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新宿慕情 p.134-135 快美神経の移殖はまだムリらしい

新宿慕情 p.134-135 戦争のおかげで、軍陣医学が進歩して、整形外科の技術は大いに向上した、という。弾丸が当たって、オチンチンを吹き飛ばされた場合など、オナカの皮を丸めて、まず…
新宿慕情 p.134-135 戦争のおかげで、軍陣医学が進歩して、整形外科の技術は大いに向上した、という。弾丸が当たって、オチンチンを吹き飛ばされた場合など、オナカの皮を丸めて、まず…

仮性には、仮性男性半陰陽と仮性女性半陰陽とがある。見てくれは女性だが、ほんとうは男性というのが前者で、後者はその反対である。
彼は、この前者であった。尿道下裂症といって、〝棒〟の裏側のジッパーがこわれている。これが、オナカについているのだから、どうみても、ドテである。
亀頭部は発育不全で、その上部にこぢんまりとついているから、これまた、どうみてもサネで

ある。陰嚢は、睾丸が腹腔中に滞留しているので、クシャクシャになって、ジッパーのこわれて裂けた部分の、下のほうについているから、産婆さんがみても、親兄弟がみても、どうしても、女に見える。

こうして、彼は、女児として育てられた。小学校の高学年になったころ、腹腔内の睾丸がソケイ部におりてきたが、医者に見せたら、オデキだ、というので、切除されてしまう。翌年、反対側の睾丸がおりてきて、これもオデキ扱いでパチン……。

とんでもないヤブ医者のおかげで、彼は、男性機能の睾丸をふたつとも、切り取られてしまったわけだ。

戦争のおかげで、軍陣医学が進歩して、整形外科の技術は大いに向上した、という。

弾丸が当たって、オチンチンを吹き飛ばされた場合など、オナカの皮を丸めて、まず、トランクの把手みたいなものを作りあげ、組織が生きるのを待つ。

この把手の上の部分(ヘソに近いほう)を切り離し、オチンチンの根元に縫合する。把手を一段下に移すわけだ。これまた組織が生きるのを待ってもう一度、反対側を切り離してブラ下げる。

快美神経の移殖は、まだムリらしいが、ともかく、これで、パイプがブラ下がっているのだから、排尿と、体裁だけは整えられることになる。

オナカの皮膚で、海綿体ではないので、ボッキは望むべくもない、ということだ。

東大法医学教室の、鑑定写真でみると、全裸のスタイルは、全体に丸やかで、やはり、女のハ

ダカの感じである。それから、外陰部の写真と、その〝一見大陰唇風〟のもの(例のジッパーのこわれたもの)を押しひろげて、膣口がないことを示した写真など、ゼヒ、おめにかけたいのだが、割愛せざるを得ない。

見てくれは男だが、実は女性というのは、陰核が発育肥大して(といっても、正常な男性よりは小さい)〝一見陰茎風で〟あり、外陰部がブラ下がっていて、これまた〝一見陰嚢風〟なのである。

戦前の女子医専を卒業した産婦人科の女医が、実は男性仮性半陰陽で、付近の娘たちを、次々と犯していった、などという事件も、この、ノガミ時代に書いたことがあった。

こうして、半陰陽についての私のウンチクは、新聞記者としての〝臨床例〟で、蓄積されてきたものだが、カルーセル麻紀などという、性転換の旗手が現れてくると、やはり、〈社会部記者根性〉が、ウズイてくる。

あらお兄さん!

某年某月某夜——一パイ気嫌で、歌舞伎町から、社の方向へと歩いてくると、とある〝呼びこみバー〟の子が、「アラ、お兄さん!」と、声をかけてくるではないか。

そのハスキーな声には、ゾクゾクするような、ナニカがあった。振り向くと、やや大柄ながら夜目にも美しい女だった。吸い寄せられるように、そちらに戻っていった。

新宿慕情 p.136-137 某月某夜ふたりはラブホテルに

新宿慕情 p.136-137 店の電話番号と女の名前がわかれば〈初会〉は十分。二回目で一万円ほど。これで〈ウラを返して〉、三回目ともなれば、もう〈馴染み〉だから二、三万…
新宿慕情 p.136-137 店の電話番号と女の名前がわかれば〈初会〉は十分。二回目で一万円ほど。これで〈ウラを返して〉、三回目ともなれば、もう〈馴染み〉だから二、三万…

あらお兄さん!

某年某月某夜——一パイ気嫌で、歌舞伎町から、社の方向へと歩いてくると、とある〝呼びこみバー〟の子が、「アラ、お兄さん!」と、声をかけてくるではないか。
そのハスキーな声には、ゾクゾクするような、ナニカがあった。振り向くと、やや大柄ながら夜目にも美しい女だった。吸い寄せられるように、そちらに戻っていった。

胸もあらわなドレスから、こぼれんばかりの豊満なチチブサがのぞいている。

「いくら使えばいいンだネ?」

「五千円でいいわ。……まだ、今夜はお茶っ引きなの。ネ、お願いだから……」

「五千円? それじゃ、キミへのチップは、別に千円。それでいいネ」

呼びこみバーや、キャッチバーの場合には、最初に、キチンと話を決めておかねば、どんなことになるか、判ったものではない。

こうして、私は、そのハスキー・ホーマンの客として、階段を上がっていった。

やっとオトしたが

薄暗い店内。私のボックスには、さらにふたりの女がきた。席につくと同時に、私は、ヘルプの娘に千円ずつ。ハスキー・ホーマンに二千円、それに、勘定の五千円。みんなの見ている前で、パッパッと渡してしまった。

すでに、私にはアルコールの下地ができていた。ビールが二本出た。おまじないのようなオツマミ。

「ねえン……」

二本目のビールが、カラになりかけると、彼女は、追加しようとして、ハスキーなハナ声を出して、私の肩にもたれかかってきた。

「イヤ、まだ仕事があるんだ。男ッて、引き際が大切なのサ」

私は、コップをグイとあおって席を立った。店の電話番号と、女の名前さえわかれば〈初会〉は、これで十分なのだ。

二回目で一万円ほど。これで〈ウラを返し て〉、三回目ともなれば、もう〈馴染み〉だから気前良く、二、三万を使った。

そして、某月某夜……。ふたりは、ラブ・ホテルのベッドのなかにいた……。

風呂に入ってきたというのにこのハスキー・ホーマンは、またパンティをはいてきている。

「だってェ、私を愛してくれる男の人は、みんな、私のことを知ると、去っていってしまうんだモン。アタシ、このままでいいわ……」

申しわけ程度の、小さな布切れを下につけただけの、彼女の身体は、そのチチブサのように

白く、丸く、美しく輝いて、ステキであったが、どうしても優しく拒んで、その布切れを取ろうとしない。

(写真キャプション)800万円もかかるという〝膣整形〟の初体験者

新宿慕情 p.138-139 膣だけは日本の医者ではダメらしいわ

新宿慕情 p.138-139 男根と睾丸の切除は、東京の医者にかかった。ヤミ手術なのである。ヤミだから高価い。「二、三百万円かかったわ…」と、彼女はボカしていう。
新宿慕情 p.138-139 男根と睾丸の切除は、東京の医者にかかった。ヤミ手術なのである。ヤミだから高価い。「二、三百万円かかったわ…」と、彼女はボカしていう。

申しわけ程度の、小さな布切れを下につけただけの、彼女の身体は、そのチチブサのように

白く、丸く、美しく輝いて、ステキであったが、どうしても優しく拒んで、その布切れを取ろうとしない。

田舎のこと、東京に出てきたこと、親や兄弟のこと。抱き合ったままの物語は、時々、彼女の瞳にキラリと光るものさえ浮べるほどで、なにか〝秘密〟を匂わせていた……。

はじめの間は、この私でさえ彼女の戸籍が錯誤から「男」と記入されてしまっていた、法的無知のために、その訂正の手続きが取れないでいるのかナ? と思いこんでしまったのであった。

私の〈新聞記者的好奇心〉は「それで?」「そして?」「どうして?」と、彼女を追い込んでいって、とうとうオトした。〝オトす〟というのは、「全面自供」させるということだ。

このハスキー・ホーマン嬢は実は、男性だった。そして、性転換手術の途上にあったのだ。

男根と睾丸の切除は、東京の医者にかかった。ヤミ手術なのである。ヤミだから高価い。

「二、三百万円かかったわ……」

と、彼女はボカしていう。医者の名前は? とたずねると、

「それだけは許して!」

と、絶叫に近い声でいう。

イヤがる彼女を口説き落して私はパンティを脱がせた。

まじまじと、明るい電灯の光のもとで、〈事実〉を見た。

——ノガミの半陰陽と同じだ!

東大の、あの鑑定写真と、まったく同じものが、そこにあった。

人差指と中指とで、外陰部を押しひろげてみると、やはり、〝小野小町〟だった。

睾丸の摘出によって、やはり身体は女っぽくなるらしい。チチブサは、注射でふくらませられよう。だが、彼女が最後までパンティを取らなかったように、〝最後のモノ〟がないという悲しみが、彼女に涙を誘わせるらしい。

「でも、いま、お金を貯めているのよ。膣だけは、日本の医者ではダメらしいわ。……八百万円ぐらいかかるんだって……。それに、外国へ行く旅費も必要だもンね……」

呼びこみバーで働く女としては、美しすぎる彼女だったが、あの種の店は、女の子の定着が悪いし、付き合いがないから、彼女の〝身許〟がバレるおそれが少ないこと。そして、荒稼ぎも可能だ、ということだった。

だが、性転換の費用、ざっと一千四、五百万円を稼ぐためにその〈青春〉を、ネオン街に埋没させる青年——。そんな連中がいるのが、〈新宿〉なのだ。

新宿慕情 p.140-141 渋谷の百軒店のカフェーのこと

新宿慕情 p.140-141 とうとう、芸者とホステスとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか…。私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。
新宿慕情 p.140-141 とうとう、芸者とホステスとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか…。私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。

青春の日のダリヤ

〝おとな〟の男に

こうして、〈私の新宿〉について、中学生時代に、小田急から省線(当時は、鉄道省の線だから省線電車だった)に乗り換えて、巣鴨の府立五中まで通学した時から、四十年の変遷を書いていたら、いつの間にやら、けっこうな量になってしまったようである。

思いついて、「週刊新潮」誌(10・16付)をひろげてみたら、山口瞳氏の「男性自身」が、六一四回の連載になっている。

中学二年生の時に、校友会雑誌に原稿を書いてから、どうやら、私も、四十年以上も、ペンを握りつづけてきたようだ。

だから、書きつづけている分には、山口さんの六百回に迫ることもできるだろうが、デスクの浅見君に、「ここは旅行記のハズなんです。依頼した原稿がたまってるから、ソロソロおりて下さいよ」と、イヤ味をいわれたので、ひとまず、連載をやめることにしよう。

気がついてみると、新宿と私の人生との関わり合いを書きながらも、とうとう、芸者とホステ

スとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか——。

私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。

中学を卒業して、浪人していた私は、仲の良かった五中の制服指定店の主人に頼んで、背広を作ってもらった。催促なしのある時払い、という約束だったから、もしかすると、あの三星洋服店に、借金が残っているかも知れない。

未成年のクセに、背広を着て一丁前のフリをした私は、好奇心に燃えて、〝おとなの世界〟にクビを突っこんでいった。

バー、カフェーと、ノゾき歩いた私は、「ナンダ、これだけのものか」と、その好奇心はすぐ、満たされてしまった。

それでも、渋谷の百軒店のカフェーのことは、まだ覚えている。いまの同伴喫茶のように、背もたれが高く、店内は薄暗くボックスの中は、そばに近寄らねば、さだかには見極められないほどだった。

私は、そこではじめて、ペッティングを経験した。まだ、少年らしい潔癖感が残っていたらしく、〝汚れ〟た手を、ビールで洗って、テーブルの下をビショビショにしたものだった。

一張羅の背広のズボン、前ぼたんのあたりが、女給サンの手に塗っていた白粉で、白ッぽくなっていたのを、翌朝、母親にみつかって、叱られたことも、記憶が鮮やかだ。

こうして、バーやカフェーを知ったあと、それでもまだ、私は、遊郭には行かない。

新宿慕情 p.142-143 おとなになりたいんだオネエさん

新宿慕情 p.142-143 仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。日本髪の、いかにも、芸妓ッぽいお姐さんが入ってきた。
新宿慕情 p.142-143 仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。日本髪の、いかにも、芸妓ッぽいお姐さんが入ってきた。

渋谷、丸山町の花柳界を歩きながら、「粋園」という大きな待合に、ひとりで入ってみた。そこの仲居、しかも、初めて行った日の仲居サンが、なぜか、私を大切にしてくれた。

二回か、三回、ヒラ座敷で、酒を呑んで帰っただろうか。そして、誕生日の夜に、覚悟を決めて出かけていった。

「ボク、きょうが誕生日なんだよ。……おとなになりたいんだ。オネエさん、頼むネ……」

多分、そんなセリフを吐いたことだろう。

はたちの誕生日に

十一時ごろで、ヒラ座敷の妓は帰っていった。そのころの待合の玄関には、必ずといってよいほど、将校の黒長靴が脱いであった時代だ。♪腰の軍刀にすがりつき……、といった唄が、流行っていたころだろうか。

仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。

日本髪の、いかにも、芸妓っぽいお姐さんが入ってきた。もちろん、初対面の女(ひと)であった。

そのころの花街の情緒は、丸山町あたりでも、立派なものだった、と思う(というのは、他の花街の知識がなかった)。

長襦袢一枚で、するりと入ってくると、膝が割れれば、肌があった。叮寧にタタんだお座敷着

と帯などは、朝早く、下地ッ子(芸妓見習生)が、お姐さんの浴衣と引き換えに、置屋に持ち帰ってしまう。

入浴して、キリッと浴衣姿に変わり、薄く化粧をして、甲斐甲斐しく、遅い朝餉のお給仕をする。

酒の相手はしても、座敷では食べものを口にしない、という戒律は、厳しく守られていて、同衾した翌朝でさえも、朝食をいっしょに、というまでには、ずいぶんと、時間がかかったものだった。

私の初体験の翌朝は、六月という梅雨時にもかかわらず、朝から太陽が輝いて、白地のカーテンを通して、日がサンサンと縁側に入ってきていた。

彼女(ダリヤという源氏名だった)は、その陽を浴びながら鏡台に向かって、髪をまとめていた。

「ボク、童貞だったんだ……」

私は、鏡の中の彼女に、そう語りかけた。

「……」

彼女は、大きく眼を瞠って、私を見返した。その瞳には、感動に近い輝きがあった。

「まあ、そう……。やっぱり……」

「オレ、きょうからハタチなんだよ。計画を樹てていたんだ。誕生日の夜に……って!」

「そうお!」

新宿慕情 p.144-145 二月十一日の夜に別れることを約束した

新宿慕情 p.144-145 その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。♪紀元は二千六百年…
新宿慕情 p.144-145 その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。♪紀元は二千六百年…

「ボク、童貞だったんだ……」
私は、鏡の中の彼女に、そう語りかけた。
「……」
彼女は、大きく眼を瞠って、私を見返した。その瞳には、感動に近い輝きがあった。
「まあ、そう……。やっぱり……」
「オレ、きょうからハタチなんだよ。計画を樹てていたんだ。誕生日の夜に……って!」
「そうお!」

彼女が、深くうなずいた。頭に、両手を挙げていたので、二の腕の、ふくよかな白さが、鏡の中に映っていたのを、私は、戦争中に想い出したりしたことを、ハッキリと覚えている。

本名を友枝といった。八戸市の出身だった。当時で二十四歳で、すでに〝看板借り(丸抱えの芸妓ではなく、ダンナ持ちで、置屋の看板を借りている自前の妓)だったが、あとで判明したところでは、当夜は、ヒラ座敷を終わって、帰ろうとしていたのを、おキクさんに口説かれて、渋々、泊まったそうだ。

少年の日の(いや、もう青年というべきか)私は、この芸妓に夢中になった。その六月から翌年の二月、紀元節(建国記念日)の夜まで、ことに、秋以降は、〝同棲同様〟の生活であった。

おキクさんが、私を、どこぞのお坊ッちゃん、とでも思ったのか、気前良く貸してくれる。彼女は、泊まりの花代を、黙って、私のポケットに入れて、返してよこす——自分に傾倒してくる年下の、若い男にひかれるものがあったのかも知れない。

だが、彼女にも、〝芸妓らしい秘密〟があったのか、ふたりは、二月十一日の夜に、別れることを約束した。

その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。

♪紀元は二千六百年……。私が彼女に夢中になり出したのは、その歌とともに、この花街でも、組踊りが座敷をまわってきたころだった。

「オイ、ダリヤはどうした?」

酔った私がそう叫んだ時、地方(じかた)のバーさん芸者が聞きとがめた。

「お兄さん。その年で、ダリヤだなんてイバらないで! ダリヤ姐さん、といいなさい!」

その一言で、私は、ダリヤの地位を知った——三善英史の唄『丸山花街』が好きなのは、そんな想い出につながるからであろうか。

まだつづく情的研究

〈脱ダリヤ〉の結果、私は新宿二丁目を知るようになった。それまでは、ダリヤだけしか知らない〝純情さ〟だったのだ。

やがて、日大の芸術科に行っていたころ、オフクロとふたりで、ひるめしを食べていた時のことだ。

台所口で、「ゴメン下さい」という声がした。? 聞き覚えのある声だった。

——ア、おキクさんだ!

さっと、顔色を変えた私の表情に、オフクロは私を見た。私は、黙って両手を合わせた。

オフクロは立っていって、なにもいわずに、何十円だったかの、枠園のツケを払ってくれたのだった——それ以来、私は、八十七歳にもなる老母に、頭が上がらない。

いまでも、オフクロは、電車とバスを乗りついで、ひとりで私の家に、様子を見にくる。そし

ていう。

新宿慕情 p.146-147 ダリヤはどうしてるかナ?

新宿慕情 p.146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。
新宿慕情 p.146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。

いまでも、オフクロは、電車とバスを乗りついで、ひとりで私の家に、様子を見にくる。そし
ていう。

「情的研究は、もう卒業したんでしょうネ」

かたわらで、妻がニヤニヤして、その言葉を引き取る。

「イイエ、おばあちゃん。まだまだなんですよ」

志偉座とぱとら、という子供たちが、口をさしはさむ。

「オバァちゃん。ジョーテキ、ケンキュウって、なあに?」

妻は、八戸市のすぐそば、県境の岩手県軽米町の出身で、長姉が町長の夫人である。

むかし、子供たちを連れて帰省した時、役場の知人に頼んで、八戸市の「◯✕友枝」という戸籍を探してもらったそうだ。自分がまだ生まれたばかりの時の〝情事〟だから、現実感がないらしく、ヤキモチをやかない。

「もう、いいおばあさんだもんネ。あなたが、童貞を捧げた芸妓サンに会ってみたいワ。でもその人、発見できなかった……」

……八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。

——いよいよ、戦死だナ……。

私は、そう思って、「オレは死ぬ時に、天皇陛下万歳! と叫ぶだろうか?」と、考えたりした。

——ダリヤはどうしてるかナ?

若い生命を散らすのだから、男に生まれたからには、女のことを想って死んで行きたかったが適当な女性がいなかった。だから、ダリヤのことを考えてみたりしたが、ピンとこない。

——仕方がないや。オフクロで我慢するか……。お母さーん(なんだか、オミソみたいだ)。

夜が明けた。ついに、戦車のキャタピラのごう音は、聞こえてこなかった——。

舞鶴に上陸して、東京に着いたその足で、読売新聞に挨拶して、世田谷の家に帰った。

オフクロが、ひとりで家にいた。

「ただいま」

「お帰りなさい。元気で良かったネ」

読売社会部に復職してから、ついでの時に、丸山町に行って調べてみたが、ダリヤ姐さんの消息は聞けなかった。

あの当時の半玉のひとりが、新宿十二社で料亭をしているが、まだ、行ったことがない……。

正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 2面

正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 2面 防衛庁が機密防衛作戦 火をつけた三矢・怪文書事件
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 2面 防衛庁が機密防衛作戦 火をつけた三矢・怪文書事件

正論新聞・創刊号 昭和42年元旦号 1面

正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 1面 風林火山 葉たばこ輸入にも〝黒い霧〟 詐欺常習者にいつもの顔ぶれ 水野繫彦 児玉誉士夫 吹原弘宣 森脇将光 大橋富重 森清 永田雅一 川島正次郎 山口喜久一郎 桜内義雄 田中角栄
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 1面 風林火山 葉たばこ輸入にも〝黒い霧〟 詐欺常習者にいつもの顔ぶれ 水野繫彦 児玉誉士夫 吹原弘宣 森脇将光 大橋富重 森清 永田雅一 川島正次郎 山口喜久一郎 桜内義雄 田中角栄
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 題号
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 題号
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 コラム・風林火山
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 コラム・風林火山

正論新聞・創刊号・風林火山

戦後のある時期に、バクロ・ジャーナリズムが、横行したことがあった。

「真相」という、反保守の雑誌が、保守系の代議士連中を、それこそナデ斬りにして、はじめのうちは、ヤンヤの喝采を博したものだった。が、やがて、その下品さがひんしゅくを買うにいたり、しかも、タネ切れでウソが多くなり、数十名の代議士の告訴で潰えさった。

また、すでに故人となったある参院議員のケースがある。

占領下の、引揚問題が重大な時、留守家族の支持で当選してきた彼の名は、毎日の新聞に大きく出ない日はなかった。その彼に女性関係のスキャンダルがあったらしい。

「青年新聞」という、革新系の新聞が、それを綿密に取材してきて、その記事を二十万円で買い取れというのに、参院議員は、自信に満ちて一蹴した。

新聞側は、「かかる議員にふたたび議席を与えるな」と、大見出しをつけ、八人の女の写真入り新聞を、その選挙区にバラまいたものである。

次の選挙で、婦人票の多い彼が、落選したのはいうまでもない。彼は不遇のうちに死んだ。

記者はいま、この創刊号の原稿をまとめながら、改めて、バクロ・ジャーナリズムということを考えてみる。

私利私慾が、私利私慾に分け前を強要するのに、活字という武器を使う——これが、バクロ・ジャーナリズムの姿である。

だが、今の時代ほど、本当の意味で、バクロを必要とする時代は、ないのではないか。

本物の味、本物の心。すべてに、本物の値打ちが認められない時代だからこそ、本物、つまり、ホントのことを、「知る権利」を持つ人々に、新聞人として「知らせる義務」がある。

刑訴法も刑法も知らず、〝エンピツ女郎〟が記事を書く。これが怪文書であり、バクロ・ジャーナリストだ。彼の人柄そのままに、下品で、尊大で、無恥で、無知だ。

記者は、読売社会部十五年のうちに、新聞人と自称できる、勇気と自信を与えられた。新聞が公器なればこそ、この〝育ての恩〟は、社会と次の世代に報ずべきである。

斬奸とか、筆誅とかリキむまい。あえて掲げよう。純正バクロ・ジャーナリズムの旗を!

正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻

正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻 正力松太郎の死の後にくるもの 三田和夫著 腰巻推薦文/岩渕辰雄 山口シヅエ 川内康範
正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻 正力松太郎の死の後にくるもの 三田和夫著 腰巻推薦文/岩渕辰雄 山口シヅエ 川内康範

正力松太郎の死の後にくるもの
三田和夫著

正力松太郎の死の後にくるもの 腰巻 推薦文/評論家・岩渕辰雄氏 代議士・山口シヅエ氏 作家・川内康範氏
正力松太郎の死の後にくるもの 腰巻 推薦文/評論家・岩渕辰雄氏 代議士・山口シヅエ氏 作家・川内康範氏

正力松太郎の死の後にくるもの 腰巻

評論家・岩渕辰雄氏
三田君は犀利な眼で豊富なデータを駆使して、〝明日の新聞〟を展望している。

代議士・山口シヅエ氏
正力さんの評伝ともいえる三田さんの労作。新聞を知るための好読物です。

作家・川内康範氏
正力をめぐる人間模様が躍動的なタッチでまとめられており、飽きさせない筆力である。

正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで

正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで 著者紹介
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで 著者紹介
正力松太郎の死の後にくるもの カバーそで 著者紹介
正力松太郎の死の後にくるもの カバーそで 著者紹介

著者紹介

1929年/盛岡市に生まれる。
1943年/日大芸術科卒業、読売新聞入社。
1958年/読売新聞を退社。

現  在/評論、報道のフリーのジャーナリストとして執筆活動を続けるかたわら、一般旬刊紙として「正論新聞」を三年前に創刊。
ひきつづき主宰している。

著  書/東京コンフィデンシャル・シリーズ「迎えにきたジープ」(1956年刊) 「赤い広場—霞ヶ関」「最後の事件記者」(1958年刊) 「事件記者と犯罪の間」(現代教養全集第5巻収録)=文春読者賞=(1960年刊) 「黒幕・政商たち」(1968年刊)

現住所/東京都新宿区西大久保1の361金光コーポ 505号

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 私の記憶にある正力さん

正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ
正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ

正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が…

私が、この稿をまとめることを想いたったのは、正力さんが亡くなり、そのお葬式があった日のことである。

昭和四十四年十月九日。その日は、朝からどんよりとした曇り空だったが、とうとう十時ごろから降りだしてしまった。傘も持たずに銀座に出ていた私は、レインコートのエリを立てて、街角の赤電話から、読売系の新聞店である啓徳社の田中社長に、面会の約束をとろうとして電話したのだった。

「正力さんが暁け方に亡くなられたンですよ。ですから、予定が立たないンで……」

田中社長のその言葉に、私は「エッ⁉」といったきり、しばらく絶句していた。

雨は顔を打ち、エリもとに流れこむ。——その時、私の頭の中を走馬燈のように駈けめぐっていたのは、私が昭和十八年の十月一日に読売に入社した日の、横山大観の富士山の絵を背にした、元気いっぱいな正力さんの顔であり、戦後の、「社主」になってからの、やや老けこまれた

あの姿、といったように、私の記憶にある正力さんであった。

そして、その走馬燈がやがてピタリと停った時、その〝絵〟を私は見たのである。

それこそ、全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだのであった。

なぜならば……。と、書き進めてくると、読者の理解を助けるため、私の経歴を語らねばなるまい。

東京五中(現小石川高校)から、浪人したり、上智大学新聞科、日大芸術科と渡り歩きながら、ジャーナリストを志した私は、NHK、朝日、読売と三社の入試を受けて、読売をえらんだのだった。

それから、昭和三十三年七月に、自己都合退社をするまで十五年間も、私は社会部記者一筋で読売の世話になったのである。〝自己都合退社〟といっても、他にウマイ口があって読売を追ン出たのではない。

当時、検察庁や裁判所を担当する、司法記者クラブ詰めであった私は、その一月ほど前に銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組一味による横井英樹殺害未遂事件に関係して、警視庁に逮捕されるハメになったから、責任をとって辞職を願い出たのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。

といっても、私は暴力団の一味ではない。反対に、警視庁が指名手配した五人の犯人たちを、我が手で一網打尽にして、一大スクープをものしようと考え、まず、その一人を捕えたのが、「犯人隠避」罪に問われたのであった。

それからまた、浪々の身となる。愛する女を、愛するが故に諦める。あの、男の心意気である。私が退社せねば読売に、〝惚れた〟読売に迷惑がかかるのだ。

そして十年。諦めた女は、大家の奥様となって、その家風に馴染み、好むと好まざるとにかかわらず、昔のおもかげすら見出せない違う女に変っていった。しかし、それが〝女〟(新聞)の宿命なのである。

私は、私を産み、私を育ててくれた、母なる読売新聞の、その昔のおもかげを求めて、昭和四十二年の元旦から、自力で小さな新聞「正論新聞」を発行した。そして、その新聞はいま育ち盛りなのである。

読売を退社して、私ははじめて、新聞を客観的にみつめる〝眼〟を持った。そこには、矛盾もあれば、過誤もあった。科学として体系づけられた「新聞学」が、新聞の実態の変化に追いつけないほどの、変移すら起こっていたのである。

こうして私は、読売新聞への私の愛情、大きな意味での、新聞への愛情に駆りたてられて、小さな「正論新聞」での実験的試みを通しながら、新聞の体質の変化をまさぐり、〝生きている新

聞論〟を執筆しよう、と考えるにいたった。それが、「正論新聞」に連載している「現代新聞論=読売新聞の内幕」である。すでに、「朝日新聞の内幕」は、昨年秋から、月刊誌「軍事研究」に連載ずみで、読売のつぎは毎日へと続く予定である。

さて、本筋へもどって、なぜならばの項に入らねばならない。

なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。しかも、プロ野球があれほど多くのスポーツ紙を興隆させ、テレビもまた花盛りで、スポーツ面、テレビ面が、全新聞紙の主要頁になっている現状をみる時、その人を葬送するのに読売新聞が全紙面を埋めても、何ら奇異とするにあたらないからである。

奇異とするに当たらないばかりではない。読売のつい先ごろまでの、いわゆる〝正力コーナー〟なる紙面を考える時、そして、読売の今日の隆昌を見るならば、「社主」と自ら呼号した正力松太郎のために、最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟をつくってあげることは、人間社会の礼儀として極めて自然なことであるからだ。そしてそれが、正力松太郎という偉大なる新聞人の、桎梏から解放された読売人としての、最後のおつとめではなかったか。

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 私はただ一人で正力さんから辞令を頂いた

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある
正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

私が今日こうして、一本のペンをもって、口に糊することができるのも、読売新聞あればこそであり、その読売の先輩、同僚諸氏の薫育指導、切磋琢磨のおかげである。しかし、それは私情である。私情、私生活では、先輩として礼を尽くし、敬愛するところがあっても、新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質があるのだが、それは、後述することにしよう。

そして、私は私なりに、この書のはじめで、正力さんへの追憶の一文を捧げたいと思う。

正力〝社長〟の辞令

ちょうど工場へ入稿の日、ニュースが正力さんの、突然の訃を伝えていた。私は徹夜で原稿を書いた朝だったが、一瞬、ハッとして筆を止めてしまっていた。

——私が、正力さんの追憶などを書くのに、その任でないことは明らかである。だが、入稿の日だったので、どうしても、書かないではいられない気持になって、全二段の広告欄をはずし、そこに、この原稿を入れる手配を取ってしまっていた。

昭和十八年十月一日。戦争中の半年の繰りあげ卒業で、九月に卒業した私は、月末の数日を郷里の盛岡市に遊んで、三十日夜の列車で上京した。ところが、十月一日からのダイヤ改正で、真夜中になると、列車は時間調整のため、途中駅で停ってしまった。一日朝九時からの読売の晴れの入社式には、どう計算してみても間に合わない。一応、電報だけは打とうというチエは浮んだ。

社に着いたのは、もう十時を回ったころだった。岡野敏成人事部長に伴われて、私はただ一人で正力さんから、辞令を頂いた。「見習社員ニ採用、社会部勤務ヲ命ス」とあるその辞令は、スクラップ・ブックに貼られて、今でも手許にある。

そのまま、社会部にいって、電話取りから始まったのだが、その当時のことを、私が読売を退社した昭和三十三年十二月に出した「最後の事件記者」(実業之日本社刊)には、こんな風に書いている。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 正力さんに必死の想いで手紙を

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた」

日大を出る時、私はNHK、読売、朝日の三社を受験し、朝日だけ落ちた。NHKには「採用辞退届」というのを送って、読売をえらんだのだった。そして、読売をえらんだことは、入社してみて、誤っていなかったのだと、自信を固めていた。

正力さんとは、口をきいたのは、辞令を頂く時の一言、二言だけだった。それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

高木健夫さんが、「読売新聞風雲録」に書かれている「社長と社員」を読むと、正力さんの人柄が大変に偲ばれる。昭和三十年春に出たその本を、私は警視庁記者クラブ詰め時代に読んだものだが、その先輩たちを羨しく感じた。

昭和十八年ごろの正力さんは、まだ高木さんの書かれた通りの、〝正力さん〟だったろ うと思う。それなのに、入社早々の私には、先輩たちのような、正力さんとの〝交情のものがたり〟がないからだ。

昭和二十二年秋、復員してきた時には、正力さんは巣鴨で、しかも、銀座の本社は戦災の復興中。読売は、今の読売会館、有楽町のそごうデパートの場所にあった報知の建物に入っていた。私の顔を覚えていてくれた竹内四郎社会部長が、「オーッ」とうなって「社会部はココだ」とばかりに、手をあげて呼んでくれただけであった。

やがて、出所はしてこられたのだが、公職追放。読売は社主という立場で、以前のように、編集局の中央に立って、「誰彼れとなく話しかけ」る状態ではなくなっていた。私と正力さんの距離はさらに遠くなり、たまさか、社の行事や日本テレビ関係の取材で、身近くいることはあっても、高木さんが書かれたような〝正力さん〟ではなかった。

社会部の記者たちの間でも、ある時は〝ジイサマ〟であったり、ある時は〝ジャガイモ〟であったりした。もはや、〝正力さん〟ではなかったのである。

昭和三十三年に社を去った私ははじめて「新聞」を、そとからながめる機会に恵まれたのである。そしてまた、「読売」をも、その眼でみつめたのだった。昭和四十年の秋、私はいたたまれない想いで、いわゆる〝務台事件〟後の読売の現況を憂えて、「現代の眼」誌に、読売批判の一文を草したのである。これが、現在の正論新聞創刊の動機ともなるのであるが、私は〝遠くなった〟正力さんに必死の想いで手紙を書いたつもりであった。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正力の読売」への愛情

正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。

さる八日の夕方、亡くなられる前日のことである。私は本社で、務台副社長におめにかかっていた。フト、思いついて、正力さんのご様子を務台さんに伺った。

「元気でね。私なども会いにゆくと、引き止めて仕事の話だ。しかし、人にあったあとがあまり良くない。だから、医者は面会させたがらないのだが、本人は元気だから、人がくれば引きとめる。……面会謝絶といえば、それでは悪いのだろうと思われる。だから、困るのだが、お元気だよ」

私は、その話で、〝会いに行きたい〟という気持が、わき起ってきた。虫の知らせというのだろうか。

私のは、〝会いたい〟ではなくて、〝見たい〟だったのかも知れない。あれほどの人物をそばで見るということは、それだけで影響されるなにかが、私に残されるから、私はそれがほしかったのだろう。

務台さんとのその会話から、十時間ほどで、正力さんは息を引きとられた。〝遠い〟と思った正力さんが、「現代新聞論」を書きはじめてから、私の「正力の読売」への愛情が、正力さんに通じたのであろうか。ともかく、何万、何十万人という読売関係者の中で、私が一番身近く正力

さんの健康を案じた人間だった、と信じている。

「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。一世紀にも近い、その生涯で、何百万人、何千万人もの人々の胸の中に、なにかを与え残して、神去り給うたのだった。