投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

最後の事件記者 p.092-093 当時の上野は犯罪の巣窟

最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。
最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。

その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、紆余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。   

彼女の家に泊めてもらったことがある。何人か各社の記者も一緒だ。そして、夜中に彼女の部屋をのぞくと、彼女のスケ(情婦)という可愛らしい十七、八の娘と抱き合ってねていた。女同志の妖し気な情事が、どんなに激しいかを知って驚いたのもそのころのことだ。

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

最後の事件記者 p.094-095 七十八万円を貯金していた

最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…
最後の事件記者 p.094-095 私と朝日の矢田喜美雄記者とが、M紙の記者を怒った。そして、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取った。矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが…

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ

に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

M紙の記者が、そのことをゴシップ欄で書いたものだから、サア大変。彼女はしばしば襲われるようになった。身体につけてもっていると思うのか、営業中にまでグレン隊が飛びかかるのだ。

私と朝日の矢田喜美雄記者とが、人権問題だといって、M紙の記者を怒った。そして、相談したあげく、更生できるのならば、一石二鳥というので、とうとう矢田記者が彼女を自宅に引取ったのである。

矢田夫人も新聞記者だったから、こんなことができるのだが、普通の家庭ならば大変である。彼女は神妙に国立の奥にある矢田家に暮していたが、やがて一月もたとうというころ、お礼の書置を残して失踪した。再び上野に現れた彼女は、それから間もなく、北海道の商人で、定期的に上京する男の、東京ワイフに納ってしまった。

どうして彼女は、矢田家をとび出したのだろうか。私たちは矢田記者に聞いてみた。

『つまり、麻薬の禁断状態と同じらしいね。はじめの間は、遠慮して我慢していたのだが、やは

りやり切れなくなったらしい』

オカマの和ちゃん。彼女などはオカマといいながら、大変な美人であった。ある日、読売の婦人記者がオカマをみたいというので、上野を案内したことがある。途中で、和ちゃんに出会ったので、一緒に連れて、明るいレストランで三人でお茶を飲んだ。外に出て別れてから、婦人記者に「あれが、女形あがり、女形くずれじゃないよ。和ちゃんて子だ」彼女はエッと叫んで、信じ切れなかったらしい。

上野駅で、後から「隊長ドノ!」と呼ぶものがある。振り返ってみると、シベリアで一緒に苦労した旧部下の一人だ。聞いてみると、女とバクチで身を持ちくずし、高橋ドヤに転がり込んで、上野駅でショバ屋をやっているという。これもヒロポンだ。

『カタギになりたい』という彼の希望に、私は家へ連れてきた。といっても六帖の下宿住い だ。一晩泊めてから、都の民生局へ交渉して、引揚者寮へ入れてやった。やはり、軍隊友逹の佃煮屋さんに頼んで、その魚市場の売店の売り子にしてもらったが、彼も一月ほどで失踪してしま った。

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

最後の事件記者 p.096-097 ピカリと光るネタを毎日一本

最後の事件記者 p.096-097 読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であった
最後の事件記者 p.096-097 読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であった

カキ屋という、上野ならではの商売。ジドク屋である。ノゾキをしている男の補助をしてやる

のだ。視神経と運動神経を同時に使うと熱中できないから、運動部門を担当する。

若い巡査の恋人をもつ、あんまりラシカラザル、パン助。彼女の結婚できない悩みを訴えられて、その三帖の部屋で夜を明かしたりした。警官の妻はパン助経歴があると不適とされて、上司が結婚を認めないし、結婚するなら退職しろと迫られる。

文章のケイコ

こんな、ノガミの住人たちのことを書いていたら、それこそキリがない。こうして、社会の最下層の、しかも、どちらかといえば法律をくぐっているカゲの人たちの、生活や意見も知り、警察の事件というものを学んでゆくのである。

もちろん、警察官たちとも親しくなる。これがニュース・ソースである。若い刑事もやがては昇任し、記者がヴェテランになってゆくころには、彼らも重要な地位を占めてくるのである。

私は文章のケイコにもと思って、サツ廻りの間中、毎日必らず一本の「いずみ」を提稿した。

「いずみ」というのは、社会面の一番下にある、小さなゴシップ欄である。この欄では、どんな大きな話も冗文は許されない。それこそ、サンショは小粒でも、あるいは寸鉄ともいうべき、文

章が要求される。

そして、この欄には一本百円の取材費がついている。「いずみ」には、それらしいニュース・ヴァリューがある。これがなければ、どんな小話を持ってきてもダメである。

デカたちは、大事件のニュース・ヴァリューは、やはり判る。しかし、「いずみ」のそれは判りっこないのだ。だから、このネタを探すとなると、デカたちとの雑談しかない。その雑談の中で、ピカリと光るネタ、これを毎日一本みつけるということは、確かに大変な努力である。

しかも、折角、提稿しても、よそからもっと面白いネタがきていればボツだ。同じ程度なら、文章で採否がきまる。それこそ、原稿の練習にはもってこいの場である。

私がこの「いずみ」を送稿すると、読売第一の名文家を謳われた、現娯楽よみうり編集長の羽中田誠次長が、講評してくれる。そして最後は、「大きな原稿も書けよ」だった。しかし、私の最高記録は一月で八本、三十本も提稿して八本載ったのが限度であったが、そのうちの二、三本は、必らず記事審査委の日報でほめられていた。

新聞記者の能力は、取材力と表現力とが車の両輪のようなものだと、前に述べた。だが、現実の新聞記者で、そのような能力のある人というは、二、三割がいいところだ。

最後の事件記者 p.098-099 原稿が書けない奴が多い

最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。
最後の事件記者 p.098-099 「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

昔の記者は分業であった。着物を尻端しょりにしたのか、ハンテン、モモ引で、鳥打帽子の〝探訪〟が取材してくると、社に待ち構えている〝戯作者〟が、矢立の筆を取って、探訪の話を聞きながら、サラサラと美文調にまとめるのだ。記者がタネ取りとさげすまれた時代だ。

これで、果して、新聞は真実を伝え得るだろうか。当然、このような状態は打破されなければならない。しかし、私の先輩たちにも、このような表現力か取材力を欠いた人たちがいた。「何某さんが、原稿書いたのを見たことがあるかい?」後輩たちのこんなニクマレ口が自然に出てくるのだ。

メッセンジャー記者?

そして、それは現在にも引きつがれている。どんな能力も、日頃の錬磨なしにはのび得ない。取材力も表現力も、月月火水木金金あるのみである。だが、今の記者諸君の多くは、それを怠っている。その理由は、(そんな努力をしたって)ひき合わない、ということである。

実際に、今はひきあわないことは確かである。社会秩序は安定し、動乱はのぞむべくもない。動乱の時こそ、社会部ダネが労せずして転がっているからであろう。

如何に新聞記者に、原稿が書けない奴が多いか、ということは、週刊誌はじめ、記者がサイドワークの原稿を書き得る雑誌の、編集者が一番良く知っているに違いない。

さきごろ、四、五人のサツ廻りの記者たちと一パイのビールをのんだ。「どうだ。この雑誌に原稿を書いてみないか」と、私がすすめたのだが、一人を除いて皆イヤだという。そんなことに時間を費すよりは、マージャンでもしていた方が良いというのだ。

また、ある事件を調べようと思って、その警察に出かけていったことがある。折よく、その署の担当記者に出会ったので、まず彼に聞いてみると、彼は知らない。すると彼は他社の記者から取材しようとした。

ところが、その記者も他社の記者のメモを借りて、それで社へ送稿したとみえて、その記者も知らない。やむなくその記者は、私を連れて、捜査主任のもとへ行ったが、その捜査主任の名前もよく知らない始末だ。サツ廻りが捜査主任と、オースという仲でなくて、何のサツ廻りであろうか。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力 も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

最後の事件記者 p.100-101 私はフト、〝何故〟と感じた

最後の事件記者 p.100-101 尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れるよ。
最後の事件記者 p.100-101 尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れるよ。

これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力

も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。

サンデー毎日の特別号というのがある。話に聞くと、あの毎月の号を、企画会議で何々特集号と決ると、社会部のその関係の記者がより集って、請負制のような形で原稿をかくのだという。そのやり方はともかくとして、毎日の記者たちがそのため、取材から執筆まで、〆切に追われて苦しんでいるのをみると、記者の訓練にはよいことだと感じていた。どんなマージャン好きも、その時には手を出さないほどだからだ。

何故、何故、何故、

私はこうして、イズミで文章のケイ古をすると同時に、そのネタ探しで取材力を養っていた。上野を持つ他社の記者たちとは極めて仲良く遊んでいても、一たん仕事となると全く変った。今のサツ廻りが、クラブを設け、麻雀や花札に遊び呆け、幹事が次長の発表を聞いてきて、各社へ流すというやり方など、余程のゴミでないとやらなかった。

尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れる

よ。雑誌原稿を書くなら、あとに残るもの、あとでまとめて本にできるようなものを書けよ」と。

私は筆の荒れるのを警戒して、カストリの中でも、エロなどの変なものは書かなかった。また、あとに残るものをと心がけた。辻本次長は、また、「新聞記者ッてのは、疑うことがまず第一だ」とも教えてくれた。この〝疑うこと〟とは、旺盛な取材欲のことだ。ニュートンがりんごの落ちるのをみて、〝疑った〟ような、素朴な疑問の意味だった。ドリス・デイの「新聞学教授」ならば、何故、何故、何故、という、執ような疑問のことである。

その成功の例がある。夕刊のない時代だったので、もう十一時ごろであったろうか、私はいつものコースで上野署へやってきた。

署の玄関を入りかけて、私はフト、〝何故〟と感じた。署の前には、いつもならば、アメリカ払下げの、汚らしい大型ジープが停っているはずなのに、その日は立派な乗用車が二台もいる。それもピカピカにみがかれ、運転手が待っている。 何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。

最後の事件記者 p.102-103 「上野で日銀関係の事件です」

最後の事件記者 p.102-103 私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?
最後の事件記者 p.102-103 私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?

何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。

『いい車ですね。これ何というの?』

『ハイ、ビュイックです。もう古いんですよ。三十八年ですから…』

『ヘエ、こんな車にのるのは、余ッ程エライ人なんですネ』

『エエ、輸送課長サンです』

『輸送課長ッて、国鉄の?』

『イエ、日銀です』

『あ、そうか。いい車だな』

私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?

『お早う』

何気なく次席警部に挨拶したが、あまり反応はない。あまりあわてないところをみると、列車ギャングではなさそうだ。署内の各係をずっと歩いてみると、経済係の部屋が人でいっぱいだ。

——またヤミ米か、

そう思って、ガラス戸をあけると、中は背広ばかり、みな同じバッジをつけている。カツギ屋

など一人もいない。

——ア、経済係だった。

中から刑事が立ってきて、「今、調べ中なんだ。あとにしてくれよ」と、追い出しながら小声で「上野の駅警備!」とささやいてくれたのである。

私は身をひるがえして、署をとび出すと、公衆電話で社電した。「上野で、日銀関係の事件です。すぐ写真を下さい」

札束の誘惑

上野の駅警備詰所に行ってみると、ここですべてが判った。日銀の新潟支店から、回収した古紙幣を本店に送る現送箱二百箱に、新潟の警察官と鉄道公安官が護衛につきそってきた。ところが途中で、貨車内にコボれている米粒に疑問を持ち、開けろ、開けて事故が起きたら責任問題だと押し問答してきた。

ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、 そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。

最後の事件記者 p.104-105 五万円程度の札束を出された

最後の事件記者 p.104-105 横で聞いた社会部長も乗り出してきた。『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』
最後の事件記者 p.104-105 横で聞いた社会部長も乗り出してきた。『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』

ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、 そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。

かけつけてきたカメラマンに、米の写真をとらせていると、輸送課長がやってきた。

『これには、いろいろと事情もありますことですし、上司にも報告しませんと……幸い車もありますことですから、席をかえてお話いたしたいと存じまして、一つ……』

要するに、モミ消しに料亭へでも連れて行こうというのだった。その夜、社へ上って聞くと、私の一報で、日銀本店に文書局長の談話を取りに行った記者は〝一見五万円程度〟の札束を出されたそうである。

『実際、あれをみた時は、クラクラッとしたよ。あの金がオレのポケットにあるとすると、今ごろは……』

『何だ。そんなウマイ話なら、オレも誘いにのって、あの車に乗るンだった。何しろ、相手が日銀じゃ、定めし酒池肉林。惜しいことをした』

ヘラズ口を叩いているのを、横で聞いた社会部長も乗り出してきた。

『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』

『部長、それじゃ〆切に間に合わないですよ。各社が書いたあとじゃ、札束も酒池肉林も、可能性ないですよ。ハハハハ』

結果として、夕刊がないため、各社も後追いはしたが、ウチが写真入りの、立派な、実質的スクープとなったのである。

戦争前のこと。蒲田の愛国婦人会がグライダーを献納するというので、六郷河原の式場に、先輩と一緒に出かけていった。来賓席に通されるや、若いイナセなお兄さんが、「御苦労さんです」といって、御車代と書いたノシ袋を出した。

どうしようかと思って、先輩を見ると、眼でもらっておけと合図する。裏を返してみると、金五円也と、なかなかの大金だった。ポケットに納めはしたが、気になって式次第どころではない。

やがて、次の愛国グライダー第何号の募金箱が、式場の参会者の間を廻されはじめたが、来賓席には廻ってこない。私は、ツト立上るや、ノシ袋のまま、その金を箱の中に入れて、やっと落ちついて取材をはじめたのである。考えてみれば、やはり、新聞記者も、検事や警察官と同じように、なりたてのころほど正義感が純粋で強いのだが、古くなると世馴れてきて、現実と妥協してくるものだ。

最後の事件記者 p.106-107 実は、あの先生は男だった

最後の事件記者 p.106-107 郷里からあずかって、医大に学んでるメイが、やはり付近の婦人科の女医と同棲同様、女同志だから構わぬが、何とか連れもどす手はないか…
最後の事件記者 p.106-107 郷里からあずかって、医大に学んでるメイが、やはり付近の婦人科の女医と同棲同様、女同志だから構わぬが、何とか連れもどす手はないか…

半陰陽の女医事件

「ナゾの女性」といって、半陰陽の男が、みてくれが女のため、女として育てられ、東京女子医大を卒業、婦人科の女医として、付近の娘を次々と犯していった事件も、最初は〝ニュートンのりんご〟だった。

上野署の防犯係で遊んでいると、一人の初老の人物がやってきた。

『実は御相談があって……』

若い刑事とダベっていた私だったが、主任と話しこんでいるその人の言葉のうち、

『全く、女が女にホレるなんて』という、短かい一言に私の注意力がヒッかかった。

あとで主任に聞いてみると、その人は付近の薬局の御主人、郷里からあずかって、医大に学んでるメイが、やはり付近の婦人科の女医と同棲同様、女同志だから構わぬが、何とか連れもどす手はないか、という相談だったということだ。

ズベ公のアネゴの同性愛なら知っていたけれども、この話にはいろいろとオカシなところが多い。興味を持って調べてみると、付近の薬専の学生だった娘、旅館の娘、娘、娘と、今までにも

その女医とアツアツの若い娘が多いのだ。

しかもその女医、家に風呂がないのに、いまだかつて銭湯へ来たことがないという。

――男に違いない。半陰陽だゾ!

私はピンときて、調べはじめた。そして、ついに確実な証言をとり得たのだ。やはり、付近の薬局の娘が、はじめはイヤがっていたのに、ついには同棲、しかも、入れあげたあげくに、結核で死んだという。その母親を、一生懸命に口説き落したところ、「実は、娘が息を引きとる時、あの先生は男だった、と、何もかも話してくれました」と、その話を詳しくしゃべってくれたのである。

こうして、グロテスクな〝宿命の肉体〟物語が、特ダネとなったのだが、毒牙にかけられるべき幾人もの娘さんたちを救ったはよいが、その先生は夜逃げ同様に引越してしまった。思えば先生も可哀想だった。

女医事件後日譚

ところが、この事件には後日譚がある。

最後の事件記者 p.108-109 大喝一声『何をするのッ!』

最後の事件記者 p.108-109 相手は医者だから、怒ったら硫酸ぐらいブッかけられるゾ、と、散々おどかされた
最後の事件記者 p.108-109 相手は医者だから、怒ったら硫酸ぐらいブッかけられるゾ、と、散々おどかされた

女医事件後日譚

ところが、この事件には後日譚がある。その年の夏、新婚旅行もしなかった私たち夫婦は、父

の墓参もかねて盛岡へ旅行した。

そのある日、せまい盛岡の道路で、バッタリと、〝女医〟先生の愛人に出会ってしまったのである。私は、署に相談にきたその伯父さんが、二人の仲を無理に割いて、岩手医大に転学させたということを知っていたので、顔をみた瞬間、「ア、彼女だ」と、即坐に気がついた。何しろ、彼女の先生への打込み方の凄いのを知っていた私は、こんなところで喰いつかれたら大変だと、足手まといの妻をつれていただけに、いささかあわてたものだった。

記事にする前に、すっかり取材を終えて、最後に先生にインタヴューにでかけた。デスクは心配して、先輩記者を一人つけてくれたのである。相手は医者だから、怒ったら硫酸ぐらいブッかけられるゾ、と、散々おどかされたので、医院の前にとめた車は、エンジンのかけっぱなし。

ドアもあけておいて、キャッといって逃げこんだら、即坐にスタートしてくれと、運転手とも打合せて、いよいよ乗りこんだ。出てきたのが彼女である。

名刺を出して、面会を求めると、先生が出てきた。タバコをくわえ、「何御用?」と、気安く玄関に立って。パチッとライターをすった。

その瞬間、ヴェテランのカメラマンは、ほとんど同時にフラッシュを輝やかせた。私たちは、

怒ったら飛び出そうと、ハッとして先生をみると、写真をうつされたのを気付いていないらしい。ライターの光とフラッシュとが完全にダブったのだ。

さて、いろいろ質問をはじめたところ、先生は「愛情の自由」を主張する。彼女も、側に坐って、うなずきながら相槌をうつ。

そして、この調子ならと、カメラマンがスピグラを構えたとみるや、彼女はサッと仁王立ちに先生の前に立ちはだかり、大喝一声。

『何をするのッ!』

その時の印象は、小柄な女性なのに、仁王立ちとか、大喝一声とかがピッタリするほどであった。

『アッ!』と叫んで、私たちが腰を浮かした時には、カメラマンは素ッ飛び出して、車でブブブッと逃げてしまった。

その彼女と、せまい道でバッタリだから、私があわてたのもムリはない。しかし、彼女はすぐには気付なかった。

最後の事件記者 p.110-111 ソ連引揚者の〝代々木詣り〟

最後の事件記者 p.110-111 私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。
最後の事件記者 p.110-111 私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

その彼女と、せまい道でバッタリだから、私があわてたのもムリはない。しかし、彼女はすぐには気付なかった。

いぶかしげに、スレ違ってからも、何度も何度も振り返り、ついには立止って、考えこむ有様。逃げ出したら怪まれて、追いかけられたら大変と、何も知らない妻をせかせながら、全神経を背後に配って、足早やに立去る時の気持ちは、夢の中で逃げ出すようなもどかしさであった。

何しろ、この事件以来、私はすっかり半陰陽のオーソリティになって、法医学に興味を抱きはじめたのだ。

何といっても、サツ廻りというのは、一国一城の主。これほど記者として面白い時代はないのに、サツ種のスクープが各社とも少しも見当らないのが不思議でならない。これならば、サツ廻りなどやめてしまった方が、人の使い方としては効果的である。

私の名はソ連スパイ!

〝代々木詣り〟の復員者

私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、かかさずにやってきていた。

そこでは婦人団体よりもテキパキと、援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ献身的な姿がみられた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

二十三年六月四日朝八時ころのこと。

最後の事件記者 p.112-113 これは大変な事件になるゾ

最後の事件記者 p.112-113 それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。共産党は何をしようとしているのだろうか。
最後の事件記者 p.112-113 それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。共産党は何をしようとしているのだろうか。

二十三年六月四日朝八時ころのこと。京浜地区学生同盟品川班情報部長、横浜専門二年生伊藤

欽治君(二〇)は、引揚列車を名古屋まで迎えに行き、徹夜で車中の援護につくして、品川駅まで帰ってきた。

品川はそう赤旗のウズだ。列車が同駅を発車した時、伊藤君は赤旗組を整理しながら、列車にとびのろうとしたが、人々に押されて、ホームと列車の間に転落、重傷を負ってついに絶命した。

引揚者たちは、上野駅についてこのことを知った。直ちに檄がとばされ、車中から七千五百余円の弔慰金が集められた。そのことを知った私は、記事を書きながら、「これはもっと大変な事件になるゾ」と考えていた。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野、の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立ってはげしくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。

その日は知らなかったが、党勢拡張を狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一ヵ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料が出来上った。私は、これを社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。

『部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引起すと思います』

竹内部長は、こんな風に資料を収集、整理して、それを示しながら事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。

『それで?』

『予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いた方がいいと思います』

こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴紙に、先月既に八百名、という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行っているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、叮寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

最後の事件記者 p.114-115 『何? スパイだって?』

最後の事件記者 p.114-115 ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。
最後の事件記者 p.114-115 ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。

早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴紙に、先月既に八百名、という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行っているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、叮寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現れてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして、京都駅での大乱斗、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。

私の名はソ連スパイ

この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私は、その記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。

『…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行なわれており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているかを、時間をかけて、調べてみたいのです』

『何? スパイだって?』

『ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は同朋相剋の悲劇を強いられているに違いないと思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終ってまだ数年だというのに、もう次の戦斗の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です』

『それで、調べ終ったら、どうするつもりだね』

『もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが!』

『書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか』

『ハイ。私は新聞記者です』

『ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ』

部長は許可してくれた。それから、私のソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私には、相当程度のデータは集っていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集ってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一ヵ月のデータの中から、めぼしいものが浮んでいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。

最後の事件記者 p.116-117 エヌカー(秘密警察)の中佐

最後の事件記者 p.116-117 私自身の手で書き、署名さえした〝スパイ誓約書〟が、今でも、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「この誓約を破ったならば、如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。
最後の事件記者 p.116-117 私自身の手で書き、署名さえした〝スパイ誓約書〟が、今でも、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「この誓約を破ったならば、如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません。」と、私自身の手で書き、署名さえした。〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「…もし、この誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

モスクワから来た中佐

『ミー夕、ミータ』、兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭抗作業に、疲れ切った私は、二段べッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

――来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながらに上半身を起した。

『ダー、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。

最後の事件記者 p.118-119 極東軍情報部員に違いない

最後の事件記者 p.118-119 その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。『ナゼ日本新聞で働らきたいのですか』
最後の事件記者 p.118-119 その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。『ナゼ日本新聞で働らきたいのですか』

ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調査をはじめた。本簿、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は、一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

『ナゼ日本新聞で働らきたいのですか』

中佐の日本語は、叮寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジヤ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです』

『宜しい。よく判りました』

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立上って一礼し、ドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

『パダジジー(待て)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!』

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

『今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない』

と、教えてくれた。

こんなふうに、言含められたことは、今迄の呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで? 私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると歩哨たちは、〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと思っていた。

最後の事件記者 p.120-121 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ

最後の事件記者 p.120-121 少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。
最後の事件記者 p.120-121 少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

偽装して地下潜入せよ

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もう一人通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して、〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウーン、今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

――何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

――まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当りの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

『モージ!』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。

最後の事件記者 p.122-123 二人の秘密警察員と相対する

最後の事件記者 p.122-123 『サジース』(坐れ) 少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向い側の椅子を示した。――何か大変なことがはじまる!
最後の事件記者 p.122-123 『サジース』(坐れ) 少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向い側の椅子を示した。――何か大変なことがはじまる!

ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私は、そんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢よく引きつけられた靴のカカトが、カッと鳴ったほどの、厳格な敬礼になっていた。

冷たく光る銃口

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、みたことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳めしいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の、眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

『サジース』(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向い側の椅子を示した。

――何か大変なことがはじまる!

私のカンは当っていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の、「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立上ってドアの方へ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルッと震えた。

――鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞えない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの密室で、私は二人の秘密警察員と相対しているのである。

最後の事件記者 p.124-125 彼は机の引出しをあけた

最後の事件記者 p.124-125 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。
最後の事件記者 p.124-125 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。

――何が起ろうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。

――何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が片唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引出しをあけた。ジット少佐の眼に視線を合せていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いて、机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

――拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。

誓いの言葉

少佐は、半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

『貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと願いますか』

歯切れのよい日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上づったかすれ声で答えた。

『ハ、ハイ』

『本当ですか』

『ハイ』

『約束できますか』

『ハイ』

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答はない。

最後の事件記者 p.126-127 モシ、誓ヲ破ッタラ

最後の事件記者 p.126-127 「私のいう通りのことを紙に書きなさい」――とうとう来るところまで来たんだ。
最後の事件記者 p.126-127 「私のいう通りのことを紙に書きなさい」――とうとう来るところまで来たんだ。

『約束できますか』

『ハイ』

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答はない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を振って答えた。

『誓えますか』

『ハイ』

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白紙を取出した。

『よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい。』

――とうとう来るところまで来たんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

『日本語ですか、ロシヤ語ですか』

『パ・ヤポンスキー!』(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。

『漢字とカタカナで書きなさい』

静かに、少尉の声が流れはじめた。

『チ、カ、イ』(誓)

『………』

『次に住所を書いて、名前を入れなさい』

『………』

『今日の日付、一九四七年二月八日……』

『私ハ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス。』

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の事件記者 p.128-129 終身暗いカゲがつきまとう

最後の事件記者 p.128-129 陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』
最後の事件記者 p.128-129 陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス。』

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと、考えてみたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

『プリカーズ』(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』

ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

『ダー』(ハイ)

『フショウ』(終り)

はじめてニヤリとした少佐が、立上って手をさしのべた。生温い柔らかな手だった。私も立上った。少尉がいった。

『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように』

眠られぬ夜

ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令……と、私には終身、暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後からガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。

最後の事件記者 p.130-131 命令を与えられたスパイ

最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或は、私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラツキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。