「武を…」という遺言」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 意味するところはまさに複雑

正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 「看病してくれてありがとう」正力は、まず、医師に礼をのべたという。瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。「タケシをたのみます……」そして、その唇は再び開かなかったといわれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 「看病してくれてありがとう」正力は、まず、医師に礼をのべたという。瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。「タケシをたのみます……」そして、その唇は再び開かなかったといわれる。

「武を……」という遺言

巨星墜つ——陳腐な言葉となってはしまったが、〝大正力の死〟には、どうもこの言葉がふさわしいようだ。そして、キョセイオツと、わずか六文字で表現されるその中には、言外のさまざまな感懐が、ムードとして含まれているのである。

冒頭にも書いたのであるが、亡くなる前の日の夕方、それこそ十時間たらずほど前に、私は務台代表におめにかかって、正力さんの健康を案じていたのだった。

私が、月刊「軍事研究」誌に書きつづけていた「現代新聞論、読売新聞の内幕」もまた、あと二回で読売の項を終り、毎日新聞へと進む予定であった。そこに、図らずも、正力さんの死に際会し、急いで、追悼の意もかねて、一本にまとめることとなった。私としては、来年夏ごろに、三社を書き終えた段階でまとめて、第一冊目を正力さんに捧げようと思っていたのだったが…。

そして、いよいよ、ポスト・ショーリキの結論へと進まねばならない。

正力の臨終は、それこそ、古武士の最後にも似たものだったという。

ある側近筋によると、その模様はこうだ。

昭和四十四年十月九日、午前三時五十分、大正力の脈がと絶えた。だが、それより前に、異変を聞いて駈けつけた医師が、カンフルを打とうとしたが、手足はすでに冷たくなりかけていた。

静脈が、腕の静脈が浮いて来ない。医師は止むを得ず、メスを入れて静脈を探した。カンフルで、やや意識をとりもどしたのか、正力は、冷たい手で医師の手を握った。

「長い間、看病してくれてありがとう」

正力は、まず、医師に礼をのべたという。医師の手をとったまま、瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。

「タケシをたのみます……」

そのころには、大正力の意識は、すでに幽明の境をさまよっていたに違いない。そして、その唇は再び開かなかったといわれる。

この話は、あくまで伝聞である。従って、私には、その真否をたずねるすべもない。その最後の言葉といわれるものも、ただ一人の人名が出てくるので、意味するところは、まさに複雑である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 大蔵省は正力の訃報に肩の荷をおろした

正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 亡くなったのが九日、そして十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 亡くなったのが九日、そして十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。

さて、亡くなったのが九日、そして、葬儀が十四日と発表されていた十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。中三段(なかさんだん)という、遠慮気味の扱いながら、内容はトップに使えるスクープであった。

日曜だから夕刊がない。各社は十三日付朝刊で後追いという醜態である。読売が黙殺したのは当然として、朝毎とも、四段という、後追いにしては大扱いであった。抜いた日経の記事によると、「大蔵省によると、……の事実のあることが、十一日、明らかになった」とある。

死去の日も数えて三日目。しかも、半ドンの土曜日の午前中だから、正味は九日、十日の二日間しかない。——どう考えてみても、この〝明らか〟になったのは、ずっと以前からであり、発表のタイミングを狙っていたとしか思えない。

つまり、九月十八日「日本テレビが証券取引法にもとづいて提出した、増資のための有価証券届書を大蔵省が調査した結果」(十月十三日付毎日紙)、十月はじめから「福井社長はじめ同社の経理担当者をよんで、事情を聞いた」(同朝日紙)ところ、四十三年九月期までの九期間に、計四億九千五百万円、さらに四十四年三月期に、五億七千九百万円、合計十億七千四百万円も、利益を過大に報告していたことを認めた、というもの。

すると、日本テレビの報告書提出から二週間で、「大蔵省が気付き」、社長や経理担当者をよんでから一週間で、「調査、判明した」という、役人仕事としては、何ともハヤ、スピーディなこ

とではある。

そこで、投書、もしくは、内部通報などの〝諸説〟が出てくる所以である。大蔵省としては、すでに十分に承知していて、増資を中止させるための、事務手続上のタイム・リミットを見計らっていたに違いない。あまりに早く〝発表〟すれば、正力の怒りを買って、自分のクビに影響しかねまい。

日経記者も、それをすでに知っていて、担当官との間で、日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。大蔵省にとっては、正力の突然の訃報には、ホッと肩の荷をおろした感だったに違いあるまい。

ホッとしたのは、大蔵省の担当官ばかりではない。正力の長子亨もまた、最近は大変明るい表情になった、といわれている。

日テレ副社長というポストについたのも、正力タワー建設本部長としてなのだが、この亨には、〝大正力〟の重圧は、たいへんな負担だったようだ。何しろ、タワー建設の見通しなど、「すべては会長の御意志のまま……」(十月十二日付内外タイムス、針木康雄)と、取材記者に語るほどである。

この言葉は、実の親子の間の会話ではないし、息子が父親のことを、第三者に語る言葉ではない。目撃した人の話によれば、正力の前の亨は、直立不動でかしこまり、とても、親子の感じで

はないという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 保全経済会の伊藤斗福が一億円をポンと投資

正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。

この言葉は、実の親子の間の会話ではないし、息子が父親のことを、第三者に語る言葉ではない。目撃した人の話によれば、正力の前の亨は、直立不動でかしこまり、とても、親子の感じで

はないという。

よそ眼には、〝明るく〟なったといわれる亨ではあるが、彼と日テレをめぐる情勢は、決して〝明るい〟ものではない。十一月末の株主総会を控えて、この粉飾決算の責任問題は、現重役陣の総退陣をうながしている。

もともと、街頭受像機設置という構想からスタートした、日テレの歴史をみると、大正力としての〝最後の苦闘〟であった。

構想はまとまったのだが、NHKさえ動いていない時期だけに、正力のプランを聞いても、財界さえ動こうとはしなかった。日テレの株の引受け手がいないのである。この時、のちに「詐欺師」ときめつけられた、保全経済会の伊藤斗福理事長ただ一人が、何か思惑があったのか、正力の話に耳を傾けた。

「各方面から狂人扱いをうけ、まるで相手にされなかった、日本テレビの〝正力構想〟に進んで賛成、全株数の一割に当る一億円をポンと投資、さらに即時発足に必要な資金の融資を約束、とにもかくにも、強引に日本テレビをスタートさせた男がいたからである。……伊藤氏を正力さんに結びつけたのが、すなわちこの私だったのである。……発足五周年を迎えた、日本テレビの豪華な祝賀会が挙行された。正力さんの得意や思うべしである」(元読売社会部記者遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より)

だが、遠藤記者は、「しかし、この正力テレビのために、発足に尽力したのが原因となって、一生を棒に振った男のことを、この〝巨人〟は、思い出してもみなかったろう」(前出同著)と、怒るのである。彼は、その人柄もあってか、この融資あっせんを「社外活動である」と糾弾されて、社を去らなければならなくなる。

遠藤は、この件から、正力は「オレに恩をきている」と思いこんで、何かといえば社内問題で正力に直訴し、正力に次第にうとまれてくる。事実、日テレがスタートしてしまえば〝前進また前進〟の正力にとっては、読売の一記者遠藤などは、歯牙にもかけないであろう。

遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。伊藤の株が、どんな形で、誰に引き取られたかの詳細は知らない。しかし、前述したように、日テレの現経営陣は、誰一人として、個人株主ではなく、大株主はすべて、法人株主ばかりで、伊藤の名も消えている。伊藤はいま、千葉刑務所で服役中であるが、印刷工を日課として暮しているという。

大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。日テレにおけるが如く、「遠藤も伊藤も、〝万骨枯る〟の口である。従って、個人的に正力をウラんでいる人間が、意外に多いものである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 結論として「正力タワー」は建たない

正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 報知から日テレ副社長へと移った亨は、福井社長を「福井クン」と、クン付けでよんだという。いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれ。タワー建設本部長の亨を助けて、誰が二百億もの金繰りができるか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 報知から日テレ副社長へと移った亨は、福井社長を「福井クン」と、クン付けでよんだという。いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれ。タワー建設本部長の亨を助けて、誰が二百億もの金繰りができるか。

もっとも、私をしていわしむれば、万骨側は、正力の偉業への自己の貢献度を過大評価しているのだが、正力はそれほどに評価していないのであろう。正力への〝創意の人〟という賛辞に対しても、「アレはオレのプランだ。コレはアイツの案だ」として、ケチをつける人も多い。しかし、事業家というものは、他人のプランを昇華させて自己のものとし、それを実行にうつす力である。正力はその〝力〟をもっていた。顧みられない〝万骨〟の繰り言などには構っていられまい。

日テレの前社長清水与七郎もまた、正力を〝ウラんで〟いる一人である。読売の重役でもあったが、昭和二十八年創業以来、四十二年十一月に、専務の福井近夫現社長に追われるまで、実に十五年間も日テレ社長であったのだが、その間、福井派と対立、内紛に終始したというので、正力裁断で敗れた人物だ。

このような、そもそもからのいきさつがあるのだから、正力としては、これまた〝正力の日本テレビ〟であったのであろう。そして、正力の下には「組織」がない、と、前稿で指摘し、かつ、「正力亡きあと、正力コンツェルンから脱落、離反するものは、日本テレビ」と、記述した。

報知から日テレ副社長へと移った亨は、年齢もグンと違う福井社長をつかまえて、「福井クン」と、クン付けでよんだという。そのことで、福井もまた、内心、決して快からずとしていたらしい。

「組織」がなく、読売新聞からの、中堅的人材も送りこまれておらず、いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれだから、その上、粉飾決算の摘発ときては、もはや、日テ

レの運命は決った。

第一、例の正力タワーである。これまた、社会的にも、読売、日テレの両社内的にも、全く〝否定的〟雰囲気である。日テレ社内では、禁句にさえなっている。建設担当の大成建設幹部に会ってみても、読売の新社屋建設については、とうとうと語るけれども、こと正力タワーになると、にわかに、口が重くなってくる。

この時、タワー建設本部長の亨を助けて、誰が、二百億もの金繰りができるだろうか。務台は、本社新社屋の建設で、すでに二百億の金繰りに入っている。有楽町の現社屋の処分に関しても、タワーの金策を考えていた正力は、「売ってしまえ」といい、〝読売百年の計〟をめぐらす務台は、「売らないでも金はできる」と、意見が対立していたという。新聞関係の不動産を、タワーの金繰りに使用することは、務台が健在である限り無理なようだ。

すると、タワーを建てるためには、読売ランドの広大な土地ということも、思い浮ぶであろう。ここには、正力武が常務でいる。しかし、後述するが、大正力亡き現在、ランド首脳部に、リスクを敢えてするだけの〝忠誠心〟があろうハズもない。

結論として、「正力タワー」は建たない、ということである。理由は、その経済効率の問題からだ。〝会長の御意志〟は、〝御遺志〟となったけれども、それを継ぐべき人物はいない。

日テレの株主は、東洋信託七・五%、読売新聞七・四%、野村証券三・八%、光亜証券(注。

野村系)五・五%、読売テレビ五・○%の順で、読売系を合計して一二・五%の大株主となる。従って、読売から社長を送りこめるか、どうかというと、読売出身の社長では、亨と棒組にならざるを得ない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 福井社長と栗田との〝密約〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 注目の日本テレビ株主総会。栗田英男の粉飾決算の追及はキビしかった。「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 注目の日本テレビ株主総会。栗田英男の粉飾決算の追及はキビしかった。「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。

日テレの株主は、東洋信託七・五%、読売新聞七・四%、野村証券三・八%、光亜証券(注。

野村系)五・五%、読売テレビ五・○%の順で、読売系を合計して一二・五%の大株主となる。従って、読売から社長を送りこめるか、どうかというと、読売出身の社長では、亨と棒組にならざるを得ない。

日テレのみならず、TBSをふくめて、最大の問題は、組合攻勢による人件費の高騰である。かつて、新聞が民放ラジオを作ったとき、新聞は人材を抱えこんで、カスを放出したという。ラジオが定着して、テレビが生まれるとき、ラジオもまた、人材は残してカスを出したといわれる。そのせいか、給与ベースは現在、全く逆転して、テレビが一番よくなっている。

日テレ経営陣にも、人がいなかったようである。それが、この粉飾決算の事情を雄弁に物語る。すでに、報知で組合に押しまくられて、正力にすら〝諦らめ〟られた〝経営者〟亨と、棒組みを組んでのお守り役社長となれば、読売本社から、火中の栗を拾いに行く奴はいない。しかも日テレ社長ともなれば、ある程度は名が知られておらねばならない。読売社内では、常務編集局長の原四郎の呼び声もあるが、原が動くとは思えないので、読売から社長がでる線は可能性がない。

同じ大株主野村証券の相談役、奥村綱雄の声もでているし、ダーク・ホースとして、大映社長永田雅一の名もあがっている。読売では、永田を警戒して、永田に乗りこまれる位なら、本社から出そうという意見もあるようだが、所詮は、亨がいては人材が名乗り出ないからムリであろう。

すると、やはり、奥村あたりにおちつき、亨は副社長を外されて平取。次期あたりで退任、かくて、大正力の最後の仕事だったともいうべき、民放テレビの草分け、栄光の日本テレビは、万骨の恨みを秘めたまま、正力コンツェルンから、静かに去ってゆく——ということになろう。

日テレが変貌した時、大阪の読売テレビの去就が問題となろうし、第三者社長が、東京タワーなり、NHKタワーなりに依存し、難視聴地域を解消し、さらに九州ネット局を加えての、再びTBSに拮抗しようという、新しい〝テレビ戦国時代〟の幕あきとなるかどうかである。

四十四年十一月二十六日、注目の日本テレビ株主総会が開かれた。午前十時から二時間にわたる総会は、元改進党代議士で、栗田政治経済研究所を主宰する栗田英男の一人舞台に終始した。栗田の粉飾決算の追及はキビしかった。粉飾当時の経理局長→取締役→監査役の柳原幸三郎、その後任の経理局長→取締役の柳原承光の二人がツカまえられた。栗田の質問は、それぞれが「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。これに対し、二人はただ頭を下げるばかりで、「責任を痛感して、すでに辞表を社長のもとに提出しているので、その儀ばかりはゴカンベンを……」と、ついに答えなかった。

だが、この総会で、一つ解せないのは、人事が全く取りあげられなかったことである。どうも福井社長と栗田との間に、ある〝密約〟があって、今期は人事をイジらず、粉飾の後始末を福井

にやらせる、という感じである。亨の副社長もまた一息ついた、というところだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨のおちつき場所でもあろうか

正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。

だが、この総会で、一つ解せないのは、人事が全く取りあげられなかったことである。どうも福井社長と栗田との間に、ある〝密約〟があって、今期は人事をイジらず、粉飾の後始末を福井

にやらせる、という感じである。亨の副社長もまた一息ついた、というところだ。

報知、日本テレ、タワーが駄目……

さて、日テレでの仕事がなくなったとなると、亨の行く道は、ジャイアンツのオーナーばかりである。読売巨人軍はどうなるか。

亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。同時に、川上との不仲を伝えて、巨人軍に変動がおきるという説もでてくる。しかし、プロ野球のオーナーと、株式会社の社長の経営的成果とは、同一には論じられまい。

読売巨人軍をもっているのは、読売興業株式会社で、野球部と新聞部がある(注。新聞部は、九州読売を経営している)。代表取締役は、正力の他に、務台、山岡重孝(読売専務)、亨の四人であった。亨オーナーというのは、読売興業の代取としてである。

亨と川上の仲は、いわゆる悪感情とか憎悪とかではない。川上の人柄のせいもあって、しかも、川上の正力依存の度が強かったことも加わり、決して、親しくはないが、不仲でもない。だから

正力が死んでも、亨が川上を追い出すといったような、〝異変〟がおこる可能性は全くない。

次期監督の立場におかれているのは、長島と藤田。しかし、藤田は個人的に夫人の系累問題で人望がなく、長島に水をあけられている。ところが、長島はまた、まだまだ現役プレイヤーとしての効率がよいから、川上の後任というには、ワン・ポイントあるとみられている。つまり、川上引退の時期には、暫定監督に、巨人出身者をもってきて、長島の時代になる、という観測が、おおむね順当のようである。

それよりも、正力の〝忠臣〟鈴木竜二セ・リーグ会長の後任如何が、巨人のあり方に変動をきたすという。つまり、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・スズキだ、というのである。それは、読売本社でもいえることだが、ポスト・ムタイと同じである。

セ・リーグの中で、巨人が日程その他すべての点で優遇されているのは、もはや、大正力の余光や亨オーナーの〝功績〟ではなくて、鈴木の正力への忠節だけだ、とみられている。その鈴木が、最近体力的に会長がムリになってきている、といわれている。

巨人のあげる収益は、最近はやや鈍化してきているとはいえ、年間一億円以上。やはり読売新聞にとっても、ドル箱である。

亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところで、しかも、かつてのように、父正力のモノ真似の

カミナリなども落とさず、「ア、それは議題として残そう」といったように、協調精神も芽生えてきたというから、まずは、巨人軍と川上野球も安泰、そして、亨オーナーも安泰と、ここばかりはメデタシメデタシというところ。亨のおちつき場所でもあろうか。