という表現は、事実をまげてお提灯を書くための考慮であろうか。朝日新聞とは、このような群小〝記者〟に、朝日コンプレックスを抱かせる新聞なのである。

封建制に守られる〝大朝日〟

佐藤信「朝日新聞の内幕」「新聞を批判する」の二著は、これまた、私に非常な興味を抱かせた。社歴十八年、昭和四十年に調査部員に配転された、社会部、学芸部のベテラン記者だった著者は、これを〝侮辱〟と判断して、辞表を郵送して退社した。

だが、会ってみると、彼は依然として〝朝日人〟であり、その一流意識には、いささかの乱れもない。口を極めて、朝日新聞の先輩や同僚を罵るその著書の内容からは、想像もできないことである。朝日新聞の紙面について語る彼の印象は、私にとっては、〝現役の大朝日 記者〟であった。何故かならば、「紙面の勝負」に生きつづけてきた新聞記者であるならば、社の如何を問わ

ずに、「紙面」に対する批判は、常に徹底していたからだ。

群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙はその著書の極端に対照的な内容と相俟って、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

朝日は〝村山家の朝日〟であった。この点は、読売が〝正力の読売〟であるのと、全く同じである。これに比べて、毎日は強力な資本家を持たず、常に、サラリーマン重役によって、右往左往してきたという、体質の差があった。

戦後の朝日と読売の共通点はそればかりではないのだ。長谷部忠・馬場恒吾の代理社長の時期を持ち、それぞれにストライキを経験した。だが、毎日にはストによるお家騒動の体験がない。

けれども、朝日と読売とが、体質的に違う点は、朝日には、編集、業務を通じて、村山派と反村山派があるが、読売には、正力派直系と非直系派とはあっても、反正力派というのがないということである。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 「朝日文化人」(酒井寅吉)の推せん文

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

こうして、全社員九千四百三十三名(昭和四十二年十一月名簿)に及ぶ、大集団の人間関係は、極めて複雑なものとなってくるのである。何故、複雑怪奇になってくるかといえば、東京閥、大阪閥(これは毎日とて同じである。西から東にきた新聞の持つ宿命である。発祥の地と、政治経済の中心との対立である)、それに加えて、硬派新聞(政経中心)の、硬派、軟派閥の対立があり、さらに加えて、反村山派という〝民族問題〟があるのだった。

単一民族の単一国家である日本には、米国のような民族問題の悩みがない。読売がそれである。正力一本である。毎日は、東西の対立こそあれ、朝日のように、反村山という、根源的な対立拮抗の要因がないので、権力の推移が明快単純で、暗さがない。

かつて、読売が立正佼成会に対して、糾弾のキャンペーンを、展開したことがあった。昭和三十一年のことである。このキャンペーンは、見るべき成果をあげることなく、長沼妙佼教祖の過去が、宿場町の娼婦であったということで、お茶を濁して転進せざるを得なかったのである。

この時の教訓は、宗教団体というのは、外部からの圧力には、内部問題はタナあげにして団結し、徹底して組織自体を守るということであった。歴史にまつまでもなく、宗教団体は、内部崩壊以外では倒れない。つまり、読売のキャンペーンが、偶発的にスタートしたもので、十分な内

偵と準備とをしていなかったから、内部に腐敗がありながら、いわば佼成会に〝団結の勝利〟を謳わせる結果となったのであった。

朝日の強さもここにある。長い社の歴史の間に培われた、「大朝日」意識は、もはや信仰に近い形で、全朝日新聞社員の中に、根を下ろし切っているのである。伝統である。

それだから、いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「朝日文化人」(酒井寅吉)という本の推せん文を書くに当って、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

一体、この信仰に近い形にまで高められ、定着した「大朝日」意識とは何であろうか。やはり、昨日、今日の成り上りとは違った、伝統と実績の然らしむるところであろう。細川隆元(注。大正十二年入社、政治部長、ニューヨーク支局長を経て、終戦時の東京編集局長、昭和二十二年、編集局参与で立候補のため退社。現社友)によれば、大正十二年四月入社組が、日本の新聞の最初の試験入社組で、約二百五十人の受験者から十五人が採用されたという。そして、こののち試験入社組は、「練習生」と呼ばれて、朝日の人脈の中心となるのだ。「月給は普通採用の者より十円も多く(注。七十五円)、社内でもあまりコキ使ってはならぬといわれている。君たちが朝日の幹部になるんだからネといわれた」という。(「朝日新聞外史」)

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 練習生制度が「大朝日」意識の根幹

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。

大正十二年の新入社員月給が七十五円。このベラボウな高給が、やはり、朝日の伝統となってゆくのである。私が、読売に入社した昭和十八年十月。戦前、最後の試験入社組、採用と同時に、見習社員である。朝日の練習生に相当しよう。試験によらない入社組は、準社員と呼ばれていた。軍隊の階級でいえば、見習士官と準士官の差である。

その時の私の月給が、俸給六十五円、物価手当二十円の計八十五円。貯金八円、税三円五十銭のほか、健保や積立金をひかれて、手取り七十円三十銭である。大正十二年から二十年後の読売の初任給が、朝日と同じだということである。

朝日の、この練習生の精神教育というのが、まさに日本陸軍の士官学校と同じである。幹部候補生を教育する予備士官学校は、あくまで下級幹部の養成である。現役志願をしても少佐どまりで、やっと中堅幹部だ。だから幹部候補生は、一般兵と全く同じ生活、教育訓練を経てくるので、残飯喰いから馬グソ拾い、ビンタからホーホケキョまで体験して学校に進む。

だが、大将、元帥へと進む士官学校では、エリート少年だけを集めて、汚濁にもませることなく、徹底した指導階級の育成をめざしている。三代将軍家光の宣言「予は生れながらの将軍にして」と、全く同じである。朝日の「練習生」制度は、士官学校の士官候補生制度と、軌を同じゅうしていよう。大正十二年から、ほぼ半世紀も続いてきた、この練習生制度が、「大朝日」意識の根幹である。

細川隆元の大正十二年で二百五十人に十五人、佐藤信の昭和二十三年で二百人に一人(同期七人採用)という競争率もまた、当時の俊秀を集めた、士官学校、兵学校の競争率に匹敵するであろう。ちなみに、昭和十八年の読売は五百人に十人採用であった。大正十二年の朝日と、俸給、競争率がほぼ同じである。

だが、軍隊には下士官、兵という〝汚れ役〟がいるが、軍隊の戦闘にも似た、記者の取材戦争で、練習生の将校ばかりでは、一体、誰が兵隊の〝汚れ役〟をやるのか?

ある練習生記者の一人がいう。「そのために、コドモさん(注。給仕あがりの記者)がいるんだ」

草柳大蔵はいう。「待遇制度のような措置をつくり、社員として出世するコースのほかに、記者として完成するコースを設けていることだ。いわば、朝日の記者街道は〝二車線〟になっている」(現代王国論)

ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。練習生以外の社員である。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。

正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 醜い人間関係と身分制度

正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。

〝面喰いの朝日〟という言葉もある。「緒方竹虎は一面貴族的な風格もあり、いわゆる朝日新聞を対外的に代表するのに、打ってつけの風貌と風格を備えていた」(細川隆元)ことが理由で、美土路昌一が明治四十一年入社、緒方が三年おくれての後輩だが、社内での序列では、反対に緒方が美土路より三年ぶり先んじていたといわれている。「緒方にくらぶれば、美土路の短軀な風貌は、決して見栄えがしなかった」(細川隆元)だからである。

現役である限り、外部から、練習生と非練習生との差別は判らない。私も、多くの記者クラブで、朝日記者たちと付き合ったが、この差別を知らなかった。もちろん、社員名簿をみても特記されていない。

しかし彼らの内側では、この階級社会が厳存しているのである。練習生の誰も彼れもが、私の知っている朝日記者の一人一人について、即座に、何年組か、練習生か、それ以外かを、打てば響くように答えてくれる。彼らの関心の深さを物語っていよう。

そして、給仕出身記者の現職を名簿でみる時、草柳大蔵流に「朝日の記者街道は〝二車線〟」などと、美化した表現を用いて、現実をおおいかくすことに、憤りさえ感じたのだ。そしてまた、〝面喰いの朝日〟は練習生であることの要件の一つに、端正な、知的な〝ジャーナリストら

しい〟容貌が求められているのを知った。朝日社員で造作が悪いのは、練習生でないと知るべきであろう。細川隆元の意識にさえ、「朝日を代表するに相応わしい顔」という、貴族趣味がひそんでいる。

あてはめてみるならば、東京と大阪、硬派と軟派、村山派と反対派、練習生と無資格者の対立が錯綜複雑化しているのだから、〝病めるアメリカ〟以上である。外部からはうかがうこともできない、この醜い人間関係は、その身分制度と相俟って、内部では血みどろな権力闘争を繰りひろげている。「新聞社とても、所詮人間の集りであり、嫉視、反発、陰謀、抗争、謀略、憎み合い、相互扶助、忠誠、愛社、親和、美談、悲喜劇、ありとあらゆる人間性露出の場であることに変りがない」(細川隆元)と、社友さえも認める。

外部から眺める限り、朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。