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正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 毎日は見る読むに値しない新聞

正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。

朝・毎の政治新聞としてのスタートに対して、読売は、根ッからの大衆新聞として生れてきていた。そして、昭和十年代に躍進をつづけて、朝毎の牙城に迫り、二紙対立の時代から、三紙てい立の時期へと入ってきていたのである。その読売もまた、戦後に〝革命〟を体験していた。二

度にわたるスト騒ぎである。そして、その結果、朝日と同様の体質改善が行なわれていたのである。

毎日は、臆面もなく、軟派新聞の読売と、全く同じような紙面をつくり、真似をした時期があった。しかし、所詮はつけやき刃である。読売のあの独特の、親しみやすい紙面のもつフンイキは出せなかった。この、右顧左べんの間に、読者はグングンと減り、あわてて、本来の政治新聞の立場にもどって、朝日と対決しようとした時は、すでに大きく水をあけられ、もはや、狂瀾を既倒にかえすことはできなかった。

昭和二十三年十月、芦田内閣を崩壊させた昭電疑獄、昭和二十九年一月、山下汽船社長逮捕にはじまる造船疑獄と、この戦後の二大疑獄事件当時、すでに、三大紙の社会的評価は決定していた。というのは、知識人の間では「朝、眼を覚ましたら、まず読売をひろげて〝見る〟。そして、あとでゆっくりと、朝日を〝読〟む」とまで、いわれたものである。つまり、毎日は、全くのところ、見るにも読むにも、値しない新聞であった。

斜陽の道をたどり、急坂をころがりだすと、もはやとどまるところを知らない。そしてまた、〝貧すれば鈍す〟である。この時、毎日社内はどんな状態であったろうか。依然として、情実と派閥に明け暮れていたのであった。

一人の社会部長が動くと、百名ほどの社会部員の六割が移動したといわれる。動かない四割

は、いうなれば、能力のない連中、毒にも薬にもならない連中か、能力があればこその自信で、孤高狷介、親分を求めない連中で、紙面制作の上から、どうしても必要な奴である。そして、これらの連中は、いずれも出世はできなかった。

このような派閥の弊害は、〝人民委員長〟が〝天皇〟となったことに明らかである。本田派に対し、野党の反本田派が生れ、この与野党が、それぞれに各流各派に、また分れていた。そして、志を得ない、師団長はまだしも、連隊長クラスは、次第に子分に見放されて、孤立し、やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。事務当局をろう落して、大臣、政務次官らを恫喝する一方、大臣の人事権をバックに、事務当局にニラミを利かせるといった、手口である。

このようなボス記者は、もちろん原稿などは書かずに、もっぱら〝政治的〟に動くのである。そして、社内の派閥の師団長たちは、これらのボス記者に対し、人事権を発動して、彼らの棲息地である「クラブ」を奪ったりせず、逆に移動させないことを暗黙裡に認めて、師団長の〝出世〟に利用していたのである。つまり、彼らは、師団長に進級して、社内における敵になる恐れがないからであった。このようなボスもまた、前述の、移動しない記者のうちの、一つのタイプであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 大新聞記者の肩書を利用

正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 記者の発言や行動が、役人の人事に影響するところは大である。もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、「ボス」になることは容易である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 記者の発言や行動が、役人の人事に影響するところは大である。もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、「ボス」になることは容易である。

もっとも、このようなボス記者の存在は、毎日だけのものではない。各大新聞社のいずれにも、能力がありながら、社内の系列からハミ出て、記者としての邪道を歩むもの、もしくは、それを本来の目的として、記者を手段として利用するものもある。たとえば、河野一郎の朝日政治部の農政記者から、山本農相秘書官、衆院選出馬といったコースである。ただ、このボス記者の例が、毎日には比較的多く、かつ、他社に比べて、そのボスぶりのスケールが大きいのである。

具体的に示せば、たとえば、警視庁の経済課長と一緒に組んで、砂糖のヤミをやった社会部次長やら、近県所在の自宅に近い小駅に急行を停車させるよう、ダイヤを改正させた運輸省クラブ記者とか、毎日の記者には、逸話の主が多い。これらは、やはり、派閥がもたらした奇型児記者で、しかも、いずれも記者としては志を伸べ得なかったが、退社して社会人として、成功している事実が、彼らの能力を物語っていよう。

私にも、いくつかの経験がある。昭和二十八年二月、前年暮に大事件となった鹿地三橋事件もほぼ落着いて、公判対策としての取調べが進められている時、三橋担当の一警部が鹿地事件の証拠品のハガキ(鹿地から三橋宛のレポ用葉書)を紛失してしまった。そのことを知った私は、完全に裏付け取材を終えてから、その警部の上司である、国警東京都本部警備部長に会いに行った。

この私のスクープが記事になれば、その警部は処分され、将来の出世が期待できなくなる。そんな思いがスクープを握ったよろこびとはウラハラに、私の気持を暗くさせていた。だが、警備

部長は、真向から事実を否定して、「そんな紛失事件などないのだから、部下が処分されることはない」と、言い張る。その〝石頭〟と非情さに怒った私は、記事を書き、本部警備部長が新聞発表をして事実を認め、警部は処分されてしまった。

その事件のあと、私は国警本部(今の警察庁)の幹部たちに、「あんな石頭が都の警備部長をしているなんて、部下が可哀想だ」と力説して歩いたところ、彼はのちにトバされてしまった。そのころは気付かなかったが、のちにいたって、新聞記者が、「一文能く人を殺す」力を持っていることを、改めて思い知らされたのである。

というのは、その年の夏ごろ、銀座のマンダリン・クラブの、国際バクチ事件から、衆院法務委で、フィリピンのバクチ打ちのボスの、テッド・ルーインが、当時のマニラ在外事務所長とのヤミ取引で、不法入国していることが問題となった。そのヤミ取引をした所長は、本省にもどっていた倭島アジア局長であった。この事件のため、倭島局長のヨーロッパへの大使転出の人事予定が御破算となって、東南アジアに変更され、倭島が私を憎んでいたと聞いたのであった。

このように、記者の発言や行動が、本人が意識するとしないとにかかわりなく、役人の人事に影響するところは大である。だから、もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、大新聞記者の肩書を利用するならば、「ボス」になることは容易である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 数千万円のアカデンが残っていた

正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。

本社が、こうして新聞事業の何たるかを忘れて、派閥の対立抗争をくり返している時、出先きのクラブでは、ボス化した記者が「社外活動」に専念するとあっては、もはや、末期的現象以外の何ものでもない。

「毎日が危いそうだ」「今なら、一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、昭和三十六年一月、経営不振の責めを負うて、本田会長は退陣した。(注。昭和二十三年十二月二十二日社長就任。同三十三年一月二十二日会長就任。同三十六年一月会長辞任。その間、社長空席のまま)毎日放送会長へと引退の花道はひかれてあったが、社内での流説は、「数千万円のアカデン(注。未精算の仮払伝票)が残っていた」そうだと、まだ手厳しい。

私が冒頭に、「派閥とボスの集団」と、あえて毎日を評した所以のものはここにあったのである。国敗れて山河あり! 本田親男のあとをうけて、社長に就任した上田常隆の感慨は、そうであったに違いない。人心はもとより、機械も設備も、そして、紙面も金融面も、すべて〝荒涼〟たるものであっただろう。だが、それから五年、上田政権下における、毎日の復興は目覚ましく進んで、それこそ、毎日は奇跡的に立ち直った。と、みられていた。

皇居北の丸の緑を截ってそびえるパレスサイド・ビルの偉観、その中心に位置した毎日新聞は、最新、最鋭の機械化を完うして、立ち直ったかにみられたのではあったが、大森実外信部長の退

職事件というジャーナリスティックな話題に彩られた昭和四十年の移転を機として、いよいよ凋落の淵にのめりこんでいったのだった。

〝アカイ〟という神話の朝日

ここに一通のとう本がある。東京都中央区日本橋室町一の一、京葉土地開発株式会社。

その社名から判断して、京葉工業地帯の不動産屋とあれば、あまり御立派とはいえない会社である。何故ならば、千葉県の東京湾沿いの開発には、〝黒い手〟〝黄色い手〟しきりに入り乱れて、公明党をはじめとして、野党各党が、国会でしきりに追及しているからである。

さる四十三年六月三日付のアカハタ紙は、「利ザヤ六億七千万円、〝黒い会社〟朝日土地、国際興業」の大見出しで、「日通の脱税を調べていた東京国税局の調査で、この二社は千葉市から払い下げをうけた埋立住宅地を、めまぐるしく転売し、半年後に二倍の値段で国に売却していた」旨を報じている。日通福島社長のもとに、朝日土地丹沢善利から、六千万円の裏ガネが流れているのを、洗った結果、判明したというのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 〝黒い霧〟スターたちの群れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

めまぐるしい転売といえば、すぐ思い浮ぶのは、大阪の光明池事件である。これまた、田中角栄代議士の日本電建が、東洋棉花との間でキャッチ・ボール式の転売、とどのつまり、四倍の高値で住宅公団が買いこんだという例である。これはもう一つ、広布産業事件というのがからんできて、東京相互銀行から一億円をダマシとった佐々木環(注。のちほど、板橋署六人の刑事が登場する)、吹原事件の大橋富重、さらには、児玉誉士夫までが登場する、いうなれば、『カゲの政界』オールスター・キャストの事件であった。

さて、とう本の重役陣をみてみると、まずトップに村山藤子氏。いうまでもなく、朝日新聞の由緒ある社主夫人である。続いて、河合良成、岡部三郎の両代表取締役が並ぶのだから、村山夫人は「会長」であろうか。

それから、キラ星の如くつらなる重役陣をトクと眺めて頂きたい。丹沢善利、同利晃父子、福島敏行(もちろん日通である)、小佐野賢治、永田雅一、川崎千春(京成)、江戸英雄(アア、名門〝三井不動産〟)、河田重(日本鋼管)、佐野友二(不二サッシ)、清水富雄、功刀 和夫といったところである。菊池寛実、土屋久男は、死亡で消されている。

社名でハハン、この重役陣でハハーン、うなずかれる方が多いに違いない。だが、村山家の当主夫人が、たとえ、有名な事業家とは申しながら、アサヒ・ビルやフェスティバル・ホール、病院などの経営ならともかく、関西から千葉くんだりの田舎まで出張って、〝黒い霧〟スターたち

の群れに投じられようとは!

このナゾトキを求めて、取材してみると、ヒントがみつかった。「朝日新聞外史」(細川隆元)一九四頁である。昭和二十八年の八月、永田大映社長と村山夫人が、事業のことで会談した際、「常務の永井大三が、近ごろ事ごとに社長にタテついて困る」という話が出た。かの有名な「朝日騒動」のプロローグである。永田社長は、朝日出身の河野建設相に相談して永井常務を朝日から追い出すのなら、公団副総裁あたりのポストを用意して、引退の花道をつくってやるべきだという。そして、同書二〇〇頁には、村山夫妻と、河野、永田の四者会談が開かれるクダリがある。

そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

京葉土地開発の発足は、昭和三十八年八月である。〝河野学校〟の優等生たちに、会長にとカツがれたのは、この「河野との意気投合」だけのエンではない。このグループの中の、巨頭に「朝日新聞に巣喰うアカたちの追出しをお手伝いしましょう」と、まンまと言い寄られたのだといわれる。

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 管財人に朝日広告社の中島隆之

正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

——このとう本の物語る事実。ここに朝日新聞の体質の一部がのぞかれる。ついでにいうならば、河野一郎は農林省詰めの政治記者。緒方竹虎を筆頭に、篠田弘作、橋本登美三郎、志賀健次郎と、朝日出身の政治家は、みな保守党である。

さる四十三年六月二十一日の各紙は、河出書房に対し、東京地裁が会社更生法の適用を認める決定を行ったと報じた。その中の一行、管財人に朝日広告社専務の中島隆之が選ばれた、とあるのを見落してはいけない。

それよりすこし前、五月三十日付の朝日は「河出書房、また行詰る」という、大きな記事を出しているが、それについた「解説」の中に次のような部分がある。

「本の宣伝費は、売りあげの一〇%というのが常識になっているのに、河出の場合は、月間の売り上げ八億円に対して、広告と販売促進に三億円を使った、とさえいわれている」

この記事、まことにオカシイ。広告主が広告媒体をえらぶ時、効果を考えなかったらどうかしている。河出が新聞広告をするのに、スポーツ紙やエロ夕刊紙に重点をおいたとした ら、〝汚職〟の臭いがする、とみられても仕方ないだろう。河出の〝常識を無視した〟(前出朝日記事)広告出稿は、当然、朝日新聞に集中したとみるべきだろう。縮刷版を繰って、各社への出稿比率を調べるまでもあるまい。業界内部の常識である。

河出書房、三十二億円の負債で倒産となれば、その影響するところは大きい。六月一日、中小企業庁が、河出の下請け業者たちの連鎖倒産の防止措置として、百十社に対して「倒産関連保証適用企業」指定の決定を行なったことでも判る。これらの下請けの零細業者たちは、今まで河出の勘定をもらうのに、多くが河出自振りの手形で受取っているからだ。

振出人が河出書房の手形など、もはや反古同然である。どこで割引いてくれるだろう。だが、河出だって商売をしていたのだから、東販、日販などの大手取次店からの集金があるハズだ。取次店振出しの手形が、河出に入れば、河出が裏書きをして、また支払いに使う。このような「廻し手形」なら安全だから、業者たちは、河出の売り掛け金はどうなっている、と騒ぎ出した。

と、そこで、出版界の消息通は、声をひそめていう。

「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」

こうして、今や、出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と、エンサの叫びを放っている。常識を無視して誇大に新聞広告をやる、それで売る、また、広告する、そして売る——この悪循環の揚句の果ての倒産である。いみじくも、前出の朝日記事はいう。

「河出が全集物を昨年たてつづけに出しはじめたとき、業界ではこれを自転車操業のはしりとみて、すでに今日の危機を予想していたといわれる」

業界で予想していたのなら、広告代理店も、新聞社側も知らぬハズはあるまい。広告を掲載

し、料金はガッチリ取り立てる——商売は、トランプのババヌキみたいなもの、とはいいな がら、このトッポさ。朝日新聞広告部は、中身にヤカマしいだけではなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 朝日新聞社の本質をかい間みる

正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。
正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。

業界で予想していたのなら、広告代理店も、新聞社側も知らぬハズはあるまい。広告を掲載

し、料金はガッチリ取り立てる——商売は、トランプのババヌキみたいなもの、とはいいな がら、このトッポさ。朝日新聞広告部は、中身にヤカマしいだけではなかった。

これには、後日譚がある。読売、毎日両社は、その扱い代理店ともども、朝日より深手を負ったことは確かである。そして、会社更生法適用の記事が、読売、毎日共に四段抜きのトップなのに、朝日は二段二十五行。さすがに気がさしたのであろうか。この〝商売〟、新聞社のやることだけに果して、釈然たり得るであろうか。

——ここにもまた、われわれは朝日新聞社の本質を、かい間みることができる。倫理綱領さえ設けて、広告内容の審査を行ない、公然と不掲載を断行する、朝日広告部の姿勢を通して……。

防衛庁と伊藤忠商事をめぐり、自殺者まで出した、いわゆる「機密ろうえい事件」に関して、防衛庁の防衛研修所長が不起訴処分となったことがある。

さる四十三年五月十二日、朝日と読売の記事をみくらべてみよう。

朝日記事。「防衛研修所長は不起訴、機密ろうえい=一段六行=防衛庁機密ろうえい事件を調べていた、東京地検公安部は、十一日、防衛庁防衛研修所長 有吉久雄氏(四十八)の自衛隊法五十九条(秘密を守る義務)違反容疑について、容疑不十分で不起訴処分とした」

読売記事。「防衛研所長は不起訴、機密ろうえい事件=一段十八行=東京地検は、前航空自衛

隊第二技術学校 副校長川崎健吉一等空佐(四十八)の、防衛庁機密ろうえい事件に関連して、防衛庁防衛研究所所長 有吉久雄氏(四十八)(東京都目黒区中央町二の六の六)を、自衛隊法五十九条(秘密ろうえい)違反の疑いで調べていたが、十一日朝、容疑不十分で不起訴処分にした。

有吉氏は、四十年九月から四十二年六月まで、防衛庁長官官房防衛審議官だったが、四十一年末ごろ、港区赤坂の防衛庁内で、朝日新聞篠原宏記者に、職務上保管していた『秘』の表示のある、『第二次防衛力整備計画事業計画案の概要』を閲覧させた疑いで、取り調べを受けていた」

読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、すでに、有吉所長の取調べが報道されており、その結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。

さらにまた、前述した「佐々木環一億円サギ事件」のさいの、板橋署の六人の刑事が、佐々木の愛人宅で入浴したり、ソバ代を踏み倒したという、キャンペーン記事がある。

朝日のキャンペーン記事については、糸川ロケット事件をはじめ、問題にしなければならないものが多くあるので、それは後の機会にゆずって、ここでは、その終りの部分に触れたいと思う。

四十二年八月二十七日付の、読売、毎日には、警視庁が朝日に対し、記事取り消し方を申し入れた旨が報じられているが、そのことは遂に、朝日には掲載されなかった。

読売は、「……と、朝日新聞に報道された問題について、警視庁は二十六日午後九時半から、

槇野警務部長らが、異例の記者会見をし、『一部に誤解をまねくようなことはあったが、入浴、昼寝、昼食代踏み倒しの事実は、きょうまでの調査結果で無根とわかった。このため、朝日新聞社に記事の取り消しを含めた善処方を求めた』と、発表した。……」

正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日は訂正も取消しもしない

正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。

四十二年八月二十七日付の、読売、毎日には、警視庁が朝日に対し、記事取り消し方を申し入れた旨が報じられているが、そのことは遂に、朝日には掲載されなかった。
読売は、「……と、朝日新聞に報道された問題について、警視庁は二十六日午後九時半から、

槇野警務部長らが、異例の記者会見をし、『一部に誤解をまねくようなことはあったが、入浴、昼寝、昼食代踏み倒しの事実は、きょうまでの調査結果で無根とわかった。このため、朝日新聞社に記事の取り消しを含めた善処方を求めた』と、発表した。……」

毎日は、「……といわれた問題について、二十六日夜、槇野警務部長が、朝日新聞社に記事の取消しを含む善処方を、口頭で申し入れた。警視庁が同日まで監察した結果では、同紙に報道されたそのような事実はないという。槇野警務部長の話。調査結果と報道に違う点があったので、記事の取消しを申し入れた。こちらとしては、事実についてたしかめた結果、現段階では捜査員の規律違反はなく、処分を考えていない」

だが、この件について、朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。ただ、九月一日付で、「刑事の言動に配慮、〝脱線事件〟で警視庁」という三段見出しの記事が出た。これによると、「警視庁は三十一日午後『捜査は協力者など、一般市民に細かい心づかいを払う必要があった』と反省、今後は捜査の運営方法を改善し、捜査員の教養につとめるとの方針を明らかにした」そうだが、この警視庁のアッピールは、庁内のクラブ所属のどの新聞にものっていない。

しかもこの記事は、「協力者たちの主張と警視庁調査との食違いは、主として次の三点である」として、次の一段「入浴、踏み倒しの事実はない」との見出しで、槇野談話二十行がつづく。さらにそのあと、「なぜ真実がいえないのか」の一段見出しで、朝日記事の証言者T子さんの談話

十九行がある。いつまで待っても、朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。

六人の刑事の、その妻と子供たち、身内の人々、警察官全般へと、夕立雲のようにモクモクと、黒くひろがってゆく「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。

——これも、朝日新聞のもつ、体質の一部である。古くは「伊藤律架空会見記」の大虚報をはじめとして。

朝日新聞を中心に、「人」と「事件」を通して、現在の新聞が直面している諸問題を解析してゆくため、いくつかの既刊の「朝日論」にも眼を通してみた。

草柳大蔵「現代王国論」の中の「朝日論」は、〝論〟ではなくてCM、もしくは〝入社案内〟である。ことに、「……それほど朝日は、軍閥に抵抗し財閥に汚されず……」(文春刊、同書一三一頁)の一行に、それが尽きるのである。同書の表紙カバーの著者紹介を見ると、「雑誌記者、新聞記者を経て」とあるのだが、いずれも社名がない。

選挙の度に立候補する、ある特殊団体の幹部の肩書に、「元読売記者」とあるのを、私はかねて不審に思っていた。ある日、古い社員名簿を調べてみると、昭和十八年版、八王子支局の末尾に、「八丈島通信員(嘱託)」として、その人物の名前がでていたのである。まさしく、〝元読売記者〟ではあった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 草柳大蔵と佐藤信

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

著者の経歴紹介は、読者にその文章に判断の根拠を与えるもの、でなければならない。フリーの新聞記者という職業がない日本のことだから、社名のない「新聞記者」という表現は、事実をまげてお提灯を書くための考慮であろうか。朝日新聞とは、このような群小〝記者〟に、朝日コンプレックスを抱かせる新聞なのである。

封建制に守られる〝大朝日〟

佐藤信「朝日新聞の内幕」「新聞を批判する」の二著は、これまた、私に非常な興味を抱かせた。社歴十八年、昭和四十年に調査部員に配転された、社会部、学芸部のベテラン記者だった著者は、これを〝侮辱〟と判断して、辞表を郵送して退社した。

だが、会ってみると、彼は依然として〝朝日人〟であり、その一流意識には、いささかの乱れもない。口を極めて、朝日新聞の先輩や同僚を罵るその著書の内容からは、想像もできないことである。朝日新聞の紙面について語る彼の印象は、私にとっては、〝現役の大朝日 記者〟であった。何故かならば、「紙面の勝負」に生きつづけてきた新聞記者であるならば、社の如何を問わ

ずに、「紙面」に対する批判は、常に徹底していたからだ。

群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙はその著書の極端に対照的な内容と相俟って、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

朝日は〝村山家の朝日〟であった。この点は、読売が〝正力の読売〟であるのと、全く同じである。これに比べて、毎日は強力な資本家を持たず、常に、サラリーマン重役によって、右往左往してきたという、体質の差があった。

戦後の朝日と読売の共通点はそればかりではないのだ。長谷部忠・馬場恒吾の代理社長の時期を持ち、それぞれにストライキを経験した。だが、毎日にはストによるお家騒動の体験がない。

けれども、朝日と読売とが、体質的に違う点は、朝日には、編集、業務を通じて、村山派と反村山派があるが、読売には、正力派直系と非直系派とはあっても、反正力派というのがないということである。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 「朝日文化人」(酒井寅吉)の推せん文

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

こうして、全社員九千四百三十三名(昭和四十二年十一月名簿)に及ぶ、大集団の人間関係は、極めて複雑なものとなってくるのである。何故、複雑怪奇になってくるかといえば、東京閥、大阪閥(これは毎日とて同じである。西から東にきた新聞の持つ宿命である。発祥の地と、政治経済の中心との対立である)、それに加えて、硬派新聞(政経中心)の、硬派、軟派閥の対立があり、さらに加えて、反村山派という〝民族問題〟があるのだった。

単一民族の単一国家である日本には、米国のような民族問題の悩みがない。読売がそれである。正力一本である。毎日は、東西の対立こそあれ、朝日のように、反村山という、根源的な対立拮抗の要因がないので、権力の推移が明快単純で、暗さがない。

かつて、読売が立正佼成会に対して、糾弾のキャンペーンを、展開したことがあった。昭和三十一年のことである。このキャンペーンは、見るべき成果をあげることなく、長沼妙佼教祖の過去が、宿場町の娼婦であったということで、お茶を濁して転進せざるを得なかったのである。

この時の教訓は、宗教団体というのは、外部からの圧力には、内部問題はタナあげにして団結し、徹底して組織自体を守るということであった。歴史にまつまでもなく、宗教団体は、内部崩壊以外では倒れない。つまり、読売のキャンペーンが、偶発的にスタートしたもので、十分な内

偵と準備とをしていなかったから、内部に腐敗がありながら、いわば佼成会に〝団結の勝利〟を謳わせる結果となったのであった。

朝日の強さもここにある。長い社の歴史の間に培われた、「大朝日」意識は、もはや信仰に近い形で、全朝日新聞社員の中に、根を下ろし切っているのである。伝統である。

それだから、いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「朝日文化人」(酒井寅吉)という本の推せん文を書くに当って、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

一体、この信仰に近い形にまで高められ、定着した「大朝日」意識とは何であろうか。やはり、昨日、今日の成り上りとは違った、伝統と実績の然らしむるところであろう。細川隆元(注。大正十二年入社、政治部長、ニューヨーク支局長を経て、終戦時の東京編集局長、昭和二十二年、編集局参与で立候補のため退社。現社友)によれば、大正十二年四月入社組が、日本の新聞の最初の試験入社組で、約二百五十人の受験者から十五人が採用されたという。そして、こののち試験入社組は、「練習生」と呼ばれて、朝日の人脈の中心となるのだ。「月給は普通採用の者より十円も多く(注。七十五円)、社内でもあまりコキ使ってはならぬといわれている。君たちが朝日の幹部になるんだからネといわれた」という。(「朝日新聞外史」)

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 練習生制度が「大朝日」意識の根幹

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。

大正十二年の新入社員月給が七十五円。このベラボウな高給が、やはり、朝日の伝統となってゆくのである。私が、読売に入社した昭和十八年十月。戦前、最後の試験入社組、採用と同時に、見習社員である。朝日の練習生に相当しよう。試験によらない入社組は、準社員と呼ばれていた。軍隊の階級でいえば、見習士官と準士官の差である。

その時の私の月給が、俸給六十五円、物価手当二十円の計八十五円。貯金八円、税三円五十銭のほか、健保や積立金をひかれて、手取り七十円三十銭である。大正十二年から二十年後の読売の初任給が、朝日と同じだということである。

朝日の、この練習生の精神教育というのが、まさに日本陸軍の士官学校と同じである。幹部候補生を教育する予備士官学校は、あくまで下級幹部の養成である。現役志願をしても少佐どまりで、やっと中堅幹部だ。だから幹部候補生は、一般兵と全く同じ生活、教育訓練を経てくるので、残飯喰いから馬グソ拾い、ビンタからホーホケキョまで体験して学校に進む。

だが、大将、元帥へと進む士官学校では、エリート少年だけを集めて、汚濁にもませることなく、徹底した指導階級の育成をめざしている。三代将軍家光の宣言「予は生れながらの将軍にして」と、全く同じである。朝日の「練習生」制度は、士官学校の士官候補生制度と、軌を同じゅうしていよう。大正十二年から、ほぼ半世紀も続いてきた、この練習生制度が、「大朝日」意識の根幹である。

細川隆元の大正十二年で二百五十人に十五人、佐藤信の昭和二十三年で二百人に一人(同期七人採用)という競争率もまた、当時の俊秀を集めた、士官学校、兵学校の競争率に匹敵するであろう。ちなみに、昭和十八年の読売は五百人に十人採用であった。大正十二年の朝日と、俸給、競争率がほぼ同じである。

だが、軍隊には下士官、兵という〝汚れ役〟がいるが、軍隊の戦闘にも似た、記者の取材戦争で、練習生の将校ばかりでは、一体、誰が兵隊の〝汚れ役〟をやるのか?

ある練習生記者の一人がいう。「そのために、コドモさん(注。給仕あがりの記者)がいるんだ」

草柳大蔵はいう。「待遇制度のような措置をつくり、社員として出世するコースのほかに、記者として完成するコースを設けていることだ。いわば、朝日の記者街道は〝二車線〟になっている」(現代王国論)

ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。練習生以外の社員である。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。

正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 醜い人間関係と身分制度

正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。

〝面喰いの朝日〟という言葉もある。「緒方竹虎は一面貴族的な風格もあり、いわゆる朝日新聞を対外的に代表するのに、打ってつけの風貌と風格を備えていた」(細川隆元)ことが理由で、美土路昌一が明治四十一年入社、緒方が三年おくれての後輩だが、社内での序列では、反対に緒方が美土路より三年ぶり先んじていたといわれている。「緒方にくらぶれば、美土路の短軀な風貌は、決して見栄えがしなかった」(細川隆元)だからである。

現役である限り、外部から、練習生と非練習生との差別は判らない。私も、多くの記者クラブで、朝日記者たちと付き合ったが、この差別を知らなかった。もちろん、社員名簿をみても特記されていない。

しかし彼らの内側では、この階級社会が厳存しているのである。練習生の誰も彼れもが、私の知っている朝日記者の一人一人について、即座に、何年組か、練習生か、それ以外かを、打てば響くように答えてくれる。彼らの関心の深さを物語っていよう。

そして、給仕出身記者の現職を名簿でみる時、草柳大蔵流に「朝日の記者街道は〝二車線〟」などと、美化した表現を用いて、現実をおおいかくすことに、憤りさえ感じたのだ。そしてまた、〝面喰いの朝日〟は練習生であることの要件の一つに、端正な、知的な〝ジャーナリストら

しい〟容貌が求められているのを知った。朝日社員で造作が悪いのは、練習生でないと知るべきであろう。細川隆元の意識にさえ、「朝日を代表するに相応わしい顔」という、貴族趣味がひそんでいる。

あてはめてみるならば、東京と大阪、硬派と軟派、村山派と反対派、練習生と無資格者の対立が錯綜複雑化しているのだから、〝病めるアメリカ〟以上である。外部からはうかがうこともできない、この醜い人間関係は、その身分制度と相俟って、内部では血みどろな権力闘争を繰りひろげている。「新聞社とても、所詮人間の集りであり、嫉視、反発、陰謀、抗争、謀略、憎み合い、相互扶助、忠誠、愛社、親和、美談、悲喜劇、ありとあらゆる人間性露出の場であることに変りがない」(細川隆元)と、社友さえも認める。

外部から眺める限り、朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.174-175 5章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.174-175 5章トビラ 5 正力コンツェルンの地すべり
正力松太郎の死の後にくるもの p.174-175 5章トビラ 5 正力コンツェルンの地すべり

正力松太郎の死の後にくるもの
5章トビラ
5 正力コンツェルンの地すべり

正力松太郎の死の後にくるもの p.176-177 郷土には人材が多く後進に道をゆずる

正力松太郎の死の後にくるもの p.176-177 その筋からクレームがついて、削除するようにとの指示が出された。私が〝感慨をこめて〟この記事をみつめていたというのは、その削除の指示があったればこそなのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.176-177 その筋からクレームがついて、削除するようにとの指示が出された。私が〝感慨をこめて〟この記事をみつめていたというのは、その削除の指示があったればこそなのであった。

正力代議士ついに引退す

さる四十四年三月三十日、日曜日の朝刊を、私は深い感慨をこめてみつめていた。

「正力代議士が不出馬を声明、次期衆院選」という、一段八行ほどのベタ記事が、読売の二面の一隅に、さり気なく、おかれていたからである。

前記の読売記事に対し、朝日は三十二行にわたり、本人談話までそえている。つまり、詳しく書いているので、それを引用する。

「正力代議士が政界引退表明。(高岡)富山県二区選出の自民党代議士正力松太郎氏(八三)—読売新聞社社主—の秘書土倉宗明氏は二十九日午後、高岡市内の旅館で記者会見し『正力代議士は、今期で政界を引退し、次の衆院選には出馬しないことを決意した』と発表した。

土倉氏の話によると、今月はじめ熱海で療養中の正力代議士から女婿の小林与三次読売新聞副社長に国会の解散が近いようだが、次期衆院選への出馬を断念し、これから手がけようとしてい

る大テレビ塔建設などの事業に専念したい。このことを地元の支持者に相談してほしいと連絡があり、九日に支持者代表を東京に招いて、自らその決意を伝えたという。地元では同代議士の政界引退は確定的と受取っている。

正力代議士の話。私は昭和三十年から十余年間、国会生活を送ってきたが、次期衆院選には立候補しないことを決意した。八十三歳だが、きわめて元気で、そのうちに自らの手で大テレビ塔などの事業を完成させることが、国家社会の発展に寄与することだと思う。郷土には人材が多く、後進に道をゆずることが最善だと考えている」

毎日紙もまた一段七行のベタ記事で、このような詳しい雰囲気は伝えていない。しかし(高岡)とクレジットのついた現地記事なのだから、「正力代議士の話」というのも、現地での発表談話とみられる。朝日紙にはその談話があり、読売紙にないのはオカシイと思って取材してみると、最後の部分「郷土には人材が多く、後進に道をゆずることが最善だと考えている」の部分に、その筋からクレームがついて、削除するようにとの指示が、読売には出されたことが判明した。

私が、〝感慨をこめて〟この記事をみつめていたというのは、その小さなできごと——削除の指示があったればこそなのであった。

常日ごろから、といっても、私が読売記者の肩書を離れて、新聞というものを客観的に眺め得

るようになってからだが、「新聞界の大偉人・正力松太郎」と、私は正力のことを畏敬の念をもって語る。その正力松太郎と、〝正力コンツェルン〟との苦悩が、一度発表した談話の一部分を再び削除するという、〝小さなでき事〟にまざまざと現れていると私は感ずるからである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 ささやかれていた〝ポスト・ショーリキ〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。

私が、〝感慨をこめて〟この記事をみつめていたというのは、その小さなできごと——削除の指示があったればこそなのであった。

常日ごろから、といっても、私が読売記者の肩書を離れて、新聞というものを客観的に眺め得

るようになってからだが、「新聞界の大偉人・正力松太郎」と、私は正力のことを畏敬の念をもって語る。その正力松太郎と、〝正力コンツェルン〟との苦悩が、一度発表した談話の一部分を再び削除するという、〝小さなでき事〟にまざまざと現れていると私は感ずるからである。

読売について論じようとするならば、正力松太郎と二人の息子、亭と武。女婿の小林与三次、さらに〝正力コンツェルン〟とよばれる、系列下の数多い事業という、その客観情勢の検討から始められなければならない。

某誌に書いた朝日論のために、私は会社側として渡辺誠毅取締役にインタビューして、結びの言葉としてこう書いた。

「渡辺は、このときはじめて、静かな闘志を瞳に輝やかせて、答えたのである。
『部数競争が、新聞のすべてではない。しかし、部数がトップであるということは、大切なことだ。社員の士気からいっても、朝日はこの競争にも勝ち抜く』と」

正力松太郎という人物を、「偉大なる新聞人」と讃えるのに、誰が反対できるであろうか。この渡辺誠毅、経済部記者の出身から、広岡社長の後継者と目され、四十三年十二月二十六日に取締役、さらに四十四年三月に常務となったほどの人物である。

その渡辺をして、闘志をわかせて「この競争にも朝日は勝ち抜く!」といわしめるほどの、読

売新聞の部数の伸びの脅威、四十三年十月現在のレポートによれば、朝日の五百六十一万部強に対し読売は五百二十一万部弱と、その差は四十万にすぎないという追い上げ方である。

正力松太郎。明治十八年四月十九日生れ。明治四十四年七月、東京帝大独法科卒業、大正十二年十二月、警視庁警務部長。同十三年二月、有限会社読売新聞社長となった正力は、当時わずかに二万の発行部数だったものを、十年を経て八十万、十二年で百万、十五年で百五十万という部数に育てあげたのであった。

追われる朝日は明治十二年の創刊。百年の歴史の朝日を、五十年で追いつめているのであるから、正力の偉大さがわかる。そして、私の判断では、読売が朝日を追い抜いて、日本一の発行部数を誇る日の勝負は、近々のことだと思う。

そして、多くの人々の間でささやかれていたことは、「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」ということである。〝ポスト・ショーリキ〟——前記の引退談話は、「八十三歳だがきわめて元気で、(元気でいる)そのうちに大テレビ塔を完成……」というのだが、四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。

読売新聞社(東京)を中心に、北海道と北陸は支社となって、東京管内にある。大阪読売新聞社は別法人で独立し、西部(北九州市)は読売興業の経営。読売巨人軍も同様に、読売興業の新聞部、野球部にそれぞれ属する。報知新聞社、報知印刷所もまた別法人。日本テレビ放送網、よ

みうりランドなど、正力が会長となるか、読売新聞の重役が役員に列しているかなどで、これらを総称して〝正力コンツェルン〟とよばれているものだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 正力の息子武が日本テレビに入社

正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。

読売新聞社(東京)を中心に、北海道と北陸は支社となって、東京管内にある。大阪読売新聞社は別法人で独立し、西部(北九州市)は読売興業の経営。読売巨人軍も同様に、読売興業の新聞部、野球部にそれぞれ属する。報知新聞社、報知印刷所もまた別法人。日本テレビ放送網、よ

みうりランドなど、正力が会長となるか、読売新聞の重役が役員に列しているかなどで、これらを総称して〝正力コンツェルン〟とよばれているものだ。

さて、異変は四十三年秋、日本テレビの掲示板に貼り出された、小さな一枚の紙切れからはじまりだした。

予防注射をうけろだとか、落し物があったとかいうような、つまらない小さな掲示があるばかりの掲示板は、大きな紙で多数の人名が書かれている人事異動の辞令が出ている時以外は、あまり局員の注意をひかないものなのである。その紙切れもまた、しばらくの間は人々の注意をひかなかった。それほどに目立たないものであった。

しかし、内容は重大なことであった。もう在任して一年ほどにもなっていた、柴田秀利専務が「退社いたしました」という、お知らせなのであった。資本金十二億、株主数二、四七三人、東証一部上場、従業員一、四九〇人という、一流TV会社の専務が退社するにしては、あまりにも突然で、あまりにも素っ気ないことだった。

柴田といえば、正力が戦犯容疑で巣鴨入りしている間の、〝留守役社長〟馬場恒吾の側近であった。当時何かと接衝の多いGHQの通訳としてであった。やがて、馬場から正力へと政権が譲り渡されてからは、あまりパッとしなくなったが、いつの間にか二十七年十月に創立された日本テレビに移っていた。局員たちの印象では、「柴田さんは、ジイサマ(正力の愛称)とたびたび衝

突しては、何か出たり入ったり、また出たりの感じだった。が、局員とは全く隔絶した形で、コミュニケーションはなかった」という。だが、三十二年五月には取締役となった。

そこに、四十一年十月、正力の息子武が日本テレビに入社してくる。正力武。昭和九年五月十三日生。三十四年三月、早大理工学部卒業。日本電気精器に入社して、二年後にはアラビヤ石油に移る。アラ石に五年半ほどいて、ヒラで日本テレビに来たのである。若い時には、他人のメシをくわせるという、ジイサマの主義なのであろうか。

そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。武はヒラで入社したものの、翌年七月には審議室長という要職に進み、四カ月後には取締役となった。武取締役・審議室長に配するに、柴田専務である。——その柴田が去ったのである。その退社の事情について、何の説明もされなかった局員たちには、こんなルーモアが流れてきた。「その直前の創立記念パーティで、ジイサマの式辞を柴田は自分で書かずに他人に書かせ、それに眼も通さず渡した。ジイサマは読んでしまってから立腹した。その衝突が原因だ」と。

パーティの式辞原稿で大会社の専務が退社するとは、このルーモアが示すところに、現在の日本テレビの体質があるのであるが、それは後述しよう。

ともかく〝地すべり〟は始まり出した。そのころ、四十三年十月二十四日には、正力タワー

(日本テレビ大テレビ塔)の起工式が行なわれており、同十一月二十九日の株主総会では、取締役九人の増員を決め、正力亨報知新聞社長が、新取締役に加わり、副社長に選任されたのであった。と同時に、正力武は日本テレビ取締役のまま、株式会社よみうりランド常務取締役となり、管理部長を兼ねることとなった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 亨は報知との縁は全く切れた

正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。

パーティの式辞原稿で大会社の専務が退社するとは、このルーモアが示すところに、現在の日本テレビの体質があるのであるが、それは後述しよう。
ともかく〝地すべり〟は始まり出した。そのころ、四十三年十月二十四日には、正力タワー

(日本テレビ大テレビ塔)の起工式が行なわれており、同十一月二十九日の株主総会では、取締役九人の増員を決め、正力亨報知新聞社長が、新取締役に加わり、副社長に選任されたのであった。と同時に、正力武は日本テレビ取締役のまま、株式会社よみうりランド常務取締役となり、管理部長を兼ねることとなった。

つづいて、十二月三十日に報知新聞は、臨時株主総会と取締役会を開き、正力亨社長と大江原矯専務の辞任を承認し、新社長に菅尾且夫(読売西部本社専務)を選んだ。傍系の報知印刷所も享会長と棚橋一尚社長の辞任を承認、岡本武雄(元産経常務)を社長に選んだ。

つまり、これで、亨は報知新聞社長、報知印刷会長を共に退陣し、報知との縁は全く切れたわけである。読売興業やランドの平取をのぞけば、日本テレビ副社長一本になったということになる。ついでながら、大江原は旧報知(昭和十八年の読売と報知の合併以前をさす)出身で、戦後の読売と報知分離時代から、一貫して旧報知人代表の格で、報知の経営に関与してきたのであったが、彼の退陣で、もはや〝旧報知〟という感触は全くなくなったことを意味しよう。報知印刷を去った棚橋は、読売の編集庶務部長、地方部長などを経た記者出身であった。

この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。

報知新聞のドロ沼闘争

麹町から国会へ抜ける隼町一帯は、そのころのどかな春の陽気とはウラハラな、重苦しい雰囲気が立ちこめている。報知新聞があるからである。社屋玄関には、「労協改悪反対」「組合つぶしをやめろ」「岡本体制、断固粉砕」などのアジビラが、不動産屋の入口さながらに貼りまわされ、赤、青の腕章の若者たちが徘徊している。近くの喫茶店に立ち寄っても、この腕章たちがタムロしていて、コーヒーをたのしむ気にもなれない。報知労組のドロ沼闘争のせいである。五月三日付の報知は休刊になったほどだ。

報知の戦後史について語らねばならない。戦時中の新聞統合で、「読売報知」となったものであるが、読売の銀座の本社ビルは焼け、現在の十合デパートの場所にあった報知の社屋は残った。読売はそこで編集されていた。やがて、報知が娯楽紙として再刊されることになって、社会部長から企画調査局長となっていた竹内四郎が、社長として赴任した時は、銀座の本社ビルの裏、東電銀座支社隣りの木造二階建てバラックの社屋であった。

読売の部長、局長として、大型車に乗っていた竹内は、社長になったために、田舎医者がよく

乗っていた細い車輪のダットサンの小型車に、きゅうくつそうに乗らねばならなかった。当時の報知にはこんな社長乗用車とサイドカー程度しかなかったようだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は〝報知新聞中興の祖〟となった

正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。

読売の部長、局長として、大型車に乗っていた竹内は、社長になったために、田舎医者がよく

乗っていた細い車輪のダットサンの小型車に、きゅうくつそうに乗らねばならなかった。当時の報知にはこんな社長乗用車とサイドカー程度しかなかったようだ。

床のキシむ裏二階の社長室は、昼間から電燈をつけねばならなかった。読売では冷遇されていた、といわれる竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。当時、関節の奇病に倒れ、やはり不運をカコっていた、竹内社会部長当時の筆頭次長であり、文化部長を経ていた森村正平を、半身不随の身体のまま、報知編集局長によんで、竹内—森村コンビの「報知新聞」が出された。業務面は、さきの大江原が協力した。報知は折からのスポーツ・ブーム、レジャーブームにのって、グングンと部数をふやした。竹内は社会部時代の旧部下を好んで報知によび、竹内体制を固めていった。

竹内の後任として、文化部長から社会部長に着任した原四郎が、やがて、読売の編集総務となり、出版局長へとすすんで、取締役に列した昭和三十三年、竹内はまだ読売本社ではヒラであったし、三十五年になって、ようやく役員待遇となっている。

そんな不満もあったに違いない。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。こうして、ダットサンはやがて外車となり、取材のサイドカーも、雨に濡れないセダンとなり、報知の旗をなびかせた取材の車が、銀座を行き交うようになったのである。

現在の平河町の新社屋が竣工して、事実上、竹内は〝報知新聞中興の祖〟となったが、それからまもない昭和三十八年四月二十一日突然に病を得て死んだ。森村もまた、読売本社出版局に帰っていたが、後を追うように、四十三年一月十八日、こうじた宿痾のため、世を去った。

竹内の後を襲って、正力亨が社長となった。亨の経歴をみると、昭和十七年十月、慶大経済を繰りあげ卒業。二十一年五月、王子製紙入社、三十一年六月、読売事業部入社、三十三年五月、関東レース倶楽部取締役、三十四年六月、読売監査役、同十二月、読売興業取締役、三十五年六月、読売取締役、三十七年十二月、読売興業副社長、三十八年五月、報知社長、同六月、報知印刷会長、三十九年読売興業代取専務、四十三年一月、よみうりランド取締役、同十一月、日本テレビ副社長というものである。

竹内の遺した報知の幹部は、ほとんどが読売の編集出身であった。沢寿次編集局長、藤本憲治総務部長、羽中田誠社長室長といった人たちは、みな社会部記者たちである。沢の後任、村上好信は地方部長、棚橋もまた同じである。そして、報知は部数の増加とともに社員もふえて、あの銀座のウラ店の二階を知らない人たちばかりになってしまった。

報知労組が、そして常に共闘する報知印刷労組が、いわゆる〝強い組合〟になってしまって、報知が〝会社でない〟状態にまで陥ってしまった遠因はここにあった。いま、隼町界隈でみる、あのウソ寒いドロ沼闘争の芽は〝中興の祖〟竹内の衣鉢を継ぐものに、人を得なかったというに

ある。

読売梁山泊の記者たち p.142-143 スパイ誓約書

読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…
読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白い紙

を取り出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとう来るところまで来たんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキ!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。「漢字とカタカナで書きなさい」

「チ、カ、イ」(誓)

「…」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「……」

「今日の日付、一九四七年二月八日……」

「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで、静かに眺める余裕がでてきた。

最後の文字を書きあげてから、捺印をと思ったが、その必要がないことに気付くとともに、「契約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——「ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)、一カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショー」(終わり)

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も

立 ち上がった。

読売梁山泊の記者たち p.144-145 終身暗いカゲがつきまとう

読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。
読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが…

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立

ち上がった。少尉がいった。

「三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉ということを、忘れぬように…」

ペールヴォエ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然、ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた、つぎの命令……と、私には、終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体ある限り、その肩を後からガシッとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーが何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは十分すぎるほどに、判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められれば、の話

だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には、妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは、当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装を解いた軍隊を、捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを、いまさら、いってもはじまらない。現実のオレは、命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラック(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

読売梁山泊の記者たち p.146-147 このナゾこそ例の誓約書

読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。
読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイのバクロをやってのけられるのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然、収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校のだれかれにたずねてみたが、返事は異口同音の、「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では、他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンと、バラックの二重扉の開く音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ、胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起こり、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明けはじめたのであった。三月八日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終わった。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現われなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口(ぐち)だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカ

でダメ押しのレポも現われないまま、懐かしの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔。復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿。肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者。そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

私は、このナゾこそ、例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように、〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会でKという引揚者が、ソ連のスパイ組織の証言を行なった。その男は「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて、「日本新聞」の編集長まで、ノシ上がった男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

「チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう」

「何をいってるんだ。今まで程度のデータで何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか」