サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ
かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。
第一、当時、闘争中の「賃闘」で、毎日労組東京支部青年部が、出入りの社員にビラをまいている。そのビラそのものから、いわゆる闘志はニジミでてこない。見出しこそ、「会社、組合に挑戦、ふざけきった百円増額(年齢手当)」などとあるが、ビラの中にある「本部声明」は、「……本部は今後の道のけわしさを、今論じない……」と、所詮は、といったタメ息が、早くも洩れている感じだ。それに、「会社、組合に挑戦」とリキンだところで、その会社なるものは、このビラまき青年の〝明日〟なのである。
上田を評価するに、毎日記者の多くの人々が、彼の派閥打破への意欲と、人材登用の英断とを認める。上田自身の表現による、「社内民主化」とは、まず、東西四本社における人事の交流であった。四本社間の転勤、移動であるから、これは金をくう仕事である。だが、彼は断行した。この〝ショック療法〟(私はこうよぶ)は、確かに成功であった。折しも、朝日は社主との紛争事件の長期化が、社内の志気を沈滞させ、読売は「よみうりランド」の建設に没頭する正力の〝悲願〟にあおられて、これまたヤル気をなくしていた。
毎日自身は、それ以前から、本田〝天皇〟の末期症状で、同様にヤル気をなくして、紙面は全く沈滞し、読者を失っていっていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日
の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。
この刷新は、同時にスター記者の売り出しであった。毎日の記事には、署名記事が目立って多くなり、「吉展ちゃん事件」の成功では、担当事件記者の都内遊説といった手まで打たれた。〝事件記者、来る!〟というガリ版刷りの折り込みチラシが、バラまかれるといった調子である。「森」シリーズの記者たち、外信部長に〝国際事件記者〟というニックネームをつけ、社会部長もまた、何かにつけては、紙面に登場してきた。
一般的な「新聞紙面」はどうであったろうか。毎日の躍進に驚いた朝日と読売は、反省して陣容を立て直した。読売でいえば、正力の女婿小林与三次住宅公団総裁(元自治次官)が入社して、務台専務とともに副社長となり、正力ワンマン・コントロールの影響を防ぐ一方で、原出版局長が常務編集局長として、積極的な紙面造りをはじめた。
そのころまで、毎日の独走だった〝熱のある紙面〟は、にわかにシボンで、また、以前の沈滞がよどみはじめた。この現象を、ある毎日幹部は、「朝日、読売の立ち直りで、以前ほど光らないだけだ」と説明するが、一人の毎日社会部の古手記者はいう。
「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た
とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」
彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。