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シベリヤ印象記(3) シベリヤ印象記のはじめに③

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年(1999)7月3日 画像は三田和夫66歳(右から2人目ワイシャツネクタイ シベリア会1987.12.05)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年(1999)7月3日 画像は三田和夫66歳(右から2人目ワイシャツネクタイ シベリア会1987.12.05)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年7月3日

私たちを詰めこんだ貨車が、公主嶺から新京(長春)を過ぎ、ハルピンを経て国境の町、満州里からシベリアに入り、進路を西に向けた時から、貨車の中はどよめきが起こった。戦争が終わったのだし、テッキリ祖国日本へ帰れるものだと、誰もがそう思いこんでいたのだから、西に向かったということは、ようやく、自分たちが戦時捕虜になったことを教えてくれた。シベリアに入りながらも、列車は東に走り、ウラジオから日本へという、最後の夢が打ち砕かれたからだ。

簡単に旧軍の組織(建制)を説明しておこう。まず、現役兵(満20歳で徴兵)だけの部隊が甲編成。現役兵と召集兵(満二年の現役兵役を終わり、予備役になっていた者や、兵隊検査で乙種合格だった者なので、年齢は20代後半から30代の者)とが半々というのが、乙編成という。満州に駐屯して、対ソ圧力になっていた関東軍などは甲。私たちのように、中国本土に駐屯していたのは乙であった。関東軍は内地部隊と同じ編成だったが、支那派遣軍などは「野戦軍」と呼ばれ、実質的に臨戦体制だったのである。

それが、前回述べた「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」である。これは組織の名称で、会社の中の局、部、課、班と同じだ。これが甲編成だと、3個小隊(大体12、3名の分隊が4個)で1個中隊。3個中隊で1個大隊。3個大隊で1個聯隊。3個聯隊で1個師団。というのが原則だった。師団長は中将、聯隊長は大佐、大隊長は少佐、中隊長は大尉か中尉、小隊長は少尉であった。

軍は「将校は国軍の楨幹」として、旧制中学2年から入学できる幼年学校、中学4年、5年から入学できる士官学校(幼年学校卒業生を含む。海軍は江田島の兵学校)と、職業軍人を育成した。士官学校を卒業すると見習い士官に進み、半年余りで陸軍少尉に任官する。さらに、大尉になると、軍官僚の養成のため陸軍大学を受験できる。実に、陸軍士官学校を卒業すると、21、2歳で少尉任官、大尉は24、5歳であった。それで「天皇陛下の軍隊」を指揮する能力が養われたのだ。

こうした職業軍人の将校は、時間と教育費を注ぎこみながら、少尉の役職は第一線小隊長だから、戦死率が高くモッタイないというので、予備士官学校を設け、一般兵(徴集)から幹部候補生を募った。試験にパスすると、その成績で甲種(士官適)と乙種(下士官適)とに分けた。甲種幹部候補生が入学するのが、この予備(役)士官学校だった。1年の教育で少尉に任官させ、同時に予備役に編入される。現役の少尉より格下で、消耗品だったのである。

軍は、この予備役将校を乙種編成部隊の下級幹部として活用した。それが、師団(旅団)⇒独立歩兵大隊となる。天皇から賜った軍旗(聯隊旗)がないのだ。独歩大隊は小銃中隊5、機関銃中隊1、大隊砲中隊1の、7個中隊で正規の大隊より大きく、聯隊より小さい組織である。これが支那派遣軍だった。二〇三、二〇四、二〇五、二〇六の独歩四大隊が百十七師団になる(2個大隊宛、八七、八八旅団)のだが、一般の兵隊検査を受け、初年兵として一般兵と同じく訓練と生活をともにしたのち、幹候試験に合格して、予備士官学校に進み、将校になってもとの部隊に帰ってくる。

正規の士官学校では、兵隊と一緒の生活をしていない。エリート将校なのである。関東軍や内地部隊の甲編成部隊では、階級章の星の数が、上下関係のすべてなのである。そういう環境にいた部隊は、捕虜になっても、そうである。だから、団結力とはいえないが、上下関係に縛られるのだった。

それに対し、野戦軍であった私たちの二〇三、二〇五の大隊は、対共産軍、対国府軍との戦闘で、死線を共にくぐってきたので、団結力があった。入ソ当時、この日本軍の建制のままだと、自主管理させるのには便利だったが、抑留が長引き、シベリアの気候風土に馴れてきた捕虜たちに、思想教育するのにはこの建制が邪魔になってきたことは、想像に難くない。

大体からして、満ソ国境の部隊を、米軍の本土上陸に備えて内地に戻し、その穴埋めに北支からやってきた我々は、在満部隊とは異質だった。だから、建制のまま炭坑労働に従事させて1年余り、まず将校と下士官兵とを分離し、将校だけの作業隊で石炭掘りをさせたのだった。そこらあたりが、軍隊に“しんにゅう”をつけて“運隊”と呼ぶように、私たちは労働成績優良ということで、将校梯団の第2陣として、早期に帰国復員できた。丸2年の捕虜生活だった。(つづく) 平成11年7月3日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

シベリヤ印象記(4) シベリヤ印象記のはじめに④

シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫の手紙原稿(シベリア会のみなさんへ1986.12.07)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫の手紙原稿(シベリア会のみなさんへ1986.12.07)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(左から2人目 シベリア会の水上温泉旅行・奥利根館1987.06.21)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(左から2人目 シベリア会の水上温泉旅行・奥利根館1987.06.21)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(右端 シベリア会の水上温泉旅行1987.06.22)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(右端 シベリア会の水上温泉旅行1987.06.22)

シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年8月28日

旧軍隊の組織について、長々と書いたのはほかでもない。60万人の日本兵を捕虜にして、一割の6万人を死なせてしまったソ連だが、この60万人の組織が、在満日本軍のほかに、在支軍、在蒙軍、一般市民に分かれる。それらの出身別を理解しないと、ソ連側の対応が理解できない。

チェレムホーボ第一収容所は、私たち第二〇五大隊基幹の1500名が第一大隊、第二〇三大隊基幹の1500名が第二大隊、在満軍(関東軍は南方転出していたので、その交代部隊)基幹1000名の第三大隊、計4000名の収容所だった。戦闘に勝って捕虜を獲得すると、これを収容する建物と食料とが重大問題である。どうして食わせるかが、頭痛のタネである。コソボの難民問題も同じである。いわゆる南京事件で、日本軍が捕虜を殺したというのは、日本軍でさえ食料に事欠くのだから、正規に捕虜とする前に“処置”してしまった事も、事実であろう。

私たちがチェレムホーボに第一陣として到着した時、ソ連側は食料の準備など、できていなかった。私たちが満州から貨車に積みこんで持ってきた、米、味噌、醤油で、12月頃まで食いつないだのだ。その間に、ソ連側は満州から、日本軍が蓄積していた馬の飼料(コーリャン、アワ、ヒエ、などの雑穀類)を輸送してきて、支給した。

つまり、ソ連側の日本兵捕虜をどうするのか、その大方針が昭和20年いっぱい、決まっていなかったのである。そればかりか、零下数十度の酷寒である。私の体験したのが零下52度。風速1メートルで体感温度は1度下がる。日本人の多くが、初めて体験する寒さだから、作業するどころではない。手はいわゆる軍手の綿、その上に毛の防寒手袋。さらに和紙の入った防寒大手袋をしても、寒さで手がシビれてくる。足も綿靴下、毛の防寒靴下、さらに防寒靴という毛皮裏の靴。そんな重装備でも、足踏みをしながら、手の指を握ったり、伸ばしたり。顔は毛皮つきの防寒帽で耳まで覆っていても、鼻の頭がスーっと白くなって凍傷にかかる。鼻覆いという毛皮で鼻を隠し、露出しているのは目と口だけ。それでも、吐く息でマツ毛に白く氷がつくという始末だった。

米が無くなり、馬の飼料のオカユになって急速に体力が落ちていった。そこに寒さとシラミによる発疹チブス。昭和20年12月から21年3月までの間に、私の推計では800名(2割)が死んだと思う。それも、30歳代以上の召集兵が中心である。20歳代と30歳代との体力の違いが、これほど明らかに、目に見えたのである。

そして、さらに驚いたことには、翌21年の冬である。20年の冬を乗り切った20歳代の連中は、もう身体が酷寒に馴れて、地下炭坑での採炭シャベルを使うのに、胸をハダけて働けることだった。そればかりか、昭和22年の冬の日本で、オーバー不用の寒さ知らず(ついでに、ひもじさ知らず)だった。ただし、23年の冬からは寒かったし、空腹だったのである。人間の身体は1年で風土に同化できることを知った。

ソ連側は、日本兵捕虜を、組織的にシベリア開発の労働に使用し、帰国後の親ソ分子の養成のための洗脳、いわゆる民主化運動を進めたのは、このような無秩序の抑留から、死ぬべきものを死なせたあとの、約1年を経過してからだった。

初等教育も十分でないソ連だから、10月、11月の早朝の寒さの中の点呼で、警備兵たちは、三列に並べて数を数え出すが、十位を過ぎると怪しくなる。五列に並べ直して、また始める。バカらしくて、寒さの中に何十分も立っていられるものではない。大隊長がソ側に交渉して、点呼は日本側の責任でやることになった。

続いて、作業隊の編成、勤務。すべてに日本側の自主管理となった。野戦軍であった私たちは、建制のままで作業隊を組織したのである。一例をあげると、地下炭坑のシトウリヤナは、各中隊から1個小隊宛、朝8時から午後4時、4時から深夜12時、12時から朝8時と、8時間労働の三交代制。三田少尉は三田小隊52名を連れて作業する。そして、炭坑側の要求するノルマ100トンの採炭を完遂すれば、金ダライ(満州からの戦利品の金属製洗面器)一杯のオカユを4人で分配し、ノルマ達成以下だとそれを6人、8人、10人と分配量を減らしてゆく。

この建制の作業は、仲間たちと協力して働くのだから、もう、軍曹も伍長も、上等兵も一等兵も、階級は関係無しだ。だが、礼儀だけはキチンと守られていた。21年いっぱいを経て、ソ連側の管理組織が整備されてくると、この建制のままの捕虜集団では、洗脳教育が難しいことを知ってくる。(つづく) 平成11年8月28日

シベリヤ印象記(5) シベリヤ印象記のはじめに⑤

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年9月25日

昭和21年の5月、ようやくシベリアにも春が来た。5月の春、6月の夏、7月の秋。そして、8月は初冬で、月末には雪が降った。残酷なことだが、ソ連側にいわせれば、死ぬべき者はすべて死なせて、ようやく、本格的な捕虜の労働力を建設に役立たせる時がきた、ということだろうか。

捕虜名簿を作り出し、思想教育のプログラムもスタートした。私が帰国後に知ったことだが、ハバロフスクを中心に、「日本新聞」という宣伝紙を発行し、いわゆる民主化運動が進み出したのである。欧露のエラブカには将校収容所があり、ここから、瀬島龍三(伊藤忠顧問・大本営参謀)が、東京裁判にソ連側証人として出廷したこと。関東軍(在満部隊)の高級将校たちが、戦犯調査にかけられていること。日独のプロ将校たちの対比が際立っていたこと、などなど、いろいろなことが、読売新聞に復職して、引揚担当者として舞鶴に詰めていた私に分かってきた。

そうして考えてみると、21年9月ごろに、建制のままの作業隊であった、チェレムホーボ第一収容所の第一大隊、第二大隊(ともに北支軍)が、まず、下士官兵と将校とに分割された。将校は将校だけで作業隊を編成し、石炭掘りに従事させられていた。と同時に、下士官兵は、同地の他の収容所との間で、入れ替えが進められ、建制を完全に壊したのだ。

当時、第一大隊長だった塚原勝太郎大尉は「将校がどんなに働けるか、ソ連側に思い知らせてやろうじゃないか」と、檄を飛ばした。今までの建制では、三田小隊員54名の健康と作業との兼ね合いに、心を砕いていた私などは、その責任から解放されて、ただ肉体労働に専念できる気軽さにバリバリと働いたものだ。丸1年、シャベルを握りつづけたので、指の内側の丸みの角には、タコができて、手の平は真ッ平になってしまった。このタコがすっかり取れるまで、1年ぐらいもかかっただろうか。

こうして、わずか丸2年の俘虜生活ではあったが、人生体験としては、軍隊の丸2年以上の厳しさがあった。軍隊のそれは、生と死との隣り合わせではあっても、精神的には楽だった。天皇の軍隊ではあろうとも、祖国防衛であり、具体的には親兄弟、家族を守ることだったからだ。

だが、戦時俘虜の境遇は、ポツダム宣言によって、家族のもとに帰れるハズが、日ソ中立条約を破り、8月9日に宣戦布告とともに満州になだれこんできたソ連軍に降伏して、極寒の地に拉致され、強制労働を強いられている。精神がまず参ってしまった。

初めて体験する寒さ。この酷寒に加えて、飢餓である。昭和20年の終わりごろまでは自分たち自身で満州から持ってきた、米、味噌、醤油といった食糧があった。しかし、21年にはいると、手持ちの食糧はなくなり、ソ連側も対応できないための飢餓である。これがつづくのだから慢性飢餓である。

寒さ、飢え、栄養失調に、襲いかかってきたのは、発疹チフス。その間も休みなくつづく炭坑労働——。これを「地獄」といわずして、なんといおうか。

いままで、旧陸軍の兵制について、冗慢と思えるほどに述べてきたが、それは、シベリア捕虜について、理解されやすいように、との思いからであった。第一、私たちを軍隊に引っ張り出したのは徴兵制という、国の法律によってである。しかし、その持ち駒を、自由に、勝手に動かしたのは、陸士、陸大出身の職業軍人たちである。だが、建制のまま入ソしたとき、命令を出すのは、幹候出身の予備役将校しかいない。階級章こそ、少尉、中尉、大尉、少佐と順番があるが、みな、自分たちと同じなのだ。同じ隊にいて、生死を共にしてきた仲だから、「どうしてくれるんだ!」と、文句をつけられない。

中佐、大佐、少将、中将という高級将校。いうなれば、“軍閥”や“その片割れ”はいないのである。これではケンカにならない。団結して、ソ連と戦うしかない。ソ連は団結されたら困るから、建制をブチ壊すのだ。

寒さ、飢え、伝染病、重労働という生活の一断面ごとに書くことは多い。が、それに加えて、スパイである。同胞相争うように、ソ連は、民主化運動を進め、その運動のなかに“密告制スパイ”を作りはじめたのだった。この日本人同士の密告の中で訓練を重ねて「ソ連のための日本人スパイ」の、一本釣りが始まったのである。それは、米軍占領下の日本に帰るのだから、対米ソ連スパイを日本中に配置しよう、という計画だったのであった。昭和21年には、米ソの冷戦は始まっていたのである。

それに対して、米軍だって黙ってはいられない。引揚港・舞鶴に、米軍防諜部隊を配置して、引揚者のひとりひとりを訊問した。在ソ経歴を申告させ、「そこでナニを見たか」「スレ違った列車には何が積んであったか」、何十万という引揚者を調べるのだから、米軍は、居ながらにして、シベリアの全実情をつかんだのである。これを、軍隊用語で「兵要地誌」という。つまり、作戦計画を立てる時の基礎資料である。当時はまだ、偵察衛星も飛んではいなかった。さて、ここから、私の「シベリア物語」は始まる。——スパイのことからである。(つづく) 平成11年9月25日

シベリヤ印象記(10) 眠られぬ夜

シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年(2000)9月11日 画像は三田和夫 66歳(前列左から2人目 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年(2000)9月11日 画像は三田和夫 66歳(前列左から2人目 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
画像は三田和夫 66歳(前列アコーディオンの隣り 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
画像は三田和夫 66歳(前列アコーディオンの隣り 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
戦友会で歌われる「シベリヤの花」「異国の丘」
戦友会で歌われる「シベリヤの花」「異国の丘」

シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年9月11日

ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の“忠誠さ”をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令…と、私には終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後ろからガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——あるいは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子供があるのではあるまいか。

——誓約書に書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限はすでに命令されていることなのだ…。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然…。いや、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして無条件降伏して、武装を解いた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き換えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなこと今更いってもはじまらない。現実の俺は命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。(つづく) 平成12年9月11日

戦友会で歌われる「北支派遣軍の歌」
戦友会で歌われる「北支派遣軍の歌」

シベリア印象記(11) チャンス到来

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年9月25日

私に舞い込んできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの3月8日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼に訪ねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることになるのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の3月8日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから3、4時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明け始めたのだった。3月8日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……9日も終わった。1週間たち、1カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。(つづく) 平成12年9月25日

◇◆◇◆執筆者略歴◆◇◆◇
三 田 和 夫 78歳
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

メルマガ「シベリヤ印象記」は、「~(つづく)平成12年9月25日」とあるが、この(11)が最終回となった。「編集長ひとり語り」のほうは、1年以上後の、平成13年11月22日までつづくが、その間「シベリヤ印象記」の原稿を催促すると、三田和夫は「わかったよ。いろいろ考えてるから」と笑って答えたという。なにを考えていたのかわからないが、そのまま死んでしまった。

「シベリヤ印象記」は、じつはメルマガを含めると、3回も書かれている。

第1回目の「シベリア印象記」は、三田和夫が、昭和22年11月、シベリア抑留から帰還、読売新聞に復職して最初に書いた記事だった。その状況と記事内容は、『最後の事件記者』(p.076~p.087)に書かれている。

読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛

第2回目の「シベリア印象記」は、平成2年8月、ソ連旅行で45年振りにシベリアを訪れた紀行文を、『正論新聞』第587号から連載している。

正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク

つまり、読売新聞「シベリア印象記」、正論新聞「シベリア印象記」、そしてメルマガ「シベリヤ印象記」と、3回も書いているのだ。そんなこともあってか、メルマガ「シベリヤ印象記」の(6)~(11)は、『最後の事件記者』(p.116~p.133)の焼き直しになっていて新味がない。

メルマガの「シベリヤ印象記のはじめに①~⑤」は、78歳になった三田和夫の書き下ろしだが、若いころに書いた『赤い広場—霞ヶ関』『迎えにきたジープ』に比べると、論調がだいぶマイルドになっている感がある。

たとえば、「シベリア抑留60万人・死者6万人」と書いているが、それは、ソ連側・日本政府の公式発表の数字に過ぎない。また、最初の冬に推計800名(2割)が死んだと書いているが、以前はよく「零下50度、最初の冬に約半数が死んだ」と言っていた。『迎えにきたジープ』でも、「春がきて約3割、1200名減った」と数字はもっと大きい。戦後、『キング』に書いた「シベリア抑留実記」では2割だが、ソ連当局は実態を把握させないように、名簿を作らなかったり、収容所間で人員を動かしたりして、証拠湮滅を図っていたのだから真実のところはわからない。

10年前に戦後45年目の平和な時代のシベリア旅行を経験したことや、戦友会で戦友たちのいろいろな話を聞いているうちに、意見が変わった部分もあるのかもしれない。

『迎えにきたジープ』(p.096~p.110)には、証拠の有無は別として、細菌戦や収容所内部の状況、死亡者の扱いについて、三田和夫の体験・疑似体験が書かれている。

できれば、メルマガ「シベリヤ印象記」(つづく)で、『迎えにきたジープ』の続編を書いてもらいたかったものだ…。

編集長ひとり語り第11回 若者たちの実像

編集長ひとり語り第11回 若者たちの実像 平成11年(1999)5月15日 画像は三田和夫66歳(左側 ACT会1987.08.24)
編集長ひとり語り第11回 若者たちの実像 平成11年(1999)5月15日 画像は三田和夫66歳(左側 ACT会1987.08.24)

■□■若者たちの実像■□■第11回■□■ 平成11年(1999)5月15日

女子高生の修学旅行が、札幌のホテルで火事騒ぎを起こした事件について、新聞各紙は大きく報じた。その第一印象からいえば、おりから公判が始まった、和歌山のカレー事件の第一報さながらであった。記事を読んで、私はすぐ思った。「いまどきの社会部のデスクはセンセーショナリズムに毒されているなあ」ということだった。

死亡1、重体1、とは、旅館の大広間での宿泊と違って、ホテルの一室だけが燃えたということ。すると、火事の原因は、漏電か、放火か、失火か、のいずれかである。しかも、第一報の記事は、ドア付近が一番燃えているとまで書いている。さらに、ドアをふさぐようにソファが置かれていた、とも。

案の定、14日夜のニュースでは、室内にマッチの軸木が散乱していたと伝えた。遺留品のタバコの有無も、吸いガラの有無も、書いた新聞はなかった。高校3年ともなれば、もっと自己管理が求められねばならない。新聞紙面も、そのように作られねばならない。

同じように、NATOの中国大使館誤爆の関連記事である。12日付朝日紙朝刊は、[上海11日]付けで、浙江省杭州市の浙江大学での、日本人留学生と中国人学生とのトラブルを伝えた。10日夜の事件だ。12日付夕刊で、産経紙が時事通信記事を掲載、朝日紙は「暴力行為で秩序乱した日本人留学生を除籍」と伝えたが、日中学生の乱闘騒ぎの原因については、まだ書かれていない。

13日付朝刊になると、日経紙が加わり、一段見出し30行ほどの[上海12日発]で、「原因は、中国人学生が貼った米国非難のビラにサッカーボールが当たったのがキッカケ」と報じた。朝日紙は、列車で3時間ほどの杭州市に上海特派員を出張させ、第一報と同じ三段見出しの記事を掲載しているが、「留学生寮の窓に投石、日本批判ビラ10枚以上」とあり、「とても怖い」という留学生の声、という感情的記事である。

14日付になると、東京紙が「本音コラム」で林志行(リンシコウ)・日本総研主任研究員に書かせている。「平和ボケした日本人留学生には、思想的なものなどなく、(米国非難のビラが貼られた)学生向け掲示板をサッカーゴールに見立てて、壁打ち的行為をしていた」のが原因だと明記した。東京にいる林氏が、的確な取材ができるのに、各紙の上海特派員はナニをしているのか。ただし、日経紙は別で、事件は10日夜から11日未明なのだが、「一部留学生は11日午前香港に避難、12日現在21名の留学生が寮に残っている」と伝えている。朝日紙の“感情的”紙面とは違った内容だ。

米国非難ビラが貼られている掲示板に、サッカーボールで壁打ちする日本人留学生の無神経さ。多分、詰め寄られて先に手をだしただろう忍耐の無さ。いみじくも朝日紙の記事にある「外では大きな声で日本語を使えない」とは、彼ら留学生の実態を示している。中国人学生と友達にもなれず、日本人同士だけで群れているのは、アメリカ留学で撃ち殺された連中と同じである。

林氏の期待する「日中間の将来を担う大事な民間大使のはずだ」とは、とうてい及びもつかない、日本人留学生の姿である。同時に、新聞記者たちにも、自戒の鏡であろう。 平成11年(1999)5月15日

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会
編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会

■□■警察腐敗は後藤田亀井が根源■□■第35回■□■ 平成11年(1999)11月13日

最近の警察の紊乱腐敗(びんらんふはい)ぶりには、もう言葉がない。しかし3年の警視庁記者、2年の司法記者として、警察官に多くの知己を持つ記者として、どうしてこの20年ほどにかくも乱れ切ってしまったのか考えてみて、1つの結論を見出した。それが、このコラムの見出しそのものなのである。

後藤田は警察庁長官であった。つまり全警察官のトップだったのである。それが、おのれの政治志向のため、田中内閣で官房「副」長官になる。仰ぎ見た長官が「副」になったのである。行政官としては、警察庁長官も、官房副長官も、ともに次官級職だから、本人も周辺も、格別「副」にはこだわらなかっただろう。

しかし、階級制で維持されている警察組織の、多くの人々にとっては、ナゼ、「副」なんだと、奇異に感じ、後藤田の転身を、自己利益追求のための、ナリフリかまわぬ転身に見えたのだった。ここでまず、警察官全員の精神的支柱をブチ壊したのだった。

政治家としての後藤田は、順調に権力を上りつめ、副総理にまで進んだ。資産公開では、20億以上の財産があった。彼の後を追って、亀井静香も政治家に転身した。キャリアだった彼は、警察のカオを利かせて、パチンコのプリペイドカードを企画した。ノンキャリア幹部達の天下り先と世間をゴマ化したが、頭のいい中国人達に偽造されて失敗した。だが、亀井個人は、これで政治資金ルートを確立し、自民党でもトップクラスの集金力だといわれている。

後藤田と亀井。この2人の先輩後輩のタッグチームに、キャリアたちは、その権力、金力にあやかろうとモミ手をし、部下や現場のことは忘れてしまった。一般の警察官たちは、敏感に様子をみてとって「バカらしくてやってられない」という気分に追い込まれ、それぞれの立場で、金を手に入れようとした…。

なによりも、精神的な切磋琢磨を必要とする警察組織は、上官に対する尊敬と信頼によって、その本来の組織を保持できるのである。それを打ち砕いたのが、キャリアと呼ばれる連中であり、根源は後藤田正晴、亀井静香の両名に集約される。小手先の改革など笑止である。 平成11年(1999)11月13日