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編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか!

編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか! 平成11年(1999)4月17日 画像は三田和夫(右端・50歳前後か?)
編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか! 平成11年(1999)4月17日 画像は三田和夫(右端・50歳前後か?)

■□■誰が二度と戦争に行くものか!■□■第7回■□■ 平成11年(1999)4月17日

コソボ紛争のニュースは悲惨な殺戮と死体の山を見てきた私にとって、どうしようもない悲しい現実である。ナゼ、人間は殺し合いに飽きないのか。日刊紙をひろげれば殺人と死体発見の記事が連日つづいている。私が警視庁記者クラブにいた昭和27年から30年の3年間で捜査一課(殺人)が動くのは精々、月に2~3回だった。つまり、戦争の記憶がまだ生々しかった時代だ。

北朝鮮の工作船事件から、戦争法の論議がいろいろとかまびすしい。コソボ空爆の進展を見ても、「後方支援」というのは事実上の参戦である。敵方に攻撃されるのは当然である。“親方・星条旗”がヤレというのだから、政府はやらざるを得ない。残念な事だが、日本は独立国ではないのに、独立国ヅラをしようとするのだから、ムリが目立つ。

これらのすべては、戦後の自民党独裁がもたらせた結果で、その二世議員たちが家業を継いでいるのだから。どうしようもないというのが実態である。それにしても、彼らから「アメリカの一州になろう」という声があがらないのも不甲斐ない話だ。

独立国というのは、領土と国民と、軍刑法を持つ軍を持たねばならない。だから自衛隊はもちろん軍隊ではない。ましてや、日本が軍事大国になるなどの声は牽強付会もはなはだしい。昔の日本陸軍の歩兵操典の第一条に、「歩兵は軍の主兵にして…」(戦友会などで、この続きを訊いたが、もう誰も覚えていなかった)とあった。

米映画『プライベート・ライアン』を見給え。ノルマンディ上陸作戦の米軍歩兵の死屍累々の場面が息をのむ思いで迫ってくる。つまり、歩兵が敵地を占領しない限り戦争は終わらないのだ。米軍の第一騎兵師団が横浜に上陸して、はじめて第二次大戦が終わった。湾岸戦争が終わらなかったのは、米軍の歩兵がイラクを占領しなかったから、フセインは生きのびた。もっとも“アメリカの死の商人”がミサイルの古いのを使わせて新品に換えさせるためという説もある。するとコソボも同じだ。

話がそれたが、日本で歩兵になりたがる若者がいるだろうか。重い装備で歩く兵隊は、即、死を意味する。コンピューター操作でミサイルを撃ったり、航空機の操縦、戦車の運転など、志願者はある程度いるだろう。しかし、歩兵が多数いなければ、軍事大国ではないのである。今の若者に、そんな歩兵になりたがるのはいない、と私は断言する。そして日本では、徴兵制度の立法化ができるハズがない。髪を染めたり、ピアスをつけたり、より享楽的な女の子と遊んでいる方が、よっぽど楽しいではないか。私も、若かったらテレビの深夜番組の下品でブスな女たちを見ながら、センズリを掻く生活を選ぶだろう。 平成11年(1999)4月17日

編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは(つづき)

編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは 平成11年(1999)5月12日 画像は三田和夫50歳前後?(写真中央 正論新聞初期)
編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは 平成11年(1999)5月12日 画像は三田和夫50歳前後?(写真中央 正論新聞初期)

■□■差別用語とは■□■番外編その3■□■ 平成11年(1999)5月12日

たまたま、インターネットをいじっていたら「差別用語一覧」みたいなものに出会った。それによると、「バカチョン・カメラ」はB級として出ていたが、「バカチョン」は出ていなかった。つまり、バカチョン・カメラの流行りだしたころに、これは「差別語」とされたようだ。この言葉の流行りだした時期と「札チョン」の時期とを、キチンと調べるとその相関関係は明らかになるだろう。

と同時に、朝鮮高校生へのいやがらせ事件との関連も必要だろう。先生を「先公」と呼んだ時期も、朝高生⇒朝公⇒チョンコウへの転移が明らかになれば、より明快になろう。

各社の国語辞典の「バカ」の項をみると〔馬鹿・莫迦・破家〕とあり、「馬鹿は当て字。梵語の慕何、または梵語の摩訶羅(無知)の転で、僧侶が隠語として用いたことによる」とある。つまり、佛教関係語が語源だったということだ。

一方、「願人(がんにん)」の項をみると①請願する人、②祈願する人、③願人坊主、とあり、「願人坊主」とは「江戸時代、僧形の乞食。加持祈祷などをして、礼をすすめた俗法師とも。人に代わって祈願や水垢離(みずごり)などをして、銭をもらって歩いたもの」

岩波古語辞典には、「ちょぼくれ・ちょんがれ」があった。「近世、亨保頃から始まった願人坊主の大道芸。錫杖を伴奏として、野卑な文句を口早に語り、ちょぼくれ・ちょんがれと、囃子詞を入れたので、こう名づけた」とある。辞典には“野卑な文句”とあるだけで、その内容は書かれていない。

この時、「僧侶の隠語」であった「バカ」が、バカ・チョボクレ、バカ・チョンガレと唱えられたのではあるまいか。古典落語や江戸時代の浮世絵に、「バカでもチョンでも」という言葉があれば、一件落着となる。これは、私にとっても、これからの研究課題でもある。結論として、私は、この「バカ」と「チョンガレ」との結合語が「バカチョン」の語源だと信じている。従って「バカでもチョンでも」は、日本の古語で、差別語だとは思わないし、差別語としても認めない。

中国を「支那」と呼ぶことは、中国人が不快感を覚えるから使わない、と書いた。すると、「チョン」に韓国人が不快感を持つというのだから、首尾一貫しないという指摘もあった。だが、戦後1979年に初めて中国旅行に行った時、ガイドの中国人が、「シナという言葉は慎んでください」と注意した。韓国にも旅行したが、ガイドは「朝鮮と朝鮮人という言葉は使わないように」としかいわない。つまり、「チョン」が韓国人への蔑称だという説は、戦後ずっと経ってから、札チョンののちの、バカチョンカメラ時代に、「差別をことさらに意識する人たち」によって、言葉狩りの対象にされたのだ、と思う。

韓国旅行のガイドの“朝鮮・朝鮮人”について、私はバスの中で異議を唱えた。「朝鮮ホテルや朝鮮日報が現存するのに、ナゼですか」とたずねた。すると、「韓国人が歴史的な事実からその名を残したのであって、日本人が朝鮮と言うと、植民地時代が思い出させられるから」という。「支那」についても同じだろう。「東シナ海」が現存するのだから。

今回の番外篇を書くに当たって、韓国人に「チョン」の感想をたずねたい、と思った。前回登場した大新聞記者に紹介された、2人の韓国人を探した。1人は三井物産の社員だったが、昨年の9月に退職していた。もう1人は、浦和市で翻訳業をしていたが、転居したと見えて、電話が通じなかった。従って、韓国人には、チョンについての感想を聞くことができなかったのは、残念なことであった。

私は、中学時代から半島出身者の友人がいたし、日大時代もそうだったと書いたことは、私に外国人に対する偏見がないこと、すなわち、差別を意識しない育ちだった、ということを述べたのである。このような学友たちがいたということと、差別の問題とは別だ、というご意見もあったが、外国人を外国人と意識しないでいられる生活環境が、差別をなくする道ではないだろうか。

そしてまた、バカチョンとはバカとチョンをつなげた言葉だ、と受け取る人が意外に多いようである。宇喜多秀家(百済人)の血を引いた「浮田」姓の日本人がいることを書いたが、朝鮮民族がバカだと思う人たちこそが差別主義者である。

南方からの黒潮に乗って日本に流れついた外国人を黒潮民族と呼ぶ。九州南部、四国南部など、黒潮が洗う一帯である。これに対して瀬戸内民族がある。瀬戸内海の沿岸一帯に土着した外国人である。主として朝鮮民族、中国人も含まれよう。

この瀬戸内海沿岸(中国・四国とも)から碁、将棋の名人が何人でているか。もっと具体的に、日本国の総理大臣が、何人でているか、指を折って数えてみたら分かる。つまり朝鮮民族の血を継いでいる日本人の多くが、バカではない、ということである。

岡山県東部の福岡町に居城を構えた黒田家に、秀吉は大阪に近すぎるというので、不安を覚えて九州に飛ばした。黒田一族は博多に移ったが、福岡という地名も持っていったので、福岡と博多が同居するハメになった。同じように、岡山県中部の吉備高原に栄えた吉備文化とは、朝鮮文化である。大和朝廷は、やはり吉備文化に脅威を感じて、これをツブしたのだった。岸、佐藤の兄弟首相も、橋龍も、アーウーの大平首相も、DNA検査をしたら、朝鮮民族だと判明するに違いない。

チョンがどうして、朝鮮半島出身者に対する蔑称なのか? そうしたことを思いこんでいる人たちこそ、差別者である。その言葉の歴史的、合理的な根拠を示されない限り、私は、それを認めない。そして、韓国人にもそう思っている人がいるならば(蔑称と受け取り不快感を覚えるという)、私は、あらゆる機会に誤解を消し去る努力をするだろう。そんな枝葉末節にとらわれず、自分たちの先祖が、どんなに日本に貢献したかの歴史的事実を学んで、誇りに思ってもらいたい。 平成11年(1999)5月12日