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事件記者と犯罪の間 p.152-153 私に与えられた名は〝悪徳記者〟

事件記者と犯罪の間 p.152-153 あの社旗のもとで、身体を張り職を賭して存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに石もて追われようとも、私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。
事件記者と犯罪の間 p.152-153 あの社旗のもとで、身体を張り職を賭して存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに石もて追われようとも、私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。

私は傍らの萩原記者を顧みて笑った。昭和二十三年から四年にかけて、この三人は司法記者クラブで一緒に、「朝連解散」の特オチをやった仲だった。そして、その頃の三人を検事として知っている中村信敏弁護士が、立松事件にひきつづいて、私にもついていて下さったので、私と萩原との笑いに合せて笑っておられた。

全く悪縁であった。立松記者が逮捕された時は、私の担当する検察庁だったので、私が先頭に立って検察の不当逮捕を鳴らし、検事諸公の反感をも大分買ったりしながらも、立松君の面倒を見たのだったが、今度は私が警視庁に逮捕されて、萩原君にすっかり面倒を見てもらう羽目となったのである。

だが、事情はすっかり違っていた。名誉毀損事件の不当逮捕は、立松君を〝英雄〟にしたのだが、横井殺人未遂事件の暴力団を逃がしたという犯人隠避事件で、すでに逮捕状の準備されている私に与えられた名は、〝悪徳記者〟!

こんな違いをハッキリと自覚しながらも、私の笑い声は明るかった。朝、家を出る時に妻にいい残した言葉は、「いいか、武士の向う傷だ。国法にふれたのだから、罪は罪だが、武運拙く敗れた賊軍なのだ。オレの留守中は、胸を張って歩け。新聞記者として恥ずべき何ものもないんだから」というものだ。

ハタハタと鳴る赤い読売の社旗が、気持良く眼にしみる。あの旗は、昭和十八年十月二日、入社二日目に初めてタダ一人で乗った自動車に、ひるがえっていた旗と同じ旗だ。あの時の、「オ

レは新聞記者になったンダ」という、身ぶるいのしそうな感激が、今、逮捕状の待つ警視庁へ向う瞬間にも襲ってきた。

あの社旗のもとで、身体を張り、職を賭して、存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに、新聞記者なるが故の厳しい批判と、冷笑やレンビンの石もて追われようとも、警視庁の正面玄関を昇ってゆく私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は犯人隠避容疑の逮捕状を、警視庁地下の調べ室で、捜査第二課員によって執行された。「関係者の取調べ未了」という理由で、刑訴法に定める通り、二十日間の拘留がついた。そして満期の八月十三日、私は「犯人隠避ならびに証拠湮滅」罪で起訴され、意外にも早い同十五日に保釈出所を許された。逮捕から拘禁を解かれるまで二十五日であった。

グレン隊と心中?

事件というのは、改めていうまでもない。さる六月十一日、銀座の社長室を襲って、ひん死の重傷を負わせた横井事件で、殺人未遂容疑の指名手配犯人となった、渋谷のグレン隊安藤組幹部小笠原郁夫(二六)を、北海道旭川市に逃がしてやったということである。これが、私の〝悪徳〟ぶりの中身であった。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に

行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

最後の事件記者 はしがき

最後の事件記者 はしがき 01
最後の事件記者 はしがき 01

はしがき

私が、さる七月二十二日、横井社長殺人未遂事件の指名手配犯人を、北海道に逃がしてやった、ということで、「犯人隠避」罪の容疑に問われ、警視庁捜査二課に逮捕されてから、もう五ヵ月になる。

ということは、私が在職十四年十ヵ月にもおよぷ、読売新聞社会部記者の職を投げ出してから、五ヵ月になるということだ。つまり、私はその逮捕の前々日に社に辞表を出したからである。

私には私なりの論理があって、「辞めるべきだし、辞めねばならない」と思って、サッバリと辞表を出したのだが、世の中というのはむつかしいもので、あまり辞めッぷりが良かったので、かえって痛くもないハラを探られたらしい。

つまり、「奴は取材だといってながら、後暗いから辞めるのだろう」とか、「安藤組の顧問という、高給の就職口が決っているから、平気なンだよ」とか、いったたぐいだ。

ある三流雑誌が、〝悪と心中した新聞記者〟という題で、私のことを、安藤とは法政の先輩後輩

の仲で、安藤のツケで銀座、渋谷を飲み廻っていた、と、全く事実無根のことを書いた。保釈出所してそれを読んだ私は、早速その社へ抗議に行った。

最後の事件記者 p.028-029 『三田君、覚えているかい?』

最後の事件記者 p.028-029 『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』『そうです。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』『我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』
最後の事件記者 p.028-029 『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』『そうです。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』『我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』

十五日に保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。

『私は、横井事件を一挙に解決しようと思って、小笠原を一時約に北海道という、〝冷蔵庫〟へ納めておいたのです。それは、安藤以下、五人の犯人を全部生け捕りにするためです』

『ナニ? 五人の犯人の生け捕り?』

『そうです。そして、五日間、読売の連続スクープにして、しかも、事件を一挙に解決しようという計画だったのです』

『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』

『そうです。私は各社の記事をみて、そう思いました。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』

『………』

『なるほど。私が一番に感じたことは、少くとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で、何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした。』

『ウン。我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』

『誰が、どうして、私を悪徳記者にしたんです。新聞ジャーナリズムがそうしたんだと思います』

『ヨシ、それで行きしょう。あなたの弁解もウンと入れて下さい。自己反省という、新聞批判も忘れないで下さい。』

田川編集長は、「五十枚、イヤ、もっと書ければもっとふえてもいいです」と、仕事の話を終ると、柔らかな態度になった。

『三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね。』

『エ? じゃ、あの、田川君か!』

私はこの奇遇に驚いた。彼がまだ別冊文春の編集長のころ、会った時には、そんな話も出なかったし、また記憶もよみ返ってこなかったのである。

田川君の態度には、編集長としての、「悪徳記者」を取上げる気持と、それにより添うように、この落ち目の旧友に、十分な弁明の場を与えてやりたい、といったような、惻隠の情がにおっているようだった。

p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―

p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間― 三田和夫 初出:文芸春秋昭和33年10月号/再録:筑摩書房・現代教養全集第5巻マス・コミの世界
p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間― 三田和夫 初出:文芸春秋昭和33年10月号/再録:筑摩書房・現代教養全集第5巻マス・コミの世界

わが名は「悪徳記者」

――事件記者と犯罪の間――|

三 田 和 夫

(元読売新聞社会部)

昭和三十三年七月二十二日、私は犯人隠避容疑の逮捕状を、警視庁地下の調べ室で、捜査第二課員によって執行された。「関係者の取調べ未了」という理由で、刑訴法に定める通り、二十日間の拘留がついた。そして、満期の八月十三日、私は「犯人隠避ならびに証拠湮滅」罪で起訴され、意外にも早い同十五日に、保釈出所を許された。逮捕から拘禁を解かれるまで二十五日間であった。

グレン隊と心中?

事件というのは、改めていうまでもない。さる六月十一日、銀座の社長室を襲って、ひん死の重傷を負わせた横井事件で、殺人未遂容疑の指名手配犯人となった、渋谷のグレン隊安藤組幹部小笠原郁夫(二六)を、北海道旭川市に逃がしてやったということである。

これが、私の〝悪徳〟ぶりの中身であった。