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新宿慕情 p.112-113 留置場という〝仮の宿〟だから

新宿慕情 p.112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。
新宿慕情 p.112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。

留置場では女無用

もうしばらく、オカマの話をつづけさせていただくことにしよう。

「安藤組事件」で、犯人隠避容疑に問われて、警視庁の留置場に二十五日も入っていたのは、昭和三十三年の夏だから、もうあれから十七年も経ってしまったことになる。

外人の老ピアニストに、唇を求められた少年の日に、「エエイ、もう一歩、踏み出そう」と思ったように、私が留置場に入った時も、〈社会部記者の好奇心〉はみちみちていた。

留置場という、特殊な社会でも、それなりに、社会秩序維持の不文律があった。

各檻房には、檻房長官がいてそれぞれの容疑罪名が、ステータスになっていた。

傷害とか、銃刀令とか、やはり、〝力〟が正義であった。殺人未遂はいたが、殺人はいなかったので、殺人が、どれほどの地位におかれるのかは、不明であった。

いずれにせよ、暴力団のケンカのたぐいが、大きな地歩を占めている。

だから、サギや窃盗などは、この社会では一番軽蔑されるようだ。不思議なことには、スリだけは別格で、やはり、技術者として、尊敬されている。

こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。

留置場での生活では、〝女〟は、まったく問題外であった。

朝、検察庁へ行く時、手錠をかけられた連中は、手錠の両手をつなぐクサリの、その真ン中にもうひとつ、丸いワッパがついていて、その穴に、太いロープを一本通されて、いわゆる数珠つなぎになる。

私は〈特別待遇〉で、この数珠つなぎを経験せず、いつも、単独護送で、仲良しになった刑事とふたり、たがいに片手錠をかけて、桜田門から、向かい側の地検にブラブラと歩いていった。

ズボンのポケットに手を入れて、ふたり並んで歩くのだから、手錠は隠れて見えず、あまり、不愉快な思いはしなかった。

ただ一度、夜の呼び出しがあって、当直の、知らない刑事に連れられて行った時だけ、両手錠に、腰縄を打たれたのが、すごく屈辱的だった。

毎朝、この数珠つなぎを見ていると、男を全部つないだあと、今度は女性をつなぐ。それを見ていて、女に並んだ、男の最後のヤツが、うれしがるかと思ったらまったく無関心なのである。

留置場の窓から、警視庁の中庭を眺めていて、美人が通るのを見かけても、房内のだれもが関心を示さない。

ここでの生活の、最大の関心事は、金網の針金をヘシ折って小さなクギを作り、それで、壁や板の床に、カレンダーを書いては、毎日、毎日、それに×をつけて、保釈や、釈放の日を指折り数えることだけ。

しかし、その道の先輩たちにたずねてみると、それも留置場という〝仮の宿〟だからであって、拘置所や刑務所送りになって、拘禁の期限がハッキリすると、やはり、男色はあるそうである。女への関心も、グッと高まるそうだ。

事実、シベリアの捕虜生活でも、可愛らしい少年兵がいたので、男色はあった。もっとも、そ

れも、体力がつづいていた二十年の暮れまでで、それ以後はサッパリだった。

新宿慕情 p.120-121 田中栄一警視総監がオカマに殴られた

新宿慕情 p.120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。
新宿慕情 p.120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

ワンの〝部分〟は、紡錐状である。よく、街頭などで見かけるオツナガリは、「水をブッかけろ!」などいわれるように、紡錘状部分の基底部にある、二個の付属品が、相手方の門内に没入してしまっているためで、シロの芸人は、これを恐れなければならない。

しかし、ワンのほうは、やはりパーフェクトを望むので、付属品の没入まで志す。従って、〝腰振りダンス〟の姿勢をとらざるを得なくなる。

一方のシロは、その攻勢を、右に左にと、なんとかして逃げなければならない。この動作があたかも、観る者をして、感嘆手を拍つどころか、ツバを呑みこませる〝迫真〟の演伎に映ずる、という次第だ。

警視庁の留置場で、同房になった「浅草のヨネさん」と呼ばれる、パン助置屋のオヤジから聞いた話である。

管理売春という、重罪容疑で入っていたこの男は、吉屋信子に大辻司郎、さらに、フランキー堺を加えて、三で割ったような顔をして、くったくなげに、おもしろい話をしてくれた。

だから、〈花電車〉の芸人も〈ワンシロ〉も〈シロシロ〉もみんな、〝商売道具〟を大切にして日常の手入れを怠らず、ほとんどが、男などをつくらない、という。ことに〈花電車〉は、プロローグ場面で、料亭などで使う、細長いビールのグラスを使って、深奥部分までノゾかせるのだから、人一倍、手入れと節制を励行するそうだ。

オカマを見せてよ

話が、すっかり飛んでしまったが、まだまだ、〝ホモのヤッちゃん〟の項なのであった。ヤッちゃんは、オカマではなく、ホモらしい。

私が、シベリアから帰ってきて、読売社会部に復職したのが、昭和二十二年の秋のこと。そして、翌二十三年には、上野、浅草のサツまわりに出た。

そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。

浮浪児ばかりか、家も職もない連中が、駅の地下道を埋めつくし、街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

当時の、田中栄一警視総監が上野の山を視察に出かけて、オカマの集団に襲われ、殴られたという珍事さえ、堂々と出来するのである。

そんなころ、婦人部の女性記者が、私に頼みがある、といってきた。

「ネ、三田サン。オカマっていうの、私に見せて下さらないかしら?」

「アア、いいとも。でも、夜のノガミは、コワイよ」

「だから、三田サンに頼んでいるんじゃない。これでも、オヨメに行くつもりなんだから」

それから、三十年近くたったのだが、読売の社員名簿を見てみると、この女性記者は、まだ婦人部に名を連ねているし、姓も変わっていない。やはり、オヨメには、〝行け〟なかった、のカモネ……。

こうして、私は彼女を伴って宵の上野広小路あたりを、ブラブラと散歩していた。

「アラ、ミーさん!」

人ごみのなかから、嬌声が飛んできた。

読売梁山泊の記者たち p.012-013 池島信平社長が会いたいと

読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」
読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺

「アイ・シャル・リターン!」

この言葉は、マッカーサー元帥が、日本軍に追われて、フィリピンを脱出する時の、有名な言葉である。そして、マ元帥は、その言葉を実行した。

読売新聞広告局長、氏家斎一郎もまた、日本テレビに出向してゆく時、離任の挨拶で、「アイ・シャル・リターン!」と叫んだが、彼はついに再び読売新聞に、その名を刻することはなかった。

私は、昭和十八年十月一日の読売入社。四年の兵隊、捕虜で、二十二年十月復員、復社した。社会部一筋で、三十三年七月、横井英樹殺害未遂事件で、安藤組員の犯人隠避事件を起こして、自己都合退社した。のち、昭和四十二年元旦から、独力で「正論新聞」を創刊、二十五年が経過して、現在にいたっている。

そして、氏家と具体的に関係のできたのが、読売を退社して、正論新聞を創刊してからであった。

読売を退社してから、私は文筆業として、原稿を書き出していた。だが雑誌原稿で生計をたてることの難しさは、すぐにやってきた。

警視庁の留置場に、妻からの連絡で月刊「文芸春秋」誌に「安藤組事件の原稿を書いてくれ」という、依頼があったので、二十五日間の生活が終わって、保釈出所すると、すぐ田川博一編集長に会いにいった。

「タイトルは『我が名は悪徳記者』で、サブ・タイトルは事件記者と犯罪の間、でいきましょう。何枚でもいいです。書きたいだけ、書いてみてください」

田川は、話が終わったあと、語調を変えていった。

「三田クン、西巣鴨第五小学校の六年生で、一年間一緒だった田川だよ」

「ア、転校してきた、田川!」

意外な縁に驚きながらも、私は百五十枚の原稿を書いた。と、田川から社に来てくれ、という電話があった。

「原稿、ツマランですか?」

「イヤ、おもしろいんだよ。だけど、池島信平社長が会いたい、と…」

その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。

「オイ、三田クン、キミは五中だナ」

「ハイ、十六回卒業です」

「オレは、第一回、先輩だよ」

「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」

「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」