投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

新宿慕情 p.038-039 庭にフトンを投げ出して飛び降りた

新宿慕情 p.038-039 翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…
新宿慕情 p.038-039 翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…

私たちの顔を見て、午後からの延長戦の酒がはじまった。部下相手の酒よりは、やはり、まわりも早いのだろう。奥さんも可愛いお嬢さんたちも出てきて、正月らしいフンイキが盛り上がってきていた。
小学生のお嬢さんたちが、宿題の書き初めをやり出したので、私たちも、久し振りの毛筆に

興味を感じて、書き初めをはじめた。課長もその気になってきたようだった。

やがて、半紙がなくなると、課長は、公舎のフスマを指差して、「紙はあすこにある!」と叫んだ。

私たちはワルノリして、たちまち、フスマいっぱいに、文字やら絵らしきものなど、書き殴り出した。フスマから壁へと、座敷いっぱいに落書をしたあげく、夜ふけとともに、三人ではもの足りないと、近隣の公舎から、親しい課長たちを狩り集めてきて、大宴会になってしまった。

さて、靴はどこだ

サテ、話はこれからである。夫人が、二階にフトンをのべてくれて、ふたりは、そこに酔いつぶれ、寝こんでしまった。

だが、翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった——正月だというのに、ふたりとも、オーバーは着ておらず、なによりも困ったことには、靴がないのである。帰れないのだ。

ふたりが、途切れ途切れの記憶をつづり合わせてみると、どうやら、こういうことだったらしい。

どちらが先に、目を覚ましたのか明らかではないが、夜半「どうして女がいないのだ?」と、遊廓に泊まっている夢でもみたのか、騒ぎ出したらしい。その結果、「どうやら、監禁されてい

るらしい」と、とんだ〝公安記者〟的推理から、〝脱走〟することになった。

二階の雨戸をあけ、庭にフトンを投げ出して、飛び降りた。ヘイを乗り越え、ガケをすべりおりて、タクシーを拾った。

そして、女たちの証言で、明け方ごろ、二丁目にたどりついた、ということらしかった。

こうして、正気にもどってみると、たとえ、正月のこととはいえ、警視庁記者クラブで、公安担当のふたりが、ふたりとも不在では困る、と気付いた。

出かけようとして、靴がないことがわかった。やむなく、警視庁に電話を入れ、課長別室付きの、巡査部長の運転手クンを呼び出した。

「いったい、どうしたのです。朝になって、〝犯行〟が発覚して、〝指名手配〟中でしたよ」

「イヤ、おれたちにも、良くわからんのだよ……」

「課長も心配してましたよ。二階の窓は明け放しだし、庭にはフトンが散乱しているし……」

「スマン。……ところで、靴があるかい?」

「持ってきましたよ。で、どこです。クラブでしたら、届けましょうか?」

「イヤ、クラブじゃないんだ」

「どこです?」

「二、チョ、ウ、メ……」

「二丁目? 新宿の?」

新宿慕情 p.040-041 サカサクラゲ、連れこみ、アベックホテル、ラブホテル

新宿慕情 p.040-041 旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…
新宿慕情 p.040-041 旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…

出かけようとして、靴がないことがわかった。やむなく、警視庁に電話を入れ、課長別室付きの、巡査部長の運転手クンを呼び出した。
「いったい、どうしたのです。朝になって、〝犯行〟が発覚して、〝指名手配〟中でしたよ」
「イヤ、おれたちにも、良くわからんのだよ……」
「課長も心配してましたよ。二階の窓は明け放しだし、庭にはフトンが散乱しているし……」
「スマン。……ところで、靴があるかい?」
「持ってきましたよ。で、どこです。クラブでしたら、届けましょうか?」
「イヤ、クラブじゃないんだ」
「どこです?」
「二、チョ、ウ、メ……」
「二丁目? 新宿の?」

「オイ、オイ。そう、大きな声を出すなヨ。タノム、済まんが届けてくれよ。……出られないんだ……」

「イヤァ、あの座敷の落書だけでも呆れたのに、新宿の赤線にいるんですか?」

かくて、ナンバー・三万台(官庁公用車の番号は、すべて三万ではじまっていたので、公用車をそう呼んでいた)の、課長専用車が、新宿の赤線にピタリと横付けされることになる。もしも、どこかの新聞記者が、その光景だけをみかけて、写真を撮っていようものなら、大特ダネだったろう。

若く、真面目な警察官である運転手クンがいった。

「イヤァ、記者サンというのは私たちの想像を絶するようなことをなさるんですなァ!」

「ナニ、〝心のふるさと〟に里帰りしただけサ」

按ずるに、課長宅の上等な客ブトンが、紅楼夢を誘ったもののようだった。

数日後に、課長がいった。

「オイ、オイ。おかげで、日曜日が一日ツブれたゾ。フスマは経師屋に頼んだけど、壁は、オレが塗り直したンだ。……子供たちはよろこんでいたがネ」

ほぼ同年輩の課長クラスは、もう、総監やら警察庁次長、内閣ナントカ室長などと栄進していて、あんな〝遊び〟は、もうできない地位になっている。

トップレス・ショー

東へ広がる新宿

二幸ウラの都電通り(いまの靖国通り)を境に、そこまでが新宿の盛り場だったのが、昭和三十一年にコマ劇場ができ上がると、街が深くなって、コマ劇場の裏通り(風林会館から大久保病院にいたる通り)が、盛り場の境界線となって、歌舞伎町が誕生した。

その奥、東大久保町は、それこそ、文字通りのベッド・タウンで、〈連れこみ〉旅館街である。その区別は、画然としていたのだった。

ところが、旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として浸蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も、そこから大久保通り(国電の大久保、新大久保両駅を結ぶ通り)との間と、明治通りの西大久保側とに、追いやられてしまった。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。

かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

新宿慕情 p.042-043 往年の名画は武蔵野館と昭和館で

新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。
新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。
かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

そのコマ劇場ウラのネオン街。五階建てのビルに、コンチネンタルというクラブがある。いやあった、というべきだ。

風林会館から、明治通り寄りにあるマキシムが、多分、〝元祖〟なのだろうが、ホステスによるショー・チームがあった。学芸会さながらの稚拙さと、踊りが終わると、客のもとに帰ってきて、ホステスになるというシステムとが受けたらしい。

この分派が、ムッシュ・ボンドという店に移って、ここでもホステスの四人チームが、客席の間でカンカンを踊る、といった趣向が受けていた。

もちろん、トップレスだ。でも、ストリップ・ティーズではない。

ところが、さきのコンチネンタルでは、プロの踊り子チーム五人が、意欲的なショーをやっていた。若い、演出家兼振付師が、半月変わりで大胆な試みをやる。〝大胆な〟といっても、〝際どい〟という意味と間違えてもらっては困る。

私は、このチームのファンになった。そのなかの、まだ、二十歳そこそこの踊り子のムチに、夢中であった。

ムチのソロ場面になると、席から立ち上がって、拍手のしつづけなのだ。カケ声をかける。

同行の友人たちは、苦笑して私のことを〈若い〉という。

だが、これは〈若い〉のではなくて、〈老い〉が忍びよってきていることだ、と、私は心秘かに、自問自答している……。

武蔵野館は三階席

そう、想い起こせば、と、書くあたりにも、それが、うかがえるではないか——昭和十四、五年ごろのこと。私はまだ、中学生だったが、府立五中の制服が、当時では珍しい背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って、新宿の街を歩いていた。

新宿駅の中央口通り。洋画の封切館の武蔵野館が、〝知性派の町〟のシンボルのひとつでもあった。

安い三階席からは、スクリーンは、はるかの谷底にあったが、クローデッド・コルベール主演の『ある夜の出来事』の、スカートまくって、ガーターをズリ上げて、車を停めるシーンに眼をコラしていたのも、ついさきごろのことのような気がするのだ。

マリー・ベルの『舞踏会の手帖』、コリンヌ・リュシェールの『格子なき牢獄』といった、往年の名画の数々は、みな、武蔵野館の三階席の思い出とともに、まだ私の心の中に生きている。

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

新宿慕情 p.044-045 清洲すみ子に懸想、市川弥生にほのかな愛情

新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ
新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

昭和館は、むかしの場所に、多分、最後の建物だろうが、ともかくも、映画館として残っていてくれている。

だが、その中間に位置していた、ムーラン・ルージュは、もう跡形もなくなってしまい、ビルが建ち、ツマらない映画をやっている……。

私が、コンチネンタルのムチに手を叩くのは、このムーラン・ルージュへの〈郷愁〉に違いない、と思う。

わが青春の女優たち

当時、「新劇」と呼ばれていたのは、村山知義の率いる新協劇団と、薄田研二らの〝集団指導〟制の新築地劇団とで、いまの感じでいえば、セ・パ両リーグのような形で、左翼演劇絶対の立場をとっていた。

そして、同じように、新劇の範疇ではあるが、肩肘怒らした左翼演劇の息苦しさよりも、もっと、傍観者的にオチョクろうという、さながら、週刊新潮誌張りに、フランス・コメディを中心とした、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディという、別派があった。

そして、この〈我がムーラン・ルージュ〉は、テアトル・コメディの劇場演劇に対して、自ら〈軽演劇〉として、ファース(笑劇)とレビューを売り物にしていた。

しかし、本場パリの小屋の名前を、そのままイタダいているのでもわかるように、このムーラ

ン・ルージュには、浅草のドタバタとは違って、学生たちを満足させる、〝白水社的〟知性があったのだった。

だから、私はいまでも、有島一郎をテレビで見ると、ムーランの舞台にいた彼を、その映像にダブらせて見ている。

金貝省三という〝座付作者〟に憧れて、楽屋に会いに行ったこともある。

踊り子でいえば、スターの明日待子に胸をトキめかし、五十鈴しぐれというワンサに、プレゼントを届けた。

ムーランを卒業した私が、やがて、築地小劇場に拠っていた左翼演劇に熱中し始めるのは、当時の〝進歩的学生〟として当然のコースなのだが、新協劇団の女優サン・清洲すみ子に〝懸想〟することになる。

ムーランの中堅の踊り子だった市川弥生にも、同じように、少年のほのかな愛情を抱いたものだった。戦争と捕虜とから生還した私が、廃墟さながらの新宿の町で知り得たニュースは、市川弥生嬢が金貝省三氏と結婚したということと、やはり、新協劇団の清洲サンが、村山知義夫人になっていたということだ。

いまにして思えば、ナント、オマセな少年だったか、という感じである。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

新宿慕情 p.046-047 八等身の美女がズラリと居並び

新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。
新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

……サテ、本題のムチに戻らなければならない。

こんなふうに、かつての演劇青年だけに、コンチネンタル・ショーの、〝文化度〟を判断する能力はあったのである。

それだからこそ、このクラブの経営者に、もっと客の入りを考えるように忠告し、演出家兼振付師の水口クンには、然るべく、アドバイスをしたりしていたのだが、やがて、クラブは経営不振でクローズし、ムチのチームも、新宿から去っていってしまった。

だれか、私のムチを知らないか……と、私は、〈郷愁〉の幻影を追い求めて、また、夜の新宿を、ハシゴする——。

要町通りかいわい

美人喫茶は戦前に

古き良き時代——というのは必ずしも〈戦前〉だけ、とは限らない。

〈戦後〉の新宿にだって、〝古く良き〟店が多かった。その代表的なものに、「美人喫茶」がある。

美人喫茶、というのは、そのハシリは、日比谷交差点にある朝日生命館の一階に、「美松」という店があった。

エ? と、反問しないでもらいたい。戦前のことなのだ。

あの一階の、広いフロアいっぱいに、八等身の美女がズラリと居並び、中二階のレコード係がこれまた、美女中の美女。

スケート場といえば、芝浦と溜池の山王ホテルだけ。ダンスホールは新橋のフロリダ、喫茶店は美松、といった時代だ。文字通り、〝きょうは帝劇、あすは三越〟しか、社交場がなかったころなのだ。

この「美人喫茶」思想は、だんだん食糧事情が良くなって、量よりも質の時代になってきた、多分、昭和二十七年の日本の独立以後、芽生えてきたと思う。

果たして、銀座のプリンスが先なのか、新宿のエルザが先なのか。あるいは、新宿でも、エルザよりも早い店が、あったのかも知れない。そのへんの正確さは欠けるけれども、新宿の美人喫茶といえば、私にとってはエルザ——私のエルザ、なのである。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

新宿慕情 p.048-049 純・喫茶店を求めて街を歩く

新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。
新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

もっとも、近年のエルザは、ツマラない、ただの喫茶店になってしまっていた。

むかしは、コーヒーが美味くて、椅子が大ぶりなうえに、卓との空間がひろく、フワッと身体が沈むセットを使っていた。いうなれば、〝目には青葉、山ほととぎす、初鰹〟という、三位一体の、美人喫茶だった。

それなのに、椅子は、張り替え張り替えで固くなり、コーヒーの味も並み。目を愉しませてくれる女の子は、よくまあ〝伝統あるエルザ〟に応募してきたナ、という感じである。

昭和四十年代に入ると、高度成長のアオリで、ネコもシャクシも、〝すなっく〟ブームだ。

喫茶店にあらず、レストランにあらず、バーにあらず、ラーメン、スパゲティ屋にあらず。すべてに、似而非(えせ)なるものの、混合体を〝すなっく〟というらしい。

私は、むかし気質のエンピツ職人をもって任じている。それだけに、専門家を尊敬する。一業をもって一家をなすべし、となるのだから、この、ナンデモ屋で、しかも、みな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

関西へ行くと、喫茶店がカレーやスパゲティを出す。純・喫茶店を求めて、街を歩くのだが、準・喫茶店しかないので、ホテルのコーヒー・ショップを、止むなく利用する。

言葉に厳格なせいか、私は、クラブというのも用いない。バーという。バーの高級そうなのをクラブというらしいが、自分が金を出してアルコール類を飲んでいるのに、女給ども(これもまた

ホステスという言葉がキライだ)が、コーラかなんかを飲むと、「アッチに行ってくれ」と、断りたくなる。

同様に、コーヒーをたのしんでいる横で、カレーやラーメンを食われては、コーヒーの味が落ちるからイヤなのだ。

なつかしのエルザ

マキさん、というレジ係の中年の女性がいた。着物の良く似合うひとで、もう、大きな中学生の男の子がいた。

馴染み客でない男には、ママと見えるほどの貫禄があったが、実は、従業員だった。十年以上もいたのではなかろうか。

このマキさんが辞めて、エルザは、完全に、昔日の栄光を失った。

エリザベス女王と同じように、いつも、微笑を浮かべて、客商売の基本を崩さなかった。ただ女王陛下の〝威厳の微笑〟に比して、マキさんのは、〝慈愛のほほえみ〟であった。女らしさと品の良い色気とが、織りまぜられていた微笑だった。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。

むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

新宿慕情 p.050-051 日本橋の紅花、行列して待つほどの繁昌ぶり

新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。
新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。
むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

やがて、二階を喫茶バーに変えたりしたが、大テーブルの向こう側に女性がいて、酒類を飲みながら、安く、人生論を展開したりするには、あまりにも、世の中が〝現金〟化しすぎていたし、女性側にも、もう、そんなロマンチストは、数少なくなっていたので、これもまた、すぐ飽きられて、水揚げが悪かったようだ。

田中角栄氏が、すでに、幹事長になっていたセイだろう……。即物的な風潮が、もはや、美人喫茶などという、ロマンを押しツブしてしまう時代だった。

この要町通りの一角は、私の新宿での、一番関係の深い土地である。

ランチならいこい

エルザとの十何年の付き合いと、ほぼ同じくらいになるのが、エルザと背中合わせの角にある「いこい」というキッチンだ。

食べ物屋は、美味いのが第一で、次が安いこと。そして、量ということになる。そのうえ、材料が新鮮、ということになれば、もう、申し分がない。

この「いこい」は、現在も、いよいよ盛業中なので、いささかCMめくけれども、〝事実は雄弁に勝る〟のだから、しようがない。

ここの若ダンナが、まだ独身時代からで、結婚し、子供が生まれ、大きくなってゆくのを、ず

っと、目撃しつづけてきたのだ。

それは、〈いこいランチ〉を通じての仲である。

「いらっしゃーい。まいど」

「ごちそうサン」

交わす会話はこれぐらいでも心と舌とは通じ合っている。万古不易……といえば、大ゲサすぎるが、洋食屋で、これほど変わらない店は少ない。

もう、ズッとむかし。日本橋の紅花に行って、その味と量と値段とに、驚いたことがある。ランチ・タイムなどは、付近のサラリーマンたちが、行列して待つほどの、繁昌ぶりだ。

この〝好況〟に、経営者は、その気になったらしい。チェーン店がふえるたびに、味が落ち客足が落ちて、値段が上がってゆくのだ。もう、紅花などに見向きもしなくなって久しい。

食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。味が、ガラリと変わってしまう。中国料理店など、その代表的なものだろう。

だから、少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもとだ。飲み屋は、サービスとフンイキだから、チェーン店を出せる可能性もあるが、食べ物屋は、そうはいかない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。

新宿慕情 p.052-053 支社長の吉川さんが酒を呑まないし魚と肉のアレルギーという人物

新宿慕情 p.052-053 関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。
新宿慕情 p.052-053 関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。

料理である。食べ物の味である——子供の時の、オフクロの味から、おとなになるに従って〈自分の味〉を持つようになるのが当然だ。

この〈自分の家の味〉を、カミさんに仕こむのが、ひと仕事なのである。

焼きもの、イタメものは、一年かそこらで教えられても、煮ものとなると、三年、五年。日常生活の、「オイ、アレ!」というので、十年ほど。

マクドナルドやケンタッキーから、ブロイラーのトリチュウのたぐい。インスタントに冷凍もどし。〝焼くだけ〟のパック食品などで育った、いま時の若夫婦に、離婚の多いのもうなずけよう。

コーヒーの味と洋食屋——新宿と古女房とから、離れられないのも、〝慕情〟のたぐいなのでしょう。

ブロイラー対〝箱娘〟

大阪はピンとキリ

関西風のナンデモ屋がキライだ、と、書いた。

例えば、梅田のあの地下街。そのほとんどが、食べ物屋なのに驚く。そして、店の名前が違うだけで、メニューはほとんど同じ。さらに、マズかろう、高かろう……なのだ。

スパゲティ何百円、とか、値段そのものは、特に、高いというわけではない。しかし、味からいって、高いと感ずる。

地上に出て、曾根崎あたりのアーケードも同じことだ。地下の小間割りと、まったく同じである。表通りの店も、横丁の店も、そして、ミナミに行っても……。

大阪で、ナニかを食べようとしたら、私は、ホテルのレストランしかえらばない。

招待されて、吉兆あたりで、ホンマモンの関西料理を頂くのなら、これは結構だ。

さんぬる年のエベツさんの日に、帝塚山の大屋晋三氏邸に、大阪読売やよみうりテレビのエライさんたちに、お相伴にあずかったことがある。

新邸の和風大食堂に、吉兆が出張してきていた。……と、金箔の浮いたお吸物が出た。

御堂筋から入ったお店のほうにも行ったことがある。秋だったので、中秋の名月を型どった前菜が出た。横笛を模した細竹の器に、感嘆したものだった。

大阪支社があるので、チョイチョイ、大阪には出張する。しかし、支社長の吉川さんが、酒を呑まないし、魚と肉のアレルギーという人物なので、よけいに、大阪では〝味〟不案内だ。ネオン街とて、自分で開拓せねばならない。

支社の近くにも、旨いコーヒーを飲ませる店もある。すると隣のテーブルで、ヤキ肉ライスを

食われるのだから、参ってしまうのだ。

新宿慕情 p.054-055 新宿西口あたりが梅田地下街に感じが似ている

新宿慕情 p.054-055 テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。
新宿慕情 p.054-055 テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。

支社の近くにも、旨いコーヒーを飲ませる店もある。すると隣のテーブルで、ヤキ肉ライスを

食われるのだから、参ってしまうのだ。

だから、どうやら、大阪というところは、ホテル以外では、ピンとキリしかないみたい。そんな印象である。ナニが〝食いだおれ〟か、と思う。

大阪のことを書くべき原稿ではないのだが、もうひとつ、書かないではいられない。フト、思い出したからだ。

ロイヤルホテルの地階に、なかのしま、という、和食ゾーンがある。前々から、ホテルのことばかりホメているのだが、ここの竹葉亭のうなぎなど、東京の竹葉亭もそれほどではないがヒドイもんだ。

天ぷら、すし。いずれも、値段の割にオソマツである。

西口はキリばかり

話を新宿にもどそう。

梅田の地下街をイントロに書き出したのは、西口あたりが、梅田と、感じが似ていることをいいたかったのである。

そして、食べ物屋のすべてが梅田地下街を、そっくり移してきた感じである。

新聞の紙面が画一的だ、といわれて久しい。そればかりか、大都市の構造も画一的だし、食べ物屋の造りも、メニューも、味も、そうである。

これでは、政府とて、〈国民総背番号制〉にでもしなければと、考えつくのも当然である。

テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち——恐ろしいことではないか。

つまり、ウチの社でも、若い連中を使ってみるが、彼らは、常に〝与えられ〟つづけてばかりなので、いつも〈受け手〉であって、決して、〈送り手〉になろうとしない。

新聞記者を志したり、新聞社で働こう、というのに、〈受け手〉の意識しかないのだから、困ってしまう……。

その証拠は、あの新宿の飲食店が、いつも満員で、それぞれに繁昌していることでも、明らかである。

洋食は、「ハンバーグに始まって、ハンバーガーに終わる」という。

成長してゆく子供たちの、食生活の歴史を眺めてみると、中学生では、喫茶店に入っても、クリームソーダだが、高校生になると、ようやく、コーヒーへと進む。レストランでいうと、小学高学年までは、お子様ランチやスパゲティ、カレーライスでも、中学生になると、ハンバーグとなるから、不思議だ。

一、二年前ごろ。マクドナルドのハンバーグには、ネコの肉が使われている、というデマが流行ったことがあった。

「アルバイトに行ってて、禁止されていた冷蔵庫のドアをあけたら、ネコがいっぱいあった」な

どと、マコトしやかな〝噂〟が流され、新聞社などにも、電話のタレコミが相次いだ。

新宿慕情 p.056-057 生まれ落ちると同時にそのように育てられている

新宿慕情 p.056-057 無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。
新宿慕情 p.056-057 無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。

一、二年前ごろ。マクドナルドのハンバーグには、ネコの肉が使われている、というデマが流行ったことがあった。
「アルバイトに行ってて、禁止されていた冷蔵庫のドアをあけたら、ネコがいっぱいあった」な

どと、マコトしやかな〝噂〟が流され、新聞社などにも、電話のタレコミが相次いだ。

ウチの社にも、そんな話がもたらされたりしたものだったが、マトモな味覚であれば、あの立ち食いハンバーグなど、食えたものではない。

いま、一番小遣銭が豊富だといわれるのがヤング。そこで、ヤングを狙え、の商戦が展開されるのだが、これが、いま述べたように、〈受け手〉専門の無批判・大勢順応精神しかないのだから、〈選択〉能力がない。

ハンバーグなら、ドコ。スパゲティなら、アソコ——こういう自己主張がない。無理もない。生まれ落ちると同時に、そのように育てられているのだ。

むかし、巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった、〝箱娘〟みたいなものだ。

生まれてすぐ、ミカン箱などに入れて育てる。中国のテン足も、そのタグイで、足を布で強く縛ったまま育てるのだから、上体は成長しても、クルブシから下は発育不全である。ヨチヨチ歩きしかできない。

このテン足の風習は、女性に限られていた。成人しても労働には向かない。愛玩物としての性的女性、また、逃走させないためのもの、と、いわれる。

同じように、木箱の中で育てれば四角い人間ができてしまう。すべてに発育不全な〝因果者〟なのだが、座ったりすると四角になるから、見世物になるわけだ。

大衆食品の戦後派

スパゲティが、大衆食品になったのは、戦後であって、戦前は、マカロニもグラタンに使う程度。スパゲティも、洋食のつけ合わせに用いられるぐらいだった。これらを、占領軍が流行らせたのだろう。

そして、同じように、ラーメン、ギョーザを大陸から復員したり、引き揚げてきた人たちが主食のうちに加えてしまったのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

(写真キャプション)新宿西口の地下商店街は、大阪の梅田に似ている

新宿慕情 p.058-059 前にもクドクド書いたように

新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。
新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

当時、目白に住んでいたのだが、池袋との間に、東京パンの工場があったり、付近に、大陸帰りの人がいて、〈労研饅頭〉という名前で、中国のマントオと同じものを製造販売していたことも、朝食に、パンやマントオ(軍隊時代にも、その感激を再現したものだが、バターをつけて食うと、実に美味い)が登場するキッカケのひとつだったろう。

いまでこそ、スナックなどで、焼きうどん、などというメニューのところがあるが、油が良くないし、具が多すぎたりする。ことに、キャベツの骨まで、プツ切りにして入れたりするから、〝愛情〟に欠ける。

私などは、炒めうどんから、素麺炒めへと進んでいる。うどんにせよ、そうめんにせよ、炒めるとなると、茹で方がむずかしく、過ぎても及ばなくても、味が落ちる。

このように、創意工夫があって、はじめて〈送り手〉になれるのであって、それがなければ〈受け手〉に甘んじているしかない。それにしても、いまの若い人たちは、あまりにも、なんでも〝与えられ〟ることに、馴れすぎている。

これでは、養殖のうなぎやハマチ。ブロイラーのように、単なる〝人糞製造器〟にすぎなくなる。ワビ、サビはもとより、味などとは縁遠く、デモや内ゲバや、〝強行採決〟の働きバチとしてしか、効用価値がなくなってしまうのではないか。われわれは、《人間》なんだ、ということを、忘れないでほしい。

〝のれん〟の味

銘柄の味覚の違い

こんなことがある。

ウチの女子社員に、「雪印のコンデンスミルクを買ってきてくれ」と、頼んだ。

徹夜で原稿書きをするのに、ドリップ・コーヒーをいれるのだが、あけ方になって、疲れてくると、やや甘いコーヒーが欲しくなる。そのための、コンデンスミルクなのだ。

その娘は、「ハイ」といって買ってきてくれた。包装のまま仕事部屋に置き、真夜中に、サテというので、紙包みを開いてみたら、ナント、森永のミルクである。

ハラが立ってしまって、もう原稿が進まない。やむなく、それを使ってみたが、味が違うのでおいしくない。

いま時の連中は、ハンバーグといって出されれば、自分の知識、体験から、「これはハンバーグらしくないナ」と、疑問を抱かない。前にも、クドクド書いたように、「ハンバーグですよ」と、与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

新宿慕情 p.060-061 こんな連中にはモッタイないのだ

新宿慕情 p.060-061 やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。
新宿慕情 p.060-061 やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。

いま時の連中は、ハンバーグといって出されれば、自分の知識、体験から、「これはハンバーグらしくないナ」と、疑問を抱かない。前にも、クドクド書いたように、「ハンバーグですよ」と、与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

マクドナルドのハンバーグも銀座の松屋通りの白亜のハンバーグも、ハンバーグである限り同じだ、という思考形式だ。

だから、わざわざ、銘柄を指定し、メモに書いて渡しても、コンデンスミルクとして買ってくる。

それなら、銘柄の違いは関係なくなる。ハンバーグ製造第二三一工場製、第八二工場製と同じという、全体主義国家の〝味覚〟である。新住居表示が地名のいわれや、いわくいんねんを無視して、ベンリ第一主義の画一性を重んじるのと同じ手口だ。

いまに、学校も、すべて、ナンバースクールになるだろうし、企業も、そうなるかも……。

明治時代に、第一銀行から始まって、第百何十何銀行とあったのだが、いま、このナンバーバンクが、いくつ残っているだろうか。

高等学校(旧制)も、二高、三高、四高と、ナンバーで呼ばれても、仙台、京都、金沢の……と、その土地柄と地名とが、ついてまわっていた。

私の中学(旧制)は、東京府立五中で、やはり、ナンバースクールだが、それぞれに地名が冠せられる。

私らの時代でさえ、府立九中などとなると、もう、程度が低いとして、バカにしたものだったが、戦争末期には、府立第十何中などと、ふえたようだ。しかし、小石川高校(新制)はむかしの五中、といわれるが、第十何中はいまの◯✕高校などとはいわない。

きまりの店と料理

コンデンスミルクだけではない。庶務の文房具係の娘は、ボールペンといえば、銘柄関係なしで、手当たり次第に、ボールペンを買う。

すると、ゼブラの替え芯は、他のメーカーに使えない、というムダができる。銘柄、つまりメーカー、つまり、店それぞれの〝味〟という認識がない。だから、こんな連中には、高かろう美味かろう、というのを食べさせても、ムダだと思う。モッタイないのだ。

「アラ、ジバンシーの石けん」

「ウワーッ、ヘルメスのネクタイじゃないですか」

そういう若い社員がいれば、惜しいナ、と思っても、ついつい呉れてしまう、というもの。お中元シーズンともなれば、やはり、〝違いのわかる〟相手でなければ、それこそ、〝豚に真珠〟である。

いやいや、まったく演説がつづいてしまった。……と、まあ、そんなわけで、同じ新宿でも、西口は、大阪のイミテーションだから、あまり、歩きもしなければ、出かけもしない。

洋食屋のいこい、一軒だけしか、まだ登場していないが、やはり、私のフランチャイズは、東口、中央口。駅のソバの丸井や、三越からこっちになる。

スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。不愛想なオッサンが目障りだけど、やはりス

パゲティの専門店だけあって息が長い。

新宿慕情 p.062-063 ムースーローをオカズに

新宿慕情 p.062-063 ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには対面していない。
新宿慕情 p.062-063 ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには対面していない。

スパゲティを食べるなら、丸井横通りのミラノ。不愛想なオッサンが目障りだけど、やはりス

パゲティの専門店だけあって息が長い。

ここでは、いつも、ポークピカタを食べる。旨い。量もあって、よろしい。

決してひとりではいかない店というのもある。つまり、連れがいて、食べたいものの意見が合わない時は、三越のウラ、甲州街道に近いコメットだ。

ここは、和洋料理をともに出す。私の主義からは、キライなハズなのだが、コックと板前と〝才色兼備〟がいるものだから、とんかつもよければ、酢の物、茶わんむしも良し、といった感じなのだ。……残念ながら。

大衆てんぷらが食べたい時は、三越ウラといえば、船橋屋、つな八などを推す人が多いが、あれらは、やはり、値段に比べて味が落ちる。それよりも、三光町と三光町東の、ふたつの交差点にはさまれた、玄海の向かい側にある天春だ。

料理としての天ぷらではなくて、メシのオカズの天ぷら、と考えていただきたい。

ギョーザなら、もう、四、五年も行っていないので、自信にかけるウラミはあるが、やはり石の家。甲州街道寄り、靖国通り寄りのいずれも、家内と良く行ったものだった。

ギョーザとチャーメンと、ゴハンをひとつ。それに、ムースーロー(きくらげと肉とを、玉子で炒めとじしたもの)をオカズに、仲良く半分ずつ食べる。

この石の家のムースーローほどうまいムースーローには、まだ、出会ったことがない。

肉、きくらげ、玉子の、量の比率がドンピタなのであろう。炒めものは、火力、油、ナベの使

いこみ度、そして、材料の混合率でキマる、のだから……。

ケーキにだんごも

で、対象が飛ぶけれども、ケーキなら、伊勢丹横の小鍛冶である。

これまた、新宿では、小鍛冶のケーキ以上に美味いケーキには、まだ、対面していない。

だが、この店のカンバンが早いので、夜遅く、ケーキを食べたい時は、やむなく、区役所通りの、コージーコーナーだ。だが、こことて、〝次善〟とはいかず、二、三がなくて〝四番〟ぐらいだろうか。

そして、ついでに、東映横の追分だんご。だんごなら、ここに限る。アンコなどの種類やら甘さやら、目先を変えて、いろいろ出してはいるが、ともかくこの店のは、ダンゴそのものが上等だから。

むかしは、この店の幕之内弁当も良かった。新宿で、幕之内をたべたくなると(もっとも、幕之内弁当を出している店が少ないみたい)、必ず、追分だんごまできたものだが、二年ほど前に値上げしてからサッパリ。

材料もさることながら、味もダメで、値段と味とのバランスがくずれてしまった。

そこで、フト思いついて、伊勢丹の食堂へ行って、幕之内を発注してみたが、やはり、幻滅感を味わっただけだった。

新宿慕情 p.064-065 新宿にはうなぎ屋がない

新宿慕情 p.064-065 私の食べ歩きは、一店一品種。「いまナニが食べたいか」「ではあの店に行こう」となる。西口と歌舞伎町は、いっぺんこっきりのフリの客相手の浅草仲見世通りと同じ。
新宿慕情 p.064-065 私の食べ歩きは、一店一品種。「いまナニが食べたいか」「ではあの店に行こう」となる。西口と歌舞伎町は、いっぺんこっきりのフリの客相手の浅草仲見世通りと同じ。

そして残念なことに、うなぎ屋がないのだ。

うなぎほど、高い値段のクセに、味に甲乙がありすぎるものがない。区役所通りに、岡田家というのがさきごろ開店して、そのチラシが、社のポストに入っていた。

店に行ったことはなく、出前を頼むだけだから、いささか、正鵠を失するかも知れない。だがここの特上、千五百円のうな重と、築地の宮川本廛の、同額のうなぎ(汁、めし、おしんこがプラスされるから、厳密には、比較できない)とは、まさに、月とスッポンほど違う。

築地の宮川本廛(宮川、もしくは宮川本店、というのが、近くにあるが、ここは、築地署ウラになる)では、店に入って注文してから、まず、三十分は待たされる。

しかし、ここで、千五百円の蒲焼きを食ったら、まず、「アア、うなぎを食ったナ」と、よろこびに浸れることは、請け合いである。

では、日本料理は? とくると、いうまでもない。中央口のすぐそば。九階建てのビルの八階九階を使っている、京懐石の柿伝である。

お茶の作法を教わりながらの料理は、また、格別なもの。お客さんをしても良し。スタンドで一品でのんでも良し、と、推さざるを得ないが、まず、一万円以上につくことも確かだ。

と、こうして眺めてみると、思いつくままの、私の食べ歩きだが、一店一品種——つまり、おなかが空けば、「いま、自分はナニが食べたいのか」と、情勢分析をする。その結論に従って、「では、あの店に行こう」と、なるわけで、西口と歌舞伎町とがない。

いうなれば、西口と歌舞伎町とは、いっぺんこっきりのフリの客を相手にする、浅草仲見世通りの食べ物屋と、同じ精神だということになる。

ふりの客相手に

「フリー」は間違い

余談だが、週刊新潮誌七月三十一日号の「スナップ」欄に、歯医者の話があって、「フリーの客をしめ出すための……」というクダリがある。

新潮社版の『新潮国語辞典』一七二三ページに「ふり(振り)」の項がある。その七番目にはこうある。「①遊女などが客をきらうこと。②なじみでもなく約束もなく、遊女の客が突然来るもの」

〈フリーの客〉は、これでも明らかなように、〈ふりの客〉の誤りである。週刊新潮誌のために惜しめばこそ、ご注意を申しあげておこう。

さて、〝ふりの客〟などは、あまり立ち入らない一画が、我が正論新聞社のおひざ元だ。

花園神社の正門前に、明治通りをまたいで、大きな歩道橋がある。これを、〝中洲〟のような

花園まんじゅう店を越えて、対岸のかに谷・新宿店側におりると、通称医大通りである。

新宿慕情 p.066-067 お茶漬けの乃志菊、オデン屋の利佳

新宿慕情 p.066-067 コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。才気煥発の女史で、浅学菲才の私など足許にも寄せつけてもらえない。
新宿慕情 p.066-067 コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。才気煥発の女史で、浅学菲才の私など足許にも寄せつけてもらえない。

さて、〝ふりの客〟などは、あまり立ち入らない一画が、我が正論新聞社のおひざ元だ。
花園神社の正門前に、明治通りをまたいで、大きな歩道橋がある。これを、〝中洲〟のような

花園まんじゅう店を越えて、対岸のかに谷・新宿店側におりると、通称医大通りである。

市ヶ谷富久町の、ホテル本陣の自衛隊寄りの歩道橋へ抜ける通りなのだが、これが、三光町、花園町、番衆町、東大久保一丁目といった、群小アパート街を両側に控えて、いわば、新宿のベッド・タウンの目抜き通り。

それだけに、〈なじみ客〉相手の〝一流〟店が多い。カニのかに谷は、明治通り角だから、そちらに分類される。

カニならば、歌舞伎町のかに幸船本店にはかなわない。風林会館の四ツ角、明治通り寄りのかに幸船でも、まだ良い。かに谷は、いうなれば〝肉の万世〟と同じ種類のチェーン店だから、味も値段も、推して知るべし、なのである。

オット、いけねえ。歌舞伎町は〈ふりの客〉などといいながら、すでに、コージーコーナーをあげ、かに幸船本店まで登場してきた。

サービスのついでに、もう少し、何店か、推せんせざるを得まい。コマ劇場横通りに、コーヒーの蘭。いかにも、コーヒー店らしいところが良い。あまり落ち着けない店だが、どうやら、文人墨客が多いようだ。

そのナナメ筋向かい、ビルの二階に、お茶漬けの乃志菊がある。食べ物は、特にどうということもないが、お内儀がいい。

自動乾燥器付きの電気洗濯機のように、横幅の広いオカミさんは、白い肌に漆黒の髪、濃い眉

毛、高い鼻——自称沖縄生まれ。だが、実は、福島県の在郷衆(ぜえごしゅ)で、開店までは、銀座ホステス。しかも、ウルワシ・ビルの上にある、フランス風のクラブにいた。独立しても、メシ屋のオバさんになるあたり、仲々のモンである。

こちらの気嫌が悪い時などは少々、耳障りでウルサイが、才気煥発。会話がトントンはずんでついつい長居になる。

ここのお内儀を、少し老けさせたのが、コマ劇場通りとさくら通りの中間にあるオデン屋の利佳は、安藤リカさん。これまた、〝新宿女給〟の元祖みたいなもので、あらゆる意味での、〝先生〟ばかりが客筋だ。

これまた、才気煥発の女史で、耳学問の〝演説〟をブチ上げるから、浅学非才の私など、足許にも寄せつけてもらえない。

店のマッチのデザインは、利佳の利の字に、アミがかけてあって、色が薄い——「利、薄きをもって、佳しとす」ナァーンて、やられてしまうのダ。

蘭の裏側の地下に、メゾンというのがある。サントリー・パブ、とでもいうのだろうか。ホステスがいないから、女性客が多く、その女性客をネラって、男性客がくる。ビヤホールの感じでありながら、食べものが、安くて美味いのがいい。ただしこの店は、私の推せんではなくてウチのカミさんの根城だ。

閑話休題。やはり、フランチャイズの医大通りに戻ろう。

新宿慕情 p.068-069 嫣然と会釈され胸がときめいたりする

新宿慕情 p.068-069 隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。
新宿慕情 p.068-069 隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。

しゃぶしゃぶの店

かに谷の隣にある牛やは、知る人ぞ知る、の有名店。しゃぶしゃぶならば、全東京で、この店がトップであろう。私の友人知己の、美食家たちを何人か案内したが、だれもが、「美味い」とホメそやす。

こういわれると、内心、「ああ、オゴリ甲斐があったナ」と胸を撫でおろす。

まったくのところ、東では牛や、西では、京都の祇園すゑひろ。ともに、しゃぶしゃぶではトップである。テレビで宣伝している千駄ヶ谷の十千万などはしゃぶしゃぶ界では駈け出し。

恥ずかしながら、私が、しゃぶしゃぶを知ったのは、昭和三十四年ごろ、大阪で、芦田均氏の息子サンに連れられて、すえひろでのことだった。

「肉をナベにいれて、しゃぶ、しゃぶと、ウラオモテを湯掻いたぐらいが最上の味。煮てはいけませんよ。しゃぶ、しゃぶと、こうネ……」

その時、こんな旨いものがあるのを、どうして知らなかったのか、と、それまでの四十年ほどの人生が、悔まれてならなかった、ほどだ。

やがて、東京は、溜池の自転車会館地下のざくろで、しゃぶしゃぶに再会する。どうやら、〈西力東漸〉といったところらしい。

そして、私はいう。「こうして、ウラオモテ、しゃぶ、しゃぶ、と、泳がせる程度ネ。煮たら

ダメですよ。どうです?」

当時は、東京では、ざくろしかやっていなかったようだ。

その後、正論新聞を始めて、現在の大木ビルに事務所を構えた時、近所に牛やがあるのを知ったのだが、入ったことがなかった。

というのは、その牛やとの間で、ケンカをしてしまうのだ。

大木ビルというのは、マンションビルだ。私が入った時は、五階の端の五〇四号室。そして隣の五〇三号には、このビルの最後の住人であった、丸山明宏が住んでいた。

「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった、と思う。やや胴長のスタイルだが、化粧は、ふだんでも欠かさず、確かに〝美し〟かった。エレベーターで乗り合わせると、ニッコリ笑って、挨拶を先にする。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。

徹夜で原稿を書いていると、深夜の二時、三時に、かすかに隣室から歌の稽古をする声が響いてくる。

廊下を歩いていて、ドアが細目にあいている時など、見るともなしにノゾくと、濃緑色に統一された室内に、ルイ王朝風の家具が眼に入って、嫣然と会釈され、胸がときめいたりする。

花束を抱えた女高生のファンが、ビルの入り口あたりをうろつき、いまの殺風景などとは比ぶべくもない。

新宿慕情 p.070-071 丸山明宏でなきゃ出前しないというのか

新宿慕情 p.070-071 「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ」「牛やになんか絶対行かないゾ!」
新宿慕情 p.070-071 「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ」「牛やになんか絶対行かないゾ!」

ファンが出前を

そんなある日。丸山家のドアの前に、民芸風な出前の食器がおいてあった。たまたま、その食器を下げにきた女性に出会って、お店をたずねたら、「牛やです」という。

メニューは知らずとも、食器から判断して、美味そうだったので、出前を頼むべく、牛やに電話したら、「ウチは出前はいたしません」という。

「丸山明宏の部屋の隣で正論新聞というんだ。隣に出前して、どうしてウチにはできないのだ。タノムよ」

「イエ、出前はしないんです」

「ナニを! 丸山明宏でなきゃ、出前しないというのか、バカモン!」

その後も、丸山家の前には、益子焼風の食器が出ていたりするのを、見たりするたびに、牛やにハラが立った。

多分、店としては出前をしないのだが、女の子が、丸山明宏を見たくて、持って行ったのであろう。

「チキショウめ。牛やになんか絶対行かないゾ!」

——しかし、付近一帯のトウトウたる事務所化に抗し切れず、丸山家は、大木ビルを引き払って成城に引っ越してしまった。

その最後の日、挨拶に顔を見せて、「ガラクタを残して行きますが、ご利用になるのでしたらどうぞ」と、〝彼女〟がいった。

私は、西洋骨董みたいなものを拾ってきて、社員たちと分配した。私のところに、古めかしいカサ立て、山本デスクは、金属製の扇子のオ化けみたいな、間仕切り板みたいなものを、持ち帰っていった。

空室になった隣を、我が社が借りて、間の壁をブチ抜いて広げた。あとで気が付くと、ドアのノブまでが、西洋骨董みたいなヤツだった。

そして、丸山明宏がいなくなって、出前しないハズの出前食器を見かけなくなって数カ月。ハラが立ったのも忘れて、牛やに出かけていって、この、天下一のしゃぶしゃぶに、ゴ対面することになった、のだった。

誇り高きコック

スープを持ち帰り

京都の祇園すゑひろのしゃぶしゃぶは、野菜といっしょに、丸い小餅を入れる。これがまた旨

い。だが、牛やはきしめんでしめる。

新宿慕情 p.072-073 美味いものをハラいっぱい食べる主義

新宿慕情 p.072-073 読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。
新宿慕情 p.072-073 読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。

京都の祇園すゑひろのしゃぶしゃぶは、野菜といっしょに、丸い小餅を入れる。これがまた旨

い。だが、牛やはきしめんでしめる。

思うに、しゃぶしゃぶの牛肉よりも、店の味の違いは、どうも、ゴマダレの隠し味にあるようだ。

意地汚い私は、近ごろでは、しゃぶしゃぶのあと、社に電話して、夜勤の者にナベを届けてもらう。残ったスープを、持ち帰るのである。

徹夜の原稿書きの時に、このスープに冷や飯を入れ、玉子を落として雑炊を作る。これがまたなんとも美味なのである。

私の食事ぶりは、まったくのところ、旨そうに、全部、平らげるのだ。だから読売時代から「三田ほど、メシのオゴリ甲斐のある奴はいない」と、極め付きであった。

もともとが、不規則な生活である。だから、食事だって、不規則である。しかし、私は、ハラが空いた時に、美味いものをハラいっぱい食べる主義だ。どうやら、これが、私の健康法の基本らしい。

つまり、食事中心主義で、間食などはあまりしない。たまに「疲れたナ」と感じた時に、洋菓子程度の甘味を要求する。追分ダンゴを食べたい、と感じた時などは、より疲労している時なのだろう。

追分ダンゴでなければ、中村屋の月餅かアンマン(これに、バターの固まりをコスリつけて食べると、元気百倍。オロナミンCドリンクよりも効く)、でなければ、花園まんじゅうの、春日山クラスの

甘さだ。

酒を呑む時は、あまり、料理を食べない。ツマミも、ほとんど食べない。アルコールの時はアルコール一筋だ。

だから、お招ばれの席で、料理屋に行く時など、「今夜は食べよう」と、決心していれば、酒は付き合い程度に抑えて、モリモリ、料理を残さずに食う。

つまり、呑む時には、ハシゴでベロベロになるけれど、バタンキューと眠ったあと、睡眠数時間で、ノドの渇きに目を覚まして、冷たい水をゴクゴクと飲む。そしてまた、一、二時間眠って小用で起きる。

起きればまた水である。合計して、一升ぐらいも飲むだろうか。そして、入浴する。

ぬる目の朝風呂に入り、ガスをつけて熱くする。その間にもまた、氷を入れた水を飲む。

徹底して水を飲む

こうして上がると、流汗は滝の如く、寒中でも、火の気のない部屋で、バスタオルを腰に巻いたまま、十分、二十分は新聞を読んで、汗がひくのを待つ。

汗がひくと、カーッと、ハラが空いてきて、ペコペコ腹に、モリモリと、三杯ぐらいのゴハンを入れる。

ハラが空いた時に、ハラいっぱいの食事。それに、呑んだら徹底して水を飲む——これが、私

が健康な理由だ、と思う。

新宿慕情 p.074-075 満腹感だけを偽造すると執筆意欲が低下

新宿慕情 p.074-075 しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。すると摩訶不思議やナ……翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。
新宿慕情 p.074-075 しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。すると摩訶不思議やナ……翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。

ハラが空いた時に、ハラいっぱいの食事。それに、呑んだら徹底して水を飲む——これが、私

が健康な理由だ、と思う。

美味いものをハラいっぱい食う、と書いたが、美味いものとは、別に、山海の珍味ではなくて玉子の目玉焼きでも充分なのだ。美味い味噌汁とお新香があれば……ということだ。

空腹の食事、というのが原則だから、時間のズレが出てきて徹夜だという前夜半に、ラーメンぐらいしか食べないこともある。

不思議なもので、夜の十時ごろまでに、ラーメンなどを入れて、満腹感だけを〝偽〟造すると暁け方の三時ごろには、消耗しつくして、執筆意欲が低下し、「いいや、あしただ」と、寝てしまい、進行係を嘆かせる結果になる。

これが、前夜半に、とんかつなどだと、もたせても、五時、六時で、「やはり、豚肉ではこんななものサ」と、理由にならない理由をつけて、サッサと寝てしまう。

ところが、牛やのしゃぶしゃぶは違う。もう絶体絶命。どんなことがあっても、明朝十時までに入稿……と、〝至上命令〟が進行から出されると、夜の九時ごろに、しゃぶしゃぶを、肉だけ二人前も食べる。

すると摩訶不思議やナ……十時ごろから仕事にかかって、翌朝の九時ごろまで、眠気ひとつ覚えず、原稿を書きつづけて、約束通り上げられるのである。

この霊験あらたかな〝牛や〟さまに、進行係クンなどは、締め切り厳守を宣告して、「お願いですから、牛やに行って!」などという。

この牛やが加盟しているのが『味の味』という趣味の小冊子で、先日、「読者サロン・食後感」に投稿したら、これが採用されて、活字になった。

とは知らずに、また、牛やに出かけていったら、支配人が丁重に、「原稿を書かれるご商売の方に、タダ原稿では申しわけない。原稿料代わりに、これをどうぞ」と、牛肉の佃煮を一箱下さった。

この自家製牛肉佃煮の欲しい方は、『味の味』に、私のこの原稿の一部を写し書きして、投稿なされば良い。〝盗作〟などと、不粋は申しませんから……。

とまあ、ここまで、牛やを賞めちぎりながらも、〝牛肉の牛や〟でありながら、登場するのはしゃぶしゃぶばかりで、スキヤキやビフテキは出てこないのには、深いわけがある。

ウチの大木ビルの隣、牛やから十メートルほどに、かつ由という店がある。

前経営者が、かつ由という屋号だったから、それを引き継いだだけで、別に、カツ専門店というわけではない。

前のかつ由時代にも、入ったことはなくて、美人というのではないが、スタイルが良くて、笑顔がチャーミングな、しかも着るものにセンスのある、いまのママになってからも、入ったことはなかった店だ。

新宿慕情 p.076-077 連れの男を良く良くみればナントかつ由のチーフ

新宿慕情 p.076-077 顔見知りになっていたそのママが、若い、どちらかといえば、年下の感じの男と同伴で、バッタリ、牛やで出会ったものである。
新宿慕情 p.076-077 顔見知りになっていたそのママが、若い、どちらかといえば、年下の感じの男と同伴で、バッタリ、牛やで出会ったものである。

ママが揚げたカツ

それがある日。顔見知りになっていたそのママが、若い、どちらかといえば、年下の感じの男と同伴で、バッタリ、牛やで出会ったものである。

「やあ」

「まあ!」

こちらは、〝見てはならぬ〟ものを見てしまった感じ。あちらは、〝誤解しないで〟といった感じの、照れ臭げな挨拶があったあとで、連れの男を良く良くみれば、ナント、かつ由のチーフではないか。

——ホホウ?……。

そんな思いが、私の脳裡をよぎった。

店にこそ、あまり行かなかったが、この〝可愛いタイプ〟のママが、私と同じ岩手県は盛岡市の出身で、小学校が私の後輩の、県立女子師範の付属、と、知って、少なからぬ関心があったのである。

店には行かなかったが、出前の弁当などは、チョイチョイ取っていた。カツ弁だ。

締め切り前夜のこと。十名ほどが残業していて、夜食を取る段になった。カツ弁を発注したが、私は、フト、カツ丼が食べたくて、追っかけ電話して、カツ丼に訂正すると、ママは「丼がない

からムリ」という。

「ナニ、弁当重で充分だよ。メシの上に、玉子でトジたカツを並べればいいんだから……」と強引に注文してしまった。

十五分ほどして、ママから私に電話がきた。

「卵が足りないからダメ」という。止むなくカツ弁で我慢することにした。

そして、また三十分ほどたって、十個ほどのカツ弁を、ママと店の女の子とで、出前してきたが、ママが泣き顔なのだ。顔を合わせないようにしている。

「ママ、ナニ泣いてんだい?」

と、冗談半分にきくと、ママはオロオロ声で答えた。

「私は、お店をやってんだから、お客さんの希望だから、カツ丼を作って、と、チーフに頼んだの……。するとチーフは、『一人前のコック

が、カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める』と、ケンカしてしまったのョ……。チーフに辞められたら、もう、あのお店はおしまいよ。このカツは、アタシが揚げたのだから、お口に合わないかも……」

もう、涙声で、語尾もさだかではない。

(写真キャプション)ラステンハイムなどと気取ったが、また逆もどり