事件の後始末・スター記者時代の終わり」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次(つづき) 章扉

読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)
読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり

第六章 安藤組事件・最後の事件記者

ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ

あとがき

序に代えて 務臺没後の読売

読売梁山泊の記者たち p.260-261 「立松君のネタモト知っているんでしょう」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる
読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。
「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」
「もちろん、その検事を取り調べます」
「パクるんですか」
「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」
「その検事が、相当な地位にあるとしたら」
「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」
「フーン…」

「立松君のネタモト、知っているんでしょう」

「知ってますよ。でも、ニュースソースは秘匿せよという社命だから、いえません」

「話してくれないと、困るんだよなあ…」

そんなヤリトリのあと、私が質問したのは前述したように、高検が、その検事の名前をつかんだあとの、対応であった。「犯罪容疑の有無であって、地位や身分は関係なし」という、川口の表情は、私の眼を直視して、毅然としていた。

私は、「フーン」といいながら、河井検事だと供述したあとに、どんなにか、ドラマティックな〝事件の展開〟があることかと、考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。

土井たか子発言ではないが、それこそ〝山が動く〟のである。河井検事は高検に調べられ、辞職を迫られるであろう。当時の馬場義続・法務事務次官も、辞任に追いこまれるかも知れない。岸本は総長になり、〈歴史〉が私の一言で変わるのである——この〝誘惑〟は、まさに、私の人生をも、一変させるようなものであった。

「その検事が、馬場派の検事だったら、川口さんにパクられて、もう、総崩れだネ。高検のメンバーが、このまま、最高検だ。ハハハおもしろいねぇ」

私は、川口の追求を、こんな与太を飛ばして、辛くも、振り切った。

やはり、竹内四郎、原四郎と、二人の対照的な性格の社会部長に、教えられ、育てられた、〈新聞記者・魂〉が、しっかりと根付いていたのだった。

世論形成のため、時間稼ぎをしていた原四郎が、各社と連帯して、高検の不当逮捕を非難する、ゴウゴウたるキャンペーンを捲き起こし、立松は、拘留がつかずに、二十七日午後、釈放された。

事件の後始末、スター記者時代の終わり

それ以後、舞台は、国会の法務委員会に移った。と同時に、読売にとっては、ニュースソースは検察筋と答えた小島編集局長の、法務委への証人喚問という、新しい展開を見せてきた。

国会の証人喚問となれば、証言拒否ができなくなる。被疑者には黙秘権があるが、証人には、黙秘権はない。しかも、そんなヤリトリに慣れていない、小島編集局長が喚問されたら、どんなことになるか。

実際のところ、マルスミメモによって、九名もの代議士に、〝容疑あり〟の記事を書いたのだから、これらの議員が、入れ換えで法務委員に登録してくると、局長の喚問が実現する可能性は、十分にある。

その報告をした時の、小島局長の周章狼狽ぶりは、見ていて、情ない思いであった。これが、読売新聞の編集局長か、と、呆れざるを得ない、ほどであった。

——そこに、正力松太郎代議士が登場する。

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.262-263 読売の〝劣勢〟は覆うべくもなかった

読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった
読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

だが、それは、問題の根本的な解決には、なにものをも、もたらすものではなかったのである。司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。

立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでも、なかったから、読売の〝劣勢〟は、覆うべくもなかった。

舞台は、すでに、衆院法務委員会に移っており、検事総長は、「両氏には、容疑はないし、検察庁からは、絶対に洩れていない」と委員会で言明した。

そこで、「検察筋」と、両代議士に答えた小島文夫・読売編集局長の、証人喚問へと動き出していた。

本田著「不当逮捕」はこう描いている。

《…。だが、そうはいっても、立松が、司法記者クラブ詰めのキャップである三田に、仕事上のことであるにせよ、迷惑をかけている事実は動かせない。前日来、東京高検と社のあいだを、何度も往復している彼の立場を立松は考えた。

それにもうひとつ、この日の午後二時から後輩である滝沢が、東京高検の事情聴取を受けている、と聞かされたことも、立松には気に掛かるところであった。

ここは、自分が出て行かないことには、収まらないだろう。出頭要請には、いぜんとして、引っ掛かるものがあるが、立松は、そう肝を決めた。

「よし、久し振りに顔見せと行くか」

三田の膝を叩いて立ち上がったときは、かつての、司法記者としての自信が、蘇っていた。 「ともかく出頭して、まず滝沢君を帰してもらいます」

部長席に近づいて、三田との話し合いの結論を告げると、景山はいった。

「滝沢君のことだけど、君こそ病み上がりなんだから、早く帰ってこいよ」

次いで、原編集総務に挨拶すると、ねぎらいを口にした景山とは、打って変わったきびしい表情で、いきなり問いを発した。

「新聞記者の最後のモラルは、何だか知っているか」

その権高(けんだか)な物言いに、立松の胸の中で、むらむらとこみ上げるものがあった。竹内四郎の後を受けた原四郎は、「両四郎」と並び称されて、前任者を上回る名社会部長ぶりを謳われ、整理部長兼編集局総務に昇進したが、現役時代の彼は、文章派に属していた。

同じ四郎でも、司法記者の先輩である竹内のほうに、心を残す立松は、事件も知らずに何が社会部長か、と内心では、原を多少軽んじていた。そうした感情が、頭ごなしの原の問いかけに触発されて、あたまをもたげたのである。

これがふだんなら、持前のヤユで軽くかわすところだが、時と場合をわきまえて、神妙に受け答えした。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

読売梁山泊の記者たち p.264-265 立松は我がままで甘えん坊

読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。
読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

原は、立松の胸中も知らず、端正な顔に似合わない、時代がかった台詞を口にした。

「そうだ。要するに、お前の意地と根性の問題だな」

午後四時、立松は、東京高検の正面で、三田と一緒に乗ってきた車を降り、三階の公安検事室に川口主任検事を訪ねた。

「こんにちわ」

かつての調子で、気軽に扉を押して入ると、川口と差し向かいで坐っていた滝沢が、にわかに取り乱した態度を見せた。

「立松さん、ひどいんですよ。川口さんはこの僕から調書をとるんだから。いま、この記事の説明を、しつこく求められているところなんです」

滝沢は、机の上の新聞を指しながら、表情ばかりか、声までもひきつらせている。

何といっても、まだ場数が足らない。それに神経質な面のある滝沢である。予期しない事態に、動てんしているのだろう。立松は、その程度にしか、受け止めなかった。

しかし、滝沢は川口の容赦ない取り調べぶりから、東京高検の上層部が、自分をオトリに立松を釣り出して、強硬な態度でのぞもうとしているらしい気配を察知し、それを何とか彼に伝えて、入口で引き返させよう、としたのである。》

本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。滝

沢もまた、個人的に親しかったが、社歴では、本田より古かったから、立松を批判できる距離にあった。

そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

立松は、いうなれば〝金持ちのお坊ッちゃん〟であったから、我がままで、甘えん坊でもあった。だが、頭はいいので、自分を大切にしてくれる人に対しては、自分もへりくだり、決して粗末にしなかった。

一方で、自分を粗末に扱う人には、激しい敵意を抱いた。それは、本田も指摘しているように、「クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩」(「不当逮捕」39ページ)で、〝大スター記者〟になってしまったが、記者としての基礎訓練はまったくなく、かつ、原稿も決してウマクない、という、コンプレックスで裏打ちされたものであったろう。

立松は、月給のすべてを小遣いにして、さらに、「取材費伝票」で、経費を取っては、これまた、小遣いにしていた。だが、取材費は清算せねばならない。当時、社会部記者のほとんどが、そうであったように、銀座の松屋に出かけては、落ちているレシートを拾ってきて、その額面金額に合わせて、もっともらしい「項目」を書いていた。

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

読売梁山泊の記者たち p.266-267 「小島局長に証言拒否ができるか」どうかのご高説を

読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」
読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

その大雑把さに、経理部が、レシート番号から、売り場を調べてみたら、婦人下着売り場など、伝票面とツジツマが合わない。そこで、社会部の伝票の〝一大検証作戦〟が行なわれて、原社会部長は、総務局長に文句をいわれたらしい。

社会部長席に戻ってきた原は、部員席を見渡して、たまたま、目についた立松を呼びつけた。私も、そこに居合わせたので、原の怒声を、ハッキリと聞いている。

「立松! このドロボーの、パチンコ屋の手伝い野郎メ!」

それから、立松の提出していた、取材費清算伝票を、彼に叩きつけた——この事件が、立松を深く傷つけたことは、事実である。前任の竹内四郎が、立松を可愛がっていたことはすでに述べた。多分、この伝票事件以来、立松は原に対して、敵意を抱いていたに違いない。

その、立松の「原四郎・観」を、本田は、無批判に、文章にしている。私とて、例外ではない。原に怒鳴られたことは、数多くあるが、救いは、それがその場限りで、アトをひかないことである。

本田のように、「原の権威主義的な統率」というのは、誤りである。彼が、私生活を社に持ちこまず、かつ、部下にも見せなかったように、「原は仕事第一の統率」であった。いい仕事をやる記者は、どんどん、重用していって、励みを与えてくれたのだった。

小島編集局長の、衆院法務委への、証人喚問という動きに対して、読売は、対策を講ぜざるを得ない。

というのは、立松のネタ元が、河井検事、当時は、法務省刑事課長であったことは、すでに、編集幹部はみな知っていた。その、河井検事がタイコ判を押した、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士の収賄容疑が、検事総長の花井忠によって、否定されてしまったから、である。

小島局長、原総務、景山部長、長谷川次長に、前任者の萩原記者、キャップの私を加えての、対策会議がしばしば開かれた。立松逮捕当時には、立松家に木内曽益(注=馬場法務事務次官の兄貴分)、立松記者に中村信敏、柏木博の三弁護士を、萩原、三田の相談でつけたが、立松が釈放になって、局長の喚問という、事態になったのだから、この三人では、適任ではない。

また、二人で相談して、当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。

そうして、小野清一郎と、同じ事務所の名川保男、竹内誠の三弁護士を招いて、同じ顔触れの会議が持たれた。といっても、萩原と私とが、交代で、三弁護士に、経過説明をしたのだ。そして、「小島局長に証言拒否ができるか」どうかの、ご高説を拝聴しよう、というものであった。

ウン、ウンとうなずきながら、話を聞いていた、小野弁護士は、締めくくるように、いった。

「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

この一言を引き出すまでに、すでに二時間ほどが経っていた。そして、このあとはもう、小野発言が出てこない。その日の結論と判断した長谷川次長が、「食事のご案内を…」と、私にいう。

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

読売梁山泊の記者たち p.268-269 小野弁護士への謝礼をいくらにするか

読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた
読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

この、小野弁護士に関して、後日譚があるのである——正力社主の登場で、一件落着して、証人喚問対策会議は、あとにも先にも、この一回だけであった。だが、それからというものは、小野弁護士への謝礼を、いくらにするかということで、私と萩原は、東奔西走の日々を送ることになった。

なにしろ、読売側から、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったものだ。だが、発言は、「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。

二人で手分けして、「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみたが一向にラチがあかない。私が、遠縁に当たることを奇貨として、法務省特別顧問室に二人で訪ねて、直か当たりすることになった。

ところが、これまた一言だ。

「私が、日本で一流の刑事弁護士だ、ということを、お忘れなければ、いかほどでも、結構です」

とうとう、困り果てた二人が、出した結論は、五十万円。奉書に包み、水引きをかけて届けに行ったら、小野弁護士は、ウラを返して数字をみて、「結構です」と、受け取ってくれたので、ホッとしたことを覚えている。

ところが、五十万円の伝票を持って、小島編集局長のハンコをもらうべく、机上に置いた時、局長は、あの〝周章狼狽〟を忘れたように、「エッ? あの一言だけで、五十万円もするのか?」と、卑しい発言をした。それを納得させるのに、またまた一苦労であった。

どうして、正力松太郎社主・衆議院議員が登場してきたのか、その経緯については、私には、まったく情報がない。

当時、正力社主に、対等に口を利ける政治家としては、賀屋興宣と岸信介ぐらいしかいない。このふたりの、どちらかが、読売にも宇都宮、福田両代議士にも、キズをつけないような、調停案を出したものであろう。

【図版キャプション】昭和32年12月18日(左)と同年10月18日(右)の朝刊紙面

読売の社会面トップ。昭和三十二年十月十八日付の、「収賄の容疑濃くなる」という、五段抜きの見出しと同じ号数で、「事件には全く無関係」という、同じ行数の打ち消し記事を掲載する、ということで、和解する。名誉毀損の告訴は取り下げる、という、調停案の内容が、私と萩原に伝えられた。

こうして、丸二カ月後の十二月十八日の朝刊に掲載された。和解ののち、あとは社内の処分が発表されただけだ。

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

読売梁山泊の記者たち p.270-271 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者
読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

司法記者クラブでのキャップではあったけれども、立松が、社会部長直轄だったので、私は責任を問われることはなかった。

だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。

第六章 安藤組事件・最後の事件記者