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読売梁山泊の記者たち p.138-139 何か大変なことがはじまる!

読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。
読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクー、ハヤクー」と、歩哨がせき立てる。

「ウン今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージュナ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。

ソ連側から、やかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私は、そんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられたカカトが、カッと鳴った程の、厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、

見たことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳めしいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の、眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

「サージス」(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向かい側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当たっていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の「ワストーチナヤ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立上がってドアの方へ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルッブルッと震えた。

読売梁山泊の記者たち p.140-141 もはやハイ以外の答えはない

読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」
読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まりかえったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできない、この密室で秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ころうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会の男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人びとだけで、他の者は一部だけしか知り得ない仕組みになっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

スパイ誓約書に署名させられた実体験

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引き出しをあけた。ジッと、少佐の眼に視線を合わせていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いた。机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

——拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。

少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」

歯切れのよい日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくりと区切って発音すると、非常に厳格感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはソユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにして見つめている、二人の表情と声は、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ。もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白い紙

を取り出した。

読売梁山泊の記者たち p.142-143 スパイ誓約書

読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…
読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白い紙

を取り出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとう来るところまで来たんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキ!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。「漢字とカタカナで書きなさい」

「チ、カ、イ」(誓)

「…」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「……」

「今日の日付、一九四七年二月八日……」

「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで、静かに眺める余裕がでてきた。

最後の文字を書きあげてから、捺印をと思ったが、その必要がないことに気付くとともに、「契約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——「ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)、一カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショー」(終わり)

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も

立 ち上がった。

読売梁山泊の記者たち p.144-145 終身暗いカゲがつきまとう

読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。
読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが…

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立

ち上がった。少尉がいった。

「三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉ということを、忘れぬように…」

ペールヴォエ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然、ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた、つぎの命令……と、私には、終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体ある限り、その肩を後からガシッとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーが何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは十分すぎるほどに、判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められれば、の話

だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には、妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは、当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装を解いた軍隊を、捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを、いまさら、いってもはじまらない。現実のオレは、命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラック(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

読売梁山泊の記者たち p.146-147 このナゾこそ例の誓約書

読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。
読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイのバクロをやってのけられるのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然、収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校のだれかれにたずねてみたが、返事は異口同音の、「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では、他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンと、バラックの二重扉の開く音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ、胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起こり、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明けはじめたのであった。三月八日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終わった。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現われなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口(ぐち)だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカ

でダメ押しのレポも現われないまま、懐かしの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔。復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿。肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者。そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

私は、このナゾこそ、例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように、〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会でKという引揚者が、ソ連のスパイ組織の証言を行なった。その男は「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて、「日本新聞」の編集長まで、ノシ上がった男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

「チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう」

「何をいってるんだ。今まで程度のデータで何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか」

読売梁山泊の記者たち p.148-149 このソ連製スパイの事実を暴いていった

読売梁山泊の記者たち p.148-149 私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。
読売梁山泊の記者たち p.148-149 私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。

若い私は、ハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。

その結果、現に内地に帰ってきている、シベリア引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての、暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の国土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしている者がいるという、奇怪な事実までが明らかになった。

そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して、自分の暗い運命を語った人もあった。

さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命に、はんもんしている他の人たちの勇気をふるい起こさせるだろう、というので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

私の場合、テストさえも済まなかったので、偽名や合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉を授けられていた。

例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで、「この池には魚がいますか」と問われて、「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが、合言葉であった。

ラストボロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを、示そうとしてか、万葉の古歌「憶良らは いまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むずかしい合言葉だった。

そして、自宅から駅へ向かう途中の道で、ジープを修理していた男に、「ギブ・ミー・ファイヤァ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は、素早く一枚の紙片を、彼のポケットにおしこんだ。

彼が、あとでひろげてみると、金釘流の日本文で、「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています。もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、場所で」とあった。子供がワンワン泣いている、というのが、さきの万葉だったのである。

また、「あなたはいつ企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか、「私はクレムペラーを、持ってくることができませんでした」と、話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から暴いていった。

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局(現公安調査庁)などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CIC(米占領軍情報部)が確実なデータを握っている時、日本側の治安当

局は、まったくツンボさじきにおかれて、日本側では、舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

読売梁山泊の記者たち p.150-151 同胞への〝恐怖のデモンストレーション〟

読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。
読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局(現公安調査庁)などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CIC(米占領軍情報部)が確実なデータを握っている時、日本側の治安当

局は、まったくツンボさじきにおかれて、日本側では、舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

「デマだろう」という人に、私は笑って答える。

「大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ」

紙面では回を追って、〝幻のヴェール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。

「よく生きているな」

親しい友人が笑う。私も笑った。

「新聞記者が、自分の記事で死ねたら、本望じゃないか」

ただ、アカハタ紙(現赤旗紙)だけが、ヤッキになってデマだと書いていた。読売の八回の記事に対し、十回も否定記事をのせ、左翼系のバクロ雑誌「真相」(現「噂の真相」とは違う)も、〝幻兵団製造物語〟というデマ記事で、私の記事を否定した。私には、その狼狽ぶりがおかしかった。そして、それから丸三年たって、二十七年暮れに、鹿地・三橋スパイ事件が起こって、「幻兵団」の実在が立証されたのであった。

アメリカ側の引揚者調査機関、NYKビル(郵船ビル)がその業務を終わった時、チェックされた「幻兵団」員は、多分、私もふくめて、七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記者としての、いわば〝出世作品〟であった。

幻兵団を実証する事件がつぎつぎと

「シベリアで魂を売った幻兵団」という、大きな横見出しの記事を、いま、改めて眺めてみると、〝魂を売った〟のではなく、〝魂を奪われた〟と、表現すべきだった、とも思うのである。

私にとっては、「スパイ誓約書」を書かされた、ペトロフ少佐のデスクの拳銃の、鈍い輝きよりは、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。

屈強な若者たち。とても、同じ捕虜には見えない、約二十名ほどの円陣のなかに、どこの、どういうグループで、ナホトカまできたのか、知るよしもなかったが、将校服に大尉の襟章をつけ、黒皮の長靴をはいた男が、土下座させられていた。

彼は、バリザンボウを浴びせられながら、ケ飛ばされ、階級章をムシリ取られ、長靴を切り裂かれて、衆人環視のなかで、いわゆる〝吊るし上げ〟にあっていた。

男は、ツバを吐きかけられ、殴られ、蹴られて、〝日本帝国主義の走狗〟として、人民裁判にかけられていたのである。それはまた引揚船を目のあたりにして、いっそう、望郷の念をつのらせている、数百人もの同胞への〝恐怖のデモンストレーション〟でもあったのである。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

読売梁山泊の記者たち p.152-153 「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝

読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。
読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

日本帝国主義の走狗といえるのは、中佐参謀——いうなれば、瀬島竜三中佐クラスであろう。ラストボロフ中佐に、萬葉集の合言葉をささやかれた、志位正二(モスクワ上空の日航機内で急死)も、少佐参謀であった。現日本共産党志位書記長の伯父である。

私たちは、バイカル湖の西岸、イルクーツクの北にある、炭鉱町のチェレムホーボから予備役将校ばかりの梯団で、昭和二十二年十月、引揚船の待つナホトカに着いたばかりであった。

捕虜生活も二年目に入って、従来の建制、旧軍隊組織のままの作業隊から、将校ばかりの作業隊に組み替えられ、大いに作業成績をあげていた。それまで「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝していた、「将校は、日本へ帰さない」から、「作業成績が良いものから帰国させる」の見本として、ダモイ(帰国)させるのだ、と聞かされていた。

だが、ナホトカに着いてみると、私たちのすこし前に、第一回の将校梯団が帰国したという。この、人民裁判にかけられている大尉は、その第一回梯団から、残されたひとりだったらしい。

そして、後続の私たちに、その光景を目撃させることは、あのスパイ誓約書にある「日本に帰ってからも…」の条項に、金縛りをかける効果は、十分すぎるほどであった。

明日の乗船を控えて、私は、スパイ下命者である、ペトロフ少佐が突然いなくなって、第一の課題であった、「収容所内の反ソ反動分子の名簿作成」が、流れてしまった幸運をよろこんでいた。

もしも、私が名簿を提出していたら、その名前の同胞は、永遠にダモイできなかったかも知れない。あの大尉も、襟章をつけ、長靴をはいていたところをみると、欧露エラブカの、日独同居の将校ばかりの収容所にいたのかも知れない。

エラブカ収容所における独軍将校は、毅然として、ジュネーブ条約による待遇を要求し、もちろん労働を拒否し、バターの定量を監視するほどの余裕を持っていたそうだ。

それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

「私の名前を出さない、という約束をして下さいね」

その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で逢いましょう〟という、耳もとでの熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交差点で、そのマーシャそっくりの女性を見つけて、ハッと心臓の凍る思いをしたといった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。

「どうしても、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……」

彼は黙っていた。やがて、ポツンと、一言だけいった。

読売梁山泊の記者たち p.154-155 所轄の北沢署に保護を頼んだ

読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。
読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。

「殺されるかもしれないから」

彼の表情は、まったく真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私は見た。

「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。

ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から玄関を見通す階段へ一歩踏み出したところ、アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。

玄関のドアにはまったガラス。その上のラン間のガラスに、一条の懐中電灯の光が走っていたのだ。

その光は、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には玄関を去ってゆく足音さえ聞こえない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻はその後、その時のことを想い出しては、「あれほど恐ろしかったことは、まずちょっとなかったわね」と、よくいった。

あの懐中電灯の光の主が、保護を頼んだ警官なのか、あるいは、何かの配達か。また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

幻兵団の記事に対する意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCIC(米軍防諜部隊)が、私と私の記事とを疑ったのである。

「私の名前のコーサクは、耕す作ると書くのですから、多分、百姓の出身ですネ」

担当官の二世のタナカ中尉は、私の気持ちをほぐそうとするかのように、そういって笑った。私も、いっしょになって笑った。

しかし、調べは厳しかった。

「ナゼ、あの記事を書きましたか。ソ連のスパイ組織をバクロして、恐いと思わないのですか。死への恐怖を感じないのですか」

「軍隊と捕虜とで、どうせ一度は死んだものと思えば、『死』なんて、コワクはありませんよ。ことに、新聞記者が、自分の書いた大きな記事のために殺されたとすれば、それは日本語で、本懐というものじゃありませんか。私に悔いはありませんよ」

「?…。仕事のために死ぬ? コワクない、本懐だ?…信じられない…記者の功名心?」

タナカ中尉には、この「死生観」が、どうしても信じられないようであった。

じつは、彼の思考はもうひとひねりしたものだった。スパイ組織のバクロという、コワイ記事を書いて、平気でいられるのは、その記事のリアクションがないという保証があるからではないか?

保証があるということは、つまり、この男は、反ソ的な記事を書くことによって、米軍側に取り入り、ソ連のためのスパイを、効果的にしよう、としているのではないか?

読売梁山泊の記者たち p.156-157 三年も前にスクープしていた

読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。
読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

だが、私は、この記事によって、〈有力なニュースソース〉を得た。陸士出身の少佐だから、五十三期ぐらい。復員官として、舞鶴で引揚援護業務にたずさわり、復員が終了してからは、厚生事務官。やがて、内閣調査室出向となり、のちに、調査官。

その氏名は、〝情報の世界〟に棲む者の礼儀として、まだ、明らかにはできない。が、私の記者としての視野を、大きく展開してくれた、優れたアドバイザーであった。ただいま現在、日常的に使われている「情報」という言葉とは、まったく意味の違う「情報」の時代だったのである。

昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」というのが、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。

この日、斉藤昇・国警長官(いまの警察庁長官)が、参院外務委での答弁で、「戦後ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

二十七年秋から、警視庁記者クラブの「七社会」詰めとなっていた私は、その日何も知らないで、夕刻、社に上がってきた。斉藤長官の答弁の原稿が、ちょうどそのころ、社に入ってきて、原部長が目を通したばかりだった。

だいたい、出先の記者クラブ詰めの記者、ことに、警視庁クラブの記者などは、部長には、あまり、顔を合わせたがらないものだ。というのは、デスクとだけの黙認で、いろいろと、〝悪事〟を働いているのだから、部長と話をしたりすると、ツイ、露見する危険があるからである。

例えば、カラ出張やら、インチキ伝票やらで、デスクの呑み屋のツケを払ったり、取材で足をだしてしまった経費を、然るべく処理しているからである。ついでながら、つけ加えると、このような〝処理〟は、この業界での、長年にわたる習慣で、しかも、不法領得の意思がないので、〈横領罪〉には当たらない。念のため。

身についた〝習慣〟で、部長に近寄らないよう、素早く、遠い席に座ろうとしたら、顔をあげた部長と、目線(めせん)が合ってしまった。間髪を入れずに、部長が、叫んだ。

「オイ、まぼろしッ! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて、入籍されたゾ!」

「…?」

満面に笑みを浮かべた、ゴキゲンの良い原チンの顔は、可愛い。いま風なら、カワユーイのであるが、当の私には、その理由が分からないのだから、当惑しながらも、部長のゴキゲンに合わせて、オリエンタル・スマイルを浮かべながら、部長席に寄っていった。

「オイ、これだよ」

デスクが、朱(赤字の校正)を入れていた原稿をわたしてくれた。読み進んでいくうちに目頭が熱くなってくるのを感じていた。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

読売梁山泊の記者たち p.158-159 日本のソ連通を総動員

読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。
読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

昭和二十三年当時、吉田茂・兼任法務総裁の法務庁記者クラブに行った。その時のキャップは、ハンニャの稲ちゃんこと稲垣武雄だった。長い間の警察記者のボスであった稲ちゃんは、私を、当時の国警本部の村井順警備課長に紹介してくれた。

村井課長は、私のスパイ体験を、はじめて熱心に聞いてくれた最初の人物であり、竹内社会部長とも親しかった。竹内四郎が、私の我がままを、大きく許してくれたのには、村井順の推輓もあったのである。

六十三年一月十三日、七十八歳で亡くなり、二月五日の、晴天ながら寒い日に、青山葬祭場で、最後の別れを惜しんだが、村井順なかりせば、あるいは、稲垣武雄のような、先輩記者にめぐり合わなかったなら、「幻兵団」は、〝大人の紙芝居〟で終わったかも…。

昭和二十五年春、それこそ、四十年後の現在では、とうてい信じられないような、〈米ソ・スパイ合戦〉が、米軍占領下のトーキョーで展開されていた。首都東京のド真ン中で、当時七百万都民が、何気なく生活している時から、すでに米ソの、〝熱いスパイ戦〟がおこなわれていたのである。

ここで予備知識として、米国側の諜報機関の概略を説明しておこう。

連合軍の日本占領中、東京駅前の郵船ビルには、総司令部幕僚第二部(GⅡ)指揮下米軍CIC(防諜部隊)と、総司令官直属のCIS(対諜報部——軍の部隊ではない)とがあり、米大統領直属のC

IA(中央情報局)は、ほとんどメンバーもおらず、積極的な活動もしていなかった。

CICはその名の通り、軍内部で諜報を防ぐ部隊なのだが、その一部には、秘密諜報中隊があり、これが積極的にソ連の諜報網の摘発を行ない、CISがこれに協力していた。

さてこのCISは、全国の主要都市に、それぞれ要員を駐屯させていた。情報というものは、どんなに断片的で、小さなことでも、それが収集され、整理されると、そこには意外な事実さえ浮かんでくるものなのだ。

戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。これを押さえれば、日本の対ソ情報は真暗になる。とりもなおさず、アメリカの対ソ情報もつぶれる、というのが狙いで、ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

そこで米国側にとっては、占領下にあった日本のソ連通を総動員して、旧軍の作戦参謀や情報参謀、それに憲兵、特務機関員、特高警察官などを、CICの秘密メンバーとせざるを得なかった。

そればかりでは足りない。ソ連引揚者に眼をつけるのは当然で、彼らほど最新の知識を持ったものはいないのだ。舞鶴引揚援護局内に一棟の調べ室を作り、二世の連中が分担して、引揚者の一人一人から情報を集めた。

そのために引揚者たちは、せまい小部屋で友好的に尋問され、いい話がでると、まず〝ひかり〟(当時のタバコ)がすすめられ、話が詳しければ、果物までが出された。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

読売梁山泊の記者たち p.160-161 二~三割の日本人が死んだ

読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。
読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

昭和二十二年の秋、舞鶴に第一回の将校梯団が上陸してきた。ソ連側は将校は帰さないと宣伝したり、収容所では、対将校階級闘争が盛んになっていたころだったので、こうして将校ばかりが、何百名と、まとまって帰ってきたのは、珍しいことだった。

彼らも、型のごとく調べられた。すすめられた〝ひかり〟を、珍しそうに眺めながら、彼らはそれを深々と吸いこんでは、それぞれのソ連見聞記を話し出していた。

私たち、第二回目の将校梯団が、第一大拓丸で、舞鶴に上陸したのが、昭和二十二年十月三十日。ナホトカを出港する時に目撃させられた、大尉の人民裁判があったのだから、第一回の将校梯団の帰国も、十月はじめごろだったに違いない。

ソ連側は、はじめは、統制が取りやすいので、日本軍捕虜を、建制(軍隊組織)のまま収容所に入れたのだが、最初の冬、昭和二十年暮れから、二十一年春までの間に、どこの収容所でも、二~三割の日本人が死んだ。

生まれてはじめての酷寒——私たちのところでも、寒暖計で零下五十二度を記録した。しかも、風速一メートルで、体感温度は一度下がる。慢性飢餓と重労働。シラミによる発疹チフス、栄養失調と、まさに、いまにして想えば、生き地獄であった。

こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

この建制を崩して、捕虜をゴチャまぜにすることには、もうひとつ、目的があったようである。それが、はしなくも、第一回の将校梯団で、米国に発見された。

その中に一人、軍曹がいた。いや、はじめは少尉だといって、将校梯団の一員らしく、振る舞っていたのだが、身上調査から乙幹の軍曹だということが、バレてしまったのだった。ウソと分かってからの、その男は、全く狼狽して、ソワソワと落ちつかず、何か挙動がオカシイのだ。

報告をうけた二世のサカモト大尉は、自分で調べようと思って、その男を呼び入れた。風呂から出れば、ドテラでアグラをかくような、二世らしからぬ二世であるサカモト大尉は、日本人の気持を良く知っていたのだ。

大尉は、そのニセ少尉の心配ごとが、彼自身の予想していたようなもの、ではないかと思って、まず優しく、家族の話などから持ちかけ、その男の気持を落ちつかせてやった。

男はあたりを見回してから、泣きそうな顔で大尉に聞いた。

「国際法とかでは、日本人が外国でしてきた約束とか、日本にいる日本人が、外国の刑法で罰せられる、というようなことがあるんでしょうか?」

大尉は、密かに期待しながらいった。

「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

読売梁山泊の記者たち p.162-163 元ハルピン陸軍病院長・I少将

読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。
読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

煙草をすすめて、自分もつけた。

「少しも恐いことはないよ。何もかも話してごらんなさい」

男はオドオドしながらも、彼の恐しい体験を語りだした。大尉は、黙ったまま深くうなずいた。

こうして舞鶴CICは、はじめて引揚者の中にソ連製のスパイがいることを知った。

「ソ連スパイが、引揚者にまぎれて、投入されつつある」——こんな重大な事実を発見した、舞鶴CIC、およびCISからは、報告書を携え、ピストルで武装した将校が、伝書使となって東京の本部へ飛んだ。

それからは、ソ連情報の収集ばかりではなく、ソ連スパイの摘発が、郵船ビルの重要な仕事となった。復員局から「復員業務について占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします」というハガキが、日本全国の引揚者のもとに届けられた。

往復の旅費、日当、食費も日本政府から支給され、北は北海道から南は鹿児島まで、容疑者と、容疑者の情報保持者が郵船ビルに集合させられたのである。

数日で終わる者もあったが、数週間、数カ月間もかかる者がいた。試みに、郵船ビルの表口に立って見ていると、夕刻には、嬉々として現われる者と、足取りも重くうなだれて来る者とがいた。

米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」

そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

その中の一人に、元ハルピン陸軍病院長をしていたI少将がいた。仔細に見れば、I少将のどこかに、緊張に引きしめられた、あるカゲが見られたであろうが、さすがのCICも、元将官には敬意を払って、多くを追及しなかった。

その元少将が引揚後のある日、何となく後ろめたさを覚えながらも、もう小一時間も、靖国神社の境内を、そぞろ歩いていた。

困惑と期待との入りまじった、不思議な感情だった。半分はウソだと思ったし、半分は行かずにいられない、脅迫感を覚えていた。

やがて、彼がちょうど境内を一回りして、また大村益次郎の銅像にもどってきた時、一人の男が彼に声をかけてきた。

——ああ、やっぱり!

そう思った瞬間、I元少将は、思わず声とも叫びともつかない音をあげてしまった。

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

読売梁山泊の記者たち p.164-165 理解を絶するようなことが起こっていた

読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——
読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

I元少将が命ぜられた任務は、在日米軍のバクテリア研究所の実体調査である。当時、日本の細菌研究は、世界的に優れており、その指導者である石井中将を、満州において取り逃がしたことは、ソ連にとって痛恨事であった。その石井中将直接の指導の下に、在日米軍が、ソ連ウクライナの穀倉地帯の、食物に対する細菌戦を準備しているから、その情況を調査せよ、というのが、I元少将の任務であった。

こうしたレポのために、ソ連代表部の〝市民雇員〟は、夜な夜な、東京都内を徘徊するのであった。

ちなみに、夜の七時から九時までの間、三十分おきに、ソ連代表部から出る自動車の行先をみてみよう。歌舞伎座、日比谷公会堂、アーニーパイル劇場(東宝劇場)、帝国劇場、明治座、日劇、そんな賑やかな所を、グルグル廻ってから、目的地へ辿りつくのだ。

昼間なら、赤坂の虎屋、靖国神社、地下鉄赤坂見付駅、日本橋の高島屋、渋谷郵便局、上野公園、皇居前の楠公像、大宮公園、井の頭公園などに行く。

レポには、決して特定の店は使わない。必ず直接である。報酬は月額三—五万円のクラスと、六—十万円のクラスとがある。

こうして、ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日

本人が、甘受する運命は何であろうか。

佐々木克己・元大佐という軍人が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘という作家もまた、なにやら、〝人さらい〟にさらわれる——実に、米軍の占領下では、いまの、平和な日本に生まれ、育った人たちには、とうてい、理解を絶するようなことが、相次いで起こっていたのである。

太平洋戦争後の、米ソの冷戦。これもまたいまのゴルバチョフ・ペレストロイカのもとでは、さながら、フィクションそのもの、といえるだろう。

こんなこともあった。私たちは、シベリア捕虜として、炭坑などの重労働を強いられたが、そこで見た、ボーリング機械も、パワー・ショベル・カーも、ほとんどの機械は、米国製であり、食糧援助の粉末鶏卵など、戦争中のソ連の窮状ぶりが良く分かった。それこそ、丸抱えのように、米国製品が、ソ連に満ちあふれていた。そして、米国製機械のイミテーションのソ連製はすぐ故障して、使えなかった。

満ソ国境で、戦闘してきたソ連軍は、さすがに、大都市には入れなかった。ソ軍の幹部も、その殺気立った部隊を都市に入れたら、どんな混乱を生ずるか、良く分かっていたのだろう。

降伏した日本軍は、武装解除されたが、将校だけは、勲章をつけ、軍刀を帯びていることが許された。兵舎内に起居し、塀の外に、ソ軍の歩哨が立つ生活が、一カ月もつづいただろうか。

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

読売梁山泊の記者たち p.166-167 ソ連女性たちが物見高く集まって

読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」
読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

そして、シベリアに列車が入ってゆくと、ハダシの子供たち、新品の軍服をほしがる男たち、布地を求めて集る母親——どちらが、戦勝国なのか、錯覚に陥るほどであった。

日本が敗戦国で、自分たちは軍事俘虜である、ということを痛感させられたシーンが、いまでも、思い起こされる。

長い貨物列車の旅が終わり、バイカル湖の西岸のチェレムホーボ収容所に着いた時のこと。将校だけ集められて、門外に長く待たされていた。まわりには、ソ連女性たちが、物見高く集まってきていた。

何の指示も命令もなく、何時間も待たされていた時、応召の内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。

「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

「エッ?」

敗戦の日から、もう二カ月ほどが経ち、それこそ、落着いて物事を考えるゆとりなど、まったくなかったが、公主嶺の貨物廠から持ってきた、旧日本軍の備蓄糧秣のおかげで、三食白米の日本食だか

ら、健康そのもの、体調も良く、〝女〟などは考えも及ばなかった。が、〝去勢〟となると、人生の〝重大問題〟である。捕虜に対して、そんなことがあっていいものか、と、軍医の言葉だっただけに、ガク然としたものだった。

ずっとあとで分かったことだが、あの時の女たちが、私たちの誰、彼を指差していたのは、それぞれの好みで、「私はあの男が…」「イヤ、私ならアッチの男がいいわ」と、性的対象として、品定めをしていたのだった。

さて、「幻兵団」の裏付けとして、国警長官が国会で明らかにした、一連のソ連製スパイ事件を「鹿地(かじ)・三橋事件」と呼ぶ。つまり、鹿地亘に米ソの二重スパイを強要していた、米軍情報機関は、昭和二十七年九月二十四日付の「国際新聞」などに、英文の怪文書が掲載されたので、鹿地を釈放せざるを得なくなり、同年十二月七日、鹿地は新宿・上落合の自宅に帰ってきた。

外国の官憲が、日本国民を恣意に逮捕したり、監禁したりというのだから、人権問題はいまほどではなくとも、「反米感情」は高まる。そこで、米軍機関は、鹿地問題の〝火消し役〟に、かねてから〝二重スパイ〟として利用していた三橋を、国警(国家地方警察。自治体がもっている自治体警察の、所轄以外の部分をカバーする警察。現在は、この分類が廃止され、警視庁以外はすべて警察庁の所管)本部に自首させたのである。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

読売梁山泊の記者たち p.168-169 ソ連のスパイである一人の男を逮捕

読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。
読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

七日、鹿地が帰宅するや、すぐさま、社会党の猪俣浩三代議士らが動き、衆院法務委員会が、調査を開始した。その第一回が、十二月八日(帰宅の翌日)、第二回が同十日、第三回が同十一日、第四回が同二十三日と、第七回までつづく。これらの、法務委での、鹿地証人の証言から、その人物像を浮かび上がらせてみよう。

明治三十六年五月一日生まれ。昭和二年三月、東京帝大文学部国文学科を卒業。プロレタリア作家として活動。昭和九年の春、治安維持法によって逮捕され、翌十年末、懲役二年執行猶予五年の判決を受けた。

昭和十一年一月、中国文学研究のため、上海の中国文学者として著名な、魯迅のもとに行く。日本軍部の戦争政策に反対して、中国人とともに、反戦運動に入り、国民党政府の軍事委員会顧問として、漢口市で、日本兵捕虜の洗脳教育を担当していた。戦後の二十二年五月、中国から帰国。帰国後は、結核に冒されて、療養生活に入っていた。

怪文書事件に衝撃をうけた、池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に、夫君の捜索願を藤沢市署に提出し、市署では、家出人としての捜索をはじめ、ここではじめて、日刊紙の報道するところとなった。それから一カ月近く経った十二月七日、鹿地が、突然自宅に姿を現わして、大騒ぎとなったわけである。

では、鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、

彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

第一の時期は、日本軍閥に反抗して中国に渡り、当時の国共合作時代の重慶(国府)、延安(中共)と、これを後援していた米国の三者側についた。

それがのちに二つに割れ、中共をソ連が応援しだすと、まず延安側についた。左翼作家だった鹿地としては、当然のことである。

ところが、次の時期には、重慶側についたのである。日本の敗戦時には重慶におり、マ元帥顧問だ、と自称して、得意満面のうちに帰国してきたのだ。

この米・国府側対ソ・中共側との間の往復回数は、さらに多かったかもしれない。しかし、戦後帰国したさいには、重慶で米国のOSS(戦略本部)や、OWI(戦時情報局)に、働いていたほどだったから、当然、米国側について、重慶時代と同じように、諜報や謀略の仕事を、していたに違いない。

一方、米国側では、前に述べたように、〝幻兵団〟の存在を探知して、これの摘発に懸命に努力していたのである。そして、その一味である「三橋正雄」なる人物を摘発、これを逆スパイとして、利用していた。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、 判ったから大変だ。

読売梁山泊の記者たち p.170-171 NKの政治部将校が同行

読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。
読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、

判ったから大変だ。

米国側が怒ったのも無理はない。飼犬に手をかまれていたのだ。それから、鹿地証言にあるような拷問が行なわれた?

ソ連のスパイをやっていたが、逆スパイになれというだけなら、こんな拷問をせずもっと賢明な方法がある位のことは、いくらなんでも、米国諜報員が知っているはずである。米国側には、鹿地が米国スパイとして、働いた記録があるそうだから、やはり裏切者への怒りが、爆発したのであろう。

その頃には、米国側では、鹿地を殺すべく計画していた、かも知れない。そして鹿地はその米国側の企図を察知したか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく、肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打ち合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれる、マーフィー大使が着任、さらに利用価値があるかも知れない、というので、たらい廻しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地が消息を絶ったので、調べてみると、米側に逮捕されたと分かった。そこで日本の世論をわかして、鹿地を釈放させ、さらにこれを、反米感情をたかめるのに、利用したのではあるまいか。それを証拠だてる有力な資料が、怪文書である。この文書なるものが、左翼系から流されたであろうことは、明らかであるが、なぜか、「アカハタ」(現・赤旗)には、この好個のニュースが一言半句も掲載されなかった。とすれば、鹿地逮捕を知ったソ連側が鹿地に行なわれた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して、怪文書なるものを作成させ、バラまかせ

たことが、容易に推測できる。これは、「敵の手で敵をたおす」という、諜報謀略の原則からも、うなずける推理であろう。

三橋は、アメリカ側の逆スパイとして、働くようになった。その三橋が、はしなくも、ここに無電スパイとして、けんらんたるお目見得をすることになった。それは、鹿地事件における、日本世論の硬化に驚いて、鹿地を釈放せざるを得なかった米国側の鹿地問題処理策でもある。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当たって、鹿地から、「私はソ連スパイだった、この事件で米国に対しては賠償要求などしない」と、一札をとってはおいたけれど、すでに、鹿地を反米闘争の英雄として祭り上げるお膳立てができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日して、品川のホテルに宿泊した。

ソ連の海外派遣団というのは、スポーツであれ、文化であれ、必ず、NKの政治部将校が、マネージャーとか、随員とか、つまらぬ肩書で同行してくる。もちろん、亡命の阻止と同時に、アメリカのスパイに接触されぬよう、防諜上の任務を持つ。

それはまた、米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

―カーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

読売梁山泊の記者たち p.172-173 常に戦争の残滓を背負い

読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。
読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

ーカーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

数日間の日程を終えて、その代表団が離日した後、村井課長は、「担当員が操作を誤って失敗した」と、米側に頭を下げ、ナニ食わぬ顔で、コピー済みの盗聴器を返した。それ以後、日本警察の盗聴術は、格段の進歩をしたのだった。

近代諜報戦が変えたスパイの概念

時代の流れは、公安・外事が主流になるべく、動き出していた。それは人事面でも、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦といった人材たちを、登用してゆく方向からも、裏付けられている。いずれも、公安・外事に眼を見開いていた連中である。

警視庁七社会(読、朝、毎、東、日経、共同、時事新報の七社の、記者クラブ)での、私の相棒は、北海道新聞から移ってきた、深江靖であった。彼は、東京外語のロシア語科の出身だった。

さる平成元年十二月八日、私のデスクの上に置かれた郵便物のなかに、一通の黒枠のハガキがあった。「今村由紀子」という差出人の名前に、ハテナ、と首を傾げた。それから、視線を本文に走らせて、アッと声をのんだ。

「平成元年十一月二十一日(七十二歳)の誕生日に、夫一郎が心のう血腫で急逝致しました。兼ねてからの遺志により、通夜及び葬儀は、近親者のみにて相済ませました。

常に戦争の残滓を背負い、厳しく自己を律して、その信念のままに、最後の日まで仕事に励み、潔

い生涯であったと思います。

故人に生前賜わりました御芳情に対し、厚く御礼申し上げここに御通知申し上げます」と、あった。想えば、その日は、〝常に戦争の残滓を背負い、とある、太平洋戦争勃発の日であった。

今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

そして、彼と私との出会いは、昭和二十五年一月十三日付の「幻兵団第二報」に、今村が、〝鈴木〟という仮名ながら、横顔の写真入りで登場しているので、多分、前年の十二月ごろのことであろう。

晩年の今村は、端正な顔立ちに、やや白髪を交えこそしたが、背筋を伸ばし、胸を張った姿勢で、待ち合わせの喫茶店に現われた。気取った挙手の敬礼をして、「ズドラースチェ(今日は)」といった。

それこそ、将校服と正帽の似合いそうな男だったが、彼は、陸軍中尉の軍服を着用したことはなかった、だろう。

それなのに、ナゼ、「常に戦争の残滓を背負い…」と、夫人をして、書かしめたのだろうか。どうしても、今村一郎について、語らねばならない。戦後の四十年、東欧貿易の商社員という名刺こそ持ってはいたが、公然たる定職もなく逝ってしまった男の、これは墓碑銘である。

哈爾浜(ハルビン)、小上海と呼ばれる、エキゾチックな街である。ロシア革命以後、亡命した白系

露人が多く住んでいた。そして、黒竜江をはさんで、中国側が愛輝、ソ連領がブラゴベシチェンスク、とある。愛輝とは、黒河という町で、地図にも、カッコつきで、示されている。

読売梁山泊の記者たち p.174-175 「対ソ情報」プロフェッショナル・バカ

読売梁山泊の記者たち p.174-175 ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。
読売梁山泊の記者たち p.174-175 ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。

哈爾浜(ハルビン)、小上海と呼ばれる、エキゾチックな街である。ロシア革命以後、亡命した白系

露人が多く住んでいた。そして、黒竜江をはさんで、中国側が愛輝、ソ連領がブラゴベシチェンスク、とある。愛輝とは、黒河という町で、地図にも、カッコつきで、示されている。

この黒河こそ、対ソ諜報の最前線で、対岸のブラゴベシチェンスクとの、奇妙な往来の基地だった。今村は、ハルビン特務機関からこの黒河に派遣されていた。

スパイというのは、世界各国ともに、おおむね三段階に分かれている。つまり、最先端にいるのが、インベスチゲーション(捜査)である。それを、操縦(指揮)するのが、インタルゲーション(情報収集)で、そこに集められた情報は、アナリスト(解析)の許で総合判断されるのである。

黒河の町の西のはずれに、神社がある。そのそばに、「工作家屋」と呼ばれる建物があった。人相、年齢、氏名を、対岸のブラゴベシチェンスクのエヌカーに通告した、満人の諜者(インベスチゲーション)が、二、三名は、常に待機している。

彼らは、定期的に、定められたコースで、対岸のブラゴエに渡り、ソ連側の工作家屋に行く。そこで、携行してきた、日本側の情報を渡し、さらにまた、こちらの要求する、ソ連側の情報をもらってくるのが、役目だ。

その次には、同じような、ソ連側の諜者が舟を出して、黒河の東のはずれ、海蘭公園のあたりに上陸する。

そこから、河岸沿いに町を横切り、西郊の工作家屋にやってくる。同様に、情報を提供し、かつ、要求する。

この組織は、定められた諜者と、定められたコースにだけ、憲兵と国境警備隊とが、たがいに、治外法権を認め合っている。

相手方に対する質問の仕方と、その質問に対する返事の仕方によって情報を得る——もちろん、それは相手方の諜者も我が方の諜者も、同様である。

そこが、双方のインタルゲーション(工作主任)の、チエと頭脳の闘いなのである。つまり、諜者は、堂々とブラゴエの町を歩き、ソ連人の生活を目撃して、それを、記憶として持ち帰ってきている。

それを、インタルゲーションは、必要なものを、記憶の中から引き出すのである。今村は、この仕事をやっていた。そして、工作主任として得た情報、ブラゴエで見聞してきたもののうち、日本という国家が必要としているものを、彼自身の頭脳というフィルターを通して、ハルビン特機に送る。

ハルビンでは、それらを集めて、アナリストが、解析し、判断する。「敵の手で敵を斃す」というのが、諜報謀略の原則である。

ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。

戦争が、今村の運命を大きく変えてしまったのである。彼は、もはや〝不具者〟であった。「対ソ情報」以外では、常識的な社会人としては、通用しなくなっていたのだ。プロフェッショナル・バカだったのだ。

読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長に〝御進講〟

読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。
読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。

しかし、私の「幻兵団」の取材には、多大の貢献をしてくれた。ある時には、警察庁や警視庁の、外事・公安などの動きについてもサジェッションを与えてくれた。

なにしろ、私が、警視庁七社会で、外事を担当していた時の、山本鎮彦公安三課長(外事特高とも呼ばれた)、通称ヤマチンは、のちに、警察庁長官へと進み、さらに、ベルギー駐在の大使にも、転出できた人物。そのヤマチンに、アナリストとして〝御進講〟申し上げることも、しばしばだった今村なのである。

ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフ二等書記官(政治部中佐)の、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。

だが、今村が、私にレクチュアしてくれた「諜報学入門」は、なかなか、示唆に富んだものであった。

鹿地亘を鵠沼海岸で襲った怪自動車は、間違いなく、アメリカのキャノン機関の仕事であった。これほど強引で、デタラメな、ギャング振りを発揮できるのは、キャノン機関以外にはない。

キャノン機関の所属するCIAの前身は、戦時中、重慶にあったOSSである。この第二次大戦中の、各国の秘密機関は、それぞれに特色を持っていた。OSSの得意とするのは、謀略と逆スパイ工作である、といわれている。

逆スパイと、スパイの逆用とは、まったく違うことである。常識的に使われる、二重スパイという

言葉も、厳密にいうと、まちがっている。三橋正雄が二重スパイ、というのが誤りで、彼は、幻兵団(ソ連のスパイ)だったのが、逆用されて、アメリカのスパイになったのである。

二重スパイというのは、二つの陣営に、まったく同じ比重で、接触しているものをいうのだが、第一次大戦以後の、各国の秘密機関は、諜報、防諜両面で、飛躍的進歩を遂げたため、スパイというのは、その末端で、必ず敵側と接触を持っていなければならなくなった。

つまり、大時代的な個人プレイだけでは、なにもスパイできなくなり、組織の力が大きくなったのである。深夜、敵側の大使館に忍びこんで、金庫を開けて、書類を盗む、といったスパイのイメージは、もはや、完全に幻と化してしまった。

そのため、各国の諜報線は、必ずどこかでクロスしており、七割与えて十割奪う、という形態をとるようになってきた。いいかえれば、すべてがいわゆる、二重スパイなのである。今村が、黒河の工作家屋でやっていた、インベスチゲーションをインタルゲーションが使う、というあの形である。

ただ、二重スパイといわれても、その力関係が、どちらの陣営に大きいか、どちらの陣営に、より多く奉仕しているか、ということで、そのスパイは、「比重の大なる陣営のスパイ」と、いわれるのである。

だから、三橋正雄の場合は、アメリカのスパイであり(逆用された)、鹿地亘もまた、アメリカのスパイである。

正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイ、のことである。複スパイとは、ス パイを監察するスパイだ。逆スパイと、スパイの逆用との違いは、その取扱法の上で、ハッキリと現われてくる。