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最後の事件記者 p.066-067 新聞とは冷酷無残なり

最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
最後の事件記者 p.066-067 ページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)

からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいか分らない。怒るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく、反古として持ちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのは、この時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった。

ビンタ教育

このような教育をうけた記憶は、軍隊時代にも一度ある。北支は河南省、温県という旧黄河沿いの一寒村に甲種幹部候補生として、保定への入学を控えていたころだった。

この温県は大変水の悪い所で、飲料水は村にたった一つの井戸だけ、他の井戸は雑用水にしか使えなかった。そこで、隊にも炊事の前に二つのドラムカンがあって、一つが飲料水、他が雑用水として汲み置いてあった。

ある日、演習が終って、班長の洗面水を汲むため、私は戦友より先にかけつけた。雑用水の蓋をとってみると、南無三、カラッぽである。飲料水はとみると、満々と入っている。ところがヒシャクが見えない。兵は拙速を尊ぶのだ。あたりを見廻したが、幸い人影がない。ままよとばかりに、私は洗面器を飲み水のドラムカンに突込み、班長のもとにかけつけた。

その夜である。ローソクの灯で自習をしていた私は、下士官室へ呼ばれた。すでに消燈はすぎて、夜も大分ふけていた。私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九才ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より

数年も若いのだ。

最後の事件記者 p.068-069 『下腹に力を入れ、歯を喰いしばれ!』

最後の事件記者 p.068-069 十九か二十才のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。
最後の事件記者 p.068-069 十九か二十才のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。

私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九才ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より

数年も若いのだ。

『三田候補生。下腹に力を入れ、両脚を開け。眼を閉じ、歯を喰いしばれ! 何で呼ばれたか判っているか。人が見ている、見ていない、それによって、行動が変ってよいか』

『………』

『お前はやがて将校になる兵隊だ。将校とは皇軍の根幹だ。心にやましくして、部下を率いられると思うか』

『心の弱い者には、班長はこのような教育はしない。心の強い者には、強い教育が必要なんだ!』

飯田伍長は激しい言葉でそう叫ぶと、身構えた。カチャと、帯革のサンカン(バックルというか、尾錠というか)が鳴った。私は眼をつむったまま、これは大変だゾと心で身構えた。眼を傾けないようにギュッとつぶり、ホオの肉をちぢめて、口の中を歯で切らないように力を入れた。

ビシリーッ、あの幅広の兵隊バンドが、私の下アゴに喰い入ると、その先のサンカンが反対側の首すぢにビシッと当る。班長がバンドを引ッ張ると、よろめく私は、たちまち次の一撃を喰って立止る。ビシリーッ、ビシリーッ。

私の耳と、眼を、故意にさけているその叩き方に、班長の〝愛情〟が感じられて、私は冷静に

眼を見開いた。背の高い私に、班長は躍り上るような感じで、帯革を振う。だが、その両眼からは、大粒の涙がさんさんと流れ出ているではないか。

『三田、覚えていろ! 強い奴には強い教育が必要なンだゾォ!』

十九か二十才のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。——この男も、南方に転戦して連隊と一緒に、あの焔のような生命を消してしまったと聞いている。

この松木次長には、ただの一度だけれども、教官らしく教えられたことがある。兵器の部分輸送の包装紙として、古新聞の供出運動が行われた。私はその記事の中で、「一世帯あたり三十枚の割当も、〝古新聞も兵器だ〟の合言葉に応じて……」と書いたものである。

第一夕刊のその記事には、〝古新聞も兵器だ〟という見出しが使われていた。インクの香も快よい刷り上りの夕刊をみて、松木次長はいった。

『見出しに使える言葉を、原稿の前文に入れるのだ。それが原稿の優劣さ』と。

ニコリともしないこの一言が、松木次長の教育らしくない教育の中での、たった一度だけの教育らしい教育だった。

最後の事件記者 p.070-071 「大本営報道部で会おうな」

最後の事件記者 p.070-071 今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。
最後の事件記者 p.070-071 今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。

恵まれた再出発

ソ連軍を迎えて

八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、すでに満ソ国境に布陣していた師団主力へ追及できず、新京に止まっていた。すでにソ軍は満領へ侵入を開始していたので、私たちの大隊は新京防衛部隊に編入された。

八月十四日の命令で、明十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、各隊はそれぞれ徹夜で陣地構築に努めていた。私の隊は、全満随一の文化設備を誇った錦ヶ丘高女に宿営し、日本間の作法室で、金ビョウブに抹茶茶碗でハンゴウ飯を食べたりして、最後の日本気分を味ったのち、タコツボに潜んだ。

湧き水が冷たく尻をぬらす。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束

手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。ジッと前方の闇をすかしてみる。地に耳をつけて、キャタピラの轟音を聞きとろうとする。何と死への時間の空しく退屈だったことか。

読売同期の秀才、大阪読売社会部次長の青木照夫とは、東京駅で手を握り合って、「大本営報道部で会おうな」と別れた。身に軍服をまとおうとも、新聞記者でいたかったのである。私としても、再び社へ帰って、鉛筆を握れる日があろうとは、期待もしてみなかったことである。

短かいながらも、新聞記者になって、精一杯働らいたのだから、もう思い残すことはなかった。あとは、軍人として祖国のために死んでゆけることを、わずかに誇りとしなければならないことが、残されているだけだ。

ジッと回想にふける。南の空はまだ暗い。銃声一つ、しわぶき一つ聞えない静寂だ。この台地一帯に散らばった、三田小隊五十四名が、それぞれに、考えにふけっているのだろう。咋夜、錦ヶ丘高女の教員室で、電話帖をめくって、読売新京支局を探し出した。

一言、別れの言葉を本社に、そして母親に托したかった。もしかしたら、社会部の先輩が支局長でいるかも知れぬ。受話器を耳にあてて、胸をドキドキさせて待っていたが、リーン、リーン

と、空しくコーリングが鳴るだけ。時間に余裕があれば、馬を飛ばしてでも行ってみたかった。

最後の事件記者 p.072-073 やがて正午の玉音放送だった。

最後の事件記者 p.072-073 学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じている」とあるではないか。
最後の事件記者 p.072-073 学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じている」とあるではないか。

一言、別れの言葉を本社に、そして母親に托したかった。もしかしたら、社会部の先輩が支局長でいるかも知れぬ。受話器を耳にあてて、胸をドキドキさせて待っていたが、リーン、リーン

と、空しくコーリングが鳴るだけ。時間に余裕があれば、馬を飛ばしてでも行ってみたかった。

教員窒に一人女学生がいた。その日、学校で行われる篤志看護婦試験をうけようと、やってきた子だった。去り難いのか、女の先生と二人で何やら話し合っていた。

『兵隊さんは、お国どちらですか』

先生の声に、私は受話器をおいた。

『東京です。読売新聞にいたんです』

『マア、東京⁉ あたくしも!』

女学生がハズンだ声を出した。聞けば、巣鴨の十文字高女から、昨秋転校してきたのだという。五中生の私と、話が佳境に入ろうとした時、伝令が迎えにきた。

『大隊長殿のもとに準士官以上集合です』

あの女学生はどうしたかナ。そういえば、オレは駄菓子の袋に残すべき、署名原稿をとうとう書かなかった。

「読売新聞シベリヤ特派員」

——徳間の奴!

その年の早春、まだ見習士官で駐屯地の古年次兵の教官をしていた時、時局解説というのを週一度やっていた。ネタは、一週間おくれで、一週間ぶりが一度にとどく、華北新報という新聞だった。

ランプの中隊事務室で、学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。

一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じている」とあるではないか。つづいて、「○○にて徳間特派員発」の文字!

——どうして奴は兵隊に行かなかったのだろうか。あんなに良い身体をしていて!

彼はやはり読売の同期生だった。私は口惜しくて、その夜はねむれなかった。軍服を着ている自分がうらめしかった。どうして、私は記者として社へ残れなかったのだろうか。社へ残った徳間は、もう署名原稿を書いているではないか。

朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。

昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。ベストを尽した試合が、敗戦に

終った感じだった。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。

最後の事件記者 p.074-075 「またペンが握れる」

最後の事件記者 p.074-075 たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。
最後の事件記者 p.074-075 たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。

昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。ベストを尽した試合が、敗戦に

終った感じだった。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。

部隊は武装解除されて、シベリアヘと送られた。だが、私は「読売新聞シベリア特派員」だったのである。出発前には、錦ヶ丘高女の女学生の家をたずねたり、日本人家屋から日用日露会話という、ポケットブックを探しだしてくるほど、張切っていたのである。

『三田さんは読売本社なら東京ですな』

『エエ、東京で逢いましょう』

『短気を起さず、身体に気をつけてな』

その人は、今、池袋で法律書を出版している、大学書房の石見栄吉氏だった。私がたとえシベリアで倒れても、消息はこれで、東京へと伝わろう。私は明るく別れをつげた。

私は日露会話の本で、輸送間に警戒のソ連兵にロシア語を習った。沿線の風景をはじめ、見聞するすべてを頭の中ヘメモした。

ロシア語はたちまち上達して、取材は八方へとひろげられた。作業へ出ると、警戒兵を買収して、一緒に炭坑長や現場監督の家へも遊びに行った。労働者の家庭生活をみるためである。身分

は、たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

「またペンが握れる」

こうして丸二年、私は不屈の記者魂を土産に持って、再び社に帰ってきた。第二次争議が終ったばかりの読売には、同期十名のうち半分はいなくなっていた。つまり兵隊に行かなかった連中は、すべて、第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまっていた。迎えてくれたのは東京社会部の労働班長金口進一人だけだった。

去っていったのは、北海道の国鉄職場離脱斗争を指揮した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。その中、連絡のとれているのは、アサヒ芸能社長の徳間だけだ。 私の仕えた初代社会部長小川清も去り、宮本太郎次長はアカハタ紙へ転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知新聞社長)が社会部長に、森村正平次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋のことだ。

最後の事件記者 p.076-077 『ウン、つまらんね』

最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。
最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

『何か書くかい? 書けるかい?』

『エー、もちろん、書かせて下さい』

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。

『ウン、つまらんね』

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。

『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一

枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記

本社記者 三田和夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

最後の事件記者 p.078-079 彼らには粗衣もなかった

最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。
最後の事件記者 p.078-079 そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。

そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という、極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チエレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。

日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内で、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。

雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女も、みな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働らいていた。クツ下はバルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。

「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働らかないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。

私の作業隊の監督は、一家六人暮しであったが、父親が炭坑の監督、長女(一六)がハッパの火薬かつぎ、長男(一三)が馬方と、三人が炭坑で働らき、日に三・六キロのパンをもらい(一・二キロ宛)、母親と次男(一〇)次女(八)とも六人で、日に一・六キロのパンを食べ、二キロのパンはバザールで売って生活を立てていた。彼らの生活は食うことで一ぱいであった。

最後の事件記者 p.080-081 人間による搾取のない国

最後の事件記者 p.080-081 富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。
最後の事件記者 p.080-081 富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。

食うためには働らかねばならない。ここから彼らの勤労観は出発する。働らくよろこびなどおろか、作業の固定しているものなどは、ひたすら八時間の経過を待ちこがれ、歩合のものは労力を最小限に惜しむ。

ソホーズ(国営農場)コルホーズ(集団農場)は雑草のはびこるにまかせ、種芋を八トンまいても収穫が五トンしかないという事実が起きるが、住宅付属地として私有を許された自分の畑は、一本の草もなく豊かな稔りをみせる。憲法によって享有されている「労働の権利」は、「労働の義務」となって重たくのしかかっていた。

富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ、貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。「人間による人間の搾取のない国」で、一方は肥え太って美服をまとい、ラジオを備え、ミシンを買い、高い程度の生活をしているが、片方では「教育の権利」すら放棄して、食うことに追われている。

          ×    ×    ×

四十九種族を包容するこの国には、ロシア語を話せない国民が沢山いる。私は入ソの車中、満州で拾ったロシア語の本で勉強したおかげで、警戒兵をだまして四、五軒の家庭にも行き、多く

のソ連人と話し合うことができた。彼らは私の片言のロシア語を聞いて、何年間日本でロシア語を習ったかとたずね、シベリアで習ったといっても本気にしない。

二十二、三才の学校出が、技師と呼ばれて別世界の人間のように尊敬されている。子供たちも学校へ行かないものが多い。八年生の歴史の教科書をみると、秀吉の木版のさしえがあって、朝鮮征伐のことが出ていたので、誰かと聞くと、日本の昔のゲロイ(英雄)だと答えたが、日本の帝国主義的侵略だと教えている。

女の軍医上級中尉に、地図を描いて千島列島を示したところ、フィリピンかといった。国内警備隊の地区司令官が盲腸炎になって、収容所内の病棟に入院し、日本軍医に執刀を求めるのも当然であろう。

機械類および自動車はすべて米国製で、ソ連製品はあってもほとんど動いていない。自転車や自動車を指し、真顔で「日本にこんな機械があるか」という質問を受けたことは、一度や二度ではなかった。

大きな炭坑町でありながら、小さな図書室とラジオが一つあるだけで、文化設備などもほとんどなく、満州からもってきたポータブルが一台、警戒兵の兵舎で、毎日「アメアメフレフレ」と

「モシモシカメヨ」をうたっているだけで、児童劇場など欧露の大都市のことだろうか。

最後の事件記者 p.082-083 「スターリン・プリカザール」

最後の事件記者 p.082-083 愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。
最後の事件記者 p.082-083 愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。

大きな炭坑町でありながら、小さな図書室とラジオが一つあるだけで、文化設備などもほとんどなく、満州からもってきたポータブルが一台、警戒兵の兵舎で、毎日「アメアメフレフレ」と

「モシモシカメヨ」をうたっているだけで、児童劇場など欧露の大都市のことだろうか。

ソ連の言葉に、「八時間労働、八時間睡眠、八時間オーチェレジ(買物行列)」というのがある。この三番目のオーチェレジは、イバーチ(性の遊戯)あるいはクーシャチ(食べもの)と、訂正されねばならない。それほど、この二つの問題が大きく浮び上っていた。ソ連人はすぐスパーチ(眠り)といって、手枕の格好をする。身を横たえる寝台一つに過ぎない住いは、一室に夫婦者、独身者、親子連れと雑居し、夫は零時から八時の深夜作業に行き、妻は八時より十六時の作業にという生活の食い違いに、ますます性道徳は乱れ、小さな子供までが、平気で性に関する言葉を放っている。

正当なる住民たちは、何も知らないでただ生きている。たのしい生活を、人間らしい生活を希求するまでに、彼らの知識はひらかれていない。こうして、愚昧な労働大衆は、レーニンの像を立て、スターリンの絵を飾り、NKVD(秘密警察)の銃口を背に、五ヵ年計画へ追いまくられている。

「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)の一言で、一切が解決される。〝言論の自由〟を与えられ、戦後第三年にいたるも、民需生産を抹殺している現政権の下に、人類の平和

と幸福のシムボルという赤旗を掲げながら……

          ×    ×    ×

最近、ソ連では人類愛的な見地から、死刑を廃止して二十五年の矯正(強制?)労役に服させることになったと報じられた。やがて収容所の糧秣係をしていた軍属が、糧秣を一般人に横流ししていたのが発党して、逃亡した。

芋畑に小銃を持つ番人がいる位に、ものを盗むことは重罪である。その軍属が捕えられた時に、ソ連主計大尉に「なぜこんなに刑罰が重いのか」とたずねたところ、彼は「重罰を課して再び前者の轍を踏ませないためである」と答えた。だが、数ヵ月後に新しい糧秣係が再び逃亡した。

ここで二つの解釈が下される。一つは重罪の危険をおかしてまでも、やらなければ食って行けないことであり、他の一つは、悪いことをやらなければ損なくらい、組織制度に欠陥のあることである。後者は二年間の各種作業場で知ったことだが、労働の量と質とを査定するところに、原因がひそんでいる。

一トン積のトロ台数で計算される採炭量は台数の計算係を買収することによって、自由に作業成績を向上し得る。収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

最後の事件記者 p.084-085 「アメリカはすばらしい」

最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…
最後の事件記者 p.084-085 帝政時代のクラーク(富農)の老人は、ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら…

収賄と贈賄は活発に行われ、上司も部下も、自らの腹が痛むわけでもなく

国家のをゴマ化すのであるから黙認する場合が多い。

記録上で完成されねばならない仕事も、事実は未完成なため仕事は延長され「失業のない国」の理想のみ実現されている。

死刑囚まで働らかねばならないシベリアこそ、失業のない国の宝庫である。独ソ戦で独軍の捕虜となり、祖国戦勝の基を築いた二百万と称する勇敢な兵士たちは、米軍に接収されて、母国帰還と同時にシベリアに送られてしまった。

被占領地区で独軍に協力したという理由で、数多くの女子供が同様に送られてきている。また革命の時、現政権に好意をよせなかった人々も、囚人もみな五ヵ年計画によるシベリア開発に挺身しているが、彼らは何を感じ何を想っているだろうか。

          ×    ×    ×

帝政時代のクラーク(富農)の老人は、

『ツアーリのいた時は、生活もたのしかったし、食物にもこんなに不自由はしなかった。日本もミカドがいなくなったら、同じ目にあうからお前たちは可哀想だ』

と、帝政の昔をなつかしがり、独ソ戦の光栄ある捕虜の若者は、

『アメリカはすばらしい。うまい食べ物がたくさんあるし、よい服をくれたし、作業は楽だし、ほんとうにアメリカはよい国だ』

首に十字架を下げたウクライナの女は、

『私の夫はソ連兵に殺された。私の子供はどこかに連れさられた』と。

彼らは私とほんとうに二人切りの時に、語ってくれたのだった。彼らは知っている。身廻りのどこにいるかもしれない、おそろしいNKVDの銃口を!

元気な若者は、真剣に北部シベリアから、アラスカヘ出るアメリカヘの逃亡を考えて、私を誘ったこともあった。ソ連側から放送される米ソ戦の危機は、全シベリア住民の関心をたかめているが、彼らはいう。「その時は銃をすてて投降するサ」と。

シベリアの親米反ソの胎動は、NKVDの黒い幕のかげで起りつつあるが、スターリンの恐怖独裁政治は、まだしっかりとその幕を押えている。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日 本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

最後の事件記者 p.086-087 「悪質な反ソ宣伝だ」と

最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日

本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

反動読売の反動記者

もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、 数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかったようである。

私のこの署名処女作品は、その日の記事審査日報で、こんな風にほめてくれたのだ。

「内容はこの方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上でシベリアの一部分だけの面であるが、しかし限定されているだけに内容が詳しく、かつ新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では読ませる紙面となった」

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、記者会見を行い、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明を行うほどの反響をまき起したのだった。

やがて、サツ廻りとして、上野署、浅草署を中心に、あの一帯を担当した私は、上野駅に到着する引揚列車に注目し、出迎えの老母や愛児にみむきもせず、代々木の日共党本部を訪問しようとする愛情のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を、ハッキリと押されてしまったのである。

だが、このレッテルは必らずしも当っていない。当時のニュースの焦点は、日共だったのである。シベリア印象記も、はじめに書いた抑留記が、森村次長によって、ボツにされてから、それでは今、何がニュースの焦点なのかを考えたのだ。

いや、考えたのではない。新聞記者としての第六感が、戦後の日本に帰ってきて、まだ数日しか経ってない私に、〝コレダ!〟と教えてくれたのであった。そして、生れたシベリア印象記である。それが、キスレンコ声明などで反響を呼び起したのであった。私は、反動記者ではなく、〝ニュースの鬼〟だったのである。

かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムヘ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。 私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。

最後の事件記者 p.088-089 学生仲間は戦死し、女は嫁に行き

最後の事件記者 p.088-089 彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。
最後の事件記者 p.088-089 彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。

私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。それが、ニュースである限りにおいては、それこそ、体当りで突っこんでいった。私を、反動記者と攻撃する左翼ジャーナリズムが、私の書いた、反政府もしくは反米的な記事を、今度はその左翼系紙が「何月何日付の読売によれば」と、デマ、ウソと攻撃した記者の記事を、そのまま全面的な信頼のもとに、幾度か引用しているではないか。

恵まれた再出発

この最初の署名記事の、何にもましての反響は、この記事の結ぶえにしで、私と妻とが相逢ったのであった。

私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。

彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。その老母の傍らで、心配そうに、マ

ユをひそめている若い娘、その人が彼の妹だと紹介された。和子といった。

社に復職した私は、当然、また社会部へともどった。いくらかずつか、ずっと続いていたサラリーをためて、私が再び着ることはあるまいと、兵隊に征く前に、全部質屋にブチこんで飲んでしまった背広を、私の母が全部請出していてくれた。

幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。

恵まれた再出発に、私はすっかり気負いたって、エライ新聞記者になりたいと願っていた。社の同期生はタッタ一人。そして学生仲間たちは、多く戦死し、女は嫁に行き、仕事に熱中する以外に、私には、興味を引かれる何ものもなかったのだった。

最後の事件記者 p.090-091 シベリア印象記の結ぶ恋

最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。
最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。

サツ廻り記者

印象記の結ぶ恋

当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。

深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。

長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、

引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起るのに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、 調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。

そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。

私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

最後の事件記者 p.092-093 当時の上野は犯罪の巣窟

最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。
最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。

その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、紆余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。   

彼女の家に泊めてもらったことがある。何人か各社の記者も一緒だ。そして、夜中に彼女の部屋をのぞくと、彼女のスケ(情婦)という可愛らしい十七、八の娘と抱き合ってねていた。女同志の妖し気な情事が、どんなに激しいかを知って驚いたのもそのころのことだ。

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

最後の事件記者 p.094-095 七十八万円を貯金していた

最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…
最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ

に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

M紙の記者が、そのことをゴシップ欄で書いたものだから、サア大変。彼女はしばしば襲われるようになった。身体につけてもっていると思うのか、営業中にまでグレン隊が飛びかかるのだ。

私と朝日の矢田喜美雄記者とが、人権問題だといって、M紙の記者を怒った。そして、相談したあげく、更生できるのならば、一石二鳥というので、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取ったのである。

矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが、普通の家庭ならば大変である。彼女は神妙に国立の奥にある矢田家に暮していたが、やがて一月もたとうというころ、お礼の書置を残して失踪した。再び上野に現れた彼女は、それから間もなく、北海道の商人で、定期的に上京する男の、東京ワイフに納ってしまった。

どうして彼女は、矢田家をとび出したのだろうか。私たちは矢田記者に聞いてみた。

『つまり、麻薬の禁断状態と同じらしいね。はじめの間は、遠慮して我慢していたのだが、やは

りやり切れなくなったらしい』

オカマの和ちゃん。彼女などはオカマといいながら、大変な美人であった。ある日、読売の婦人記者がオカマをみたいというので、上野を案内したことがある。途中で、和ちゃんに出会ったので、一緒に連れて、明るいレストランで三人でお茶を飲んだ。外に出て別れてから、婦人記者に「あれが、女形あがり、女形くずれじゃないよ。和ちゃんて子だ」彼女はエッと叫んで、信じ切れなかったらしい。

上野駅で、後から「隊長ドノ!」と呼ぶものがある。振り返ってみると、シベリアで一緒に苦労した旧部下の一人だ。聞いてみると、女とバクチで身を持ちくずし、高橋ドヤに転がり込んで、上野駅でショバ屋をやっているという。これもヒロポンだ。

『カタギになりたい』という彼の希望に、私は家へ連れてきた。といっても六帖の下宿住い だ。一晩泊めてから、都の民生局へ交渉して、引揚者寮へ入れてやった。やはり、軍隊友逹の佃煮屋さんに頼んで、その魚市場の売店の売り子にしてもらったが、彼も一月ほどで失踪してしま った。

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

最後の事件記者 p.096-097 ピカリと光るネタを毎日一本

最後の事件記者 p.096-097 読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であった
最後の事件記者 p.096-097 読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であった

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

若い巡査の恋人をもつ、あんまりラシカラザル、パン助。彼女の結婚できない悩みを訴えられて、その三帖の部屋で夜を明かしたりした。警官の妻はパン助経歴があると不適とされて、上司が結婚を認めないし、結婚するなら退職しろと迫られる。

文章のケイコ

こんな、ノガミの住人たちのことを書いていたら、それこそキリがない。こうして、社会の最下層の、しかも、どちらかといえば法律をくぐっているカゲの人たちの、生活や意見も知り、警察の事件というものを学んでゆくのである。

もちろん、警察官たちとも親しくなる。これがニュース・ソースである。若い刑事もやがては昇任し、記者がヴェテランになってゆくころには、彼らも重要な地位を占めてくるのである。

私は文章のケイコにもと思って、サツ廻りの間中、毎日必らず一本の「いずみ」を提稿した。

「いずみ」というのは、社会面の一番下にある、小さなゴシップ欄である。この欄では、どんな大きな話も冗文は許されない。それこそ、サンショは小粒でも、あるいは寸鉄ともいうべき、文

章が要求される。

そして、この欄には一本百円の取材費がついている。「いずみ」には、それらしいニュース・ヴァリューがある。これがなければ、どんな小話を持ってきてもダメである。

デカたちは、大事件のニュース・ヴァリューは、やはり判る。しかし、「いずみ」のそれは判りっこないのだ。だから、このネタを探すとなると、デカたちとの雑談しかない。その雑談の中で、ピカリと光るネタ、これを毎日一本みつけるということは、確かに大変な努力である。

しかも、折角、提稿しても、よそからもっと面白いネタがきていればボツだ。同じ程度なら、文章で採否がきまる。それこそ、原稿の練習にはもってこいの場である。

私がこの「いずみ」を送稿すると、読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。そして最後は、「大きな原稿も書けよ」だった。しかし、私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必らず記事審査委の日報でほめられていた。

新聞記者の能力は、取材力と表現力とが車の両輪のようなものだと、前に述べた。だが、現実の新聞記者で、そのような能力のある人というは、二、三割がいいところだ。

最後の事件記者 p.098-099 原稿が書けない奴が多い

最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。
最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

昔の記者は分業であった。着物を尻端しょりにしたのか、ハンテン、モモ引で、鳥打帽子の〝探訪〟が取材してくると、社に待ち構えている〝戯作者〟が、矢立の筆を取って、探訪の話を聞きながら、サラサラと美文調にまとめるのだ。記者がタネ取りとさげすまれた時代だ。

これで、果して、新聞は真実を伝え得るだろうか。当然、このような状態は打破されなければならない。しかし、私の先輩たちにも、このような表現力か取材力を欠いた人たちがいた。「何某さんが、原稿書いたのを見たことがあるかい?」後輩たちのこんなニクマレ口が自然に出てくるのだ。

メッセンジャー記者?

そして、それは現在にも引きつがれている。どんな能力も、日頃の錬磨なしにはのび得ない。取材力も表現力も、月月火水木金金あるのみである。だが、今の記者諸君の多くは、それを怠っている。その理由は、(そんな努力をしたって)ひき合わない、ということである。

実際に、今はひきあわないことは確かである。社会秩序は安定し、動乱はのぞむべくもない。動乱の時こそ、社会部ダネが労せずして転がっているからであろう。

如何に新聞記者に、原稿が書けない奴が多いか、ということは、週刊誌はじめ、記者がサイドワークの原稿を書き得る雑誌の、編集者が一番良く知っているに違いない。

さきごろ、四、五人のサツ廻りの記者たちと一パイのビールをのんだ。「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、一人を除いて皆イヤだという。そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

また、ある事件を調べようと思って、その警察に出かけていったことがある。折よく、その署の担当記者に出会ったので、まず彼に聞いてみると、彼は知らない。すると彼は他社の記者から取材しようとした。

ところが、その記者も他社の記者のメモを借りて、それで社へ送稿したとみえて、その記者も知らない。やむなくその記者は、私を連れて、捜査主任のもとへ行ったが、その捜査主任の名前もよく知らない始末だ。サツ廻りが捜査主任と、オースという仲でなくて、何のサツ廻りであろうか。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力 も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

最後の事件記者 p.100-101 私はフト、〝何故〟と感じた

最後の事件記者 p.100-101 尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れるよ。
最後の事件記者 p.100-101 尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れるよ。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力

も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

サンデー毎日の特別号というのがある。話に聞くと、あの毎月の号を、企画会議で何々特集号と決ると、社会部のその関係の記者がより集って、請負制のような形で原稿をかくのだという。そのやり方はともかくとして、毎日の記者たちがそのため、取材から執筆まで、〆切に追われて苦しんでいるのをみると、記者の訓練にはよいことだと感じていた。どんなマージャン好きも、その時には手を出さないほどだからだ。

何故、何故、何故、

私はこうして、イズミで文章のケイ古をすると同時に、そのネタ探しで取材力を養っていた。上野を持つ他社の記者たちとは極めて仲良く遊んでいても、一たん仕事となると全く変った。今のサツ廻りが、クラブを設け、麻雀や花札に遊び呆け、幹事が次長の発表を聞いてきて、各社へ流すというやり方など、余程のゴミでないとやらなかった。

尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れる

よ。雑誌原稿を書くなら、あとに残るもの、あとでまとめて本にできるようなものを書けよ」と。

私は筆の荒れるのを警戒して、カストリの中でも、エロなどの変なものは書かなかった。また、あとに残るものをと心がけた。辻本次長は、また、「新聞記者ッてのは、疑うことがまず第一だ」とも教えてくれた。この〝疑うこと〟とは、旺盛な取材欲のことだ。ニュートンがりんごの落ちるのをみて、〝疑った〟ような、素朴な疑問の意味だった。ドリス・デイの「新聞学教授」ならば、何故、何故、何故、という、執ような疑問のことである。

その成功の例がある。夕刊のない時代だったので、もう十一時ごろであったろうか、私はいつものコースで上野署へやってきた。

署の玄関を入りかけて、私はフト、〝何故〟と感じた。署の前には、いつもならば、アメリカ払下げの、汚らしい大型ジープが停っているはずなのに、その日は立派な乗用車が二台もいる。それもピカピカにみがかれ、運転手が待っている。 何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。

最後の事件記者 p.102-103 「上野で日銀関係の事件です」

最後の事件記者 p.102-103 私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?
最後の事件記者 p.102-103 私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?

何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。

『いい車ですね。これ何というの?』

『ハイ、ビュイックです。もう古いんですよ。三十八年ですから…』

『ヘエ、こんな車にのるのは、余ッ程エライ人なんですネ』

『エエ、輸送課長サンです』

『輸送課長ッて、国鉄の?』

『イエ、日銀です』

『あ、そうか。いい車だな』

私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?

『お早う』

何気なく次席警部に挨拶したが、あまり反応はない。あまりあわてないところをみると、列車ギャングではなさそうだ。署内の各係をずっと歩いてみると、経済係の部屋が人でいっぱいだ。

——またヤミ米か、

そう思って、ガラス戸をあけると、中は背広ばかり、みな同じバッジをつけている。カツギ屋

など一人もいない。

——ア、経済係だった。

中から刑事が立ってきて、「今、調べ中なんだ。あとにしてくれよ」と、追い出しながら小声で「上野の駅警備!」とささやいてくれたのである。

私は身をひるがえして、署をとび出すと、公衆電話で社電した。「上野で、日銀関係の事件です。すぐ写真を下さい」

札束の誘惑

上野の駅警備詰所に行ってみると、ここですべてが判った。日銀の新潟支店から、回収した古紙幣を本店に送る現送箱二百箱に、新潟の警察官と鉄道公安官が護衛につきそってきた。ところが途中で、貨車内にコボれている米粒に疑問を持ち、開けろ、開けて事故が起きたら責任問題だと押し問答してきた。

ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、 そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。

最後の事件記者 p.104-105 五万円程度の札束を出された

最後の事件記者 p.104-105 横で聞いた社会部長も乗り出してきた。『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』
最後の事件記者 p.104-105 横で聞いた社会部長も乗り出してきた。『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』

ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、 そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。

かけつけてきたカメラマンに、米の写真をとらせていると、輸送課長がやってきた。

『これには、いろいろと事情もありますことですし、上司にも報告しませんと……幸い車もありますことですから、席をかえてお話いたしたいと存じまして、一つ……』

要するに、モミ消しに料亭へでも連れて行こうというのだった。その夜、社へ上って聞くと、私の一報で、日銀本店に文書局長の談話を取りに行った記者は〝一見五万円程度〟の札束を出されたそうである。

『実際、あれをみた時は、クラクラッとしたよ。あの金がオレのポケットにあるとすると、今ごろは……』

『何だ。そんなウマイ話なら、オレも誘いにのって、あの車に乗るンだった。何しろ、相手が日銀じゃ、定めし酒池肉林。惜しいことをした』

ヘラズ口を叩いているのを、横で聞いた社会部長も乗り出してきた。

『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』

『部長、それじゃ〆切に間に合わないですよ。各社が書いたあとじゃ、札束も酒池肉林も、可能性ないですよ。ハハハハ』

結果として、夕刊がないため、各社も後追いはしたが、ウチが写真入りの、立派な、実質的スクープとなったのである。

戦争前のこと。蒲田の愛国婦人会がグライダーを献納するというので、六郷河原の式場に、先輩と一緒に出かけていった。来賓席に通されるや、若いイナセなお兄さんが、「御苦労さんです」といって、御車代と書いたノシ袋を出した。

どうしようかと思って、先輩を見ると、眼でもらっておけと合図する。裏を返してみると、金五円也と、なかなかの大金だった。ポケットに納めはしたが、気になって式次第どころではない。

やがて、次の愛国グライダー第何号の募金箱が、式場の参会者の間を廻されはじめたが、来賓席には廻ってこない。私は、ツト立上るや、ノシ袋のまま、その金を箱の中に入れて、やっと落ちついて取材をはじめたのである。考えてみれば、やはり、新聞記者も、検事や警察官と同じように、なりたてのころほど正義感が純粋で強いのだが、古くなると世馴れてきて、現実と妥協してくるものだ。