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編集長ひとり語り第18回 「小渕基金」などと舞上がるな!

編集長ひとり語り第18回 「小渕基金」などと舞上がるな! 平成11年(1999)7月6日 画像は三田和夫47歳(正論新聞連載「検察派閥」のプロモーションか1969.02.24)
編集長ひとり語り第18回 「小渕基金」などと舞上がるな! 平成11年(1999)7月6日 画像は三田和夫47歳(正論新聞連載「検察派閥」のプロモーションか1969.02.24)

■□■「小渕基金」などと舞上がるな!■□■第18回■□■ 平成11年(1999)7月6日

7月6日付の産経紙朝刊に、「100億円の小渕基金、中国の緑化を推進」という、大きな記事がでた。9日に予定されている中国の江沢民主席との会談で、それを申し出るというものだ。「基金を使って多数の日本の青少年を中国に派遣、ボランティアで植林事業に協力する」方式も検討されている、と。

資金援助規模も酸性雨対策などを目的に、竹下登元首相の主導で開設された「日中友好環境保全センター」(約105億円)に匹敵するものとしたい考えだ(外務省筋)という。記事の結びは、「小渕基金」は中国への政府開発援助(ODA)とは、事実上別枠となるだけに、論議を呼びそうだ、とあった。

この記事を読んで、私はすぐ思い出した小さな記事があった。3日付の産経、東京両紙にだけ出た、小さな記事である。病床の竹下元首相が小渕総理に電話してきて、中国へ行ったら、「中国の台湾交渉の窓口である、海峡両岸関係協会の汪道涵会長と会談せよ」というアドバイスをした、というものだ。「竹下氏はしっかりとした口調で話をしていたという」(東京紙)そうだが、どうしてこれだけの話を、ジカに電話するのか、私は納得がゆかないのである。ナニを企んでいるのか?

その数日後に前記の「小渕基金」の記事である。竹下といえば、話は古くなるが、北京に日中ナントカセンターというハコものを建て、それを身内(娘の嫁ぎ先)の竹中工務店に受注させた、という事実がある。国民の税金である有償・無償援助を中国に出し、それもほとんどがゼネコンが儲かるハコものを作る。大義名分さえ立てれば、金は使い放題で、当然の結果としてリベートもこよう。

日常の新聞紙上に、やれ警官の汚職だ、自衛官の収賄だと、社会的腐敗の記事はあとを絶たないが、国をダシにした大きな腐敗は、決して“摘発”されない。

いま、「新潮45」誌に、岩瀬達哉がドキュメント・竹下登を連載中である。7月号では暴力団が一国の総理を作った、といわれている「皇民党事件(注)の深層」が掲載されているが、なかなかの面白さである。(注)ホメ殺しという流行語も出た、皇民党が街宣車を連ねて、「金作りのうまい竹下さんを総理にしよう」と、ホメまわった事件。

たまたま、岩瀬氏に会った。「竹下のODAの使い方の問題を、ぜひ調べてみてよ。北京に行って、ビルの実情を調べ、竹中以外の業者に値踏みさせれば、リベートも浮かんでくるよ」と、私は彼にすすめた。

ナベプロの女社長が、音楽著作権協会ビルの新築を進めた。清水建設の工費が高すぎると、他の理事から抗議が出てモメたことがあった。そのビルを他の業者に見積もらせたら数十億円高い、という。その話を聞いた私は女社長の自宅を調べた。15億円といわれる豪邸には、担保ひとつついていなかった。施工は協会ビルと同じ清水建設だった。ハコものは、調べると疑惑がつかめるのである。

もう、日本のODAも見直しの時期にきている。と同時に、首相や大臣たちが、外国に出かけては、「いくらいくら上げます」と大盤振る舞いをするのも、やめにすべきだ。日本国の赤字は、600兆円だというのに、どうして、この帳尻を合わせるのか。少子化、高齢化の21世紀に、この借金を支払うのは読者の皆さんである。 平成11年(1999)7月6日

新宿慕情 p.024-025 ととやの初代マダムが織田作・夫人の昭子さん

新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。
新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。
その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

文人、墨客、悪童連

横丁の途中には「居座古座」だとか、「てんやわん屋」などといった、同じような店もあったが、これらが、〝中央線〟派の文人、墨客、先生、記者などのタマリ場になった。

その中心、ととやの初代マダム(当時は、ママではなく、マダムだった)が、織田作・夫人の昭子さんだ。そして、その著『マダム』が、〈新宿女給〉の発生について詳しい。

そして、戦災の復興が進むにつれて、「ドレスデン」「プロイセン」などといった、新宿の正統派バーが、本格的な建物で現われてくるのだが、私など、この二店など、一、二度しか行ったことがないので(しかも、大先輩のお伴で)、語るのはその任ではない。

場所も、せいぜい二幸ウラまでで、まだ、靖国通りも、現在のように整備されておらず、まして、歌舞伎町など、盛り場の態をなしていなかった。

ハモニカ横丁から二幸ウラにかけて、炭屋のセガレ田辺茂一、牛乳屋の息子の池島信平、それに、トロッコ記者の扇谷正造といった悪童連が、中野好夫、相良守峰、時枝誠記といったPTAといっしょになって、客とともに呑み、怒り、泣き、唱っては、文学を論じ、映画を語る、〈新宿女給〉の育成に、一ぴの力をいたした、ものらしい。

銀座とは違って、独特の雰囲気を持つ、〈新宿女給〉たちも、歌舞伎町が栄え、そのウラ側の〝サカサ・クラゲ〟旅館街を浸蝕して、東大久保一帯にまでネオン街が広がってしまった現在で

は、もはや、ギンザ・ホステスと、なんら変わりのない連中ばかりになってしまった。

私が、シベリアから帰って、直ちに書き上げた『シベリア印象記』は、当時の一枚ペラ朝刊だけ、という時代ながら、二面の大半のスペースを費やして、トップ記事になった——私の、読売新聞での、初めての署名記事であった。

しかも、この記事に対して、米英ソ華の、四連合国で組織していた対日理事会の、駐日ソ連代表部首席のデレビヤンコ中将が、記者会見して反論し、それを、日共機関紙・赤旗が、大きく報道するなど、なかなかの評判であった。

私は、〝シベリア呆け〟していない、と判断されて、すぐに地下鉄沿線である、日本橋、上野、浅草のサツまわりに出された。だから、戦後の上野(ノガミ)については語れるのだが、残念なことには、昭和二十年代の新宿については、あまり、正確な記憶がない。

しかし、異邦人よろしく、当時の流行語であったリンタクとパンパンについての、新宿における〈知的好奇心〉についてはエピソードを持っている。

なんにも保証なし

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。

つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。