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迎えにきたジープ p.186-187 三橋の身柄までつけて国警に

迎えにきたジープ p186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.
迎えにきたジープ p.186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。

そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。

そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!

三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。

何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。

そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。

ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。

この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。

三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

最後の事件記者 p.222-223 典型的な幻兵団のケース

最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。
最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

満州部隊から入ソ、マルシャンスク収容所で選抜されて、モスクワのスパイ学校入り。高尾という暗号名を与えられて誓約。個人教育、帰国して合言葉の連絡——すべてが典型的な幻兵団であった。

姿を現わしたスパイ網

三橋を操縦していたのは、軍情報部系統の極東軍情報部で、ラ中佐などの内務省系ではなかった。従ってレポに現れたのは、代表部記録係のクリスタレフ。二十四年四月に、十二日間にわたって、麻布の代表部で通信教育を行った時には、海軍武官室通訳のリヤザノフ(工作責任者)、経済顧問室技師のダビドフ、政治顧問室医師(二十九年九月にエカフェ会議代表で来日)のパベルの三人が立合っている。

二十三年四月十七日に、クリスタレフとのレポに成功してからは、大体月一回の割で会い、翌年八月二十日ごろまで続いていた。二十四年四月には無電機を渡され、ソ連本国との交信八十二回。同五月からは、元大本営報道部高級部員の佐々木克己大佐がレポとなり、二十五年十一月に自殺するまでのレポは五十七回、その後にレポが鹿地に交代して、二十六年六月から十一月までに、十五回にわたり電文を受取った。

この間の経過は、すべて米軍側の尾行、監視にあったので、米側は全く有力な資料を得ていたことになる。電文は七十語から百二十語の五ケタ乱数だったが、米軍では解読していたのだろう。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。