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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 今や東大出でないとダメなんだよ

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。
正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

この数字だけみても、毎日の調落ぶりは明らかである。本田から上田への政権交代が、三十六年一月だから、四十年度に合計で約七億(三和だけで四億)減らしたのは、上田の功績ともいえるが、有楽町から竹橋への移転は四十一年秋、つまり、有楽町の土地などを処分した時期なのだから、当然であろう。しかも、上田から現会長田中香苗、現社長梅島楨のコンビに変ったとたんに、借入金が二十六億もふえたのである。金融能力があったといえばいえようが、これでは、毎日新聞は全く斜陽の一途をたどっているとしかいえないだろう。しかも、発行部数は四百万の大台割れに近づき、読売の三倍の借金を抱えているのである。付言するならば、田中、梅島ともに、東京入社の東京系。本田、上田の大阪系に対する〝クーデター〟とみる所以だ。

東京拮抗の毎日人事閥

さて、数字による例証が、いささか長きに失したようである。角度をかえて、田中業績は未知

として、上田業績を眺めてみたい。

私が読売に入社した昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど、学閥華やかであったらしい。日大の私が、学閥なしで実力次第といわれていた、当時の読売をえらんだ理由の一つに、それがある。

ところが、上田時代の役員一覧表をみると、十六名の取締役に、三名の監査役、酒井衍(東大)、梶山仁(青学)、高原四郎(東大)と、十九名中、ナント東大が七名、京大二名、東北大一、商大三(東京、神戸、大阪)と官公立が十三名の過半数を占め、慶応はわずかに一名、早、明、青学、東亜同文、府立高工芸の各一名が続いている。「慶応でなければ人にあらず」どころか、官学にとって代わられているではないか。

さきごろ、停年退職した慶応出の毎日記者をたずねて聞いてみると、「今の毎日は変った。今や、役人と仲よくできる奴、つまり東大出でないとダメなんだよ」という。戦前に「三田会」(慶大出身者の会)を結成しようとして、同氏が社内を駈けまわったところ、「毎日三田会の会員でないと、人でないような傾向が出そうなほど、慶大出身の社員が多いから、会の結成はやめろ」と、社の幹部に注意されたという。ところが、同氏の停年間際になって「今度は人数が少ないから結成してもよい」と、お許しが出たのだ、と、同氏は嘆ずる。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ なされていた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 「上田社長の人柄はおわかりでしょう」

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ

なされていた。この風潮は、明治から大正、昭和とうけつがれ、野党精神旺盛な記者稼業は、私学出身者のよりどころであったのだが、戦後の民主化時代は、新聞を花形職業とし、新聞社は一流企業と肩を伍するにいたった。

競争の激しい入社試験で、一定成績以上のものを採用するとなると、答案作成技術のうまい、官学出身者が多くなる。そして、平均値の高い模範社員がふえる。私学出には型破りが多いから、平均値が下がるのである。こうして、毎日から学閥はついえ去った。現役の連中にたずねまわっても、学閥があるというものは皆無であった。

学閥はなくなったが、すでに新しい人事閥が生れていた。学閥なるものは、客観的にも先輩、後輩の仲であり、立証もやさしいが、利害、恩怨、愛憎、好悪による人事閥の説明はむずかしい。しかし、毎日を語るに、この人事派閥にふれずに通ることはできまい。

本田が十三年間もワンマンとして君臨した事実からみて、当然、本田派と反本田派とがあったことはいえる。反本田派の巨頭としては、田中香苗があげられよう。上田社長出現の経緯は、さきに説明した通りで、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。副社長工藤信一良もまた、派閥の毎日にあって、子分のない人、あるいはつくれない人である。氏の副社長兼大阪代表は、引退の花道と評されている。とすると、師団長クラ

スとなって、いずれも東京系の代表取締役である、営業の梅島楨専務、編集の田中香苗主幹、山本光春常務とならざるを得ない。

田中の反本田に対し、山本常務は本田派と社内でいわれるのだから、田中派と山本派の対立が、やはり大きな派閥を形づくっているのであろうか。株主構成からいって、誰もオールマイティーの切り札をもっていない。出身はみな同じ平社員で、新聞社の門を叩くからには、能力いずれも秀でた人ばかりとあっては、水準の高低を無視すれば、ドングリ揃いでもある。

このような、毎日の特殊事情は、労働組合にとっても、まことに不都合なことであるらしい。つまり、資本家に対して〝闘争〟して〝闘い取る〟といった、悲壮感が一向にモリ上ってこないのである。これは、台所の苦しい毎日にあって、経済闘争をやる場合、一そう奇妙なものになってくる。ある組合幹部はその悩みをこう洩らす。

「上田社長の人柄はおわかりでしょう。会社側は経営内容を卒直に出します。ガラス張りです。と認めていいでしょう。不正も、汚職もなく、またやろうにもできない、貧乏世帯です。重役の給与も、同程度の他の会社にくらべて、まず高くはない。ベース・アップもボーナス闘争も、手の内をみせられては、強いことをいえないではありませんか。御用組合だといわれ、下からの突きあげもありますが、経済闘争といっても、経営努力への叱咤勉励に終らざるを得ないのです」

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 この〝ショック療法〟は確かに成功であった

正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。

第一、当時、闘争中の「賃闘」で、毎日労組東京支部青年部が、出入りの社員にビラをまいている。そのビラそのものから、いわゆる闘志はニジミでてこない。見出しこそ、「会社、組合に挑戦、ふざけきった百円増額(年齢手当)」などとあるが、ビラの中にある「本部声明」は、「……本部は今後の道のけわしさを、今論じない……」と、所詮は、といったタメ息が、早くも洩れている感じだ。それに、「会社、組合に挑戦」とリキンだところで、その会社なるものは、このビラまき青年の〝明日〟なのである。

上田を評価するに、毎日記者の多くの人々が、彼の派閥打破への意欲と、人材登用の英断とを認める。上田自身の表現による、「社内民主化」とは、まず、東西四本社における人事の交流であった。四本社間の転勤、移動であるから、これは金をくう仕事である。だが、彼は断行した。この〝ショック療法〟(私はこうよぶ)は、確かに成功であった。折しも、朝日は社主との紛争事件の長期化が、社内の志気を沈滞させ、読売は「よみうりランド」の建設に没頭する正力の〝悲願〟にあおられて、これまたヤル気をなくしていた。

毎日自身は、それ以前から、本田〝天皇〟の末期症状で、同様にヤル気をなくして、紙面は全く沈滞し、読者を失っていっていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日

の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。

この刷新は、同時にスター記者の売り出しであった。毎日の記事には、署名記事が目立って多くなり、「吉展ちゃん事件」の成功では、担当事件記者の都内遊説といった手まで打たれた。〝事件記者、来る!〟というガリ版刷りの折り込みチラシが、バラまかれるといった調子である。「森」シリーズの記者たち、外信部長に〝国際事件記者〟というニックネームをつけ、社会部長もまた、何かにつけては、紙面に登場してきた。

一般的な「新聞紙面」はどうであったろうか。毎日の躍進に驚いた朝日と読売は、反省して陣容を立て直した。読売でいえば、正力の女婿小林与三次住宅公団総裁(元自治次官)が入社して、務台専務とともに副社長となり、正力ワンマン・コントロールの影響を防ぐ一方で、原出版局長が常務編集局長として、積極的な紙面造りをはじめた。

そのころまで、毎日の独走だった〝熱のある紙面〟は、にわかにシボンで、また、以前の沈滞がよどみはじめた。この現象を、ある毎日幹部は、「朝日、読売の立ち直りで、以前ほど光らないだけだ」と説明するが、一人の毎日社会部の古手記者はいう。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」
彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 毎日の〝ショック療法〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」

彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

電波の発達によって、新聞はその速報性を奪われたという。確かにそうであろう。しかし、新聞が失った速報性は、ホンの一部のニュースの分野で、である。またいう。速報性を失った新聞は、その解説性を強調すべきであり、記録性をも具備しなければならない、と。事実である。だが、新聞はすべての分野で、速報性を失っていない。

新聞が解説を主力とするならば、解説は主観が入るのだから、署名記事にすべきで、署名が入るから、スター記者が生れるのが当然である——この論理の組み立ては、一応筋道が立ってはいるが、重大な誤ちを犯している。第一前提である、「新聞は解説を主力記事とする」という点で。

今、三紙の記事量の何パーセントが解説であろうか。速報性をほとんど失っていない新聞の現状で、かつまた、現在の新聞が必死になって、維持しようとしている「宅配」の習慣、そして、紙面をひろげてみるという、随時性の長所に、完全に馴らされている読者の現況の中で、新聞は依然としてその速報性を失っていないのである。

テレビ受信機の普及率、トランジスタ・ラジオの生産台数、カー・ラジオの……と、どんなデータをあげても、新聞が奪われた速報性は、ホンの僅かであり、それを立証するものは、一日に

三千万枚も発行されている新聞紙面で、ニュースの占めているパーセンテージである。これが、私のいう、毎日の〝ショック療法〟の根拠である。スター記者は意識して造られたもの、なのである。毎日新聞の退勢挽回のコマーシャリズムのため、〝売り出された〟ものである。この、スター売り出しが、ショックとなって、全社が立ち直るかと判断されて、大きなショックを与えてみたのである。人事交流しかり、若手抜てきしかりだ。大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。

〝外報の毎日〟はどこへ

例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

大森記者の退社をめぐるイキサツも、各種の情報が入り乱れて、真相はつかみ難い。しかし、その〝各種の情報〟が出るところに、今日の毎日の性格が現れている、と、みることは偏見にすぎるであろうか。