投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.068-069 サツ廻りを卒業して共産党担当記者へ

読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。
読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。

こうして「読売新聞シベリア特派員」の取材が始まり、「シベリア印象記」という、初の署名原稿が生まれたことは、前に書いた通りである。

この記事は、その日の記事審査日報で、けっこう褒められたのだった。「この方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上で、シベリアの一部分だけの面であるが、しかし、限定されているだけに、内容が詳しく、かつ、新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では、読ませる紙面となった」

社内でホメられるだけに、外部に与えた印象も、相当なものだったらしい。私の記事が昭和二十二年十一月二十四日付。これに対し十二月二十六日付の「労働戦線」(全日本産業別労働組合会議機関紙)は、第三面トップに、駐日ソ連代表部・対日理事会ソ連代表のキスレンコ中将の、「職業的ウソツキ」という、コメントを掲載した。

《たとえば、つい最近、読売新聞前記者ミタ・カズキの記事であるが、この職業的なウソつきは、ソ同盟の人びとは、「クギ抜きの道具の使い方を知らない」とか、「ライターなるものを見たことがない」と、馬鹿げた話を書いている。

彼はおそらく、気狂いだけに、真実といって示せるような、馬鹿げた断定を、行っている。このようなデマ製作者は、ソ同盟にある機械や自動車の大部分が、アメリカの製品だともいっている》

こうして、私は、〝反動読売の反動記者〟というレッテルを、左翼陣営からはられたのであった。

そして、サツ廻りに出されると、担当が、日本橋、上野、浅草、谷中、坂本の五署だったが、やはり、上野署が中心。その上野駅に引揚列車が着くたびに、「代々木の共産党本部へ行こう」という、アクチブ(軍事俘虜のなかの積極分子)のアジに、出迎えの家族との間で、トラブルが起きはじめた。

この現象を、竹内社会部長に報告して、私は、サツ廻りのクセに、代々木の党本部まで取材に行き、「代々木詣り」という新語の記事を書いた。

私はいつの間にか、サツ廻りを卒業して引揚記者となり、共産党担当記者へと、成長していった。当時、警視庁では、捜査二課三係が日共担当で、私は、警視庁クラブ員ではなかったが、三係長の鈴木広次警部とも親しくなり、クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。

参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。

私の取材範囲は、特別審査局(のちの公安調査庁)にまで広がった。もう、一人前の公安記者に成長していた。

平成元年七月八日の土曜の夕方、内幸町のプレスセンタービルの十階アラスカで、朝日紙の岡崎文樹・元社会部記者の、「遺稿集・至福の花」の出版記念会が催された。

読売梁山泊の記者たち p.070-071 読売の映画演劇記者だった河上英一

読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」
読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」

平成元年七月八日の土曜の夕方、内幸町のプレスセンタービルの十階アラスカで、朝日紙の岡崎文樹・元社会部記者の、「遺稿集・至福の花」の出版記念会が催された。

学友、戦友、社友の、親しかった人たちの集いだったが、朝日カルチャー・センターで文章指導教室の講師をしていたこともあって、その〝教え子〟ともいうべき中高年の女性たちの姿も多かった。

そのなかで、元社会部記者は、ホンの数人しかいなかった。まして、他社では、私と、東京新聞から電通にいった新貝博の二人だけ。幹事の伊藤牧夫(朝カル社長)、小池助男と四人の社会部が、岡崎を偲んで、〝古き良き時代〟ともいうべき、昭和二十年代、三十年代の、社会部記者・談義に、花を咲かせた。

助サンこと小池は、司法記者クラブ時代の朝日記者。もうひとり、相沢早苗という、朝日記者がいた。私より、二人とも、少し先輩だった。

相沢も、小池も、司法クラブでは、敵方であったが、仕事を離れたら、良い男たちである。ことに、相沢は〝恋仇〟でもあった。

というのは、戦前の児童演劇仲間に、有馬正義という慶応の学生がいた。私が世田谷代田、彼が池の上と、家も近かったので、その自宅に、よく遊びに行った。

彼の妹の、恵美子という女性が、日劇ダンシングチームにいて、ひそかに、想いをよせていたのだったが、シベリアから復員してみたら、相沢と結婚していたのだった。

彼女は、戦争の拡大とともに、日劇を辞めて、朝日新聞に入り、相沢と知り合ったようだ——が、敗戦から、丸二年も遅れて、復員してきたので、戦前に知っていた女性たちはみなもう、人妻になっていた。

また、同じころ、新宿の呑み屋「利佳」で、読売の古い映画、演劇記者だった、河上英一に会った。八十歳だというのに、お元気である。

児童演劇のチラシをもって、読売の河上、都新聞(現・東京新聞)の尾崎宏次両氏のもとに、良く出入りしていた。私が、読売に入社して、社内でバッタリと河上に出会ったことがある。

「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」

河上は、連れの阿木翁助(日本放送作家協会理事長)に、この話をして笑った。それから、戦前の、演劇青年たちのメッカであった、新宿のムーラン・ルージュの話が、始まった。阿木は、その座付作者だったから。

いまでも、記憶が鮮やかな、スターの明日待子。ワンサだったけど、憧れていた、市川弥生、五十鈴しぐれ…。

「あの市川弥生が、文芸部の金貝象三と結婚していたのは、ショックでした。それと、新協劇団の清洲すみ子が、村山知義夫人でしたからね」——戦時下に、少年が恋心を寄せた麗人たちは、みな、シベリアから帰った時には、結婚してしまっていたものである。

伊藤とは、昭和三十二年の売春汚職事件でのライバルである。市川房枝女史と、紀平悌子秘書(現参議院議員)の争奪戦を展開していた仲である。そのころ紀平と、弟の佐々淳行(元内閣安保室長)の三人でよく銀座を呑み歩いたものだ。

読売梁山泊の記者たち p.072-073 取材力と表現力は車の両輪

読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。
読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。

東京新聞の新貝とは、警視庁記者クラブの友人だ。だが、聞いてみると、岡崎とは、白金小学校の同窓だという。すると、完全なヨソ者は、私だけということになる。

私と新貝とが、岡崎の想い出話を話し合っていたら、傍らのレディが二人、「岡崎先生とは、どういうお知り合いで? 朝日新聞の方ですか」と、話題に入ってきた。

「私は、娘も嫁いで、階下に娘夫婦、二階に私一人という生活なので、文章が上達すればと、岡崎先生に教わっていたのですが、六十の手習いで、なかなか…」

それに対して、新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私も、中学二年の時に、築地小劇場の楽屋で清洲すみ子に、「風とともに去りぬ」の初版本を貸してもらった。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。

同じように、毎日社会部記者から独立して作家になった、千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。

文章力というのは表現力である。しかし、新聞記者に求められるものは、同時に、表現力のもとになる、取材力である。取材力と表現力は、車の両輪に例えられる。

明治時代の〝新聞記者〟像は、「探訪」と「戯作者」の分業制である。探訪は、取材担当で、戯作者が表現担当だ。そして、その名残りは、昭和二十年まで、尾を引いて、古い記者には、どちらかしかできない、という人たちが多かった。

取材力というのは、対人的には、心理作戦である。大きな疑獄事件などが起きると、必ず新聞は、○○検事は、被疑者××をオトシた(自供させた)などと、見ていたように、若い検事と、老練な政治家や財界人との、調べの様子を書いたりする。

「新聞(記者)は、見てきたような、ウソを書き」という川柳がある。しかし、自分の取材体験を下敷きに、検事の片言隻句の話から、調べ官と被疑者の対話が、ある程度はイメージがつかめるのである。

リクルート事件が終わった時、東京地検特捜部の堤副部長が、仙台地検の次席に転出した。堤検事は、リ事件の端緒となった、楢崎弥之助議員への贈賄容疑の松原弘の、係検事だった。松原が、とうとう全容を自供しなかったので、堤副部長の転出は、左遷だというもっぱらの噂である。

対人的に、取材力とは心理戦争だ、というのは、相手に、真実をしゃべらせられるか、どうか、ということだからである。

対物的には、広く浅く(深いにこしたことはないが)、森羅万象に通じていること。つまり、話の裏付けになる証拠を、探し出してくることもできる、基礎知識である。「そういうもの」が、どこにいけば、入手できる可能性があるか。だれにきけば、どうすれば、いつならば…と、新聞記事の基本である、五W・一Hと同じことを、予見できる能力である。これが取材力である。そしてあとは、その運用、つまり、場数(ばかず)を踏むこと、経験の蓄積である。

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ち

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」
読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」

私の初の署名記事、「シベリア印象記」とそれに反論した、キスレンコ中将のコメントとで、私は、たちまち、〝反動読売の反動記者〟として、名前が売れてきた。

いま、スクラップをひろげてみると、まず読売系の雑誌、「月刊読売」には、毎月のように、セミ・ドキュメンタリーとして、ソ連物から、共産党物にいたるまで、〝小説もどき〟を書いている。

「読売評論」から、「科学読売」にいたるまで、さらに、講談社の「キング」「講談倶楽部」から、「モダン日本」「夫婦雑誌」「探偵倶楽部」とつづく。

ことに、当時の国家地方警察本部の、村井順警備課長の推せんで、警察大学で講演したので、警察図書の立花書房の、「月刊・時事問題研究(警察官の実務と教養)」に、毎月書くようになった。

「モダン日本」の編集部には、若き日の吉行淳之介がおり、私の「赤色二重スパイ」という、原稿の担当であり、双葉社の編集には色川武大がいたりした。

村井順は、のちに、緒方竹虎に信任されて初代の内閣調査室長。退官後は、総合警備保障を創立して、社長となった。警備会社の草分けである。

こうして、警備公安畑で名前が売れてきたうえ、一年の法務庁(のちの法務省)での、司法記者クラブ詰めから、公安検事に人脈ができてきた。

吉河光貞検事が、初代の特別審査局(特審局、のちの公安調査庁)長となった。調査第一課長が吉橋、第二課長が高橋の両検事が、その下にいた。

そのころのことである。吉橋課長が、ある時、真顔でいったものである。

「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。私のほうで入手した文書によると『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている。どの段階での指令とかどんな文書か、などという、具体的なことはお話できないが…」

「ありがとうございます。十分に気をつけるようにいたしましょう」

吉橋検事は、私が、あまりビックリしないのが、やや不満そうであった。

また、岡崎文樹の話に戻るが、さる六十二年一月、前年暮れの定期検診で、右肺門部に異常を発見して、精密検査のため、彼は、息子のいる名古屋記念病院に入院した。六時間近い手術を受け、二月十日に退院してきた。

三月ごろのことだったろう。日刊スポーツの編集担当役員として、職場復帰していた彼と、銀座のクラブで、ゆっくり話し合ったことがある。その時、彼は、すでにガンと知っており、長くはない生命と覚悟していた。

その日の話は、華やかに嬌声のこぼれるクラブだというのに、淡々と、ふたりは「死生観」について語っていた。同じ戦中派として、一度は死を覚悟した体験を持つ。

「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ちは、諦観というべきか、達観というのか。いずれにせよ、安定した精神状態である。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。

読売梁山泊の記者たち p.076-077 悔いのない〈死〉

読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。
読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。

と、教誨師が、最後のザンゲにやってきてキャグニィに頼みこむ。「あなたは、不良少年たちのヒーローなのだ。電気椅子に座る時平然としていないでくれ。泣きわめき、のた打ちまわって、叫んでくれ。ヒーローの哀れな末路が、彼らの更生のためにもプラスになるから」と。

キャグニィの悲惨な〝末路〟を、映画はシルエットで映し出し、立会人たちは、失望感をあらわにする。

岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。〝赤色テロ〟の合法的抹殺! それも、仕事のためであるなら、悔いのない〈死〉である。

朝日の岡崎だけでなく、毎日の岩間一郎・社会部記者のことも、書いておきたい。

昭和六十二年八月十一日付号の正論新聞には、同年七月十三日の岡崎と、八月十二日の岩間の二人が、ガンで亡くなった記事が、出ている。岩間は、司法記者クラブの仲間だ。

岩間は、七月二十日付のハガキを寄越して「…七月十二日に退院しました。また、放談できる日を期しております」と、元気な、見馴れた文字で、書いていたのだった。

岩間とは、呑む機会を得ぬまま、逝かれてしまったが、岡崎とは、その機会があった。だからこそ、「死生観」についても、語りあえたのであった。

兵役、戦争、敗戦、捕虜、帰国、復職と、足かけ五年にわたる、大きな人生の起伏があったのだから、「死」についても、やはり、それなりに考え方が出てこよう。

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

読売梁山泊の記者たち p.078-079 元旦の夜から徹夜マージャン

読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。
読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

いい仕事、いい紙面だけが勝負

昭和二十年。敗戦とともに、戦時中の新聞統合は崩れたが、新聞用紙は割り当て配給制だ。各紙同じスタートラインなので、戦前の〝朝毎〟時代は終わったか、と思われたが、やはり、朝・毎は強かった。

私は、昭和二十年代を、朝日・毎日時代と見る。昭和二十七年、大阪読売を発刊して、おくれ馳せながら、全国紙体制を整えた読売が加わって、昭和三十年代は、朝・毎・読の三紙並列の時代。

そして、昭和四十年代が、毎日が凋落して朝日、読売、毎日の時代となり、同五十年代には、それが決定的になって、朝日、読売の二紙拮抗の時代。さらに、六十年代になると読売・朝日の時代へと進んでゆく。

その、読売の飛躍のバネを、私は、前に〝読売の非情さ〟と、指摘した。私が、昭和十八年に、読売を撰択した根拠は、多分、朝毎に対し、追いつき、追いこせの、バイタリティあふれる、読売にひかれたのであろう。

読売には、学閥がない、派閥がない、と聞いていたからでもあろう。いうなれば〝荒野の七人〟だったのである。事実、昭和二十二年、シベリアから復員してきた私が、読売社会部に復職してみて、その〝雑軍〟ぶりに驚いたものであった。

経歴不詳、前職不明。文字通りの〝エンピツやくざ〟が、社会部記者と称していたのであった。明

治時代の新聞記者が、役者の〝河原乞食〟と同列に、「探訪」と「戯作者」に分類され、「職業の貴賤」のうちの、「賤」に位置していたことを、ほうふつとさせるものがあった。

社会部記者の華は、〝金と酒と女〟の結果の「事件」であった。だから、当時は、原稿の書けない記者が、ゴロゴロしていた。それでも、〝金と酒と女〟とに原因する事件だけは、嗅ぎつけてくるのだ。

その、〝エンピツやくざ〟百名を統轄する社会部長が、〝やくざ〟さながらの、府立五中、慶大卒の竹内四郎であった。竹内ならでは、あの〝梁山泊〟そのままの社会部を、率いることは、できなかったであろう。

正月には、逗子の竹内家に、社会部員が連日やってくる。元旦の夜から、徹夜マージャンである。竹内部長は、部下たちから、容赦なく、賭け金を取り立てる。実際、強引な打ち方で強い。

部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

部下たちは、疲れ切って、東京に帰ってゆく。金がないから、社へ出て、取材費の前借伝票を書いて、デスクに出す。ポンとハンコを押す。編集庶務へ行くと、その伝票は現金になる。そこで、仲間同士で、大福帳の精算をする。

松が取れたあたりから、竹内部長は、「オイ、あの件はどうなった?」と、ハッパをかけ出すから、〝エンピツやくざ〟たちは、駈けずりまわらざるを得ない。

これが、昭和二十年代前半の、読売社会部のバイタリティだったのである。

読売梁山泊の記者たち p.080-081 ヒットのほとんどが辻本の作品

読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。
読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

そして、そのあとを継いだのが、文化人・原四郎である。戦後の混乱期も、ようやく安定化に向かいはじめていた。情に溺れず、能力だけを買う、原の施政方針は、いつの間にか、〝エンピツやくざ〟たちを、自然淘汰していったのであった。

昭和二十年代の、朝日・毎日時代から、三十年代の、朝・毎・読時代へと、二流紙読売を、一流紙に押し上げていった〝活力〟は、紙面では、竹内四郎の基礎造りと、原四郎の七年に及ぶ、社会部長時代、出版局長、編集局長という、二十余年の成果であった。

もちろん、業務面での、務臺光雄〝販売の神様〟との、両々相俟ったことは、いうまでもない。

だが、私が七年間も、部長として仕えながら、原四郎の家で、酒を呑んで騒いだ、という記憶がない。タッタ一度だけ、数名の仲間と、自宅へ行った記憶がある。

それは、当時としては、まだ珍しかった電話器の差しこみコンセントを見て、「ハハア、やっぱり、社会部長ともなると、電話器も最先端をゆくものだなァ」と、感心したことを覚えているから、だ。

だが、自宅へ行っても、竹内家のように、〝豪快な乱痴気騒ぎ〟ができなかったせいか「ハラチンの家は、ツマらん」ということになって、みな、行かなくなったのだろう。原自身は、決して、酒を呑まないわけではなかったのだが、ハメを外さない〝紳士〟然とした酒、だったのである。

原四郎は、社会部長になると、筆頭の森村正平から、四席までの次長を放出して、五席の羽中田誠を筆頭に、デスク陣の大幅な入れ換えを行った。

次長は、通称デスクと呼ばれ、六人が交代で、朝夕刊の紙面作りをする。常時、デスクはデスクにいて、記者を指揮し、原稿に目を通し、整理部、写真部、地方部などとの、連絡調整に当たる。社会部の実質的な責任者である。

部長は、次長を信頼することによって、その職務が遂行され、紙面が作られるのだ。次長の次には、警視庁、法務省詰めの主任(キャップ)がいて、さらに、警察記者のボスである通信主任が二人いる。これが、サツダネ(警察原稿)を処理する。

最近では、都内支局ができたので、その支局長が、主任の次に位置している。この役付き以下は、入社年月日順に並ぶ。

ある意味で、辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。若くして逝ったが、大阪生まれの大阪育ち。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

大阪弁で、すぐ、「アホラシ」を連発するので、愛称アホラシと呼ばれて、多くの記者たちに、尊敬されていた。

辻本が次長になると、俄然、頭角をあらわしてきて、原部長時代にヒットした、続きもの(連載・企画記事)の、ほとんどすべてが辻本のデスク作品であった。いままでの、読売社会部スタイルとは、まったく違っておりながら、政治、経済はもちろんのこと、国際文化、科学の領域にまで、社会部記事を読みものとして、総合的な立体的構成で、書きおろしたのであった。

読売梁山泊の記者たち p.082-083 ワシは新聞記者はキライだ

読売梁山泊の記者たち p.082-083 辻政信大佐に会わねばならない。早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。
読売梁山泊の記者たち p.082-083 辻政信大佐に会わねばならない。早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。

そのひとつに、昭和二十六年秋の「逆コース」というのがあった。

この年の九月八日、サンフランシスコで、対日平和条約の調印が、日本を含む四十九カ国で行なわれた。ソ連、チェコ、ポーランド三国は、調印を拒否した。発効は、翌二十七年四月二十八日。

岩波の「近代日本総合年表」によると、この講和の影響なのか、流行語として、「逆コース、BG、社用族」の三つがあげられている。その「逆コース」という題の、続きものである。辻本の、本能的なニュース・センスが、そうさせたのであろう。

その、第二十一回に、私は、「職業軍人」というテーマで、参加している。

当時の私の記事にあるように、やはり、旧軍の参謀たちが、政治家のブレーンになって日本の政治に、大きな役割を果たしていたのである。現実に、中曽根のブレーンには瀬島竜三・中佐参謀が、いまも、生き残っているではないか。

瀬島が、シベリア帰りであるように、私は、幻兵団の取材を通して、多くの旧軍参謀たちに面識があり、交際もあって、事情に通じていたのだった。

辻本次長は、「逆コース」の成功に気を良くして、二十七年二月、講和条約の発効を控えて、日本の再軍備問題を批判する続きもの「生きかえる参謀本部」を、スタートさせたのである。私も、もちろん、辻本チームの一員である。そのためには、辻政信大佐に会わねばならない。

早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。辻政信に会うのは、おお事だ、とは聞いていたが、これが、それを意味して

いるのだ、と悟った。

だが、この木札一枚で、そのまま引っ返すほどなら、新聞記者はつとまらない。私は、門をあけ、玄関に立った。日本風の玄関は明け放たれて、キレイに掃除してある。二月の早朝だというのに、である。

「ごめん下さい」

「どなた?」

玄関のすぐ次の間から、本人らしい声。

「読売の社会部の者ですが…」

「ワシは新聞記者はキライだ。会いたくないから、チャンと門に書いておいたはずだ」

声はすれども、姿は見えずだ。辻参謀はチャンとそこにいるのだが、一向に現われない。

「しかし、御意見を伺いたいのです。ことに日本独立後の再軍備問題なので、是非とも、お目にかかって、親しく、御意見を伺わねばなりません。再軍備問題は、するにせよ、しないにせよ、新聞としては当然、真剣に、読者とともに考えるべきものです」

「よろしい、趣旨は判った。しかしワシは新聞記者がキライで、会わないと決心をしたのだから、会うワケにはいかん」

「いや、会って下さい。私も一人前の記者ですから、それだけの理由で、敵陣に乗りこみながら、みすみす帰るワケに行きません。それでは、出てこられるまで、ここで待っています」

読売梁山泊の記者たち p.084-085 毎朝七時にここに来い。一カ月だ

読売梁山泊の記者たち p.084-085 「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、「ナニ? 将校斥候だと?」
読売梁山泊の記者たち p.084-085 「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、「ナニ? 将校斥候だと?」

私も突っぱった。向こうも、こちらも大声である。畜生メ、誰が帰るものか、と、坐りこむ覚悟を決めた。

「ナニ? どうしても会う気か」

「会って下さるまで待ちます」

「ヨシ、どんなことでもするか」

「ハイ」

「では、毎朝七時にここに来い。君がそれほどまでしても会うというのなら、会おう。毎朝七時、一カ月だ」

「判りました。それをやったら、会ってくれますね」

そう返事はしたものの、私はユーウツであった。朝早いのには、私は弱いのである。毎朝七時に、この荻窪までやってくるのは、大変な努力がいる。しかし、読売の記者は意気地のない奴、と笑われるのもシャクだ。

——一カ月通ってこいだと?

——このガンコ爺メ!

舌打ちしたいような気持だったが、猛然と敵慨心がわいてきて、どうしても会ってやるぞ、と決心した。仕方がないから、社の旅館に泊まりこんで、毎朝六時に起き、自動車を呼んで通ってやろう、と思った。

その夜、旅館のフトンの中で考えた。一カ月といったら、続きものが終わってしまう。何とか手を打って、会う気持にしてやろう、と思った。

翌朝、眠い眼をコスリながら、七時五分前に門前についた。時計をニラみながら、正七時になるのを待った。私にはひとつの計画があった。

正七時、私はさっそうと玄関に立った。すでに庭も玄関も、すべて掃き清められているではないか。老人は早起きだ。

「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」

私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。

すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、

「ナニ? 将校斥候だと? 将校斥候がきたのでは、敵の陣内まで偵察せずには、帰れないだろう。ヨシ、上がれ」

「辻参謀は、そういいながら玄関に現われた。私は、自分の計画が、こう簡単に成功するとは、考えていなかったので、半ばヤケ気味の大音声だった。だから、計画成功とばかり、ニヤリとすることも忘れていた。

寒中だというのに、すべて開け放しだ。ヤセ我慢していると、火鉢に火を入れて、熱いお茶を入れてくれて、じゅんじゅんと語り出していた。

私の感想では、当時の二大アジテーターが、日共の川上貫一代議士(注=岩波年表によれば、26・ 1・27、共産党衆院代表質問で、吉田首相に対し、全面講和と再軍備反対を主張して、懲罰委へ。3・26、除名を決定、とある)と辻参謀だ、と思う。

読売梁山泊の記者たち p.086-087 〝強い者に強い教育〟をする

読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。
読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。

私の感想では、当時の二大アジテーターが、日共の川上貫一代議士(注=岩波年表によれば、26・

1・27、共産党衆院代表質問で、吉田首相に対し、全面講和と再軍備反対を主張して、懲罰委へ。3・26、除名を決定、とある)と辻参謀だ、と思う。川上流は、持ちあげて湧かせて、狂喜乱舞させてしまうアジテーション。私は、彼の演説を聞くたびに、記者であることを忘れて、夢中になって拍手してしまうほどだった。

辻流は、相手を、グッと手前に引きよせて静かに、自分のペースにまきこんでしまう、対照的な型である。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上もそれこそ、じゅんじゅんと語った。

「マ元師はもはや老朽船だ。長い間、日本にけい留されている間に、船腹には、もうカキがいっぱいついてしまって、走り出そうにも走れない。このカキのような日本人が、たくさんへばりついているのだ…」

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実におもしろく、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかも、ハッキリといい切っている。

私は、その原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実におもしろい」と、感心している。後に聞いたところでは、原は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと、企画したらしい。

「あのような、激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に、眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は、社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

そんな「原四郎の時代」が、順調にすべり出してゆくのには、決して、平坦な道のりでなかったことは、古いタイプの社会部記者、遠藤美佐雄の、「大人になれない事件記者」という、絶版(正確には断裁)になった単行本が、詳しく述べている。思いこみの激しい人だっただけに、真偽半々の内容ではある。

原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。

くどくどと、取材の意図や狙いなど、記者に説明はしない。従って、弁解も、取材ができなかった理由など、聞く耳はもたない。

新聞記者は、「結果」だけなのである。その「結果」は、紙面の記事で、報告は不要なのである。つまり、〝強い者に強い教育〟をするのである。優勝劣敗。敗者には、口も利かなければ、声もかけない。

だから、「ハラチンは冷たい男だ」という、評価も出てくる。だが、朝夕刊の紙面を読んで、記事審査委員会に出ると、部下の記事は、十分に弁護してくる。

部長の意に満たない記事で、記者に小言は垂れない。デスクを叱るだけだ。と同時に、その記者は、もう、見捨ててしまう。伸びる力のある記者だけを登用する。

私生活や、勤務時間や、出勤時間や、提稿量。さらには、取材費の使いっぷりや、自動車の使用状況など、いうなれば、紙面での結果以外のことには、管理者らしい発言は、一切しなかった。いい仕事をして、いい紙面を作れれば、そんなことは、まったく、枝葉末節、という「部長」であった。

読売梁山泊の記者たち p.088-089 なんかコンタンがあるンだナ

読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。
読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。

その点、前の社会部長の竹内四郎の、いわゆる親分肌とは、対照的であった。竹内は、正月はもちろんのこと、日曜日など休日には自宅に部下を集め、豪勢な料理を振る舞い、ともに酒を呑み、麻雀卓を囲んで、徹夜することも、辞さなかった。

来る者は、誰でも拒まないし、一視同仁であった。

カラ出張とねやの中の新聞社論

こんなこともあった——ある日の、ある夜のこと。どうして、そうなったのかは、もう記憶にないが、向島の待合で「君福」という店がある。

私の、すぐ上の兄が、慶応の経済を出て、カネボウに入社し、墨田工場の庶務係長をしていた。当時、イトヘン景気の最中で、この待合を良く使っていたようだ。私も、お相伴で、何回か行き、女将を良く知っていた。もう兄は工場にいなかったが、若い記者たち十名ぐらいが、この店でワイワイと、酒を呑むことになってしまった。

さて、夜も更けてくると、首謀者のひとりである私は、店の支払いのことが、気になり出していた。その夜、その席に、だれとだれがいたのか、定かではないが、二、三人と相談して、私がカラ出張をしよう、ということになった。

このカラ出張の伝票に、ハンコを押してくれるデスクが必要である。もう、十二時ごろだったろうか。社に電話して、朝刊担当のデスクをきくと、ナカさんだ、という。

羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。

山本五十六元師の国葬の記事で、読者の涙を誘った、という〝伝説〟の主で、部員のだれからも愛されていた。

「向島の料亭で、みんなで飲んでいるのですが、朝刊のメドがついたら、来ませんか。芸妓はいないけど」

「ウン、なんか、コンタンがあるンだナ」

「ハア、伝票を、ひとつ…」

「ウン、分かった。あと一時間ぐらいだ」

なにしろ、原部長の筆頭次長である。夜中でも、編集庶務からは、すぐ現金が出る。私は、車を飛ばして社へ上がった。「九州出張・○○取材調査のため」という伝票に、五万円と書きこみ、ナカさんのハンコを押した。

宿直で寝ていた庶務を起こし、現金を握って向島へ帰ってきた。全員、ワッと歓声をあげて、とうとう、ナカさんを囲んで、朝まで呑んでしまった。

サテ、それから一週間。私の苦しい生活が始まった。待合の支払いが、それで足りたのか、足りなかったか、その記憶はない。だがともかく、私は社へ顔を出せないのだ。

当時、編集局には、夕方になると、菓子やすし、タバコなどを背負ったオバさんが現われて、編集

庶務に店を開く。それがツケだ。タバコは洋モクで、私は、ラッキー・ストライクだけだった。

読売梁山泊の記者たち p.090-091 〝剛腹なる社会部長〟

読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」
読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」

当時、編集局には、夕方になると、菓子やすし、タバコなどを背負ったオバさんが現われて、編集

庶務に店を開く。それがツケだ。タバコは洋モクで、私は、ラッキー・ストライクだけだった。

食事は、中華の楽天というのがあり、これもツケ。つまり、私の生活の根拠地は、読売編集局であり、勤務の宿直以外なら、赤坂に社の指定旅館で「奈良」というのがあって、そこにも泊まれるのだが、出張中だから、社に寄りつけない。タバコも食事も、ツケが利かないのだから、生活に窮してしまう。

ようやく、一週間がすぎて、私は、社に上がっていった。原の性格が分かっているのだから、報告はカンタンでいい。

「部長、九州は…」

ハラチンは、私を見て、終わりまでいわせずに、こういった。

「ダメだった、のだろう?」

私は、二の句がつげなかった。ハアと、間の抜けた返事をしただけ。幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。

その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。

「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」

これは、羽中田から聞かされた。

「バレていたんですネ。で、ナカさんには、なにかオトガメがありましたか」

「イヤ、おれには、なにもいわないけど、すっかりバレているようだナ」

カラ出張でのドンチャン騒ぎが、すっかりケツが割れてしまっても、原の対応は、こんな調子だった。そして、二カ月ぐらいの間、私は、まったく無視されて、部長から、一回も声がかからなかった。

なかなかどうして、原四郎は〝文弱の徒〟ではなかった。〝剛腹なる社会部長〟と、評するべきであった。

〝剛腹〟といえば、ナカさんも、ナカナカの人物であった。その酒好きの故に、筆頭次長でありながら、当番デスクの時、泥酔していて仕事にならないことも、間々あった。だがポカをしないし、必ず、だれかが、助っ人を買ってくれるのである。

「三田、あの件の打ち合わせをしよう」

夕刊デスクは、締め切りが過ぎると、中番デスク(夜になって出てくる、朝刊デスクとのつなぎデスク)に、あとを頼んで、私を誘って外へ出る。

喫茶店にでも入って、打ち合わせするのかと思うと、オット、ドッコイ。三河屋酒店の立ち呑みで、夕方の四時ごろから始まる。

もちろん、ほんとうに、〝仕事の打ち合わせ〟なのだから、兵隊のこっちは、逃げるわけにもいかない。

向島のカラ出張がバレてから、一カ月ぐらい過ぎたころだったろうか。

「三田クン、伝票切って、すぐ福島へ行ってくれ。あの件だ」

「…でも、ナカさん。私は、出張禁止中の身ですから…」

読売梁山泊の記者たち p.092-093 次席次長は長谷川実雄

読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い戦前からの社会部記者は、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。
読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い戦前からの社会部記者は、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。

向島のカラ出張がバレてから、一カ月ぐらい過ぎたころだったろうか。

「三田クン、伝票切って、すぐ福島へ行ってくれ。あの件だ」

「…でも、ナカさん。私は、出張禁止中の身ですから…」

「バカヤロー! ハラチンはナ、『箱根から西へ出張させるナ』という、命令だ。福島は箱根から、コッチだぞ!」

ナカさんは、ニヤリと笑う。既成事実で、出張禁止を解除してやろう、という、親心なのであった。剛腹の下に文弱なし、だった。

次席次長は、長谷川実雄。ついこの間まで巨人軍代表だったので、最後まで、マスコミに登場していた人だ。私が、シベリアから生還して、読売に復職した当時は、労働省詰めで労働班長だった。

古い、戦前からの社会部記者というのは、どちらかといえば、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。

そんな時代でも、高木健夫、森村正平(竹内部長の筆頭次長。のち報知編集局長で没)長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。私が、安藤組事件で読売を退社する決心を、最初に相談に行ったのも、婦人部長になって、すでに社会部を離れていた、長谷川の家であった。

だから、百人近い社会部員は、筆頭次長の羽中田の人徳によって、原への不平不満を解消させられ、実務家の次席・長谷川の指導下に、いわゆる〈社会部帝国主義〉に、団結させられていた、というべきだろう。

そして、原・社会部は、戦前型の社会部記者を淘汰しつつ、「社会部の読売」時代を築き上げていった。そこには、原の透徹した時代感覚が、〝社会部は事件〟から脱皮し、政治、経済、国際、文化、科学と、全天候型・社会部記者の育成へと、眼を注がせていたのであった。

いまでは、もう、すっかり〝いいお爺ちゃん〟になって、静かに、余生を愉しんでおられるので、仮名でP氏としておこう。

このP、私の警視庁クラブ時代のキャップで、若いころは、私など、足許にも寄れないスクープ記者であった。彼もまた、原四郎のもとで、花開いた男のひとりであろう。

「東京祖界」以前に、読売社会部は、新宿粛正キャンペーンをやり、「第一回菊池寛賞」受賞の理由も、「暗黒面摘発活動」とされているので、このPがキャップとして働いた、新宿摘発以来の実績が、認められた、というべきであろう。

このPの〝過去〟も、なかなかのものであった。銀座のクラブホステス〝 オシゲ〟との、色恋沙汰は、読売の警視庁キャップとしては、目を覆わしめるものがあった。

国立音大の学生であったオシゲは、クラブホステスのアルバイトをしていた。私の兵隊の同期生で、東京銀行に勤務していた小倉正平(故人)という男がいた。オシゲは、この小倉にホレていたらしい。しかし、銀行員である。

どこで、どうした機会があったのか、いまは、もう忘れてしまったが、小倉と呑みに行った時、私が、世田谷区の梅ケ丘に住んでおり、彼女が、ほど近い代田二丁目に下宿していたので、銀行員に見切りをつけ、新聞記者に、乗り換えたのであった。

昭和二十年代の後半。前半の帝銀事件、三鷹事件、下山事件、寿産院事件などのあとだから、警視庁の主流は、コロシ、タタキである。それのボスが刑事部長だ。

読売梁山泊の記者たち p.094-095 なにしろ酒乱のオシゲ

読売梁山泊の記者たち p.094-095 刑事部長の仕事~は七社会の〝操縦〟であった。古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。その店に、オシゲがいたのである。
読売梁山泊の記者たち p.094-095 刑事部長の仕事~は七社会の〝操縦〟であった。古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。その店に、オシゲがいたのである。

のちに、岐阜二区から代議士に出てきた、古屋亨が刑事部長。当時、警察と新聞は、土建屋の談合にも似て、ある時は癒着し、ある時は対立した。下山国鉄総裁の死をめぐる、朝日、読売の他殺説と、毎日の自殺説の対立は、東大対慶大の両法医学教室の対立ばかりではなく、警視庁内部の、捜査一課と捜査二課との対立による、新聞社のニュースソースの対立だった、という時代である。

警視庁七社会——警視庁記者クラブの名称である。朝日、毎日、読売、東京、日経、時事新報、共同通信の七社で組織されていたので、そう呼ばれていた。

刑事部長の仕事に、大きな比重を占めていたのは、この七社会の〝操縦〟であった。つまり、七社のキャップと、〝懇談〟と称して仲良くなることであった。クラブ員とキャップとは、鉄の規律で縛られていたから、キャップを握っておくことが、肝要であった。

私は、昭和三十年に警視庁クラブを下番して、通産省の虎ノ門クラブに移る。ここは、経済部が主流で、社会部、地方部、政治部から、記者がきている。ところが、社会部は別格なのである。

東京電力、東京ガス、自転車振興会が、それぞれに、社会部記者と〝懇談〟したがる。東電は停電つづき、ガスは値上げつづき、自転車は競輪をスタートさせよう、というのだから、記者の筆先きで、世論が動くのだ。

東電では、平岩総務課長、那須総務係長が接待の主人公役。ガスでは、安西副社長が出てくれば、神楽坂の「松ヶ枝」で、総務課長あたりでは、小待合を使う、といった工合だった。…私の、貴重な人脈である。

同じように、古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。

その店に、オシゲがいたのである。当時はすでに私とオシゲとは、切れていた。なにしろ、酒乱のオシゲである。読売が、いまのプランタンの位置に、本社を構えていたころ、深夜の編集局に、酔ったオシゲが現れて「三田はどうしたッ」と、わめくのだから、切れないほうがオカシイ。そして、私が警視庁クラブに移ったので、オシゲの編集局急襲も途絶えていた。

新入店のオシゲの前に、警視庁のキャップ連中が現われたのだから、彼女にとっては、干天の慈雨というべきだろうか。正面玄関にはふたりの警官が立っているにもかわらず、オシゲの〝七社会急襲〟が始まった。

こうして、中年の社会部記者と、ソプラノ歌手志願の若いホステスとの、〝色恋〟がスタートした。蛇足ながら、私の信条は「覆水盆にかえらず」なのだから、これは、Pキャップのことである。

ほとんど、同棲同様だったのではあるまいか。Pは、目立ってやつれてきて、やがて別れがきたようだ。伝聞の形をとったのは、私が、事実を確かめてはいないからだ。

しかし、Pは、この〝色恋〟を、仕事には影響させてはいなかった。このあたりが、読売社会部の〝誇るべき伝統〟なのか。もちろん、部下である私に、オシゲの〝前夫〟としての、態度の変化もなかった。

読売梁山泊の記者たち p.096-097 オシゲの新聞記者遍歴

読売梁山泊の記者たち p.096-097 女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。
読売梁山泊の記者たち p.096-097 女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。

原四郎の〝仕事一本槍〟の方針は、酒と女と金という、社会部記者の仕事の〝原点〟について、たとえ、一時的に、それに溺れることがあっても、それが、仕事に影響しない限り、小言のひとつもなかった。

いまの記者諸君には、信じられないかも知れないが、「金」の面では、惜しみなく、取材費伝票を切らせた。それが、仕事のためばかりでなく、呑み屋の支払いや、バクチの元手に使われることが分かっていても、伝票は切れたのだった。その代わり、それに見合う原稿が出せなければならない。

当時の、朝・毎への、追いつき追い越せの時代だったからでもあろう。外部からの、金の誘惑に負けさせない、ためでもあったかも知れない。

事実、〝酒〟も〝女〟も、Pにしても、私にしても、それが、社での出世や栄達や待遇に影を落とす、ということはなかった。それが、原のもとでの、有能な記者の輩出につながったのであろう。

話をもどして、Pと別れたオシゲは、どうなったか、について、書かねばならない。

Pであったか、私であったのか、それは定かではないが、〝別れた男〟のおもかげを求めて、オシゲの新聞記者遍歴が始まった。

昭和三十三年に社をやめてから、もうしばらく経っていた私にも、そのご乱行ぶりが聞こえてきたのだから、察しがつこうというものだ。記者たちと飲み歩きの果てには、明け方、警視庁クラブの長椅子に倒れこみ、クラブを我が家の如く振る舞う、とまで、噂されていた。

彼女の〝悲願千人記者斬り〟は、警視庁クラブの記者ばかりではない。明け方の朝刊〆切りまで起

きている、新聞社の編集局にまで乗ッこんでくるのだから、その日の風の吹き工合だ。こうして、私の先輩であるQ社長までが加えられた。

そんな時期に、私はオシゲと、銀座でバッタリと出会った。数年振りであったろう。彼女の〝回顧録〟に、私はテープレコーダーの用意をした。ひとりひとり、社名と氏名をあげて、彼女のその男の想い出が、綿密に語られてゆくのだ。

それは、単なる〝ネヤの追想〟ではなくて、彼女なりの批判が加えられ、新聞記者論から、その所属社の新聞社論、大ゲサにいえば「現代新聞論」そのものであった。だからこそ、私は参考資料として、記録を残すため、テープにとったのであった。

「読売の記者は、私がエライ人との寝物語でナニをいいつけようが、そんなことを気にしたり、他人の彼女だ、なんてことに、こだわりゃしない。女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。

一番数が少ないのが、毎日の記者。これはキャップの親しいバーで、だれがキャップの彼女だか、判らないから、遠慮するし、警戒するのよ。親分、子分の意識が強いのネ。据え膳にだって、自分の立場を考えて、盗み喰いさえしないのが、毎日よ。古いわねえ。

図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と、思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。

読売梁山泊の記者たち p.098-099 遠チャンこと遠藤美佐雄

読売梁山泊の記者たち p.098-099 原四郎は、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。
読売梁山泊の記者たち p.098-099 原四郎は、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。

図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と、思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。

オレは〝大朝日新聞の記者だ〟ッてのが、ハナの先にブラ下がってるの。アタシが他社の記者を斬ってきて、そのあとつづいて、朝日の記者を斬っているのに、マワシの二番煎じとも知らずに、〝朝日にイタして頂いて有難いと思え〟式なの。〝目黒のサンマ〟の殿サマは、裏返しにしたのを知ってて、オトボケするンだけど、朝日の記者は思い上がってるから、裏返しのパッというところが、読めないのねェ」

オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあってないし、その消息も聞かない。

遠藤美佐雄と日テレ創設秘話

原は、昭和三十年、朝日、毎日とともに出した、「読売新聞風雲録」(鱒書房)の編者として、社会部記者についてこう書いた。

《新聞記者のなかで、わけても、社会部記者という奴のなかには、変り者が多い。その変り者の多いなかで、またわけても、読売新聞の社会部というところには、豪傑、快物、異物、ウジャウジャと集るの慣しがあった。…いずれにしても、「読売社会部」というと、言葉の響きからして、ただ者の集りとは思えぬ感を、ブン屋と称する新聞記者どもの世界に、与えたという》

いま、「正論新聞」を、二十余年出しつづけて、自分自身を振り返りながら、「原四郎の時代」を点検してみると、原が、この時期に、豪傑、快物の次に、異物、という言葉を挿入していることは、極

めて興味深い。

というのは、前に述べた、「原四郎の時代」が、決して、平たんな道のりではなかった、ということを、裏付けているからだ。

その〝異物〟について、述べねばならぬ。

原四郎は、自分が社会部長として執筆した、「三面の虫」という項のなかで、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。

私は、その「異物」とは、敗戦後の激動の時代に生きた、読売の名物記者でありながら失意のうちに亡くなった、〝戦前派・社会部記者〟の旗手、遠チャンこと遠藤美佐雄であった、と信じている。

彼が、昭和三十四年に、森脇将光の森脇文庫から出版した「大人になれない事件記者」という本の内容から、そう判断しているのである。

その当時、森脇文庫は、「週刊スリラー」という週刊誌を発行していた。編集長は平本一方。元東京日々新聞記者である。ついでながら、元毎日新聞社会部記者で、作家の千田夏光、作家の川内康範、元「週刊アサヒ・ゴルフ」產報社長の中島宏(故人)、シナリオライター保坂清司らの、若き日のグループであった。

森脇将光。この、高名なる人物も、九十歳近い高齢と、病気で、刑の執行免除が、昭和天皇恩赦で

決定した、という。もう、〝昭和戦後史のスター〟も、過去の人となった。

読売梁山泊の記者たち p.100-101 日本テレビを創立させたのはオレだ

読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。
読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。

森脇将光。この、高名なる人物も、九十歳近い高齢と、病気で、刑の執行免除が、昭和天皇恩赦で

決定した、という。もう、〝昭和戦後史のスター〟も、過去の人となった。

東京地検特捜部、河井信太郎検事一派が摘発した、「造船疑獄」における「森脇メモ」で、河井検事に踊らされ、揚句の果ては、河井に逮捕された。やはり、当時の〝スター〟であった、吹原弘宣に大金を貸して、その取り立てをめぐって、三菱銀行長原支店から、三十億円を詐取した、というもの。

詐欺。私文書偽造、同行使。有価証券偽造同行使。恐喝未遂、法人税法違反、金利取締令違反——この数多い、公訴事実のため、晩年の森脇は、法廷闘争に追われる毎日で、一審は、懲役十二年、追徴金四億円の判決だったが、控訴審で一部無罪となり、懲役五年、追徴金三億五千万円。それが確定していたのだった。

森脇に随身していた平本も、共犯に問われて、懲役二年、執行猶予三年の判決で、すべて終わっている。あのグループのなかで、最初にペンを捨てた平本だが、いまは、それなりに、実業の世界で地位を築いている。

森脇は、本気で出版を考えたワケではなく、高利の所得隠しと、情報収集が目的だったのだから、読売を追われた遠藤の話を聞き、日本テレビ創立時のウラ話を本にしよう、と狙ったのだろう。

というのは、正力松太郎・読売社主の日本テレビ構想は、あまりの〝時代の先取り〟だったので、当時は、だれも資本を出そうとしなかった。

その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日

本テレビがスタートしたのだ。だが、やがて、保全経済会は当局の摘発を受ける。そうなると、力道山のプロレスと街頭テレビで、隆盛の道を進みはじめていた日本テレビは、保全が株主であることに、重荷を感ずるのは、当然であったろう。

最近でいえば、豊田商事が株主、ということになるだろうか。

と同時に、「日本テレビを創立させたのはオレだ」「正力のジイさまも、オレには頭が上がらない」と、吹聴して歩く遠藤が、読売や日本テレビの幹部には、うっとうしい存在になってきたのも、これまた、当然の成り行きであろう。

つまり、戦前のタネ取り時代、しかも三流紙の読売に入った人たちは、戦後の激動期に、そして、読売の興隆期には、去って行くか、適者生存の原則で、出世してゆくかの、どちらかであったのだ。

時代の変化に、ついてゆけるかどうかは、その人の、人間性ばかりではなく、能力の問題もあるのだった。その点、遠藤は、まちがいなく〝異物〟であった。日本テレビの創立当時の株式の問題があって、遠藤はなまじ〝江戸城の抜け穴〟を掘ってしまった大工だ。それを、グッとハラの中に納めるだけのチエがあったならば、決して、読売を追われることはなかったのである。

遠藤自身の社会部記者像は「事件派と綴り方派」という分類で、事件派とは、論争ができずに、すぐ暴力に訴える〝無頼〟そのものの、戦前派の社会部記者像である。

それは、〝軍部という名の暴力〟が、日本全土を支配しており、厳しい言論統制下にあった時代だから、遠藤が、そういう〝思いこみ〟に陥ったことを、責めようとは思わないが、戦後、時代は一変し

たのである。

読売梁山泊の記者たち p.102-103 彼の著書はその〝恨み節〟

読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。
読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。

遠藤自身の社会部記者像は「事件派と綴り方派」という分類で、事件派とは、論争ができずに、すぐ暴力に訴える〝無頼〟そのものの、戦前派の社会部記者像である。

それは、〝軍部という名の暴力〟が、日本全土を支配しており、厳しい言論統制下にあった時代だから、遠藤が、そういう〝思いこみ〟に陥ったことを、責めようとは思わないが、戦後、時代は一変し

たのである。

昭和二十七年四月二十八日で、連合軍の占領が終わり、それまでの〝プレスコードという名の言論統制〟も、終わった。基本的には新憲法によって、すでに、自由と民主主義時代になっていたのであった。

それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。彼の著書は、その〝恨み節〟である。新聞記者として、最大の恥辱である、著書の一括買取り、断裁という〝末路〟さえ、おのれの〝末路〟にダブらせて、予見することもできなかった、のだった。

原四郎のいう、豪傑・快物とは、決して、遠藤流の社会部記者ではない。とすると、やはり〝異物〟なのである。原が、あえて、社会部長五年目の昭和三十年の編著に、「社会部記者像として、豪傑、快物、異物」と、指摘したのも、社会部から、イヤ、編集局から、読売新聞から、異物一掃を意図していた、と考えられる。

私の読売社歴十五年での、十二冊の社員名簿を繰っていくと、いつの間にか、戦前型の〝異物記者〟の名前が、次々と、消えていっているのだった。送別会ひとつ開かれないまま、名簿から、名前が無くなっている…。

遠藤の「大人になれない事件記者」の、奥付を見ると、一九五九・三・一五第一刷発行とあり、そ

の次の行には、位置がズレて、四・二五第四刷発行と、刷りこんである。つまり、森脇文庫側で、発行部数を水増ししたと判断される、痕跡が残っている。

誰と誰との間で、一括買い取り、断裁になったのか、遠藤は語らなかったが、「もう、手に入らない本だから、キミに一冊やるよ」と、手交された時、断裁されたことを話していた。

そして、誰が儲けたのかも、私は知らないが、森脇将光は、アンダー・グラウンドの人物を数多く知っている遠藤の、利用価値を考えていたのだろう、と思う。

遠藤は、「潜行記者活動は、戦後に私が切り開いた、記者活動のジャンルだ」という。いまでいう、調査取材のことだ。

原が部長になって、間もなくのころだったと思う。社内の会議室で、「部会」という、仕事の打ち合わせと懇親の会が開かれた。

ツマミとビール程度が出て、遊軍(本社詰め記者)を中心に、その日に、社に上がってきた、クラブ詰め、サツ廻りなど、二、三十名が出ていただろうか。

話題が、たまたま、日本共産党の動向に関して、各担当記者たちの意見が出された。原は、それらを黙って聞いており、筆頭次長の羽中田が、進行を勤めていた。

その時、遠藤が、口をはさんできた。あまりにも、基礎知識のなさすぎる発言に、私もつい、彼の

発言を攻撃してしまった。しかし言葉遣いには注意して、先輩への礼を失しない、心配りはしていたつもりだった。

読売梁山泊の記者たち p.104-105 鮮血がドッと出てきた

読売梁山泊の記者たち p.104-105 「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」と。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。
読売梁山泊の記者たち p.104-105 「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」と。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。

その時、遠藤が、口をはさんできた。あまりにも、基礎知識のなさすぎる発言に、私もつい、彼の

発言を攻撃してしまった。しかし言葉遣いには注意して、先輩への礼を失しない、心配りはしていたつもりだった。

「ナニを! このヤロー! 生意気な口を利くな! 表へ出ろ!」

遠藤の威丈高な怒声に、私は、内心しまった、と思った。いうなれば、満座の中で、恥をかかしてしまった、からである。

「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」

と、頭を下げたあと、室外に出て、廊下で改めて謝ろう、と思った。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。

ビールビンは、額に当たり、メガネが割れて、眉毛のあたりを切った。ビールが入っているので、鮮血がドッと出てきた。

同期の青木照夫がついてきてくれて、築地の菊池病院に行って、四針ほど縫った。先輩後輩のケジメが厳しく、社歴が一年違えば、サンづけで呼ばねばならないのだ。

遠藤が社会部におり、私もまた社会部にいる限り、私は、遠藤の〝不法な暴力〟に抵抗できないのである。その、無抵抗な後輩に、素手で殴るのならまだしも、ビールビンという凶器を使う——手当が済んだあと、私は、口惜し涙があふれるのを、止められなく、青木に、「どうして、黙って殴られなければならないンだ!」と、訴えたのを覚えている。

その傷跡は、まだ、眉毛の生え際にそっていまでも残っている。

部会は流れて、遠藤は、孤立を深めていった。もちろん、私は、それ以後、遠藤を無視した。遠藤が、話に加わろうとして、近寄ってくれば、私は、プイと横を向いて、席を立った。次のキッカケがあれば、私は遠藤に同じような傷を与えてやる、という、稟とした決意が、彼にも感じられたのだろう。

遠藤は、私より二カ月余の後、三十三年九月に、読売を退社した。

「キミが社を辞めたことで、オレもフンギリがついたのだよ」と、遠藤は、私をたずねてきて、そういった。それ以来、彼は、なにかと私をたずねてくる。つまり、〝殉教徒の先輩〟としての三田和夫、という、これまた、彼の思いこみである。だから、彼の著に出てくる私は、常に〝好意的〟に描写され、〝英雄的〟ですらある。

そこでは、かつて私に加えた不当な傷害事件の記憶などは、まったく、消滅しているかのようであった。

この「大人になれない事件記者」の、唯一の資料的価値は、いまや、まったく抹殺されてしまった、日本テレビ創立時の、ある側面の記録、としてである。

と同時に、それは、正力松太郎という偉大なる新聞人の、偉大さの証明でもある。

つまり、今日の隆盛を見せている、テレビ放送とプロ野球の先駆者としての正力の、数十年先を見通す、洞察力の偉大さである。プロ野球はさておき、正力の「街頭テレビ」構想に対して、昭和二十

七、八年ごろの財界は、まったく一顧だにしなかった、という事実である。

読売梁山泊の記者たち p.106-107 私と遠藤との奇妙なめぐり合わせ

読売梁山泊の記者たち p.106-107 つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で知り合ったのだった。
読売梁山泊の記者たち p.106-107 つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で知り合ったのだった。

つまり、今日の隆盛を見せている、テレビ放送とプロ野球の先駆者としての正力の、数十年先を見通す、洞察力の偉大さである。プロ野球はさておき、正力の「街頭テレビ」構想に対して、昭和二十

七、八年ごろの財界は、まったく一顧だにしなかった、という事実である。

そのため、正力の「日本放送網株式会社」設立は、一向に進まなかった。それを、遠藤が、保全経済会という〝怪し気な〟団体の、伊藤斗福理事長と正力を会わせ、伊藤の資金保証で、会社設立が急進展したのである。

昭和二十七年夏にスタートし、同二十八年八月の日本テレビ開局。同二十九年一月二十六日の、保全経済会摘発であった。この部分が、日テレの社史から欠落しているのだ。

そして、これもまた、私と遠藤との、奇妙なめぐり合わせがある。その部分を彼の著書から抜粋してみよう。

《そんなある日、私は銀座の喫茶店で元ニューズウィーク記者という中村五郎君に、まったく唐突に伊藤理事長を引き合わされたのである。鼻下にうすいヒゲを蓄えた一見四十才前後、眼つきの鋭い男である。右ほおの大きなコブが特徴的だった。

評判の仕事師中村君のおもわくはだいたい察しがついたし、私自身としてもまだ理事長に会う段階ではなかったが、一杯のコーヒーをすすりながら雑談してみて、案外、この男は善人なんだと感じた。こんど、横井社長射撃事件で犯人の安藤組一派をかくまい、逮捕された三田和夫記者が前に一人の男を私に紹介した。元ニューズウィークの記者で、アメリカ二世と称する中村五郎という青年である。昭和二十五年の秋も深まった頃だった。

この中村君が元山富雄という事件師に六百万円とられたから、助けてやってくれというのだ。……この元山富雄が今度の事件で安藤組一派なのだから三田君も奇妙な巡り合わせである。

二世というだけあって中村五郎君はなかなかスマートな男ぶり、年は三十五、六というところか。当時日本人には手に入らなかったアチラナンバーのジープを運転している。細君はその昔、子役スターで鳴らした映画女優の風見章子さんだという》

つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で、読売とニューズウィークの記者としての仲で、知り合ったのだった。

その後の遠藤は、横浜支局時代の関係で、元市会議員だかにかつがれて、霊園会社の社長になり、運転手つきの社用車で、私のもとに得意気に現われたりしたが、その会社が事件を起こし、社長としての責任を問われた。

「オメエーらのような、イナカデカになにが分かる。オレは、読売の遠藤だ、事件記者の遠藤だゾ」——空しいタンカを切ったために、彼は逮捕された。最初から、事件のケツを背負わせるつもりの〝社長かつぎ〟だったのに、それさえ見抜けない男だった。

そして、私は「正論新聞」を創刊し、その目玉として、田中角・小佐野——河井検事・児玉誉士夫キャンペーンを張った。昭和四十二年当時のことであった。

脳いっ血かなにかで倒れて、言葉も不自由になった遠藤が、ある朝、当時住んでいた戸田の公団住

宅の私のもとに現われた。