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雑誌『キング』p.111中段 幻兵団の全貌 日本新聞行きか

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 中段

動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを質問した。結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子ともなれということ、すなわち〝地下潜入〟であり、〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ側政治部の見方でもあったのだろう。

この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。

そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。

——何だろう、日本新聞行きかな?

忙しい身支度は私を興奮させた。

——まさか! 内地帰還ではあるまい!

フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮かべていたのだ

迎えにきたジープ p.034-035 引揚者たちの代々木詣り

迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side's military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the "Nihon Shimbun" as an agitator.
迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side’s military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the “Nihon Shimbun” as an agitator.

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。六

号ボックスの寄地(ヨリジ)少尉と、二号ボックスの東(アズマ)中尉の所へ行ったら、メッタなことを言うな。在ソ経歴をきかれたら、こう答えろ。などという工合で、ウランウデの途中の森林伐採の状況まで教え込まれてくるといった按配であった。この辺の米ソスパイ戦はまさに虚々実々というところである。

これがさらに十一月に入ると、要注意者の中には、訊問拒否のため調査日になると仮病を使って入室戦術をとる者が現れてきた。

冬が来て引揚船はナホトカに来なくなった。この時期にソ連側の政治教育は徹底した。日本新聞がアジテーターとなり、反軍、反将校階級闘争が指導された。それと併行して文化活動が奨励され、「日本新聞友の会」運動がまき起され、やがてこれは民主グループ運動へと移っていった。

アメリカの軍事、思想調査に対するソ連側の対抗策である。こうしてシベリヤ民主運動は、二十二年冬から二十三年春へかけての引揚中止期間に、みるみる盛り上っていった。やがて春三月、民主グループ運動はさらに発展してハバロフスク・グループに最高ビューローを置く、反ファシスト委員会が、全シベリヤ収容所に結成された。多数のアクチヴィスト(積極分子)が成長していった。

二十三年四月、再び引揚が始った。その年の引揚は変っていた。船内斗争、上陸地斗争が民主グループ幹部によって指導され、米側の調査を拒否しソ連謳歌を談ずるものが増えてきた。LS、CICの打撃は大きかった。二十二年度の報告書を検討したGHQでは、山田大尉の後任にマウンジョイ少佐を送り、さらに権限を強化して、レントゲン写真と同時に栄養度をみるという名目で、要注意人物の顏写真撮影をはじめた。

一方、引揚者たちは米側に対して反抗の態度を明らかにした。六月ごろからは東京へ着いた一行は援護局のスケジュールも無視して、出迎えの共産党員たちと一緒に代々木の党本部訪問の集団〝代々木詣り〟をはじめだした。

NYKビルでの再調査を命ぜられる者が多くなり、その調書は顔写真とともにファイルされ、厖大な対ソ資料が着々と整備されていった。こうして幻兵団として米側にマークされた人々のうちには、幹候出身ではなくて、陸士卒の正規将校も多かった。

天皇陛下の軍人として、一命をこう毛の軽きにおいた旧軍人たちが、いまや、一方は米国に加担して昔の上官、部下を摘発し、また一方ソ連について同様に上官、部下と闘うということになってきたのである。この元陸軍将校団のまさに骨肉相喰む相剋こそ、元海軍将校団とのよい対照であり、日本国軍史の最大研究テーマである。プロシヤ将校団の伝統あるドイツ将校団

と比較するとき、いよいよ興味深いものがある。(「旧軍人とアメリカ」「旧軍人とソ連」については第三集参照)

最後の事件記者 p.120-121 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ

最後の事件記者 p.120-121 少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。
最後の事件記者 p.120-121 少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

偽装して地下潜入せよ

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もう一人通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して、〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウーン、今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

――何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

――まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当りの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

『モージ!』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。