幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。六
号ボックスの寄地(ヨリジ)少尉と、二号ボックスの東(アズマ)中尉の所へ行ったら、メッタなことを言うな。在ソ経歴をきかれたら、こう答えろ。などという工合で、ウランウデの途中の森林伐採の状況まで教え込まれてくるといった按配であった。この辺の米ソスパイ戦はまさに虚々実々というところである。
これがさらに十一月に入ると、要注意者の中には、訊問拒否のため調査日になると仮病を使って入室戦術をとる者が現れてきた。
冬が来て引揚船はナホトカに来なくなった。この時期にソ連側の政治教育は徹底した。日本新聞がアジテーターとなり、反軍、反将校階級闘争が指導された。それと併行して文化活動が奨励され、「日本新聞友の会」運動がまき起され、やがてこれは民主グループ運動へと移っていった。
アメリカの軍事、思想調査に対するソ連側の対抗策である。こうしてシベリヤ民主運動は、二十二年冬から二十三年春へかけての引揚中止期間に、みるみる盛り上っていった。やがて春三月、民主グループ運動はさらに発展してハバロフスク・グループに最高ビューローを置く、反ファシスト委員会が、全シベリヤ収容所に結成された。多数のアクチヴィスト(積極分子)が成長していった。
二十三年四月、再び引揚が始った。その年の引揚は変っていた。船内斗争、上陸地斗争が民主グループ幹部によって指導され、米側の調査を拒否しソ連謳歌を談ずるものが増えてきた。LS、CICの打撃は大きかった。二十二年度の報告書を検討したGHQでは、山田大尉の後任にマウンジョイ少佐を送り、さらに権限を強化して、レントゲン写真と同時に栄養度をみるという名目で、要注意人物の顏写真撮影をはじめた。
一方、引揚者たちは米側に対して反抗の態度を明らかにした。六月ごろからは東京へ着いた一行は援護局のスケジュールも無視して、出迎えの共産党員たちと一緒に代々木の党本部訪問の集団〝代々木詣り〟をはじめだした。
NYKビルでの再調査を命ぜられる者が多くなり、その調書は顔写真とともにファイルされ、厖大な対ソ資料が着々と整備されていった。こうして幻兵団として米側にマークされた人々のうちには、幹候出身ではなくて、陸士卒の正規将校も多かった。
天皇陛下の軍人として、一命をこう毛の軽きにおいた旧軍人たちが、いまや、一方は米国に加担して昔の上官、部下を摘発し、また一方ソ連について同様に上官、部下と闘うということになってきたのである。この元陸軍将校団のまさに骨肉相喰む相剋こそ、元海軍将校団とのよい対照であり、日本国軍史の最大研究テーマである。プロシヤ将校団の伝統あるドイツ将校団
と比較するとき、いよいよ興味深いものがある。(「旧軍人とアメリカ」「旧軍人とソ連」については第三集参照)