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編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて

編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて 平成12年(2000)12月9日 画像は三田和夫60代くらいか
編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて 平成12年(2000)12月9日 画像は三田和夫60代くらいか

■□■反権力の一途に生きて■□■第54回■□■ 平成12年12月9日

むかし、徳田球一という共産党の大ボスがいた。「獄中18年」といわれ、日本の敗戦後に、マッカーサーによって合法化された、現在の日本共産党の初代書記長だった。が、昭和25年の朝鮮動乱後、日共幹部が追放され、中国に亡命して客死した。

そのわずかな合法時代。日比谷公会堂での演説を聞いて、“反動読売の反動記者”と左翼から呼ばれていた私が、取材で来たことも忘れ、興奮して、拳を握り、手を振りあげて叫んでいたことを覚えている——それほどのアジテーターだった。大衆を前にして、彼らをトリコにしてしまうカリスマ性だった。

ちなみに、同じアジテーターでも、小人数の聴衆を引きずりこむのが、元参謀の辻政信だった。動と静、対照的な2人のアジテーター。もちろん、新聞記者である私は、この2人のアジテーターに、自分が煽られていることを、客観的に見つめている、もうひとりの自分がいることも、忘れはしなかった。

なぜ、愛称・徳球の話を持ち出したか、といえば、さる12月2日、市谷の私学会館で、「石島泰弁護士を偲ぶ会」が日本国際法律家協会有志によって催されたからだ。そして、彼の弁護によって、無罪の判決を受けた元被告たちの、故人に対する感謝の言葉を聞いているうちに、石島の遺影にダブって、徳球サンの顔や姿が思い浮かんだのだった。

石島と私とは、小学校から府立五中卒業までの10年間ほど続いた級友だった。彼ともうひとり、同じ小学校、中学と歩んだ三ヶ月章とが、一高、東大というエリートコースを歩んだまでは知っていたが、五中の卒業級友会以後、この2人と会うことはなかった。

戦争、敗戦という混乱が、さらにその機会を与えてくれなかった。昭和18年、日大を出た私は、読売新聞に採用されたのち、出征、シベリア捕虜2年を経て、読売に復職。司法記者クラブに所属していた。その当時、「自由法曹団という左翼系に、石島というツワモノがいる」と、耳にはしていたが、石島泰とは結びつかなかった。何故かならば、一高、東大の秀才は、権力志向だから役人になるものだ、という先入観が私にあったからだ。

読売復職後、私が、最初に書いた署名原稿の「シベリア印象記」が、反ソ的だというので前述のようなレッテルを貼られていた。そして、メーデー事件の公判で、“共産党”のレッテルを貼られた被告のひとり(東大大学院学生)が、家庭教師の職を失い、生活に窮して、分離公判を申請した。その取材をした私が書いた記事には、「共産党はお断り」という大見出しがつけられた。

ところが、彼は東大内で吊るし上げられたので、「読売記事はデマだ」と弁明して、その取り消し要求のため、自由法曹団・石島弁護士とともに、社にやってきた。受付からの電話で、私は緊張した。アノ石島が現れた! というのだ。編集局の応接室のドアをあけて、その顔を見たトタン、私は叫んだ。「石島というのはお前か!」「三田というのでもしやと思ったが、やっぱりお前か!」と石島。劇的な再開シーンに、情けなさそうな表情の被告。

それからのち、石島の弁論を法廷で何度か聞いた——明快な論旨、タタミこむ声量と弁説。法廷には、緊張感がみなぎるのだった。それは、アジテーションではないが、十分な説得力で、裁判官も検事も、傍聴席をも巻き込んで、興奮させる。それこそ、徳球張りの演説だった。

自由法曹団気鋭の左翼弁護士と、反動読売新聞切っての反動記者という、対照的な二人の交際は、ともに事務所が銀座だったので、奇妙につづいていった。当時の共産党員にはヒューマニストが多く、石島もそのひとりだ。

一方、もうひとりの同窓・三ヶ月章はどうなったか。東大卒業後、大学に残り、講師、助教授、教授、名誉教授と進み、最後は、小渕内閣で法務大臣という、権力の途を歩んでいった。私が石島を尊敬するのは、一高、東大というキャリアから、望めば権力側での大成が期待されるのに、終始反権力の道を選んだからである。

石島の訃報は、一般紙にも出たのに、赤旗には載らなかった。私の憶測では、共産党を除名されたのではないかと思う。それは、「田中角栄の弁護を引き受けてもいい」という、刑訴法321条の問題。ロッキード事件で、有罪の決め手となったコーチャン調書の証拠能力への疑念問題で、左翼は猛然と石島批判を展開したからである。(この件は月刊文芸春秋10月号、蓋棺録に詳しい)スピーチを指名された私は、こう結んだ。「…二人の同窓生、三ヶ月は法相をやったので、死ねば勲一等でしょう。しかし、石島には、遺影だけでナニもありません。それが、私をして彼を尊敬せしむるのです」と。 平成12年12月9日

編集長ひとり語り第55回 ご無沙汰してました!

編集長ひとり語り第55回 ご無沙汰してました! 平成13年(2001)9月15日 画像は三田和夫38歳(中央鈴木英夫監督の右隣・向かって左側のメガネ・背広ネクタイ・ポケットチーフ/鈴木監督の左隣は三橋達也と司葉子 三田和夫原作の映画「鍵を握る男」スタッフ一同(公開時タイトルは「非情都市」1959.12.28)
編集長ひとり語り第55回 ご無沙汰してました! 平成13年(2001)9月15日 画像は三田和夫38歳(中央鈴木英夫監督の右隣・向かって左側のメガネ・背広ネクタイ・ポケットチーフ/鈴木監督の左隣は三橋達也と司葉子 三田和夫原作の映画「鍵を握る男」スタッフ一同(公開時タイトルは「非情都市」1959.12.28)

■□■ご無沙汰してました!■□■第55回■□■ 平成13年9月15日

「やあ、やあ!」肩と腰をかがめながら、顔の前に出した手刀を引っ込め、「どうも! どうも! どうも!」…何しろ半年以上も、原稿をサボったのだから、テレ隠しにはこのスタイルしかない。

だが、理由もあったのである。何しろ35年も続けた正論新聞の後半の15年ほどの事務所の撤収作戦があったのである。

そして2001年の2月にそれらが完了すると、なんとシャックリ病に襲われて、食欲がなくなり、見る見るやせこけて、戦後の平均体重67キロの私が、47キロに落ちてシワシワのジジイになり下がり、ついにはダウンして、入院、手術ということになってしまった。

丁度その頃、6月11日の誕生日がやってくるので、「80歳・禁煙」の挨拶状を用意した。気合を入れねばならないと、「正論アーカイヴス」の構想をまとめ、それも書いた。ところが、気合が入るどころか、いよいよダメになる。ベッドに横になりながら、私の80年の“自信に満ちた人生を回顧”してみたのだ。

少年時代はやや虚弱だったようだが、玉子をモリモリ食べて、小学校上級から中学にかけて、体格は頑健になり、スポーツ万能、柔道初段…軍隊もシベリアの捕虜も堂々突破して、病気知らず、寝込んだことなし。今のいままで「医者にみせる」という発想のなかった体力自慢がガラガラと崩れていって、前述の通り、入院、手術ということになったのであった。

1週間も点滴だけがつづき、8日目から重湯とダシ汁…そして、3分粥という初日が9月11日。あの恐るべき“戦争の日”であった。

56年前の人間同士の殺し合いの戦争が、20世紀の語り草となり、私も80歳でシベリアの慢性飢餓から、病院の3分粥という、“弱慢性飢餓”にショックを受けているところに、21世紀の“新しい戦争”をアピールするようなテレビ放映である。 平成13年9月15日

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと…

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)
編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)

■□■アメリカ同時テロのこと…■□■第56回■□■ 平成13年9月29日

あの“惨劇の日”から3日過ぎた14日。ワシントンに集まった20万人の人達が祈りの日を持った。それからもう2週間も経ち、全米各地でそれぞれに祈りの日が持たれた。だが、私には、14日のワシントンほど強烈な印象を与えられた情景はない。

というのは、14日のテレビには、「NO WAR」と大書されたビラが映し出されていたからである。そしてビラはこの1枚だけであった。カメラは横にパンしていたが、私の記憶が正しければ、この1枚だけで、それだけに強烈な印象を与えられたのだった。

私達の英語常識からいえば、NOは否定のNOであり、WARは名詞の戦争であり、それ以上でもそれ以下でもない。

なぜ、こんなことをまわりくどく書くのかといえば、それほど、このテロの後の祈りの場で、このビラの与える訴える力は、はかりしれないほどの、人々の心への影響が強大なものだったに違いないと思われるからである。

現在までの米側の反応を見れば、当然“いわゆる戦争”になることが予想される。それを人間の知恵が、どう避けて通れるのだろうか。14日の段階で、すでにそう予測されるから、あのビラが出たのだし、あれを掲げることを、カメラも、その他主催者も認めたのだろう。

しかし、報復が報復を呼ばない、どんな“妙手”があるのだろうか…。誰もが思いつかないのだから、この「NO WAR」が効いてくる…。

これがもし、日米があらゆる立場を交代して、日本での追悼集会の場であったらどうだったろうか。想像するだけでも不快感がコミあげてきて、寒気がするほどである。

「ノー・ウォー」このわずかツーシラブルの簡明で粗野な言葉が持つ、深い大きい意義について、次回は語ろう。 平成13年9月29日

編集長ひとり語り第57回 アメリカはいつキレるか?

編集長ひとり語り第57回 アメリカはいつキレるか? 平成13年(2001)10月4日 画像は三田和夫48歳(右側 1970.01.05)
編集長ひとり語り第57回 アメリカはいつキレるか? 平成13年(2001)10月4日 画像は三田和夫48歳(右側 1970.01.05)

■□■アメリカはいつキレるか?■□■第57回■□■ 平成13年10月4日

さて、ここまで語ってきた「NO WAR」について、もう私の本音を話さねばなるまい。

そうでないと、入院しただけで、三田もボケてきたと思われそうである。

私の戦争体験は、わずか2年間。シベリアの捕虜生活を加えても4年に過ぎない。他の多くの人達のケースに見るまでもなく、いうなれば、その世界では駆け出しのうちであろう。

だが、その後の新聞記者生活もプラスされて、私のうちなる部分では、大きな蓄積になったと感じている。そのあたりから、「NO WAR」に対しても、純粋な想いがある。

これがもし、日本語で「戦争はイヤだ」「戦争反対」などと書かれていたら、どうであろうか!? 私には、その札を持っている人も、みんなの顔が眼に浮かんでくる。つまり、「戦争」とは、もう何の関係もない、主義、主張や、自分の都合で、そう唱え、そう叫ぶ人達である。すべての人がそうだとはいわないが、多くの人達がそうである。長い長い新聞記者生活の中で、そう感じてきた。

今度の、まさに筆舌に尽くしがたい“21世紀の戦争”といわれる事件で、私達の世代がもう半世紀も以前に捨ててきた、自爆ハイジャックの「特攻」という言葉や、東條首相の「聖戦」という言葉まで、生々しく想い起こさせられてしまった。ブッシュ大統領がやろうとしている陣構えは、“20世紀の戦争”さながらではあるが、中身は少し違う。

古い言葉でいえば、権謀術数、心理戦であり、神経戦である。まさに狼少年とロシアンルーレットがミックスされた感じなのだ。それはNHKの報道に端的に見える。イスラマバードの現地特派員は、「日に日に緊迫の度を加えて…」とあおれば、ワシントン特派員は「イヤイヤ、まだまだ…」と、抑えるといった具合だ。

今日でも、その緊張が静かに続いて、「NO WAR」の静かなポスターそのままの状態であるのは、うれしいことだ。アメリカも、ベトナムや湾岸戦争で、大人になったものだ。 平成13年10月4日

編集長ひとり語り第58回 半世紀前のソ連崩壊予言

編集長ひとり語り第58回 半世紀前のソ連崩壊予言 平成13年(2001)10月18日 画像は三田和夫50歳(青函連絡船? 1971.10)
編集長ひとり語り第58回 半世紀前のソ連崩壊予言 平成13年(2001)10月18日 画像は三田和夫50歳(青函連絡船? 1971.10)

■□■半世紀前のソ連崩壊予言■□■第58回■□■ 平成13年10月18日

さて、さる10月4日の第3回から、もう2週間が経とうとしている。「21世紀の戦争」という、ブッシュ米大統領の発言に、一般日刊紙の記事にも、“新しい戦争”という見出しが躍っていた。実際、私の第3回でも、そのタイトルを、「アメリカはいつキレるか」とした。新しい戦争のあり方が、どうにも想像できないのであった。

だから、「ブッシュのやろうとしている陣構えは、20世紀の戦争さながら…」と書いたのである。ところが、私の第3回から数日後、ブッシュは“20世紀の戦争”そのままに空爆、盲爆と、相変わらずの戦争をおっぱじめ、日刊紙上からも、“新しい戦争”のタイトルが消えた。

今をさる半世紀も昔、私はソヴィエト社会主義共和国連邦の戦争捕虜となっていた。その時、ロシア人の一人が、他の一人を指して、「あいつはイブレイだ」とユダヤ人に差別の感情を見せていた。その時、ウクライナから拉致されてきた、割合と知的な炭坑夫のひとりに、「ソ連邦は50何種族かの民族がおり、差別がないと聞いていた。それでもユダヤ人は別か?」とたずねた。彼は、しばらく考えてから、あたりを気にしながら答えた。

「ソ連邦はやがて分裂する。なぜなら、ロシア人の出生率、イスラムのそれより小さいからだ。イスラム各民族は独立し、ソ連邦はロシア人だけの国『ロシア』になるだろう」

1991年、彼の予言通り、ソ連邦はロシアになってしまった。私は、「次はアメリカだな」と思った。

そして、16日の東京新聞特報面。大きく「米はロシアと同じ運命たどる」というブチ抜きの見出し。「タリバン『育ての親』に聞く」というワキ見出し。イスラム系の人たちの意気軒昂ぶりが伝わってきた。

私の姪たちの何人かが、アメリカで生活しているが、それでも、日本人ということでの差別を感じるという。「じゃ黒人は?」と聞くと、「やはり同じでしょう」という。

そうして、調べてみると、白人よりも黒人の方が出生率が高い。つまり貧乏人の子沢山なのである。

そして、今問題のアフガンもタリバンも貧乏と不公平感が底辺にある。アメリカの間違いは、ソ連邦を追い出すため、応援し、今度はタリバンを追い出すため、北部同盟を援助するといった、金持ちらしい単純な考え方である。

貧乏がテロの誘引になっているといわれながら、「麻薬取引国・タリバン」なのも、聞き流すことはできない。人間の社会のことだから、麻薬絶滅などは理想論だが、麻薬の儲けが軍事費を賄っておりながら、貧乏だ、貧乏だ、と叫びつづけるタリバン一味は、やはり放っておけるものではあるまい。

ブッシュには黒人のスタッフも多数いるが、彼らが果たして“心服”しているのか、どうか。

ロシア人とイスラム人とが、ガッチリと組めなかったように、白人と黒人とが、“強大なアメリカ”を共に支持するのだろうか。 平成13年10月18日

編集長ひとり語り第59回 流出疑惑、ロシアが浮上!

編集長ひとり語り第59回 流出疑惑、ロシアが浮上! 平成13年(2001)10月24日 画像は三田和夫17歳(中央坊主メガネ・ネクタイ府立五中1938.11.01 上野家発行『七つ星』より)
編集長ひとり語り第59回 流出疑惑、ロシアが浮上! 平成13年(2001)10月24日 画像は三田和夫17歳(中央坊主メガネ・ネクタイ府立五中1938.11.01 上野家発行『七つ星』より)

■□■流出疑惑、ロシアが浮上!■□■第59回■□■ 平成13年10月24日

このタイトルの見出しが出たのは、「炭疽菌、議会を直撃。組織テロ濃厚、すくむ米」という「核心」欄の解説記事の後半、さる10月19日の東京新聞朝刊であった…。それを読み終わって、私は、また、50年前の昭和20年8月14日のことを想い出した。

終戦直前の6月、北支派遣軍第117師団の私の部隊には、落胆の雰囲気がみちみちていた。米軍の日本本土上陸に備え、三重県四日市市周辺に帰還する予定であったが、中隊の一部が、共産八路軍討伐からまだ帰らず、部隊の集結が遅れ、満ソ国境の部隊が四日市へ移り、われわれはその後釜として、国境付近の白城子に移駐することとなった。師団司令部はすでに白城子にいっていた。

その後を追って、7月には白城子移駐の命令が、すでに出ていた。8月8日、山海関を越え、乃木大将の詩で有名な錦城に9日の朝早く着いた時、駅頭にあふれた日本人婦女子の形相を見て驚いた。それは「ソ連侵攻」を物語っていた。満州国の首都・新京(長春)に向かう上り列車は私たちだけで、スレ違う列車には、関東軍の部隊と日本人婦女子が満載であった。「今ならまだ朝鮮経由で釜山まで行ける」というのが、その連中の合言葉だった。

「ナンダ、オレたちは満ソ国境へ行こうとしているのだぞ。これじゃ、自殺行為だ!」そして列車は、避難民をかきわけかきわけという感じで、8月13日の夜、新京駅に着いたのだが、白城子の師団司令部とは、すでに連絡がとれず、列車は新京で打ち切り。我が205大隊は、首都防衛司令部の指揮下に編入され、14日昼頃から、関東軍司令部の一室で、将校以上に対ソ戦のレクチャアさえ開かれた。力説するのは若い少佐参謀。まわりを見ると、現役兵は205大隊の将校だけで、大半はサーベル式軍刀を持った老少尉や老中尉ばかり。8月上旬に召集された予備後備役の将校たちであった。

レクのあと、私は質問した。「下り列車には、日本軍の、まだ戦えそうな部隊がいた。ナゼ、彼らは南下するのか」「関東軍の決定で朝鮮と満州の国境付近の山岳地帯に、大本営を設け、天皇陛下をお迎えして、徹底抗戦を図ることになった。そのための兵力移動である…。もっとも、細菌戦の石井部隊などは、ソ連に研究成果を奪われまいと、早くから移動していた。これも関東軍命令である!」

若い少佐参謀の対ソ戦術とは、集束手榴弾を一兵一個、それでソ軍戦車一輌をツブせ、というのである。手榴弾を五個か六個、ひもで縛り付けて、自爆しろ、ということだった。興奮していた彼は、つい、石井第731部隊の“敵前逃亡”の弁解を口走ったのだろう。

約2年間の俘虜生活を終えて、昭和22年11月に読売新聞に復職した私は、舞鶴から帰京したその足で、読売資料部に行ってずっと心の重荷になっていた、第731部隊石井細菌部隊の“敵前逃亡”について、この2年間の新聞報道を調べてみた。

石井四郎軍医中尉は、日本の敗色が明らかになった時点で、細菌戦の研究成果を、アメリカに提供する密約を進めていた。当時の研究は、臨床例の一番多い日本が、米ソに比べて、はるかに進んでいた。だから米国は、南朝鮮まで逃げてこい、とすすめていた。ソ連を仮想敵国に研究していた石井中将は、ソ連に行ったら殺されると確信していたのだ。米ソは南北から朝鮮半島に入り、38度線で分割した。石井部隊の本拠は満州にあったから、破壊したり焼いたりしたが、間に合わずに多くの資料をソ連に押さえられた。ソ連は、1945年12月25日から30日にかけ、ハバロフスク市で「細菌兵器の準備及び使用の廉」で起訴された、元日本軍人12名の公判を行った。その公判記録は、モスクワの国立政治図書出版所から公刊され、それを日本語に訳した788ページの詳細な文書がある。

12名の被告の内訳、関東軍司令官、軍医部長、獣医部長、第五軍軍医部長の4名は、いずれも将官だが、当事者外である。第731部隊では、細菌戦部隊部長・川島軍医少将、課長・柄沢軍医少佐、部長・西軍医中佐、支部長・尾上軍医少佐の4名。第100細菌戦部隊研究員・平櫻中尉、部隊員・三友軍曹と、第731部隊第643支部・菊池見習衛生兵、同部隊第162支部・来嶋衛生兵の4名が現場職員という内訳であった。

「三友軍曹は、炭疽菌、鼻疽菌などの細菌繁殖に積極的に従事してきた」(同書625P)

この厚い書物を見ても、炭疽菌の専門家として上げられるのは、三友軍医ひとりだ。そして、この軍事裁判の判決は、いずれも矯正労働収容所入りで、25年、20年、18年、15年、12年、10年で、被告の終わりの2人は、3年、2年に過ぎない。炭疽菌の三友は15年だ。

さて、東京紙の記事によると、炭疽菌研究は、英国では50年代、米国では60年代で中止されている。しかし、イラクで80年代に開発され、ロシアでは92年まで続いた、とあるし、失職した科学者達が、テログループと合流した恐れが強いという。

で、さきほどの公判書類を見ると、通訳、弁護人、証人、鑑定人などで、100名ほどもカタカナ名前のソ連国籍人が登場してくる。名前からロシア人かイスラム人かは不明である。ソ連が分裂して、ロシアとイスラムに分かれた時期と、ソ連の炭疽菌研究継続の時期とが、非常に近いことも、示唆的である。

日本軍の研究を、米、ソ(ロ)が分割しあったという因縁に、軍隊のない日本の現実が引きずりこまれない幸運をよろこんでいる。 平成13年10月24日

編集長ひとり語り第60回 小泉首相、やれるだけやってみよ!

編集長ひとり語り第60回 小泉首相、やれるだけやってみよ! 平成13年(2001)10月27日 画像は三田和夫60歳(左端 さくら会1982.04)さくら会:佐倉連隊の戦友会?
編集長ひとり語り第60回 小泉首相、やれるだけやってみよ! 平成13年(2001)10月27日 画像は三田和夫60歳(左端 さくら会1982.04)さくら会:佐倉連隊の戦友会?

■□■小泉首相、やれるだけやってみよ!■□■第60回■□■ 平成13年10月27日

日本が戦争に負けたあと、あるいは昭和27年の講和条約のあと、この国の今後の「国のあり方」について、誰が青写真を示しただろうか。

政治屋も評論家も、教育者も新聞社も、確かに「新憲法」に沿って、「平和国家」を異口同音に唱えた。だがそれだけに過ぎなかった。軍隊も持たない。だから、保安隊であり、予備隊であり、最後は自衛隊であった。子供の教科書は、近隣諸国のネジ込みにおびえて、総花的なとりとめのない編集となり、現在に至っている。

それから50余年が、安易な形のままに流れて、自民党の政治家はいよいよ小粒になり、日本は「独立国」のすべてを失ってしまった。リーダーシップを発揮できる指導者がいないのだから、国民各層は、金権至上主義に徹し、誰もが、今だけ、自分だけしか考えず、21世紀の「日本という国家像」を描くことは、精神的には叶わず、かつ、体力的(子供達の体力低下が雄弁に物語る)にも、それに甘んじることとなった。私たち戦前派が、日本という国家に殉ずる精神構造を築くには、明治維新以来の百年の歳月を要した。

そこに、小泉純一郎という首相が登場してきて、8月15日の靖国参拝を唱え、民間では子供達の歴史教科書の新編がはじめられたのだが、靖国参拝は自民党のボスどもとの兼ね合いで、8月13日に繰り上げられ、かつ、新編歴史教科書も多く不採用となった——。

私は、これらの経過を眺めながら、まず第一に歴史教科書が、多くの学校で採用され、子供達に影響が出てくるのが50年先。さらに50年を経て、日本が独立国路線を歩むかどうか。アメリカが特に発言しないのだから、靖国参拝で、中韓の不当な(自国の歴史教科書の中身からいって)干渉を拒否できるか。ダメなら、アメリカの属国路線を邁進することになるだろうと見ていた。それもそれで当然の成り行き、いささかもおかしくないことと見ていた。狂瀾を既倒にめぐらすことは不可能だからである。

案の定、小泉首相のその後は、アメリカ一辺倒で、テロ法案の制定に強引とも思える手法が、取られたのだった。これでは、靖国も教科書も、党内や周辺諸国の言いなりも止むを得まい。独立国でないことを認識している現実主義者・小泉の路線を、私も支持するものだ。

それらの、よってきたるところは、この50年間の自民党政治の然らしめるところだ。いまさら、何をかいわんやであろう。この復刊第4号まで、9月11日の“新しい戦争”論を読み返してもらいたい。ブッシュは、何をもって、“新しい戦争”といったのだろうか。その陣構えは、20世紀の戦争と同じだと書いたが、実際、空爆は誤爆、盲爆を伴い、アフガンの市民の死傷者も出ている。日本の各新聞からも、“新しい戦争”という見出しが消えた。“古い戦争”と同じ攻撃だからだ。もっともアメリカの場合は、航空機メーカーなど“死の商人”の圧力も大きいのだろう。

あれだけ、「ヤルぞ、ヤルぞ」と、心理的に圧力を加えながら、古い戦争スタイルに突入してしまったのは、いかにも残念である。例えば、あの圧力の最中に、駐パキスタンのタリバン大使にテロが加えられたら、状況も変わっただろうと思う。

こういう経過が予想できたから、ワシントンでの追悼集会の20万人の中に、“NO WAR”というアピールが出たことに、私は注意を払ったのだった。このアピールの願いも空しく、“OLD WAR”がはじまってしまった。悲しいことである。どういう収拾策が考えられているのだろうか。

私の一連の批判に対して、「どうにも鼻持ちならないので、意見をいわせていただきます」という書き出しのメールがあった。「あなたはアメリカやブッシュを高みから見下ろしておられるようですが、万一、ニューヨークの事件が、新宿の高層ビル街で起きたら、日本国民はどうするのですか。(中略)もし日本国内で大きなテロが起きた時の、編集長、あなたの対応、ご自身がどうするつもりか、存念を聞きたく存じます」と。

私は、「あなたはどうしますか」と反問したところ、「事情が許せば私は武器を持って闘います」と返してきた。このメールに対する件は、次回にゆずろう。 平成13年10月27日

編集長ひとり語り第61回 アフガンもそろそろ幕引きの時期では?

編集長ひとり語り第61回 アフガンもそろそろ幕引きの時期では? 平成13年(2001)11月6日 画像は三田和夫80歳(左側 編集長ひとり語りオフ会2001.11.24)
編集長ひとり語り第61回 アフガンもそろそろ幕引きの時期では? 平成13年(2001)11月6日 画像は三田和夫80歳(左側 編集長ひとり語りオフ会2001.11.25)

■□■アフガンもそろそろ幕引きの時期では?■□■第61回■□■ 平成13年11月6日

人間という動物は、なんと愚かなのだろうかと、アメリカのテロ報復と炭疽菌騒動の報道をみつめながら、つくづくそう感じた。社会的にとか、肉体的にとか、“無力な人間”は、それなりに賢いのだが、なまじ、権力、金力などの“力”があると、それを過信し、思い上がってしまうのである。

アフガンに地上軍投入という段階は、前から分かりきっていたことである。どうしてソ連のアフガン侵攻が失敗したか。その戦史をひもといてみなかったのか。第一、タリバン空爆の目的はなんなのか。ビンラディンのあぶり出しが、空爆だけで成功するか、とアメリカ軍部のお歴々が思ったのだろうか。不思議である。

空爆は、日本本土のように、人口が密で、それなりに施設がみちみちている場所であれば、効果もあがるだろう。一般人の厭戦気分も引き出せよう。だが、アフガンの報道で映し出される光景は、いうなれば、無人の荒野にもひとしい。これで、誤爆、盲爆とくれば、一般人の死傷が出て、反米デモの気勢もあがるというものである。

私の軍歴は歩兵であった。歩兵操典という教科書には、「歩兵は軍の主兵にして…」とあった。その後は忘れてしまったが、日露戦争の二〇三高地争奪戦では、乃木将軍はひたすら歩兵を投入し、やっと勝てたが、甚大な戦死者を出した。

ベトナム戦争もそうだったが、10年前の湾岸戦争で、クリントン大統領は、歩兵投入をためらい(母親達の反感を恐れた?)、敵大統領を殺すこともできなかった。結局、何の戦果もなしの結論だった。ナゼ、歩兵が軍の主兵かといえば、武器を持った連中が、敵地を占領し、相手にいうことをきかせてしまうからである。マッカーサーの日本占領もそうだった。

アメリカは、歩兵の悲惨な映画を何本も作った。第二次世界大戦のノルマンディ上陸作戦もそうだが、先頃の「プライベートライアン」などは歩兵の惨憺たる実情を描いて、私たち元歩兵に感動の涙をしぼらせた。タリバン対策だって、歩兵の大々的投入をしなければ、解決できないのは、自明の理であった。それがブッシュには理解できないのか。

もう少し身近な問題に例を求めようか。政局の焦点になっていた、選挙制度の改変もそうだ。公明党の議員数が、50人ほどから、先の選挙で30人に減った。そこで、怪しげな術策を弄したけど、モノにならなかったのだ。50人が30人に減ったというのは、それだけ支持されていない現実があるからだ。落ち目なのだ、ということを認識すべきだろう。なまじ、与党だという“権力”にすがるべきではない。

巨人の渡辺オーナーの、NHKでの巨人戦完全放送というのも、そのたぐいである。読売新聞一千万部発行という“権力”にすがって、魅力のなくなった巨人軍をなんとかしようというのは、公明党と同じである。

自治労の“金力”問題も、読売や公明党と同列だ。もっとも、稿を改めて書きたいのだが、読売の一千万部発行(印刷の誤り?)も、すでに崩れているのに、ABC部数は依然として、一千万部というのも、巨人軍と同じだろう。

さて、話を本筋に戻すと、アメリカは直ちに大量の歩兵を投入し、どんなに多くの犠牲が出ても、タリバンをコテンパンに叩いて、短期決戦に導くしか、この「古い戦争」を終わらせることはできない。これ以上、空爆を続けて、反米を盛り上がらせるべきではあるまい。

おりしもNHKは、2年前の「イスラム潮流」を4回にわたり放映した。その第3回は10月30日深夜だったが、在米イスラムの人々はアメリカの黒人たちをイスラムに改宗させて、気勢をあげていた。これが進んでいくと、一大事である。イスラム諸国を切り離したロシア。プーチン大統領のKGB上がりの険しい表情が、最近はなんと穏やかな顔つきになったことか。

日本でテロが起こされたら、「武器を持って闘う」という、ご意見の人物も、このコラムの読者にいるようである。公明党や巨人軍ほどの、それなりの“権力”があるのならまだしも、とても“力”とはいえない程度の力の人物は、どんな武器で、誰と闘うのか。そんな無意味な観念論をふりまわすぐらいなら、瀬戸内寂聴尼の「断食ニュース」でも、くり返し熟読玩味すべきである。 平成13年11月6日

◇◆編集後記◆◇

編集長も完全に復調したようなので、今号から復刊ではなく、通巻の号数に戻しました。今後ともよろしくお願いします。
編集長からも“オフ会”のお誘いの言葉をもらいました!
参加希望の方は直接メールをください。(編集発行人・田志偉)

——編集長の言葉 オフ会のお誘い——
入院前には、食事が取れず20kgも痩せてしまい、見るも哀れなシワシワのジジイになってしまいました。でも、退院後はキチンと食事をして、体力の回復を図っています。
私の著書のうち、残部のある物はプレゼントしたい(古本整理? 呵々)と思っていますので、ゼヒ、お出かけ下さい。茶飲み話でもしましょう。 三田和夫 平成13年11月6日

編集長ひとり語り第62回 新聞の時代、終わらんとする!

編集長ひとり語り第62回 新聞の時代、終わらんとする! 平成13年(2001)11月11日 画像は三田和夫32歳(讀賣新聞社・記者記章帯用証/衆議院・参議院 第17回国会 1953年)
編集長ひとり語り第62回 新聞の時代、終わらんとする! 平成13年(2001)11月11日 画像は三田和夫32歳(讀賣新聞社・記者記章帯用証/衆議院・参議院 第17回国会 1953年)
編集長ひとり語り第62回 新聞の時代、終わらんとする! 平成13年(2001)11月11日 画像は三田和夫32歳(讀賣新聞社・記者記章帯用証/衆議院・参議院 第17回国会 1953年)
編集長ひとり語り第62回 新聞の時代、終わらんとする! 平成13年(2001)11月11日 画像は三田和夫32歳(讀賣新聞社・記者記章帯用証/衆議院・参議院 第17回国会 1953年)

■□■新聞の時代、終わらんとする!■□■第62回■□■ 平成13年11月11日

11月7日付けの朝日夕刊が「産経が夕刊廃止へ」と報じた。東京本社発行分25万部を、来年の4月1日以降やめるという内容だ。朝、読、毎の3925円より75円安かったセットが、さらに安くなる。東京紙は3250円、産経紙セットより600円安く、老人世帯に支持されているという。

さる7月23日付けのその産経出身の青木彰・筑波大学名誉教授の「メディア評論」が、おりしも「新聞こそ『構造改革』必要」と、藤本義一さんのタレント出馬拒否の「一番退廃しているのが、ジャーナリストなんですよ。消費者金融の広告を載せだしてから(私をしていわしむれば池田大作著書の広告も…)、顕著になった」と、引用している。産経の夕刊廃止は、先輩の言を素直に受け入れた形である。

読売のことは、前回も、巨人軍の試合の放映をNHKとの間で合意したことを、書いたばかりであるが、この巨人軍にこだわる渡辺オーナーこそが、構造改革上、その対象になるべき人物なのである。藤本義一氏の指摘の通り。

だいたい、今の時代に、巨人軍の働きが読売新聞の読者増につながる、と思い込んでいる渡辺オーナーの頭がオカシイ。せっかく長嶋監督が辞めたのだから、巨人軍を売りに出し、社員もリストラして、とりあえず、新聞の編集と発行とだけに、専念すべきであった。一千万部の金字塔は残るのだから…。

たしかに、正力、務台の時代には、読売新聞イコール読売巨人軍であって、巨人ファンが新聞の読者になるということもあった。拡材として、これほど強力なものはなかった。新聞各社が羨ましがったのだった。事実、新聞各社は、戦時中の統制時代を外された時は、朝日、毎日の二大紙に対し、読売は二流紙であったが、戦後は、新聞用紙の自由化に伴い三社は一線上でスタートした。その時の巨人軍の貢献は目覚ましい。

昭和30年代は、朝毎読並列の時代だった。だが、紙面の優劣で、40年代に入ると、朝読毎の時代に変わった。そして、50年代には、読朝毎となる。発行部数で“販売の神様”務台社長の努力が結実したのだった。その衣鉢を継いだ渡辺社長は、ついに一千万部を超えて、輝かしい金字塔を打ち立てた…。社員数も、軽く一万名を越した。

だが、時代は急変してきた。60年代にすでにその徴候を見せているのだが、パソコンに加えて、少子高齢化時代となり、いわゆる“新聞”の読者減が始まった。プロスポーツでも、野球の独占が崩れ、観客が減り出した。本来ならば、この時点で、新聞は自身の構造改革に取り組むべきであった。人々は、その日常生活の中で、かつてのように“新聞”を必要としなくなったのである。そして、渡辺オーナーのNHK交渉についで、産経夕刊廃止の衝撃的ニュースである。

事態は、すでにそこまできていたのだ。私がかねて主張していた「2010年までに新聞は自滅する」は、もっとスピードを早めているのかもしれない。 平成13年11月11日

◇◆編集後記◆◇
最近、戦争やその他暗い話題のコラムが続いていますが、このような話題の時はほとんど反響がありません。
興味がないのか、内容がディープなので意見を発表するのに躊躇しているのか…?
特に読みたい内容があれば、どんどんリクエストしてください。
ご意見やご感想なども、メールや掲示板でいただけたら、もっと読者の方が興味を持っている内容のコラムができると思います。
~オフ会に参加希望の皆様へ~
一応、今週末で一度締め切って、詳細をお知らせする予定です。
よろしくお願いします。
ホームページの掲示板への書き込みもお待ちしております。(編集発行人・田志偉)
平成13年11月11日

編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない!

編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない! 平成13年(2001)11月19日 画像は三田和夫80歳(最前列右から3人目 三田和夫の退院を祝う“艶の会”2001.10.28)
編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない! 平成13年(2001)11月19日 画像は三田和夫80歳(最前列右から3人目 三田和夫の退院を祝う“艶の会”2001.10.28)

■□■ナゼだ? 私には理解できない!■□■第63回■□■ 平成13年11月19日

あんまり、戦争のことばかり書きつづけたから、今回は話題をガラリと変えて、最近の新聞に、ひんぱんに登場する、子殺し、親殺しの傾向について語ろう。

じつは、さる10月28日の日曜昼、「三田和夫の退院を祝う“艶の会”」が催され、ザッと25名ほどの一族が集まった。ホテルの昼食バイキングで、みな十分に愉しんだ。

説明が必要だろう。私の父は外科医で、私が1歳半の時、大阪で開業していた病院と豊中村の邸宅と、7人の妻子を残して病死してしまった。33歳で突然、未亡人となった母は、それから75年、子供や孫、ひ孫たちに大切にされ、108歳で、眠るが如き大往生をとげたのである。

三田ツヤ。旧姓小野で、岩手県盛岡市の近江商人の一族、小野組から19歳の時に、独逸帰りの九大卒の外科医・源四郎のもとに嫁いだ。三田家は、南部藩の足軽組頭(士分)であったが、その長男・義正に商才があったとみえ、セメントの東北、北海道の専売権を得て財を成し、多額納税貴族院議員にもなり、盛岡市の中心部に、(株)三田商店を構えるにいたった。次男・俊二郎は岩手医専を創立した。

小野組は、三井組と同格の金融業だったが、明治維新で番頭に人を得ず、三井組がご存知の通りの隆盛を極めたのに、没落した。(宮本又次解説「小野組始末」)小野小町や最近では、刑法の小野清一郎博士などおりながら、近江から盛岡に流れてきたのは、そんな原因があったのだろうか。ツヤは小野質店の次女で、三女は糸治・中村治兵衛に嫁ぎ、岩手銀行頭取夫人となっていた。これは、私がやがて知ることになる“因果はめぐる…”ものがたりである。ツヤは子女の教育としつけに意を用いていた。盛岡で当時ただひとつのクリスチャン幼稚園に通わせ、私にいまだハッキリと記憶に残っている、宣教師のタッピング先生、園長の佐藤トク先生ら、当時の盛岡市の教養と知性とに接触していた。いま、88歳の長女美代子を羽仁もと子の自由学園に入れ、東京に遊学させていた。これには、京大出の長男、早大在学の次男(ともに兄)などが、強硬に反対したらしいが、ツヤの信念は動かなかった。

この反対にはドラマがあった。大正11年12月、大阪で客死した夫の跡始末をしたツヤが病院や邸宅を売った大金を持って、盛岡に帰ってきた時である。6人の子供たちの教育のため、つやは分散して銀行に預けようと主張したのだが、本家の当主・義正は、自分が岩銀の役員でもあり、かつ、ツヤの義弟が頭取でもあるのだから、一括して岩銀に預けよという。ツヤは義正に抗し切れず、その通りにしたのだが、そこに昭和初期の金融恐慌で岩銀は倒産。ツヤは無一文となったのだ。だが、予知した頭取一家は全財産の名義を変え、無疵で乗り切ったのだ。因果はめぐるというのは、姉妹でありながらの、この始末だからだ。

義正はツヤに詫び、生活費は毎月、三田商店から出すということで決着した。ツヤが子供たちを連れて、東京へ出たのには、そんな事件があったからであろう。本家から、毎月いくら出ていたのかは知らない。

そんな時代が、どれほど続いたのかは、もう記憶も薄れた。しかし、ある日、事件が起きた。義正の没後、家督を継いで本家の当主になった義一から、ツヤ宛に「請求書」がきたのである。三田商店からの貸付金を返せというものだった。義正との紳士協定を破られ、ツヤは泣き、長男はオロオロするばかり。その時、次男洋二は、ツヤを伴い、義一の許に乗りこんだ。この交渉が、どれほど続いたのかも分からない。しかし、貸付金ではなくなり、その時点で打ち切りとの結論になった。だから、私の少年時代は、決して豊かではなかったという記憶がある。

ツヤの教育の基本は、気位を高く持ち、卑しいことをするなであった。子供たちはそれぞれ順調に成長し、ツヤの安心立命の時代だったといえよう。だが、戦争は激しくなり三男を亡くし、四男が出征し、五男の私とツヤとの二人暮らしとなった。やがて私も征き、前回に書いた、8月15日早朝、有力なソ軍戦車集団が来襲する、という。集束手榴弾を抱えて、私も、今回で終わりだな、と覚悟せざるを得なかった。

——24年の人生を振り返ったが、ソ軍戦車に突入するとき、自分は何を叫ぶのか。

思い返してみたが、愛する女性の名前は浮かばない。だが、俺は将校だから、一番に飛び出さざるを得ない。そして、その時に「天皇陛下万歳!」と叫ぶか。あと、手榴弾を発火させるときは、「お母さん!」だなと、そう決めて、やっと落ち着いた。

タコツボの中で地面に耳をあてた。どんどん明るくなってくるのに、キャタピラの地響きはまだ聞こえてこない——。

「オカアサン、オカアサマ、オカアサマ。(一族の名前を列記)カズヲハゲンキデス。ニイサン、ネエサンタチ、オカアサンヲマモッテクダサイ。オカアサマ」(シベリアからの捕虜通信ハガキの第一号)

こうして、私は2年で復員し、読売社会部に復職した。それからまた、50年という長い時間が過ぎたが、ツヤは三男を亡くしたほかは、みな元気で戻ってきて、子は孫を産み、孫はひ孫を生んだ。ツヤの人生で、一番幸せの時間が流れていた。

99歳、白寿の祝いの時、私は考えた。ツヤの葬式で、名前も顔も知らないひ孫たちが来たら、困ってしまうな…と。そこで「孫子の会」という名前で、毎年、一族を集めて、ツヤに「だれそれの子供です」と、説明してやりたいものだ。それが、今できる最後の親孝行だろう。ツヤの円満な笑顔が目に見える。そして、108歳で亡くなった後、幹事の私が、引退しよう。「子」は私と四男、長女の3人だけであるが、「孫」は多数いる。そこで、「艶の会」と改名して、孫にバトンタッチをした。ツヤが死んだ時、父源四郎の墓に入れたのだが、骨壷から出して、2人の骨を土と交ぜ合わせた。やがて、盛岡でこの墓も無縁佛になるだろう。私のひ孫の時代には…。

これが、私と母・ツヤとの物語である。ソ軍戦車に突入する時に、「おかあさーん」と叫んで、私の人生が終わる。「天皇陛下万歳」は、そのずっと以前に呟く。シベリアからのカタカナの葉書が4枚。ツヤはキチンと保存していてくれた。

どうして「出会い系」とやらで危険が予知できるのに、少女は売春し、殺されたりするのだ。どうして、母は子を虐待して殺し、子は親を殺すのだ。

何かが間違っており、何かが欠落しており、親も子も、親や子でなくなっている。私の青春時代は、殺伐としてイヤな時代ではあったが、その中で、最低のモラルだけはみんなが、努力し、協力して残していた。それらが、どうして崩壊したのか。誰の責任なのか。そしてこれから、どうしよう、どうなろうというのか。

金のためにのみ生きる。これは政治家の責任である。そんな日本にした奴がいる。母ツヤが亡父の財産の大金を諦めた時から、彼女の幸せが、スタートしたのじゃないか。同時に私のそれも、「艶の会」のメンバーたちのそれも、そうなのだと思う。 平成13年11月19日

編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬

編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬 平成13年(2001)11月22日 画像は三田和夫80歳(左から2人目 三田和夫80歳の誕生日2001.06.11)
編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬 平成13年(2001)11月22日 画像は三田和夫80歳(左から2人目 三田和夫80歳の誕生日2001.06.11)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たちに送ったはがき
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たち・企業に送ったはがき(2001.06.01付)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たちに送ったはがき(宛名面)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たち・企業に送ったはがき(宛名面)

■□■デキチャッタ婚の誤謬■□■第64回■□■ 平成13年11月22日

さる11月9日午後、テレビのワイドショウの「特ダネファイル」で、芸能レポーターの石川なる人物が、話題になった女性タレントに関して、「…将来、デキチャッタ婚をしたい、といっていた」と語った。この話が事実なら、そんなことをいう女も女だが、シタリ顔で“デキチャッタ婚”を吹聴するこのレポーターもレポーターである。

この数年、誰がいい出したのか不明だが、“デキチャッタ婚”なる言葉が流行りはじめ、若いカップルの女性が、得意気に“デキチャッタ婚”です、などとほざいたりする。いうなれば、婚前性交のことで、しかも、十分に準備しないから、意に反して妊娠してしまった、ということではないか。

“意に反した妊娠”というなら、そういう妊娠をしないよう注意すべきであるが、男がまだフラフラしている時には、結婚を迫る手段として利用できるのだから、“意に反して”いない。生まれる前から、男女の駆け引きに利用されるのだから、赤ちゃんにとっては迷惑至極な話だ。

私は、このあたりに、いまの親の子殺し、子の親殺しの原因があると思う。つまり、親子の情愛が、そもそもから芽生えていないのである。互いに生活の利便に伴う道具なのである。尊敬の念などカケラもないだろう。

婚前性交が必ずしも非難されるべきものではあるまい。しかし、「子作り」はまったく別物である。夫婦の愛情にあふれた行為から、妊娠へと導かれるものであり、男女はこれから「人の子の親」になる重大な責任を自覚し、そのための努力をしなければならない。それが親子関係の基盤なのだ。

私は、親は子供の3歳くらいまで、惜しみなく愛情をそそぎ、親子の情愛の基礎を作れといいたい。それができた後は、容易には崩れない。いい親子関係が持続する。事実、私には、男、男、男、女と4人の子供がいるが、家族の事を重視せずに読売を退社したり、出版事業に失敗したりと、かなり野放図な生活を重ねてきたが、“殺され”もせず、“見捨てられ”もせず、現在も良好な親子関係が続いている。

それは、妊娠、いやそれ以前のセックスの段階から、「人の子の親」という自覚に、責任を覚えていたからであろう。そこが“デキチャッタ婚”との根本的な差異である。愛情からスタートするか、利便性のみに走るか…。

戦争というのも、兵士の多くが対面する“戦闘”から成り立っている。そこでは、自分が相手を殺さなければ、自分が相手に殺されるから、戦闘になるのである。人間が、人間を殺すというのは、ずいぶんツライことである。それが、見も知らぬ相手だったり、縁もゆかりもない外国人だったりするから、まだできるのである。いわゆる“鬼”になって殺せるのである。

だから、戦線では味方から戦死者や負傷兵が出たトタンに、鬼になれるのだ。それまでは、恐くて恐くてたまらなかったのに、勇気が沸いてくる。戦場心理ではさておき、それなのに、どうして、子供を殺せるのか。どうして、親の生命を奪えるのか。親子関係があった2人だけに、私には理解できない。

若い男女が、心を通わせるものには、セックス以外にも多々あるではないか。享楽的な性に趣くから、“デキチャッタ”ことになる。美術でも音楽でも、2人を結び合わせる“媒体”はセックスだけではないことを、若い女性はもっと真剣に考えるときがきているといえるだろう。

子供が“セックスの帰結”と見なされている限り、子の親殺しは続くであろう。殺すほうも、殺されるほうも、こんなに、人間として惨めなことがあっていいものか。 平成13年11月22日

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※三田和夫の癌が発覚(本人には知らせず)したのが平成13年9月初め。10月に一度退院するが、12月末に再度悪化、年が明けてから救急搬送。平成14年2月15日永眠。享年80歳。
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株式会社正論新聞社 社長・編集長
三 田 和 夫  80歳
◇◆◇◆編集長略歴◆◇◆◇
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫

文中では、「編集長ひとり語り」が65回にもなり、と書かれているが、現在までのところ第64回が最終回で、第65回は見つかっていない。

また、この手紙が実際に発送され、入会金や年会費を払った人がいたのかどうかもわからない。日付を見ると「2001.11.30」とあり、約1カ月後の年末には食道に挿入されたステントの効果も失われ、もう起き上がることもできないほど癌が悪化していた。

もしかすると、10月にいったんは退院できたものの、11月末になると、自身の体調の再悪化にそれとなく気付き、そうした不安からこのような手紙を書いたのかもしれない。三田和夫が亡くなるのは、この手紙の2カ月半後、癌が見つかったとき医者が「余命6カ月」と言ったが、ほぼその通りだった。