
雑誌『キング』p.125 幻兵団の全貌 偽名・合言葉・写真撮影



⑤労働ヲ忌避スル者
⑥天皇護持ヲ主張スル者
⑦憲兵、特務機関、警官ナドノ前職者
⑧ソ同盟の秘密ヲ諜報セントスル者
ハ、〔ハバロフスク〕
私ハ収容所内ニ左ノヨウナ者ヲ発見シタ場合ハ、直チニ密カニソ側当局ニ対シテ報告イタシマス
①憲兵、特務機関員、警察官
②逃亡ヲ計画スルモノ
③暴力団行為ヲナスモノ
④反ソ反共ノ言辞ヲナスモノ
右ヲ下記ノ偽名ニヨリ、通報スルコトヲ誓約イタシマス
ニ、〔ウォロシロフ〕
私ハ次ノ事ニツイテソ連政府ト協力シ、ソノ命令ヲ守リマス
①ソ連ノ政策ヲ破壊シヨウトスル者、元日本憲兵、巡査、特務機関等ニ勤務シタ者ガ、収容所内ニイタ場合ハ直チニ報告シマス
②コノ仕事ヲスルニ当ッテハ、コノコトヲ誰ニモ口外シマセン。モシ他人ニモラシタ場合ハ、ソ連ノ法律ニヨッテ処罰ヲウケルコト
右誓約シマス

誓約(又は誓)
住所、氏名
年月日
私ハソヴエト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス
コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス
モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ処罰サレルコトヲ承知シマス
ロ、〔タイセット〕
(形式はほとんどチェレムホーボと同じ)
私ハソ同盟内務省(注、NK)ノタメニ(以下同文)
モシ誓ヲ破ッタラソ同盟内務省ニヨル如何ナル処罰モ認メマス
私ハ次ノ八項目ニ該当スル者ヲ発見シタラ、直チニ報告シマス
①ソ同盟ノ中傷、ヒボウヲナス者
②逃亡ヲ企テ、マタ準備セル者
③工場、機械ナドヲ破壊セントスル者
④井戸ソノ他ニ細菌ヲ投ゼントスル者

多い。拳銃を黙って机上に置き(チェレムホーボ)、胸につきつけ(ウォロシロフ)、さらにひどいのになると、呼び出された部屋のドアを開け、一歩踏みこもうとした時に、ズドンと一発、拳銃弾が頭上をかすめて壁につき当たった(ライチハ)などというのがある。
また、俘虜たちの唯一の念願である帰国を交換条件としたものには、『内地では妻子が待っているのに、帰りたくありませんか』(ウォロシロフ)とか、『帰国は一番先にしてやるし、君のためによい事がある』(ハバロフスク)など、徹底しているのは『帰りたいか』(タイセット)とだけ、単刀直入にきいているなどをはじめとして、ほとんど各地区でいわれている。
銃口の脅迫、帰国の懸念、報酬の利得、この三種を見せびらかしながら、『内務省に協力しないか』『ソ連のために働きたくないか』といいはじめて、否とはいわせぬ雰囲気の中で、『いう通りに書け』と、誓約書を口述筆記させている。
3 誓約 誓約の内容は、ⒶとⒷとでは、ハッキリと違っている。また各地区ごとに多少文面の違いはあっても、ⒶはⒶの目的を、ⒷはⒷの目的を明示している。
ここにその数種を示そう。
A種
イ、〔チェレムホーボ〕

誓約したことになり、全ソ連地域百六十二万とすれば、三万二千—六万四千人の多きにのぼる。
少なくとも一万名前後の人が、誓約書を書いたことは間違いないが、Ⓑは五千名を超えないと思われる。
2 方法 ソ連はかつてのナチスドイツにも劣らぬプロパガンダ(宣伝)の国であるから、スパイ任命の誓約に当たっては極めてドラマティックな演出を行って、俘虜に精神的圧迫感を与えるという舞台効果をあげている。
時間はがいして夜が多い。作業係、日直、軍医などの名を用いて、ひそかに呼び出しをかける。場所はほとんど事務所、司令部の一室で鍵をかける(チェレムホーボ)とか、窓に鉄格子のある(タイセット)とか、密室を用いている。しかし、昼間ジープにのせて森の中に連れこむ(バルナウル)とか、美人が呼び出しに来る(バルナウル)といった例外もある。
相手はその収容所付の思想係将校(少尉から少佐まで)と、通訳の少尉の二名だけで、両名ともNKである。話の進め方は、事前に砂糖水を出したり(アルマアタ)、ブドウ酒、シャンペン、ソーセージの小宴を開き(バルナウル)、コニャック、菓子をふるまう(エラブカ)といった御馳走政策もあるが、概して脅迫によるものが


いないが、近接した二、三の収容所の引揚者の証言によれば、同一人らしいことから、一人の少佐がある地区を担当して、数カ収容所を巡回したと判断できる。
この少佐の最後的決定ののちに、いよいよドラマティックな採用任命式となる。
三、任命
二十一年中に完成された俘虜カードにもとづき、同年暮れごろからはじまったスパイ採用の選考は、〝モスクワの少佐〟の決定により、ほとんどの者が、二十二年中に誓約書を提出し、ⒶⒷの任命を受けている。
1 人員 誓約書に署名したスパイ個人間においては、横の連絡はない。収容所付思想係将校を中心とする縦の連絡だけである。従って一収容所内におけるスパイの総数は、スパイ自身には分からない。だが、自分に対して行われた選考期間の呼び出しの状況、収容所事務所への出頭の事情などから類推すると、他のスパイのことは、おおむね判断され得るのである。
これによって計算すると、二千名中七、八十名(チェレムホーボ)ともいい、五百名中十名ぐらい(タイセット)などというので、平均二—四%と判断される。するとシベリア地区七〇万人として、一万四千—二万八千人の人たちが

各地区ごとに分かれて、地区内の収容所を廻っていたらしい。いずれも漢字がスラスラと読めるほど日本語に熟達している。だが、モスコウスキイ・マイヨールというだけで、知っていても教えてくれないのか、誰も少佐の名前を知らないのも妙である。もちろんNKで、まぼろしのごとく現れては、数日から一週間ほど滞在して、またまぼろしのごとく消える。
この謎の少佐が、収容所付思想係将校のあらかじめ準備した候補者と、個々面接しては、自身で直接取調べを行い、採用、不採用を決定していたのである。
引揚者の誰にきいても、このモスコウスキイ・マイヨールの話は肯定する。ところが面白いことには、一般収容所がマイヨール(少佐)であったのに、エラブカ将校収容所だけは、ポトボウコウニタ(中佐)であることだ。最も例外としては、このマイヨールがただ巡視だけして帰っている場合もある(奥地の収容所)し、D氏の場合の如く戦犯監獄には大佐がモスコウスキイ・ボウコウニタ(大佐)として、取調べに当たっていたということもある。
この少佐の取調べを、人事書類のカミシヤ(検査)とも称していたこともある。この少佐が、果たしてモスクワの少佐であるか、あるいはハバロフスクの極東軍情報部の少佐であるかは判明して

くる訳である。
4 方法 これらの要員は、それぞれの時期に、それぞれの地区で、前述のような基準によって、まず、その収容所付思想係(NK)将校によってチェックされる。
それからは、適当な理由をつけ、あるいは他の係の将校の名を用いて呼び出しをかけ、数回にわたって、さきに人事係将校の作製した俘虜カード以上に、厳密かつ詳細な身上調査を二—三回にわたって行う。これは氏名、年齢、本籍、現住所、家族、家族の職業、財産などから、学歴、職歴、兵歴まで、趣味、嗜好も調べるという綿密さである。
それと同時に、本人の思想傾向も重大である。そのためには、支持政党、その理由、尊敬する人物、ソ連に対する感想などを質問したり、天皇制、民主運動、国際情勢などに関するテーマを与えて、所感を筆記提出せしめる。
こうして、各収容所付思想係将校の第一次試験によって、何人かの栄えある候補者が浮かびあがってくる。そして第二次試験になる。
第二次試験官になるのは〝モスコウスキイ・マイヨール〟(モスクワの少佐)という、奇怪な人物である。この少佐は、品も良く立派で、いかにもモスクワ人らしく、収容所付の将校とはダンチである。数人か、十数人いて、それぞれ


装工、厩など)勤務者、さらに、前職者など、各個人の履歴を知っている者、知りやすい状態にある者を選んでいる。
ところが、Ⓑ要員になると、目的が目的なだけに、学歴、職歴を参考として、極めて慎重な態度である。第一は、高商、商大等の英語熟練者をあげている。ついで一般の大学、高専以上の学歴をもつ者で、これは〝死の恐怖〟に当然盲従すると思える、インテリの弱さを利用した感じがあり、従って、幹候出身で軍国主義に固まり切れなかった、中尉以下の下級将校に多い。
次は職歴によるもので、原職が米軍の情報を少しでもつかめる立場にあるもの、すなわち官吏、鉄道、新聞通信などのジャーナリスト、外国商社と関係ある大会社員などである。これは前項の学歴によるものと一致する場合が多い。
その三は、名門、金持ちなど、主として社会的地位のある者。これらの者は、やはり米軍に接触する機会が多いし、また日本の支配階級とも連絡があるので、これをしっかりと握ろうとした。したがって、元華族、元将官級の子弟などは、ほとんど含まれている。
その四は、参謀系統の高級将校と、情報系統の将校で、これはその経歴と体験とを生かそうと狙ったらしい。そのため、一万名の将校を収容していたエラブカ収容所などが問題となって

収容所で、専属の思想係将校がおらず、しかもⒶ要員であった。
2 地区 アルチョムでは二十一年暮れにはじめられたらしいが、大体において、アルチョム、ウォロシロフなどの沿海州地区、チタ、イルクーツク、チェレムホーボなどの東部シベリア地区などで、二十二年上半期に大量に、まさに玉石混淆の状態で選考された。
この連中は結局主としてⒶ要員とされて、しかも、極反動も含んだため、この組織の暴露される原因ともなった。
これと並行して選考はされていたが、コムソモリスク、ハバロフスク方面、及びカラガンダ、ベゴワード、アルマアタ方面、バルナウル、ビイスク、ロフソフカ方面、カザン、エラブカ方面などでは、二十二年下半期において、粗製らん造をさけた厳選主義で、Ⓑ要員がえらばれていた。
もちろん、ここにあげた地名は、ごく大ざっぱな分類であって、全ソ連地域の各収容所で、この要員摘出は行われていた。ただ、二十二年上半期の玉石混淆の大量生産が、主としてⒶ要員となり、同年下半期の粒選りがⒷ要員となっていることは面白い。
3 基準 Ⓐ要員には、軍隊の人事関係者、民主グループ員、特殊(本部、炊事、理髪、縫


は、連絡の手段を授けて、Ⓑと同様に組織、活用するということもあり得るのである。
二、選考
では、この目的によって二種に大別されるスパイ団の組織は、その構成にあたって、どのような選考が行われただろうか。時期、地区、基準、方法についてみてみよう。
1 時期 ソ連は終戦後にその進駐地域において、莫大な数にのぼる日本軍人を捕虜とし、軍事輸送と並行して、これらの捕虜を続々と本国に輸送した。一般に〝数〟の観念の発達していない彼らは、計算の便を計るために、地方人までを捉えて端数を充当し、千五百名を一列車の単位とした。こうして、受入態勢も何も整っていない本国内に、無計画にただ送りこんで抑留してしまったのである。そのため最初の冬は、混乱と無秩序のうちに莫大な死亡者をだしてしまい、俘虜数を正式に調査する運びになったのは、昭和二十一年四月になってからだった。その原因は、中央部では調査のための努力をしなかったし、下部の各収容所では、多数の死亡者を出した責任をおそれて、その報告を握りつぶして

しまったからであり、最初の冬の犠牲者の実態は、ソ連当局では握っていない訳である。
こうして、二十一年四月からは、正式な人名調査による、俘虜カードの作成がはじめられた。これは、あくまで純然たる俘虜管理業務の一つとして行われた調査で、俘虜各個人の身上調査が、収容所地区司令部の指揮によって、各収容所(分所)の人事係将校が担当して行われたのである。
この調査は、おおむね二十一年一ぱいを費やして完成された。このころから、ソ連側の対日本人俘虜政策は、ようやく整理され、秩序立って、施設、給養、労働、教育などの面も、改善されて、向上してきた。俘虜政策の整備は、その管理面だけではなく、もちろんNKによる調査も系統だてたのである。
かくして、俘虜カードによる、スパイ団組織の予備調査は、その年齢、階級、学歴、原職などに基づいてはじめられた。この際は、ⒶⒷの区別はまだハッキリとつけられておらず、スパイ要員の摘出を、各収容所付の思想係将校が行った。早い所では、二十一年の暮れから(アルチョム)、普通は二十二年一ぱい、遅い所で二十三年はじめであろう。まれに、二十三年下半期、あるいは二十四年はじめ(タイセット)というのもあるが、それは、鉄道建設、伐採などの奥地の分遣

か』と説明している。日本の現状を徹底的につかむことは、将来、日本をして二度と対ソ侵略に立たしめないためであり、また、元第三軍参謀の細川直知元中佐のいうように、情報の収集は『参謀の立場からいっても、攻防の有無にかかわらず、当然なさるべきこと』である。そのためには、Ⓑを組織して対米情報を収集しようとするのも、ソ連としては極めて当然のことに違いない。
Ⓑの使命遂行は、日本国土内に限られると述べたが、ある場合にはⒶの目的をも兼ねて行わしめることもあり得るであろうし、Ⓐもまた、在ソ間にのみ限らず、将来必要を生じた時に


日本における連絡のための合言葉を授けられており、しかも、数種類の写真を写されていることから、当然連絡を保つ意志がうかがわれるのである。
種村元大佐は、在ソ抑留者の帰還遅延の真の理由として、『ソ連のNKが、日本の現状をつかむために、その全組織をあげて、約七〇万人の日本人を、詳細、綿密に調査するためには、どうしても四年ぐらいの期間が必要であった』と述べ、その証拠には、『細菌戦に関する戦犯事件も、ようやくこのほどまとまったではない



とが、それを裏書きしているのである。
一、目的
この組織の目的とするところは、後に記された誓約書によって明らかにされているが、ハッキリと二種に分類される。
その第一種(以後Ⓐと称す)は、戦犯、反動の摘発を目的とするもので、使命遂行は一応在ソ抑留間のみに限られている。すなわち、終戦と同時に、憲兵、警察官、特務機関員、情報関係者らの、いわゆる前職者は、ソ軍進駐を前にしてそれぞれの履歴を抹殺し、偽名を用いて、一般兵や地方人を装っていた。吉村隊事件の主人公、元憲兵曹長池田重善氏が、妻の実家の姓を名乗って吉村と称していたのがその例である。
スパイ政治の国ソ連が、何十万という日本人を抑留して調査するのに、どうしてスパイ制度を採用しないはずがあろうか。前職者も含んだ戦犯容疑者、反ソ反動分子の摘発と、俘虜政策上からの俘虜情報の入手のため、第一種スパイⒶが組織されたのだ。
その第二種(以後Ⓑと称す)は、第二次大戦後に残った相対立する二大勢力の一つ、すなわち対米情報の入手を目的とするもので、使命遂行は当然日本帰還後とならざるを得ない。すなわち第二種スパイⒷは、工作名(偽名)のみではなく、

間をもって終了するとみられる者にも、偽名のない者とある者もあれば、またC氏の如く在ソ間は全く飼い殺しで、偽名、合言葉を与えられ、誓約書には帰還後のみ遂行し得る目的を明示された者と、さらに写真まで撮影されている者もある。
人選に関しては、D氏の如く戦犯容疑者でありながら、毒をもって毒を制する如く起用され、さてはE氏の如く幼年学校、士官学校という経歴の純軍人をも、その履歴にカモフラージュしている。
これらの事実に徴してみると、元大本営参謀で戦争中止を天皇に直訴して、東條に忌まれて朝鮮軍にトバされたという種村佐孝元大佐の言うように、この組織は『各収容所付の政治部員の独断ではなく、モスクワの中央情報部の指令だ』とみるべきであろう。
この組織の選考、任命、連絡の各段階を詳細にみると、全ソ連地区に共通したものがあるこ