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正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」がすでに空念仏となり

正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ
正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ

あの毎日の〝惨〟たる数字をみる時、上田ならずとも、販売制度の改革を考えざるを得まい。

これらの事実を見る時、「真実の報道」がすでに空念仏となり、「新聞」とは巨大なるマスコミ産業に変質していったことが、納得されるであろう。

今までの「新聞論」の多くのものが、新聞を襲った、大きな地すべり——「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実に眼をおおって、過去の「新聞」とは全く異質のものと認めようとしなかったきらいがある。

正力松太郎の死の後にくるもの

7 ポスト・ショーリキ

正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 意味するところはまさに複雑

正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 「看病してくれてありがとう」正力は、まず、医師に礼をのべたという。瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。「タケシをたのみます……」そして、その唇は再び開かなかったといわれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 「看病してくれてありがとう」正力は、まず、医師に礼をのべたという。瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。「タケシをたのみます……」そして、その唇は再び開かなかったといわれる。

「武を……」という遺言

巨星墜つ——陳腐な言葉となってはしまったが、〝大正力の死〟には、どうもこの言葉がふさわしいようだ。そして、キョセイオツと、わずか六文字で表現されるその中には、言外のさまざまな感懐が、ムードとして含まれているのである。

冒頭にも書いたのであるが、亡くなる前の日の夕方、それこそ十時間たらずほど前に、私は務台代表におめにかかって、正力さんの健康を案じていたのだった。

私が、月刊「軍事研究」誌に書きつづけていた「現代新聞論、読売新聞の内幕」もまた、あと二回で読売の項を終り、毎日新聞へと進む予定であった。そこに、図らずも、正力さんの死に際会し、急いで、追悼の意もかねて、一本にまとめることとなった。私としては、来年夏ごろに、三社を書き終えた段階でまとめて、第一冊目を正力さんに捧げようと思っていたのだったが…。

そして、いよいよ、ポスト・ショーリキの結論へと進まねばならない。

正力の臨終は、それこそ、古武士の最後にも似たものだったという。

ある側近筋によると、その模様はこうだ。

昭和四十四年十月九日、午前三時五十分、大正力の脈がと絶えた。だが、それより前に、異変を聞いて駈けつけた医師が、カンフルを打とうとしたが、手足はすでに冷たくなりかけていた。

静脈が、腕の静脈が浮いて来ない。医師は止むを得ず、メスを入れて静脈を探した。カンフルで、やや意識をとりもどしたのか、正力は、冷たい手で医師の手を握った。

「長い間、看病してくれてありがとう」

正力は、まず、医師に礼をのべたという。医師の手をとったまま、瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。

「タケシをたのみます……」

そのころには、大正力の意識は、すでに幽明の境をさまよっていたに違いない。そして、その唇は再び開かなかったといわれる。

この話は、あくまで伝聞である。従って、私には、その真否をたずねるすべもない。その最後の言葉といわれるものも、ただ一人の人名が出てくるので、意味するところは、まさに複雑である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 大蔵省は正力の訃報に肩の荷をおろした

正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 亡くなったのが九日、そして十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 亡くなったのが九日、そして十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。

さて、亡くなったのが九日、そして、葬儀が十四日と発表されていた十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。中三段(なかさんだん)という、遠慮気味の扱いながら、内容はトップに使えるスクープであった。

日曜だから夕刊がない。各社は十三日付朝刊で後追いという醜態である。読売が黙殺したのは当然として、朝毎とも、四段という、後追いにしては大扱いであった。抜いた日経の記事によると、「大蔵省によると、……の事実のあることが、十一日、明らかになった」とある。

死去の日も数えて三日目。しかも、半ドンの土曜日の午前中だから、正味は九日、十日の二日間しかない。——どう考えてみても、この〝明らか〟になったのは、ずっと以前からであり、発表のタイミングを狙っていたとしか思えない。

つまり、九月十八日「日本テレビが証券取引法にもとづいて提出した、増資のための有価証券届書を大蔵省が調査した結果」(十月十三日付毎日紙)、十月はじめから「福井社長はじめ同社の経理担当者をよんで、事情を聞いた」(同朝日紙)ところ、四十三年九月期までの九期間に、計四億九千五百万円、さらに四十四年三月期に、五億七千九百万円、合計十億七千四百万円も、利益を過大に報告していたことを認めた、というもの。

すると、日本テレビの報告書提出から二週間で、「大蔵省が気付き」、社長や経理担当者をよんでから一週間で、「調査、判明した」という、役人仕事としては、何ともハヤ、スピーディなこ

とではある。

そこで、投書、もしくは、内部通報などの〝諸説〟が出てくる所以である。大蔵省としては、すでに十分に承知していて、増資を中止させるための、事務手続上のタイム・リミットを見計らっていたに違いない。あまりに早く〝発表〟すれば、正力の怒りを買って、自分のクビに影響しかねまい。

日経記者も、それをすでに知っていて、担当官との間で、日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。大蔵省にとっては、正力の突然の訃報には、ホッと肩の荷をおろした感だったに違いあるまい。

ホッとしたのは、大蔵省の担当官ばかりではない。正力の長子亨もまた、最近は大変明るい表情になった、といわれている。

日テレ副社長というポストについたのも、正力タワー建設本部長としてなのだが、この亨には、〝大正力〟の重圧は、たいへんな負担だったようだ。何しろ、タワー建設の見通しなど、「すべては会長の御意志のまま……」(十月十二日付内外タイムス、針木康雄)と、取材記者に語るほどである。

この言葉は、実の親子の間の会話ではないし、息子が父親のことを、第三者に語る言葉ではない。目撃した人の話によれば、正力の前の亨は、直立不動でかしこまり、とても、親子の感じで

はないという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 保全経済会の伊藤斗福が一億円をポンと投資

正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。

この言葉は、実の親子の間の会話ではないし、息子が父親のことを、第三者に語る言葉ではない。目撃した人の話によれば、正力の前の亨は、直立不動でかしこまり、とても、親子の感じで

はないという。

よそ眼には、〝明るく〟なったといわれる亨ではあるが、彼と日テレをめぐる情勢は、決して〝明るい〟ものではない。十一月末の株主総会を控えて、この粉飾決算の責任問題は、現重役陣の総退陣をうながしている。

もともと、街頭受像機設置という構想からスタートした、日テレの歴史をみると、大正力としての〝最後の苦闘〟であった。

構想はまとまったのだが、NHKさえ動いていない時期だけに、正力のプランを聞いても、財界さえ動こうとはしなかった。日テレの株の引受け手がいないのである。この時、のちに「詐欺師」ときめつけられた、保全経済会の伊藤斗福理事長ただ一人が、何か思惑があったのか、正力の話に耳を傾けた。

「各方面から狂人扱いをうけ、まるで相手にされなかった、日本テレビの〝正力構想〟に進んで賛成、全株数の一割に当る一億円をポンと投資、さらに即時発足に必要な資金の融資を約束、とにもかくにも、強引に日本テレビをスタートさせた男がいたからである。……伊藤氏を正力さんに結びつけたのが、すなわちこの私だったのである。……発足五周年を迎えた、日本テレビの豪華な祝賀会が挙行された。正力さんの得意や思うべしである」(元読売社会部記者遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より)

だが、遠藤記者は、「しかし、この正力テレビのために、発足に尽力したのが原因となって、一生を棒に振った男のことを、この〝巨人〟は、思い出してもみなかったろう」(前出同著)と、怒るのである。彼は、その人柄もあってか、この融資あっせんを「社外活動である」と糾弾されて、社を去らなければならなくなる。

遠藤は、この件から、正力は「オレに恩をきている」と思いこんで、何かといえば社内問題で正力に直訴し、正力に次第にうとまれてくる。事実、日テレがスタートしてしまえば〝前進また前進〟の正力にとっては、読売の一記者遠藤などは、歯牙にもかけないであろう。

遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。伊藤の株が、どんな形で、誰に引き取られたかの詳細は知らない。しかし、前述したように、日テレの現経営陣は、誰一人として、個人株主ではなく、大株主はすべて、法人株主ばかりで、伊藤の名も消えている。伊藤はいま、千葉刑務所で服役中であるが、印刷工を日課として暮しているという。

大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。日テレにおけるが如く、「遠藤も伊藤も、〝万骨枯る〟の口である。従って、個人的に正力をウラんでいる人間が、意外に多いものである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 結論として「正力タワー」は建たない

正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 報知から日テレ副社長へと移った亨は、福井社長を「福井クン」と、クン付けでよんだという。いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれ。タワー建設本部長の亨を助けて、誰が二百億もの金繰りができるか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 報知から日テレ副社長へと移った亨は、福井社長を「福井クン」と、クン付けでよんだという。いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれ。タワー建設本部長の亨を助けて、誰が二百億もの金繰りができるか。

もっとも、私をしていわしむれば、万骨側は、正力の偉業への自己の貢献度を過大評価しているのだが、正力はそれほどに評価していないのであろう。正力への〝創意の人〟という賛辞に対しても、「アレはオレのプランだ。コレはアイツの案だ」として、ケチをつける人も多い。しかし、事業家というものは、他人のプランを昇華させて自己のものとし、それを実行にうつす力である。正力はその〝力〟をもっていた。顧みられない〝万骨〟の繰り言などには構っていられまい。

日テレの前社長清水与七郎もまた、正力を〝ウラんで〟いる一人である。読売の重役でもあったが、昭和二十八年創業以来、四十二年十一月に、専務の福井近夫現社長に追われるまで、実に十五年間も日テレ社長であったのだが、その間、福井派と対立、内紛に終始したというので、正力裁断で敗れた人物だ。

このような、そもそもからのいきさつがあるのだから、正力としては、これまた〝正力の日本テレビ〟であったのであろう。そして、正力の下には「組織」がない、と、前稿で指摘し、かつ、「正力亡きあと、正力コンツェルンから脱落、離反するものは、日本テレビ」と、記述した。

報知から日テレ副社長へと移った亨は、年齢もグンと違う福井社長をつかまえて、「福井クン」と、クン付けでよんだという。そのことで、福井もまた、内心、決して快からずとしていたらしい。

「組織」がなく、読売新聞からの、中堅的人材も送りこまれておらず、いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれだから、その上、粉飾決算の摘発ときては、もはや、日テ

レの運命は決った。

第一、例の正力タワーである。これまた、社会的にも、読売、日テレの両社内的にも、全く〝否定的〟雰囲気である。日テレ社内では、禁句にさえなっている。建設担当の大成建設幹部に会ってみても、読売の新社屋建設については、とうとうと語るけれども、こと正力タワーになると、にわかに、口が重くなってくる。

この時、タワー建設本部長の亨を助けて、誰が、二百億もの金繰りができるだろうか。務台は、本社新社屋の建設で、すでに二百億の金繰りに入っている。有楽町の現社屋の処分に関しても、タワーの金策を考えていた正力は、「売ってしまえ」といい、〝読売百年の計〟をめぐらす務台は、「売らないでも金はできる」と、意見が対立していたという。新聞関係の不動産を、タワーの金繰りに使用することは、務台が健在である限り無理なようだ。

すると、タワーを建てるためには、読売ランドの広大な土地ということも、思い浮ぶであろう。ここには、正力武が常務でいる。しかし、後述するが、大正力亡き現在、ランド首脳部に、リスクを敢えてするだけの〝忠誠心〟があろうハズもない。

結論として、「正力タワー」は建たない、ということである。理由は、その経済効率の問題からだ。〝会長の御意志〟は、〝御遺志〟となったけれども、それを継ぐべき人物はいない。

日テレの株主は、東洋信託七・五%、読売新聞七・四%、野村証券三・八%、光亜証券(注。

野村系)五・五%、読売テレビ五・○%の順で、読売系を合計して一二・五%の大株主となる。従って、読売から社長を送りこめるか、どうかというと、読売出身の社長では、亨と棒組にならざるを得ない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 福井社長と栗田との〝密約〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 注目の日本テレビ株主総会。栗田英男の粉飾決算の追及はキビしかった。「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 注目の日本テレビ株主総会。栗田英男の粉飾決算の追及はキビしかった。「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。

日テレの株主は、東洋信託七・五%、読売新聞七・四%、野村証券三・八%、光亜証券(注。

野村系)五・五%、読売テレビ五・○%の順で、読売系を合計して一二・五%の大株主となる。従って、読売から社長を送りこめるか、どうかというと、読売出身の社長では、亨と棒組にならざるを得ない。

日テレのみならず、TBSをふくめて、最大の問題は、組合攻勢による人件費の高騰である。かつて、新聞が民放ラジオを作ったとき、新聞は人材を抱えこんで、カスを放出したという。ラジオが定着して、テレビが生まれるとき、ラジオもまた、人材は残してカスを出したといわれる。そのせいか、給与ベースは現在、全く逆転して、テレビが一番よくなっている。

日テレ経営陣にも、人がいなかったようである。それが、この粉飾決算の事情を雄弁に物語る。すでに、報知で組合に押しまくられて、正力にすら〝諦らめ〟られた〝経営者〟亨と、棒組みを組んでのお守り役社長となれば、読売本社から、火中の栗を拾いに行く奴はいない。しかも日テレ社長ともなれば、ある程度は名が知られておらねばならない。読売社内では、常務編集局長の原四郎の呼び声もあるが、原が動くとは思えないので、読売から社長がでる線は可能性がない。

同じ大株主野村証券の相談役、奥村綱雄の声もでているし、ダーク・ホースとして、大映社長永田雅一の名もあがっている。読売では、永田を警戒して、永田に乗りこまれる位なら、本社から出そうという意見もあるようだが、所詮は、亨がいては人材が名乗り出ないからムリであろう。

すると、やはり、奥村あたりにおちつき、亨は副社長を外されて平取。次期あたりで退任、かくて、大正力の最後の仕事だったともいうべき、民放テレビの草分け、栄光の日本テレビは、万骨の恨みを秘めたまま、正力コンツェルンから、静かに去ってゆく——ということになろう。

日テレが変貌した時、大阪の読売テレビの去就が問題となろうし、第三者社長が、東京タワーなり、NHKタワーなりに依存し、難視聴地域を解消し、さらに九州ネット局を加えての、再びTBSに拮抗しようという、新しい〝テレビ戦国時代〟の幕あきとなるかどうかである。

四十四年十一月二十六日、注目の日本テレビ株主総会が開かれた。午前十時から二時間にわたる総会は、元改進党代議士で、栗田政治経済研究所を主宰する栗田英男の一人舞台に終始した。栗田の粉飾決算の追及はキビしかった。粉飾当時の経理局長→取締役→監査役の柳原幸三郎、その後任の経理局長→取締役の柳原承光の二人がツカまえられた。栗田の質問は、それぞれが「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。これに対し、二人はただ頭を下げるばかりで、「責任を痛感して、すでに辞表を社長のもとに提出しているので、その儀ばかりはゴカンベンを……」と、ついに答えなかった。

だが、この総会で、一つ解せないのは、人事が全く取りあげられなかったことである。どうも福井社長と栗田との間に、ある〝密約〟があって、今期は人事をイジらず、粉飾の後始末を福井

にやらせる、という感じである。亨の副社長もまた一息ついた、というところだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨のおちつき場所でもあろうか

正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。

だが、この総会で、一つ解せないのは、人事が全く取りあげられなかったことである。どうも福井社長と栗田との間に、ある〝密約〟があって、今期は人事をイジらず、粉飾の後始末を福井

にやらせる、という感じである。亨の副社長もまた一息ついた、というところだ。

報知、日本テレ、タワーが駄目……

さて、日テレでの仕事がなくなったとなると、亨の行く道は、ジャイアンツのオーナーばかりである。読売巨人軍はどうなるか。

亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。同時に、川上との不仲を伝えて、巨人軍に変動がおきるという説もでてくる。しかし、プロ野球のオーナーと、株式会社の社長の経営的成果とは、同一には論じられまい。

読売巨人軍をもっているのは、読売興業株式会社で、野球部と新聞部がある(注。新聞部は、九州読売を経営している)。代表取締役は、正力の他に、務台、山岡重孝(読売専務)、亨の四人であった。亨オーナーというのは、読売興業の代取としてである。

亨と川上の仲は、いわゆる悪感情とか憎悪とかではない。川上の人柄のせいもあって、しかも、川上の正力依存の度が強かったことも加わり、決して、親しくはないが、不仲でもない。だから

正力が死んでも、亨が川上を追い出すといったような、〝異変〟がおこる可能性は全くない。

次期監督の立場におかれているのは、長島と藤田。しかし、藤田は個人的に夫人の系累問題で人望がなく、長島に水をあけられている。ところが、長島はまた、まだまだ現役プレイヤーとしての効率がよいから、川上の後任というには、ワン・ポイントあるとみられている。つまり、川上引退の時期には、暫定監督に、巨人出身者をもってきて、長島の時代になる、という観測が、おおむね順当のようである。

それよりも、正力の〝忠臣〟鈴木竜二セ・リーグ会長の後任如何が、巨人のあり方に変動をきたすという。つまり、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・スズキだ、というのである。それは、読売本社でもいえることだが、ポスト・ムタイと同じである。

セ・リーグの中で、巨人が日程その他すべての点で優遇されているのは、もはや、大正力の余光や亨オーナーの〝功績〟ではなくて、鈴木の正力への忠節だけだ、とみられている。その鈴木が、最近体力的に会長がムリになってきている、といわれている。

巨人のあげる収益は、最近はやや鈍化してきているとはいえ、年間一億円以上。やはり読売新聞にとっても、ドル箱である。

亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところで、しかも、かつてのように、父正力のモノ真似の

カミナリなども落とさず、「ア、それは議題として残そう」といったように、協調精神も芽生えてきたというから、まずは、巨人軍と川上野球も安泰、そして、亨オーナーも安泰と、ここばかりはメデタシメデタシというところ。亨のおちつき場所でもあろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 「私は共産党員でした」という書き出し

正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートした。報知新聞労組と報知印刷労組は常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」と経営陣をおびやかしてきたが、足並みが乱れてきた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートした。報知新聞労組と報知印刷労組は常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」と経営陣をおびやかしてきたが、足並みが乱れてきた。

亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところで、しかも、かつてのように、父正力のモノ真似の

カミナリなども落とさず、「ア、それは議題として残そう」といったように、協調精神も芽生えてきたというから、まずは、巨人軍と川上野球も安泰、そして、亨オーナーも安泰と、ここばかりはメデタシメデタシというところ。亨のおちつき場所でもあろうか。

報知新聞はどうなっているであろうか。事態の悪化に驚いた正力が、前述したように、選挙出馬を断念すると同時に、亨社長を外して、後事を務台に委ねざるを得なかったのであるが、務台は〝血族結婚〟を避けて、はじめて岡本武雄(元サンケイ常務)という〝新しい血〟を、正力コンツェルンの中に導入した。その報知の現況はどうか。

昭和四十四年十一月二十日、あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートしたのである。報知新聞労組と報知印刷労組とは、その創設以来、常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」という威かくを背景にして、経営陣をおびやかしつづけてきたのであったが、務台のりだしのカンフル以来一年足らずにして、共闘ははじめて崩れ、新聞労組は年末のボーナス闘争、印刷労組は配転拒否闘争と、足並みが乱れてきた。

もう一月ほど前のこと。報知関係者のもとに、一通のタイプ文書が郵送されてきた。報知印刷労組、元執行委員長、近藤仁という署名で、「皆さんに訴えます」と題したそのプリントは、「私は共産党員でした」という書き出しにはじまる。

「昭和四十四年九月二十一日、報知印刷労組第八回定期大会で、私を会場から『出て行け!』という決議がなされ、彼らは暴力をもって、私をムリヤリに会場から出そうとして、会場入口のトビラに私をはさみつけ、右半身に四週間の怪我を受けました。……私が入社したのは昭和三十五年五月、当時は組合のクの字も知らないズブのシロウトでした。……その後、彼と交際しているうち、同君から共産党に入党をすすめられました。ずいぶん、ちゅうちょしましたけれど、当時の私としては、人生を正しく生きるためには、共産党に入党し、活発な党活動をする以外にないと信じ、正式に入党したわけです。

……例えば、一七二日におよんだ春闘を、われわれ組合員は、一人々々が全力をあげて闘いました。その結果、われわれが得たものはなんであったか、いまさら、私が説明するまでもないと思います。

また春闘中、ほとんど日常的といってよいほどに慢性化したストライキ。果して、会社がどれほどの打撃を受けたというのでしょうか。むしろ、ストライキをあのように安易に、しかも無原則的に打ってきたために、一人一人の組合員が、どのような影響をうけてきたか。労働組合員として、最も基本的な問題に目を閉じているとしか思われない指導部の根源には、見すごすわけにはいかない決定的な誤まりが、かくされているといわざるを得ないのであります。

さらにこの春闘中、組合運動の名において終始行なわれた激しい個人攻撃。このまま、党の指

導に従って、組合運動をつづけてゆくならば、組合はどういうことになっていくのか。組合員の生活が真に守られるのかどうか。私は長い間、真剣に考え悩みぬいてまいりましたが、どうしても党の指導を肯定することができず、私はついに離党を決意したのです……

正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 長谷川〝出陣〟代取副社長兼編集局長

正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 母屋の報知新聞はどうか。報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 母屋の報知新聞はどうか。報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。

さらにこの春闘中、組合運動の名において終始行なわれた激しい個人攻撃。このまま、党の指

導に従って、組合運動をつづけてゆくならば、組合はどういうことになっていくのか。組合員の生活が真に守られるのかどうか。私は長い間、真剣に考え悩みぬいてまいりましたが、どうしても党の指導を肯定することができず、私はついに離党を決意したのです……

共産党の革命路線実現のために、組合員一人一人の生活が犠牲にされてもよいのだろうか。会社の一つや二つ、潰れてもよいという彼らの指導方針をウ呑みにして闘った、三星電機の組合員の悲惨な結末。また、英雄的に闘ったといわれる山陽労組が、いまどんな状態にあるか。それだけを思い起すだけで十分ではありませんか」

この近藤を中心として、二十六名の第二組合が生れたのである。岡本社長の印刷労組は、大正力の死とは全く関係なく、その後に、異変を示しはじめた。

母屋の報知新聞はどうか。務台直系の社長菅尾の補佐に、読売から長谷川がでていったことは前述した。代取副社長兼編集局長であるが、社会部出身、記者としても十分に有能な上に、読売で審議室長として労担の経験もある。記者時代は労働班長もやったという自信は、この破格の〝出陣〟に、なおのこと長谷川を張り切らせるのであろうか。八月末の異動で、務台のもとに挨拶にきた彼の顔は、晴れ晴れと満足気であった。

工場を別会社として分離している報知では、もちろん、編集が絶対的に中心である。ところが、

歴代の編集局長は、正力のサル真似ワンマン亨のもとで、その背後にある大正力をみつめながら、部下の方を振り向いてもみようとしなかった。そのため、報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。

部長クラスは、上からは叱りつけられ、下からは突きあげられ、読売へ逃げかえるか、読売出身でないものは、老後を考えて〝貯蓄〟に熱中するしかなかったのである。有名な話では、ある部長などは強度のノイローゼに陥り、社に上衣を脱いだまま失踪し、警察に捜索願まで出したところ、名古屋で発見されたという実例までがあった。報知で一番ミジメな人種は、部長クラスだったのである。

そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。局内はニワカに変り出した。

在来の意味からすると、〝ニコポン〟というのは、無能なる上司が、部下統卒のためにニコニコして近づき、肩をポンと叩いて、「君、今夜メシでも食おうじゃないか」と、いうことであった。

ところが、長谷川は決して無能ではない。無能ではないどころか、私も社会部の先輩として、敬意を払うに値するだけの実力のある記者であった。ところが彼は、社会部長を経たのち、次第に一般行政へと方向を転じ、彼の実力を惜しむ編集部内からは、「実ッツあん=通称=は、どうして編集局長として、筆政を目指さないのか」という声も出たほどである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 菅尾、岡本、長谷川のトリオ

正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩。正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、〝新生報知〟を築く。
正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩。正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、〝新生報知〟を築く。

長谷川は、決して怒りをあらわさない男である。いつも、ニコニコしている。すくなくとも、社会部次長以後に、彼の怒り顔をみた者はあるまい。そして、ポンと肩を叩いて、お茶に誘うのである。記者としての能力と実力とがありながら、なぜ、ニコポンを信条とするのかはわからないが、ある意味では、〝異常な出世欲〟であるかもしれない。

つまり、報知編集局にとっては、従来、見たことのない、人種の違う局長が出現したのである。まず、狼狽したのが、部長連中であった。上と下との断絶。その中間に位するがゆえに、仕事はサボれ、役得すらもあったのである。そこに、代取副社長という〝実権〟すらも持った、変り種の局長である。たちまち、上下の風通しがよくなりはじめたから、部長連は〝風にそよぐ葦〟である。

報知建て直しの、菅尾—岡本コンビは、ともかく、さきの近藤の文書にもある通り、組合に何も与えずに、一七二日の春闘に堪え抜いた。もちろん、与えはしなかったが、会社は休刊という深傷も負いはしたろう。これは、正力が生きている時の事実である。そして、正力からの解放感を背に、編集のわかる長谷川というトリオを組んだ。長谷川の評価は、まだこれからではあるが、これまた、新風をもたらしたことは否めない。

また、新聞と印刷の共闘打破、印刷労組の第二組合結成と、かつての報知では考えられもしなかった、金字塔が早くも打ちたてられたという事実は、これまた、報知も静かに変りつつあると

いうことだ。しかも、その変化は、〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩とみるべきであろう。

正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、私は、菅尾、岡本、長谷川のトリオが、今や、〝新生報知〟を築く、基礎の担い手だとみている。

竹内四郎の時代は、娯楽紙「報知」を、刷れば刷るだけ売れた時代ではあった。だが、最近では、競馬、競輪ファンたちは、より専門化してきて、一般スポーツ紙を離れ、それぞれの専門紙読者に移りつつあるため、スポーツ紙の部数は、横バイになりつつある。そのためにも、報知の経営は、さらにキビしいものとなるだろう。そこにこそ、新しい報知へと、脱皮の可能性があるのである。

ただ〝新しい報知〟への唯一の懸念は、菅尾、岡本のコンビに、大正力の死後の影響が、どんな形で投影してくるであろうか、ということである。今まで、報知の労担であった岡本の、組合工作は〝金〟であった。第二組合ができた時、第一組合は罵った。〝岡本の金で……〟と。第二もやり返した。〝オ前らだって、もらってるじゃないか〟と。この工作で、二人はどうなるか?

さて、こうしてみてくると、正力コンツェルンの有力メンバーである、日本テレビも報知新聞

も、どうやら、〝正力のモノ〟ではなくなりつつあるようである。ことに、日テレは公開会社だから、なおのことである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「正力コーナー」は〝死に欲〟の現れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。

さて、こうしてみてくると、正力コンツェルンの有力メンバーである、日本テレビも報知新聞

も、どうやら、〝正力のモノ〟ではなくなりつつあるようである。ことに、日テレは公開会社だから、なおのことである。

これらは、いずれも〝跡目争い〟などといった、低い次元の人事葛藤の揚げ句というのではなくて、報道機関であって、公共性企業だから、電波や紙面の〝私物化〟には、限度があるということである。

と同時に、大正力という偉人は、偉人であるだけに、ワンマンであり、自己を過信するあまり、他人を信頼しなさすぎた。その結果として、「組織」を無視しすぎたのである。組織のないところには、人材も後継者も育たない。実子の亨でさえ、父親を畏敬すること他人以上であった、ということでも、それがうなずけよう。

「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。

私は、四十年にそれを批判して書いた。

「昭和十八年の私の入社当時、編集局の中央に立ったまま、叱咤激励する正力の姿は五十九歳、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

国会議員に打って出、原子力大臣となり、勲一等を飾った正力は、読売の発展にすべてを使い果したヌケガラで、〝死に欲〟のミイラ同然になってしまったのである」と。

「正力コーナー」は、こうした、〝死に欲〟の現れとしか考えられない。この傾向は、衆院選出馬のころから現れだし、〝新聞とテレビと野球の先駆者、正力松太郎〟を賛美する、新聞四頁の社報号外となって、全国の読売への折りこみ配布からはじめられた。

当時、選挙違反担当の検事が、苦笑していったものだ。「これは、明らかに違反文書だけれども、読売の全国版に折りこまれているのでは、公判での立証が困難だ。違反もこれだけ大きなスケールでやられると、手が出ないね」と。

やがて、北陸の小都市高岡に、正力の出身地ということで、読売会館が建設され、北陸支社が設けられた。支社はすべて、正力の選挙事務所であり、読売記者とは名のみにして、北陸の寒村で、〝読売ランド〟の宣伝をして歩かねばならないのであった。

北陸支社から、大物支社長自らが電話器を握りしめ、一字一句の間違いがあってはならじと、送稿してくる〝ニュース〟とは、幾度か、当時の読売紙面を飾っているので、読者は御承知であろう。その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。

「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 武道館の竣功こそ最後の仕事

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。
「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

カンダカジチョウカドノカンブツヤノカチグリの新版である。これなんと、正力の銅像碑文の全文掲載であった。

あまりのことに、抵抗は本社社会部から起った。本社詰めの遊軍記者が十一時をすぎても出勤してこないのである。早く出てくると、ランド取材を命じられるからである。職制のデスク一人が幾つもの電話のベルに追い廻される破目になった。前記の〝大づくし〟記事を、省略して簡単な原稿にまとめ、それを整理部に廻した、記者とデスクは叱られた。たまりかねた社会部の組合執行委員の長済功記者が、「正力コーナー」を、正式に組合の議題としてとりあげた。

この経過は、さきに述べた通りであるが、こうして、異状な執着をみせた「衆議院議員」として、果して、正力は何をしたのであろうか。

原子力大臣として、初期の原子力行政に、その〝創意の人〟として、才能を振るったこととされているが、〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、私をはじめ大方にもピンとこないであろう。

それよりも、代議士としての正力の功績を探るならば、議員武道連盟を母胎として、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

そして、そこが、おのれの葬儀の場所になるであろうとは、正力も、そこまでは考えなかったであろうが、かつて、新宿西大久保に〝屋根つき球場〟建設を考え、その敷地を転用して、正力

タワーを発想しながら、ついに果さずして天寿を完うしたことを想えば、武道館の竣功こそ、最後の仕事だったのではあるまいか。議員として、もって瞑すべしである。

そして、武道館はまた、かつて読売東亜部におり、その後、長く浪人していた三浦英夫を常務として、経営的にも安定しているようである。巨人軍といい、武道館といい、大正力の死の影は、スポーツ関係では、何もないというのは、日本テレビ、報知と対比して、何と皮肉なことであろうか。

大正力の中の〝父親〟

最後に残ったものは、問題の「よみうりランド」である。生前の正力が、その建設を目して、〝私の悲願〟とまで叫ばせ、日テレに粉飾決算を強い、巨人軍の金田の契約金を分割にし、果ては、読売本社の経営を危うくするほどにまで、コンツェルン内部の現金という現金をかき集めて注ぎこみながら育てたのが、この「よみうりランド」であった。

しかも、「正力コーナー」として、その新聞人としての姿勢を糾弾されたのも、老いの一徹の〝ランド可愛いさ〟からであった。だが、この親の心は、子の誰にもわかってもらえなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 ランドはもともとは関東レース倶楽部

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」
正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

ランドの御堂にインドから仏舎利を贈られれば、その記事を書かされた記者が、自嘲していった。

「ものの本で調べてみるとですね。世界中にバラまかれた仏舎利の、重さの合計は二トンになるそうです。すると、お釈迦さまというのは、大変な巨人だったのですね」と。

そのランドには、武が常務として送りこまれたが、もともとは、関東レース倶楽部という、競馬やオートレース屋の集まりである。読売の停年退職者も、何人かは入っているが、いずれも遊戯場の支配人程度の地位で、何の実権もないから、若い武にとっては、日テレの亨同様にハダカ同然の身の上である。

武に対する風当りは、特につよい。ことに正力の実の娘たちである、小林、関根両夫人などは、女性の本能的嫌悪感から、武のことを、正式には認めようとしないらしい。

しかし、武はその屈辱に堪えて、正力のセガレという立場をすてて、一人の実業人として生きようとしているらしく、第三者の評判も一番よいようだ。しかも、頭脳も気性も、大正力によく似ていて、武ならば、という支持者が多い。

だが、大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。

「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

こんなイヤ味が、聞こえよがしに語られるという。しかし、とにもかくにも、代取副社長に、

正力の女婿関根長三郎という、興銀出身の、まともな人物がおり、監査役には亨夫人の父親、その他、読売系人物が取締役に名を連ねているので、ここばかりは、全く他人のモノになってしまう恐れはすくない。「タケシを……」という遺言に、私は、はじめて大正力の中に〝父親〟を感じたのである。最後に付言するならば、読売新聞という本拠は、今まで詳述してきたように、安泰であって、務台、小林両代取副社長制で、正力が生きていた当時と、全く同じような毎日が、明け暮れてゆくに違いない。

それよりも問題は、新社屋完成後の、ポスト・ムタイである。そのころまでに、小林が編集と業務を握り切れるかどうか。それが、読売新聞をどう変らせるか、にかかってきていよう。

〝マスコミとしての新聞〟とは

大正力の死につづく、正力コンツェルンの〝家庭の事情〟から、本論の明日の新聞界へと眼を転じてみよう。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 送り手の主導者は販売・広告担当者

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

新聞は果して真実を伝えているか——大きなテーマでありすぎるのだが、ここで、私は反論を出した。「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている、ということである。

マス・コミュニケーションという、和訳しにくいカタカナが、日本に入ってきてからというものは、新聞が変質してしまったことはすでに述べた。「大衆伝達」とでもしか、訳しようがないのであるが、このバタ臭い日本語の語感からしても、「真実の伝達」とは、ほど遠い感じがする。そして、事実、必ずしも「新聞」は「真実の伝達」を行なっていないのである。

そもそも、「編集権」というのは、「真実の伝達」に伴う、妨害や圧迫に対して、その意志の貫徹のために、「経営権」に対置されたものである。しかし、「真実の伝達」が必ずしも絶対条件ではなくなってきた、〝マスコミとしての新聞〟にとっては、それは床の間の置物と化してきているのである。

新聞経営の健全なあり方として、購読料収入と広告料収入の比率が、六対四であることがのぞましい、といわれるのは、すなわち、「編集権」の独立のための、裏付けなのであって、現在の四対六という比率は、すでに、「編集権」が「経営権」に隷属していることを示している。つまり、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

では、〝マスコミとしての新聞〟とは、一体、何であろうか。

マス(多数)にコミュニケート(伝える)する新聞である。新聞の一枚、一枚が、テレビの受像機と同じ意味でしかなくなり、朝日とか読売、毎日といった題号は、テレビのチャンネルと同じ意味しかない。ただ、電波を媒体とするか、活字を媒体とするかの違いだけである。

電波を媒体にすることによって、時間と空間とがゼロになるのに対し、活字媒体であるということは、新聞の一枚、一枚が印刷されるという工程のためと、その新聞紙が輸送されるために、時間と空間とは、相当程度に圧縮はされ得るが(各家庭、各職場にファクシミリが設置されることは、まだまだ、将来のことである)、決してゼロにはならない、という、本質的な差違であるだけである。

この物理的差違が、電波媒体の速報性とか臨場感に対し、活字媒体の随時性や記録性とかいった、機能的な差違をもたらす。しかし〝マス・コミとしての新聞〟は、これらの差違以外の〝マス・コミュニケーション〟としては、もはや、ラジオやテレビと全く同じものなのである。

すなわち、送り手の主導者は、テレビ受像機に相当する〝新聞紙〟の部数を確保し、拡張する、販売・広告担当者であって、記者と編集者ではない。部数が巨大でなければ、大衆伝達の効果が小さいから、もちろん、広告主もつきにくいし、広告料も高くはとれなくなる。発行部数が巨大化すればするほど、広告収入が増大し、広告は売り手市場になる。

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。

従って、記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟なのであるから(刺し身のツマは、決して主役ではないが、旨いものもあって、やはり、なくてはならないものである)、ラジオ、テレビ番組における、番組自体とCMの関係とは、逆の立場になる。

するとやはり、「送り手」としては記者、編集者は、電波の編成局員よりも、小さな領域しか占めることはできない。何しろ、各種の調査でも「受け手」である大衆の、テレビに与える時間と、新聞に与える時間とは、大きく開いていることは、疑う余地がない。

そこで、新聞は、「受け手」である読者を、一定期間にわたって〝確保〟する、必要に迫られてくるのである。確保しておかねば、発行部数の巨大化が維持できないからだ。そのためには、「宅配制度」がどうしても必要なのである。

電波の受け手である大衆は、番組によって自由にチャンネルをまわす。瞬間、瞬間によって、番組の選択権を「受け手」が持っているのである。

ところが、新聞については、受け手の読者には、その選択権がないのである。あったとしても、極めて緩慢な、月単位のそれであって、それも決して自由ではない。なぜかならば、従来とっていた新聞をやめて、他の新聞に切りかえるためには、販売拡張員や配達員との間の、うるさい〝人間的関係〟が発生するからである。この心理的束縛感は、テレビのチューナーを廻すほど、自由ではない。

受け手に選択権が握られているか、いないか、ということは、同時に、送り手には、それぞれに緊張と怠惰とをもたらす。電波の送り手は、毎時毎分に、批判にさらされているのだが、新聞の送り手は、緩慢な批判にしかあわない。そこに、記者、編集者が、送り手としては、販売、広告などの営業担当者より、低い地位にあることの理由がある。

かつて、読売の小島文夫編集局長(故人)が、組合との団交の席上、「会社の調査では、読売の読者のうち、『社主の魅力』でとっているのが四〇%、『巨人軍』でとっているのが二〇%で、『記事がよいからとっている』というのは、わずか五%ぐらいだ」と、迷言を吐いて問題となったことを前に述べた。

当時(昭和四十年六月)は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたものだったが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であったわけである。

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。

ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 三社のうちでは最下位の毎日

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。
ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

これが、「マスコミとしての新聞」の姿であって、「既成概念の新聞」と、全く区別されなければならないのである。と同時に、現在はまだ、その両方が入りまじった過渡期の時代でもある。

過渡期ではあるが、〝マスコミとしての新聞化〟現象は、この昭和四十年代の中盤期に入って、いよいよ進行していることは、各紙発行部数表(表1)にみる通りである。

五社発行部数表(表1)

少し古い数字で恐縮だが、昭和四十三年十月現在の数字で、その直後の十一月からの値上げ後の影響は、まだわからない。しかし、昭和四十年十月の前回値上げ後も、各紙は部数増加を続けていることが、表にみる通りで唯一の例外として、サンケイ大阪が二万八千余部の減紙となっている。

表中の従業員数は、新聞年鑑によったもので、参考までに、「一人当り部数」を算出してみた。新聞経営の健全な形の常識として一人当り千部といわれているのだから、読売の七三三部が一番ラクで、三社のうちでは、最下位の毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。

そして、たとえ〝四大紙〟と誇号していても、サンケイの百八十三万部、従業員一人当り四三三部という数字は、大新聞としての戦列から落伍し、命運すでにつきた感がするのを否めない。しかも、この表からは、大阪版の二・九%の減紙しかわからないが、昭和三十九年十月の数字でみれば、相当な減紙であって、急坂を転がりおちている実情である。

ついでなので、日経の数字も掲げたが、この一人当り四七〇部というのは、数字は低いけれども、読者が固定していて流動せず、販売経費がかからないのと、広告の増収という〝含み資産〟があるので、一般紙の数字と同じモノサシでは計れないことを、お断わりしておこう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 朝日と読売との一大激突

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366

ここ数年で読売が一位に……

さて、問題は、朝日と読売との一大激突である。ともに、五百万台という大台にのり、その差はわずか四十万部(正確には、四〇一、九〇七部)である。(表2)をみていただきたい。発行所別にまとめてみた。

朝・読 発行所別部数(表2)

第四項の「比較部数」というのは、朝・読のどちらが、どれだけ多いかというのは、該当社の欄にプラス記号+で示した。これでみると、朝日は大阪、名古屋、西部の三発行所で読売をリードしているが、東京、北海道は負けており、関東以北に強いという読売の伝統はくずれていない。もっとも、読売は名古屋がなくて北陸なのでこのところは比べられないし、朝日の三十六万に対し、読売九万という、勝負にならない数字である。

特に面白いのは、東京、大阪の二大決戦場である。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。

ところが、東京、大阪での両社の伸び率をみると、東京では、朝日十七%に対し、読売十三%。大阪では、朝日十二%に対し、読売十七%と、それぞれ逆になっている。ということは、大阪では読売が、東京では朝日が、それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開しているということである。つまり、攻撃側の方が懸命の戦いをしかけているので、伸び率が高いということを物語る。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。

ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 エイムズ(AYMS)という新しい言葉

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。
ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

西部と名古屋(読売は北陸)では、朝日の優位は読売をよせつけないほどであるが、少くとも、大阪の形勢をみると、もう数年で逆転の可能性が認められる。現在の差(総部数)の四十万部ほどは、大阪で読売が首位を奪取すれば、ラクにつめられるほどの小差なのだから、この成り行きは興味深いものがある。

こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。そして、もし毎日が現在の四百万台を割るようであれば、サンケイのように、急速な転落の道をたどることになろう。

世帯数増加の正確な数字がないので、断言するのをはばかるが、新聞購読人口はほぼ頭打ちの状態にあり、世帯数の伸び率以外には他紙をさん食しなければ、伸びないといわれている。従って、朝・読の巨大化の第一の犠牲がサンケイということになる。

エイムズ(AYMS)という、新しい言葉が使われはじめている。新聞界の序列を示すものなのだが、朝(A)読(Y)毎(M)はわかるとしても、最後のSは、残念ながらサンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

そして、毎日はどうか。朝、読との闘いを諦らめた毎日は、編集出身の田中会長の統卒下にあ

るらしく、「広報伝達紙」たることを避け、本来の意味での「新聞」に立ちもどりつつある。

最近の毎日新聞の紙面は、権力に抵抗し、ヤミ取引を排除して、清新、爽快なものに変りつつあることは事実だ。四百万の大台を割り、二百万、百万と下っていっても、私は、この毎日新聞の進む道を壮としたい。このような新聞こそ、明日の日本という、民族と国家とのために、必要欠くべからざるものなのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき
正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

あとがき

この稿は、月刊「現代の眼」誌と、月刊「軍事研究」誌とに、「現代新聞論」と銘打って連載したものを、想を新たにして書き改めたものである。

読売を退社してから、はじめて「新聞」を客観的にみることを知り、現場からの〝新聞論〟を書きたいと、考えていた。新聞は、依然として、マスコミの王座にあって、放送その他をリードしているからである。

そんな時、「現代の眼」の榊原編集長と語りあって、四十年九月号から同誌に連載のつもりで、まず「読売の内幕」(八十枚)を書いた。その反響は、同社の社長を驚かせたらしい。一発で中止になった。翌年四月号に、編集長の独断で「毎日の内幕」(八十枚)が掲載されたが、以後は全く絶望的であった。

こんなふうに、「真実を伝える」ということには、勇気が要り、困難が伴うものだ。

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき)

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付
正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。同誌九月号から、本年三月号まで七回で「朝日の内幕」(二百八十枚)を、つづいて、本年六月号から「読売の内幕」をと、書きつづけている。

そこに、正力さんが亡くなった。これを機会にと、創魂出版にすすめられて、改めて一本にまとめたという次第である。

その間に、私は、四十二年元旦付から、大判二貢の「正論新聞」という、小さな旬刊の一般紙を、独力で出しはじめた。正統派の小新聞を、業界紙や恐かつ紙しかないこの日本の国で、育ててみたいと思ったからだ。幸い、この〝未熟児〟は、読売の諸先輩はじめ同僚たちの声援で、ともかく、この三年間で七十号を重ね、第三種郵便物の認可も得、日本新聞年鑑にも登載されて、順調に育ちつつある。この実践活動の中から生れたものなので、〝現場からの新聞論〟という所以だ。

それにしても、正力さんという人は、偉い人であった。彼を批判することとは別に、その偉大さにはうたれるものが多い。

この書を、私を新聞記者として育てて下さった正力さんの霊前に、感謝と追慕の念をもって、捧げることのできる私は、また何と幸運な男か、と感じている。

昭和四十四年十二月一日                  三 田 和 夫

著者紹介
1929年/盛岡市に生まれる。
1943年/日大芸術科卒業、読売新聞入社。
1958年/読売新聞を退社。
現在/評論、報道のフリーのジャーナリストとして執筆活動を続けるかたわら、一般旬刊紙として「正論新聞」を三年前に創刊。ひきつづき主宰している。
著書/東京コンフィデンシャル・シリーズ「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」 (1956年刊) 「最後の事件記者」(1958年刊)「事件記者と犯罪の間」(現代教養全集第5巻収録)=文春読者賞=(1960年刊)「黒幕・政商たち」(1968年刊)
現住所/東京都新宿区西大久保1の361 金光コーポ505号

正力松太郎の死の後にくるもの
定価 480円
1969年12月15日 第1版発行
著者 © 三 田 和 夫
発行者 峰 村 暢 一
印刷所 株式会社 鳳 翔
発行所 株式会社 創 魂 出 版
東京都新宿区左門町2 四谷産業ビル403号
電話 東京(359)8646
郵便番号 160
振替 東京71352番
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