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最後の事件記者 はしがき

最後の事件記者 はしがき 01
最後の事件記者 はしがき 01

はしがき

私が、さる七月二十二日、横井社長殺人未遂事件の指名手配犯人を、北海道に逃がしてやった、ということで、「犯人隠避」罪の容疑に問われ、警視庁捜査二課に逮捕されてから、もう五ヵ月になる。

ということは、私が在職十四年十ヵ月にもおよぷ、読売新聞社会部記者の職を投げ出してから、五ヵ月になるということだ。つまり、私はその逮捕の前々日に社に辞表を出したからである。

私には私なりの論理があって、「辞めるべきだし、辞めねばならない」と思って、サッバリと辞表を出したのだが、世の中というのはむつかしいもので、あまり辞めッぷりが良かったので、かえって痛くもないハラを探られたらしい。

つまり、「奴は取材だといってながら、後暗いから辞めるのだろう」とか、「安藤組の顧問という、高給の就職口が決っているから、平気なンだよ」とか、いったたぐいだ。

ある三流雑誌が、〝悪と心中した新聞記者〟という題で、私のことを、安藤とは法政の先輩後輩

の仲で、安藤のツケで銀座、渋谷を飲み廻っていた、と、全く事実無根のことを書いた。保釈出所してそれを読んだ私は、早速その社へ抗議に行った。

最後の事件記者 p.280-281 金を渡した中村秘書を落城させる

最後の事件記者 p.280-281 妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。
最後の事件記者 p.280-281 妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。

「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

私は主任と同行して、甲府の奥に住む元同隊幹部を探し出して、当時の被害状況の参考人調書まで作らせた。その男を口説き落すのに、どんなに苦労もしたことか。金を渡した中村秘書を落城させるため、関係事実を調査しては主任に提供するなど、刑事以上の苦労であった。しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

『あんたのおかげで、次々と証拠をつきつけて、中村秘書を理責めにしたのさ。しまいには、彼

も額に油汗をかいて、もう少しで被害を認めてくれるところまでいったよ。だけど、逮捕した容疑者ではなく、協力してくれる被害者という立場だろ、むづかしいよ。認めようとしないものを、認めさせようというんだからナ。オレは捜査二課の一主任だ、あんたは外相秘書官だから、上の方へ手を廻して、一警部補のクビを切るぐらいは簡単だろうけれどと、熱と誠意で押したのサ。もう少しのところだったのに、惜しいことしたよ。あんなに協力してくれたのに、カンベンしてくれよ。本当にありがとう』

主任はこういって、私に感謝した。彼の声にならない声は、警視庁の幹部の方に、岸首相の一件はやめろと、政治的圧力がかかったのだとも、受取れるような感じだった。

この事件での、私の捜査協力はついにモノにならなかったが、何回かの記事で、私はともかくとして、妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。「家の付近に、怪しい奴がウロついているから、今日は帰ってこない方がいいわ。奈良旅館へ泊って…」という電話がきて、私は一週間も旅館住いをした。

『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を

聞いていた。

護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫

関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
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関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫

石井一昌著「日本を哭く」をご紹介する

正論新聞 編集長 三田 和夫

昭和三十二年春ごろのこと。当時、読売新聞社会部記者だった私は、光文社発行の「三光」(注・支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本)が、護国青年隊の抗議に、広告を中止し、絶版を約束させられた、という情報を得て調べはじめた。と、岸首相が自民党幹事長時代に、やはりオドされて、金を出したという話も出てきた。当時の中村長芳秘書が、警視庁捜査二課に事情をきかれた、という。

それらの取材を終えて、社会面の大きな記事になったその日から、社の読者相談室は、護国青年隊の抗議の波状攻撃を受けて、騒然とした空気に包まれていた。

「三田の奴メ! 同志のような顔をしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていやが れ!」(拙著「最後の事件記者」より)

そんな彼らの言葉も、耳には入ってきていた——それから一年余を経て、私は、横井英樹殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社する。

昭和四十二年元旦付号から、私は、独力で「正論新聞」を創刊する。読売退社から八年余、雑誌の寄稿家として生活するうち、出版社の都合で、私の原稿はカットされ、ボツにされることが多くなった。本当のことを書くとモメるのである。「三田の原稿はヤバイ」ということである。そのため、自分が発行人で、編集人で、執筆者でなければならない、という結論に至ったからだ。

「私はかつて読売記者時代、『護国青年隊』の恐喝事件を取材して、総隊長・石井一昌に会った。昭和三十二年四月十九日である。その時の印象は、まさに粗暴な〝飢えた狼〟であった。彼は、読売記事を読んで激怒し、私を憎んだ。連日のように、読売本社に押しかけ、私を痛罵したものだった。

そして、本紙(注・正論新聞)がさる四十五年暮れに、『右翼暴力団・護国団』を取りあげるや、当時潜行中の彼は機関誌の『護国』に地下寄稿して、またもや、私を非難攻撃した。

しかし、因果はめぐる小車…で、私は、彼の自首説得に、小さな力をかすことになる。保釈になった彼は、その尊敬する先輩の事務所で、正論新聞の綴じこみを見て、質問したのだった。その先輩は、『真の右翼浪人たらんとするなら、正論新聞もまた読むべし』と訓えられたという。…こうして、私と彼とは満十五年目のさる昭和四十七年四月二十九日に、再び相会って握手をした」(正論新聞47・10・15付、連載『恐喝の論理…〝無法石〟の半生記』続きもののはじめに、より)

こうして、私と彼との交際がはじまり、すでに二十三年になる。さる平成六年四月二十九日、「護国団創立四十周年記念会」の席上、私は指名されて、あいさつを述べた。

「…実は、石井さんは、当時隊員たちに指令して、〝いのちを取っちゃえ〟という目標の人物を十五名リストアップしていた。その最後の第十六位にランクされたのが、私だったのです…」と。

いのちを〝取る〟側は、国の将来を憂えてその邪魔者を排除する信念。〝取られる〟側は、真実を書き貫こうとする信念。その死生観には、共通するものがあって、対立する立場を乗り越えて、結ばれた友人である。これをいうならば、〝怪〟友といわんか。それは 快友であり、戒友であり、魁友でもある。

平成三年十一月「正論新聞創刊二十五年を祝う会」で、私は、この話を披露した。「この席には〝捕える側〟も〝捕えられる側〟も参会されている…」と。

読売の警視庁記者時代に親しくした、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦の昭和十八年採用の元長官たちと、石井さんはじめ、稲川会や住吉会の幹部たちのことを話したのだった。

昭和三十二年、売春汚職事件にからんだ立松記者誤報事件で、対立関係にあった当時の岡原昌男・東京高検次席検事(故人。元最高裁長官)も、「…正論新聞の論調は〝おおむね〟正論である。どうして、おおむねをつけたかといえば、ある時には、三田編集長の個人的見解が、色濃く出されているからです…」と祝辞を下さった——対立のあとにくる友情とは、こういうものであろうか。

「右翼といいながら、ゴルフ三昧の奴や、クラブを経営しているのもいるんだ」——このパーティーのあとで、石井さんは、痛憤の情を吐露した。

「ウン。むかしの『恐喝の論理』の続編でもやろうか。日ごろ、感じていることを、メモに書き留めておきなさいよ」と私。それからまた歳月が流れる。「石井一昌の憂国の書を出版したいんだ。もう年だから、総括をしておきたい。だれか、書き手を紹介してよ」と頼まれて、まる五年——とうとう、このほど「日本を哭く—祖国の建直し、魁より始めよ」が立派な本になった。

「この本のため、石井のいのちを取っちゃえというのが、現れるかもしれない。だが、自分の信念のために斃れるなンて、カッコいいじゃないですか」と、石井さんは笑う。かつて私は、彼の第一印象を、「粗暴な〝飢えた狼〟」と評した。が、いまも、顔は笑いながらも、眼は、決して笑っていなかった。

この著の、戦後秘史としての価値が大きいことを、ご紹介の第一の理由とする。

(平成七年十二月一日記)

p56下 わが名は「悪徳記者」 東京租界と王長徳

p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。
p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。〝私はニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日逮捕されている。

私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引き続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下ろした日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。 原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。