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正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 読売にとっても貴重な記録

正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが
正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが

ところで争議の解決後小生は前の話し合いにもとづき、専務として当然読売に復帰する筈でありましたが、実際にはそれが実現せず——その後幾多の紆余曲折を経て二十五年の二月に——平

取締役として入社することになったのであります。そして翌三月七日に開かれた読売七日会(各県の代表的有力店主の会)の席上で数年ぶりに復社の挨拶をいたしましたが、その話の内容が当時、業界紙の一つであった「新聞通信」に詳しく掲載されたのを記憶しております。ところが、その新聞を小生の友人が、偶然にも今日まで保存しており、先日現物を持参して来社され、曰く『これは君にとって当時を偲ぶ記念品であると思うが、読売にとっても、貴重な記録であるから、これをファックスにとって広く関係者に見てもらったらどうか』という話があったのであります。そこで早速再読いたしましたが、二十年後の今日からみて、反省と参考になる点が多々あるように思いましたので、言われるままに、改めて増し刷りをいたしました。

斯様な次第で、その一部を同封お届け申し上げますが、お暇の折にでもお読みいただければ幸いと存じます。

末筆乍ら時節柄ご自愛専一に愈々ご健勝にご活躍の程お祈り申し上げます。 敬具」

同封された業界紙「新聞通信」紙(25年8月11日付)は、第二面の全面を使って、「務台光雄氏 読売新聞復帰第一声」という、凸版の全一段通しの横見出し。頭に、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」という、五段の二本見出しで、読売七日会(注。販売店主の会)例会における、務台の挨拶全文が記録されている。

「務台光雄氏が復帰して、始めての読売七日会は、都内読売会幹部も交えて、七日(注。25年3月)午後二時から、日比谷陶々亭に開催。当日地方から出席した販売店八木会長以下五名、都内野村会長以下三十一名、本社から馬場社長、安田副社長、武藤常務業務局長、小島取締役、務台取締役、菊池販売部長、村田出版局総務部長、その他各部長、各担当社員列席して開会」

と、本文記事があり、馬場社長と武藤常務の挨拶を簡単に紹介したのち、務台演説の全文となっている。

これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが、同時に、掲載紙が新聞業界紙であったことから、それらを記事の重点とせずに、前半の人事問題にウェイトを置いて、そのような見出しをつけていることもあって、反響は意外な形で出てきたのであった。

まず、務台の「新聞」と、「読売」への愛情を、そのコピーによって見てみよう。

「水を飲みて源を思うは人の至情なり——事の成るには必ず成るべき理由と、依って来るところがあるのであります。いつか馬場社長が拙宅へ御出でになった時、いろいろと御話を承りましたが、その時私は新聞人の在り方について、即ち新聞人の根性について御話しをいたしたのであります。

正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 自己の全生命を読売に託す

正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。
正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。

新聞人はプライドを持たなければならない、いやしくも天下の大新聞の社長ともあろう者は、他の地位に、例えそれが総理大臣であろうと、また大政党の総裁であろうと、これに心を動かして腰がふらつくようでは仕方がない、新聞には別の使命があるからこれを通すという強い信念と、高い識見がなければならない、然もこのことは一般新聞人に対しても言い得ることだといって御話し、社長もこれには全幅の賛意を表されたのでありますが、新聞に従事する者は編集、業務各々立場は異るも、これを天職とし、これに殉ずる覚悟が必要と思うのであります。

その時私は更に進んで誠に僭越ではありましたが、次の御話しをしたのであります。

私は今でも読売新聞は自分のものであると思って居る、というのはこれは所有権の問題ではない、所有権は株主にあることは勿論であるが、それは所有権を遙に超越した力強いものである。所有権はこれを他に譲渡しようと思えば何時でもできるし、また一旦譲渡すれば全く関係のなくなるものであるが、われわれのこの気持というものは如何なる権力を以ても、また如何なる金力を以ても絶対に冒すことのできない、俗に血の繋りと申しましょうか、富貴も淫する能わず威武も屈する能わざるものであります、自己の全生命を読売に託すということ、そしてこれに生活の意義を見出すということ、考えればこれは極めて平凡なことでありますが、われわれ凡人はこれに大なる誇と無限の悦びを感ずるのであります、愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであ

ります。(中略)

(読売信条については)〝われわれは真実と公平と友愛を以て信条とする〟真実とは虚のないこと、作りごとのないことである。私が私の復社について極めて概略ではありますがその要点を御話し申上げたのは、坊間これにつき無責任なる噂がとんでおる。例えば私が読売に復社したのは、こんどは前の場合とは全然反対に正力さんの推せんによるものであるとか、あるいはまた務台は正力系を代表して入ったのであるとか、更に務台の立場は品川や清水と同じであるとか、その他いろいろ為にすると思われるような風説がとび、業界に誤解を生じているのであります。

併し私が読売に復社したのは、前にも申上げた通り馬場社長の御好意によるものであり、また品川、清水の両氏が読売の重役になったのは、正力さんの株を代表して入ったのに対し私の場合は復社の上重役になるということで復社に重点があり、重役は付け足りとは申しませんがこれは第二で、その他両氏の立場とは性質が全然異るのであります。かような次第でありますからこの間における事情を明にし、真実を御伝えするのが業界のためにも、また読売のためにも必要であって、これが私の義務であり、責任であると信じましたので申上げた次第で、全く他意はないのであります、従って私の話は神明に誓って間違いのないことを特に申上げます。

言うまでもなく新聞は社会の公器であります、これは株主のものでもなければ経営者のものでもない、また社員のものでもありません。

正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 社員たちの受け取り方

正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった
正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった

従ってこれを運営するに当っては正力系もなければ馬場系もない、またあってはならないのであります、広く読者の心を心として使命遂行のために会社一丸となって最善の働きのでき得るようその協力体制を作ることが必要であります。

昔から派閥のある新聞は必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります、私の心境は強いてこれをいうならば、読売系に属すという以外に答を知らないのであります。(中略)

馬場社長は常に新聞は読者のものであることを説き社員には謙虚たれと教えているのであります。

私はこの社長の精神と指導に遭い、安田、武藤の両君ともこん然一体となり幹部諸賢並に各位の御鞭撻の下に、心を新にして新生の一歩を踏み出し、大読売建設の礎石たらんことを切に念願するものであります」

前述したように、このコピーの五段見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であったのである。しかも、二十五年三月にこの第一声をあげてからも、務台の読売出社は「玄関に武藤が待ってい

て、務台の出社を阻止した」(岩淵の話)などと、なかなかウマクゆかず、本人が語るように、翌二十六年一月からになるのである。

このような人事問題の部分が、見出しや大きな活字で組まれているのであるから、コピーを送られた社員たちの受け取り方は、まさに〝親の心子知らず〟であった。肝心の「新聞」や「読売」への愛情が、吐露されている部分は、活字の細かいせいもあって、見落されてしまったのである。

務台側近筋は、その意図をこう語る。

「務台さんの願いは、もう二十年も前の、あの第一次、第二次のストのころのことを知ってる人が少なくなり、戦後派の若い人たちが社員に多くなってきました。もう、〝読売精神〟といっても、それがどんなものなのか、理解されなくなってきているのです。

二万の小新聞『読売』が、正力さんが第七代の社長となってから十年で八十万、十二年で百万、十五年で百五十万、という、驚くべき躍進をとげ、戦後もまた、用紙統制の撤廃時に、百八十七万。それが、十八年間で五百二十七万という、またまたの大躍進です。

この成長の秘密は、務台さんによれば、やはり〝読売精神〟なのです。薄給にもめげず、読売と共に生き、読売と共に死ぬという、運命協同体の精神が、いわゆる〝読売精神〟なのだと説かれます。

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 いうなれば〝檄〟を飛ばした

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。

今年はいよいよ、新社屋建設の初年度。しかも、日本制覇の朝日との決戦の年です。この秋に当り、全社員に、いうなれば〝檄〟を飛ばしたのが、あのコピーの配布でした。

もちろん、小林与三次副社長にもお見せしたし、全重役の了解もとって、やったことでした。それも、たまたま、務台さんの友人の方(注。御手洗辰雄といわれている)が、蔵書の整理をしていたらあの新聞が出てきた。発行所に聞いてみると、もう、保存もされていないという。そこで、『これは貴重な資料だから、保存されたらどうか』と、務台さんに下さった。読み返してみると、今の読売社員に訓えるべき内容を含んでいる、というので、自費で作られて、個人の資格で配られたものなのです。

ところが、全く思いもかけない反応が起きてしまって……」

思いもかけない反応——というのは、改めて説明するまでもなかろう。〝ポスト・ショーリキ〟をめぐる、正力コンツェルンの動きである。

薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮したのであった。だが、「新聞」そのものの、体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやってしまった。ここに、務台—原ラインが、現場から浮いてしまっているという、私の論拠がある。

出向社員は〝冷飯〟組

さて、ここらで各社の体質をみなければならない。

昭和十八年十二月十五日現在の社員名簿によれば、有限会社読売新聞社は、代表取締役社長正力松太郎以下二千八百三十三名。しかも、ほぼ二割もの応召休職者を加えての人数だから、実数は二千名チョットであろう。それから二十年六カ月後の、三十九年六月一日現在の名簿をみると、社主(注。法的権利義務がない)正力松太郎、代取副社長高橋雄豺、代取専務務台光雄以下(注。社長空席)四千六百五名。

二十年前に現在の本館が外側六階、内側三階だったものが、増築され、さらに二つの別館ビル。札幌、高岡、大阪、北九州の四発行所を加え、完全な全国紙の態勢を整え、四十年元旦の社告によると、東京本社三百三十二万六千七百部、大阪本社百二十六万四千部、西部本社二十八万一千部、合計四百八十七万九百十四部の有代部数を発行している。人員は二倍、部数は五倍という、驚くべき発展ぶりである。

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 出向社員は出先での〝冷飯〟組

正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない
正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。

試みに、三十九年度の社員名簿をみると、総員四千六百五名の大世帯にもかかわらず、出向社員は、タッタの百六十一名という点が、問題である。その内訳は、大阪読売九六、報知印刷所二○、報知新聞一六、西部本社八、よみうりテレビ六、健保組合三、観光、映画社、日本テレビ、関東レース各二、興業、日響、福島民友、新聞輸送各一、という実情である。

昭和十八年の二千余名が、倍の四千六百にふくれた読売新聞も、ようやく、社員構成が逆ピラミッドになろうとしている。つまり、頭でっかちである。これをピラミッドの正常な形にするのが、企業としての健全な形である。そのためには、大企業は子会社を持ち、そこに幹部社員を出向させて、各々その所を得さしめるのが、当然であろう。

ところが、この出向社員数をみてみると、如何に読売新聞社の社員が、苦しむかが判然としよう。つまり、世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならないということだ。

しかも、これらの出向社員は、すべて出先での〝冷飯〟組である。各社にはそれぞれ人事閥が確立されており、読売出向社員を冷遇している。いわんや、新聞の定年組の天降るポストなどは

皆無である。従って、新聞社員は定年が近づくと、それこそ猟官運動に没頭して、何とかして定年延長を獲得しようとする。

猟官には、良心の抹殺と迎合とオベンチャラが、絶対の要件であり、仕事は責任の回避と、同僚のアラ探し、裏切り、蹴落し、その他のあらゆる悪徳のオンパレードである。経営の悪化は、必然的に定年厳守を原則とするから、読売新聞で生き残るためには、新聞人であってはならない。

読売興業という会社は、野球部で読売巨人軍を持ち、新聞部で、九州読売新聞を持っている。しかし、興業の全株を読売新聞が持っており、巨人軍の興業権を読売新聞が持っているので、九州読売の赤字七千万円を読売が負担しているのも、巨人軍の稼ぎを読売が流用しているのも、法的には問題がなさそうである。九州読売を、なぜ興業にやらせたかというと、巨人軍が稼ぐ黒字を、税金にとられないで、九州の赤字にあてようという計画らしい。つまりは、税金で新聞をやろうというわけだ。

姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと

いう会社である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 ランドの〝死の行進〟が始まった

正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。

姉妹紙であるとみられる、報知新聞でさえ、今や、〝嫁にいった妹〟のような存在で、読売育ちの竹内四郎社長が急逝し、正力亨社長になってからは、組合の勢力拡張めざましく、竹内が懸命に試みた読売との人事交流、読売の〝植民地化〟は崩壊してしまった。大阪のよみうりテレビで六人、NTVにいたっては、タッタの二人という出向社員数が、電波との関係を物語っていよう。また、「読売広告社」なる会社は、これこそ、全くのアカの他人で、正力すら関係がないと

いう会社である。

問題の「ランド」、株式会社関東レース倶楽部(注。現在は株式会社よみうりランドに一本化された)もまた、同様に〝家族〟ではない。いわば、親父のメカケのようなもので、読売新聞としては、家財を持ち出してまで、生活の面倒をみる義理はないはずである。ただ、ここでは、正力社主が堂々と代表権をもって、代取会長である。新聞と同じく社長空席のまま、立教出の後楽園系、代取副社長高橋雄二が続く。平取には、川島正次郎、永田雅一らに伍して、新聞の高橋雄豺副社長 正力亨取締役、清水与七郎監査役の三氏が列っている。

関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。その限りでは、家主だから安定した黒字会社で、別にどうということがなかったから、社員二十名ほどの小会社で、常勤幹部も、それに見合った人材で充分だったのである。

ところが、戦後のゴルフ・ブームに着眼した正力が、プロ野球、テレビの大衆化の故智にならって、読売パブリック・コースを造ろうと計画したことから、ランドの〝死の行進〟が始まったのであった。

東京読売カントリークラブというメンバー・コース、続いては遊園地のランドとなり、七十万

坪の大計画となってしまった。これが、いわゆる「正力コーナー」問題化の始まりである。「正力コーナー」というのは、読売新聞の紙面に、連日のように登場する、正力社主の写真入り宣伝記事のことを、社内でそう呼んでいるのだ。

全社員二十名ばかりの小会社関東レースは、こうして、正力の〝畢生の事業〟とも、〝私の悲願〟とも称する、「読売ランド」によって、従来の、川崎、船橋の営業所の他に、二つ のゴルフ場と、遊園地とを直営する、傭人とも六○○名ほどの大会社にふくれ上ったが、読売の出向社員二名と、定年退職者一名は、単なる一遊戯場の支配人に過ぎず、課長よりも低い地位に置かれている。

読売ランドもまた、組織がない。その乱派ぶりは、急激にふくれただけにひどすぎる。ランド内のモノレールビル二階にある、関東レース倶楽部の本社は、総務、経理、営業、管理の四部制だが、各営業所に責任者がいるわけではない。船橋オートレースは総務部、ランドとゴルフ場は営業部、競馬場は管理部と、経理部を除いた三部が縄張りを持ち、自己勢力の拡張争いをしている。かつて、市営川崎球場の田辺重役が、読売安田編集局長(故人)に、「一回で良いから巨人を川崎に出してくれ」と頼みにきたことがあった。理由を聞いてみると、「巨人が出場すれば、売店は入場者五千人で七〇万、一万人で百四十万以上の利益をあげられる。すると一回で一カ月の維持費が出るから」という。

正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの〝黒い噂〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。

そのように売店の売上げ利益は大きい。だが、ランド内の売店は、東京レストラン経営という、新設の会社に委託され、その会社の監査役に、ランド建設の工事人である、大成建設営業本部第三部長仁科英男氏が加わっていた。また、同様に、ランドと同時期に新設された、清水スポーツサービスセンターという、ランド御用の会社には、ランド営業部長志倉竜男が重役として名を列ねていた。これは何を意味するのであろうか。読売が大成建設に支払った金は、ランドだけで八十億、未払い三十億ともいわれ、その工事人が、ランド御用会社の重役である。

そればかりではない。スポーツ用品、備品の納入についても、〝黒い噂〟は多く、経理部長であった志倉が営業部長に転じ、経理部長には巨人軍の高橋が出向し、常任監査役には、正力亨夫人の父に当る梅渓通虎が当られたというが、新聞が苦しんでまでヒネリ出している金が、特定個人の私腹を肥しているとすれば、読売労組は何とするであろうか。ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。

ランドの後背地、都下南多摩郡稲城村は、首都圏構想によって、住宅都市として開発されることになっている。関東レース高橋副社長が、最近、ランド七十万坪を宅地造成して売却したい旨を語ったといわれるが、読売はランドとの奇妙な関係を明らかにしておかねば、もしもの時は、ソックリ、アカの他人のものとなるのである。

正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟

派閥とボスの集団! 私はかつての毎日新聞を、あえてこう表現せざるを得ない。戦後、正力の読売が驚異的にのびて、それまでの〝朝毎〟二紙対立の時代から、〝朝毎読〟三大紙時代となり、さらに、毎日の〝有楽町敗退〟から〝朝読〟二紙拮抗時代へと変ってしまったのも、時の流れである。毎日記者をして「朝日の〝大朝日意識〟と読売の〝読売精神〟、しかし毎日には何もない!」と嘆ぜしめたのもむべなるかなであろう。

その毎日の体質をみてみよう。

毎日新聞の実態を、端的に示す一つのエピソードがある。

前社長本田親男は、〝本田天皇〟と称せられるほどの、長期独裁政権をほしいままにした人であった。その〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅に出られ、時間の都合で深夜おそく、宿泊予定の旅館に到着された時のことである。当該温泉地を管内に持つ毎日新聞支局長は、恐懼感激して御入浴を先導申しあげ、自ら〝天皇〟のお背中をお流し申しあげたのであった。時刻は、もはや午前二時をまわっていた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅

正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 「もう、三時になったかネ?」「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、出世であり、コネ作りであるということ
正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 「もう、三時になったかネ?」「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、出世であり、コネ作りであるということ

前社長本田親男は、〝本田天皇〟と称せられるほどの、長期独裁政権をほしいままにした人であった。その〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅に出られ、時間の都合で深夜おそく、宿泊予定の旅館に到着された時のことである。当該温泉地を管内に持つ毎日新聞支局長は、恐懼感激して御入浴を先導申しあげ、自ら〝天皇〟のお背中をお流し申しあげたのであった。時刻は、もはや午前二時をまわっていた。

田舎支局長の分際をもってして、〝天皇〟に直接御奉仕申しあげ、かつ、御下問の御奉答申しあげるチャンスは、それこそ、千載一遇とあっては、恐懼感激も無理からぬことであった。心地良げに、身体を流させているうち、〝天皇〟はフト呟いた。

「もう、三時になったかネ?」

「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」

「⁉」一瞬、耳を疑ったかの如き表情であった〝天皇〟はこの老支局長の大マジメな返事の意味に気付いて、満足気にうなずかれたという。この作り話とも思えるエピソードには、さらにオチまでついている。〝御巡幸〟を終えられた〝天皇〟が、東京に帰られるや、この支局長のもとに、「任参事」の辞令がとどけられ、その〝御仁徳〟のほどが、偲ばれたというのである。

この寓話が表現している一切のことが、かつての毎日新聞の実態であった。参事、副参事といった身分制が、能力や仕事の実績よりも、情実とコネを重んじ、〝出世慾〟をカキ立てさせるシステムとなり、新聞人としてのプライドなどは、上司のオヒゲのチリを払ううちに吹ッ飛んでしまって、かりそめにも大毎日新聞の支局長でさえ、三助となり果てるということだ。

記者の夜討ち朝駆けは、ニュース・ソースに対してではなく、自分の上司への御機嫌奉仕としての、自宅詣りであって、時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、ニュースではなくて、出世であり、コネ作りであるということである。

かつまた、即坐に、参事に出世させてやる〝天皇〟の人事のろう断をも、付け加えている。

戦後、毎日新聞の幹部たちが追放されて、上の方が空いた時、当時大阪本社編集主幹兼主筆であった本田は、組合の推せんを得て、社長の地位に就いた。そして、この時の挨拶に、「私は社長ではなく、人民委員長である」と、宣言したという。古い毎日の記者たちは、そう聞いたというのだが、活字になった記録がないので、本田が〝人民委員長〟と、呼称したかどうかは明らかではない。しかし、〝人民委員長〟が〝天皇〟に変貌するまでの十余年の歳月は、由緒ある毎日新聞にとって、まことに惜しみある歴史の空白であった。試みに、戦後二十年間の毎日の紙面の動きを見てみるが良い。

「朝・毎」と一口で呼ばれ、良きにつけ、悪しきにつけ、政治新聞としてスタートしたこの二大新聞は、ライバルとして張り合い、共に日本のオピニオン・リーダーとして伸びてきたのであった。だが、戦後、村山、上野両家との闘いで、いわゆる〝近代革命〟を経験した、朝日新聞との差は、大きく開いていった。硬派新聞として、朝日との闘いに敗れた毎日は、紙面作りでの、朝日追随をアキラメて、読売に挑戦してきた。

朝・毎の政治新聞としてのスタートに対して、読売は、根ッからの大衆新聞として生れてきていた。そして、昭和十年代に躍進をつづけて、朝毎の牙城に迫り、二紙対立の時代から、三紙てい立の時期へと入ってきていたのである。その読売もまた、戦後に〝革命〟を体験していた。二

度にわたるスト騒ぎである。そして、その結果、朝日と同様の体質改善が行なわれていたのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 毎日は見る読むに値しない新聞

正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。

朝・毎の政治新聞としてのスタートに対して、読売は、根ッからの大衆新聞として生れてきていた。そして、昭和十年代に躍進をつづけて、朝毎の牙城に迫り、二紙対立の時代から、三紙てい立の時期へと入ってきていたのである。その読売もまた、戦後に〝革命〟を体験していた。二

度にわたるスト騒ぎである。そして、その結果、朝日と同様の体質改善が行なわれていたのである。

毎日は、臆面もなく、軟派新聞の読売と、全く同じような紙面をつくり、真似をした時期があった。しかし、所詮はつけやき刃である。読売のあの独特の、親しみやすい紙面のもつフンイキは出せなかった。この、右顧左べんの間に、読者はグングンと減り、あわてて、本来の政治新聞の立場にもどって、朝日と対決しようとした時は、すでに大きく水をあけられ、もはや、狂瀾を既倒にかえすことはできなかった。

昭和二十三年十月、芦田内閣を崩壊させた昭電疑獄、昭和二十九年一月、山下汽船社長逮捕にはじまる造船疑獄と、この戦後の二大疑獄事件当時、すでに、三大紙の社会的評価は決定していた。というのは、知識人の間では「朝、眼を覚ましたら、まず読売をひろげて〝見る〟。そして、あとでゆっくりと、朝日を〝読〟む」とまで、いわれたものである。つまり、毎日は、全くのところ、見るにも読むにも、値しない新聞であった。

斜陽の道をたどり、急坂をころがりだすと、もはやとどまるところを知らない。そしてまた、〝貧すれば鈍す〟である。この時、毎日社内はどんな状態であったろうか。依然として、情実と派閥に明け暮れていたのであった。

一人の社会部長が動くと、百名ほどの社会部員の六割が移動したといわれる。動かない四割

は、いうなれば、能力のない連中、毒にも薬にもならない連中か、能力があればこその自信で、孤高狷介、親分を求めない連中で、紙面制作の上から、どうしても必要な奴である。そして、これらの連中は、いずれも出世はできなかった。

このような派閥の弊害は、〝人民委員長〟が〝天皇〟となったことに明らかである。本田派に対し、野党の反本田派が生れ、この与野党が、それぞれに各流各派に、また分れていた。そして、志を得ない、師団長はまだしも、連隊長クラスは、次第に子分に見放されて、孤立し、やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。事務当局をろう落して、大臣、政務次官らを恫喝する一方、大臣の人事権をバックに、事務当局にニラミを利かせるといった、手口である。

このようなボス記者は、もちろん原稿などは書かずに、もっぱら〝政治的〟に動くのである。そして、社内の派閥の師団長たちは、これらのボス記者に対し、人事権を発動して、彼らの棲息地である「クラブ」を奪ったりせず、逆に移動させないことを暗黙裡に認めて、師団長の〝出世〟に利用していたのである。つまり、彼らは、師団長に進級して、社内における敵になる恐れがないからであった。このようなボスもまた、前述の、移動しない記者のうちの、一つのタイプであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 大新聞記者の肩書を利用

正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 記者の発言や行動が、役人の人事に影響するところは大である。もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、「ボス」になることは容易である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 記者の発言や行動が、役人の人事に影響するところは大である。もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、「ボス」になることは容易である。

もっとも、このようなボス記者の存在は、毎日だけのものではない。各大新聞社のいずれにも、能力がありながら、社内の系列からハミ出て、記者としての邪道を歩むもの、もしくは、それを本来の目的として、記者を手段として利用するものもある。たとえば、河野一郎の朝日政治部の農政記者から、山本農相秘書官、衆院選出馬といったコースである。ただ、このボス記者の例が、毎日には比較的多く、かつ、他社に比べて、そのボスぶりのスケールが大きいのである。

具体的に示せば、たとえば、警視庁の経済課長と一緒に組んで、砂糖のヤミをやった社会部次長やら、近県所在の自宅に近い小駅に急行を停車させるよう、ダイヤを改正させた運輸省クラブ記者とか、毎日の記者には、逸話の主が多い。これらは、やはり、派閥がもたらした奇型児記者で、しかも、いずれも記者としては志を伸べ得なかったが、退社して社会人として、成功している事実が、彼らの能力を物語っていよう。

私にも、いくつかの経験がある。昭和二十八年二月、前年暮に大事件となった鹿地三橋事件もほぼ落着いて、公判対策としての取調べが進められている時、三橋担当の一警部が鹿地事件の証拠品のハガキ(鹿地から三橋宛のレポ用葉書)を紛失してしまった。そのことを知った私は、完全に裏付け取材を終えてから、その警部の上司である、国警東京都本部警備部長に会いに行った。

この私のスクープが記事になれば、その警部は処分され、将来の出世が期待できなくなる。そんな思いがスクープを握ったよろこびとはウラハラに、私の気持を暗くさせていた。だが、警備

部長は、真向から事実を否定して、「そんな紛失事件などないのだから、部下が処分されることはない」と、言い張る。その〝石頭〟と非情さに怒った私は、記事を書き、本部警備部長が新聞発表をして事実を認め、警部は処分されてしまった。

その事件のあと、私は国警本部(今の警察庁)の幹部たちに、「あんな石頭が都の警備部長をしているなんて、部下が可哀想だ」と力説して歩いたところ、彼はのちにトバされてしまった。そのころは気付かなかったが、のちにいたって、新聞記者が、「一文能く人を殺す」力を持っていることを、改めて思い知らされたのである。

というのは、その年の夏ごろ、銀座のマンダリン・クラブの、国際バクチ事件から、衆院法務委で、フィリピンのバクチ打ちのボスの、テッド・ルーインが、当時のマニラ在外事務所長とのヤミ取引で、不法入国していることが問題となった。そのヤミ取引をした所長は、本省にもどっていた倭島アジア局長であった。この事件のため、倭島局長のヨーロッパへの大使転出の人事予定が御破算となって、東南アジアに変更され、倭島が私を憎んでいたと聞いたのであった。

このように、記者の発言や行動が、本人が意識するとしないとにかかわりなく、役人の人事に影響するところは大である。だから、もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、大新聞記者の肩書を利用するならば、「ボス」になることは容易である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 数千万円のアカデンが残っていた

正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。

本社が、こうして新聞事業の何たるかを忘れて、派閥の対立抗争をくり返している時、出先きのクラブでは、ボス化した記者が「社外活動」に専念するとあっては、もはや、末期的現象以外の何ものでもない。

「毎日が危いそうだ」「今なら、一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、昭和三十六年一月、経営不振の責めを負うて、本田会長は退陣した。(注。昭和二十三年十二月二十二日社長就任。同三十三年一月二十二日会長就任。同三十六年一月会長辞任。その間、社長空席のまま)毎日放送会長へと引退の花道はひかれてあったが、社内での流説は、「数千万円のアカデン(注。未精算の仮払伝票)が残っていた」そうだと、まだ手厳しい。

私が冒頭に、「派閥とボスの集団」と、あえて毎日を評した所以のものはここにあったのである。国敗れて山河あり! 本田親男のあとをうけて、社長に就任した上田常隆の感慨は、そうであったに違いない。人心はもとより、機械も設備も、そして、紙面も金融面も、すべて〝荒涼〟たるものであっただろう。だが、それから五年、上田政権下における、毎日の復興は目覚ましく進んで、それこそ、毎日は奇跡的に立ち直った。と、みられていた。

皇居北の丸の緑を截ってそびえるパレスサイド・ビルの偉観、その中心に位置した毎日新聞は、最新、最鋭の機械化を完うして、立ち直ったかにみられたのではあったが、大森実外信部長の退

職事件というジャーナリスティックな話題に彩られた昭和四十年の移転を機として、いよいよ凋落の淵にのめりこんでいったのだった。

〝アカイ〟という神話の朝日

ここに一通のとう本がある。東京都中央区日本橋室町一の一、京葉土地開発株式会社。

その社名から判断して、京葉工業地帯の不動産屋とあれば、あまり御立派とはいえない会社である。何故ならば、千葉県の東京湾沿いの開発には、〝黒い手〟〝黄色い手〟しきりに入り乱れて、公明党をはじめとして、野党各党が、国会でしきりに追及しているからである。

さる四十三年六月三日付のアカハタ紙は、「利ザヤ六億七千万円、〝黒い会社〟朝日土地、国際興業」の大見出しで、「日通の脱税を調べていた東京国税局の調査で、この二社は千葉市から払い下げをうけた埋立住宅地を、めまぐるしく転売し、半年後に二倍の値段で国に売却していた」旨を報じている。日通福島社長のもとに、朝日土地丹沢善利から、六千万円の裏ガネが流れているのを、洗った結果、判明したというのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 〝黒い霧〟スターたちの群れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

めまぐるしい転売といえば、すぐ思い浮ぶのは、大阪の光明池事件である。これまた、田中角栄代議士の日本電建が、東洋棉花との間でキャッチ・ボール式の転売、とどのつまり、四倍の高値で住宅公団が買いこんだという例である。これはもう一つ、広布産業事件というのがからんできて、東京相互銀行から一億円をダマシとった佐々木環(注。のちほど、板橋署六人の刑事が登場する)、吹原事件の大橋富重、さらには、児玉誉士夫までが登場する、いうなれば、『カゲの政界』オールスター・キャストの事件であった。

さて、とう本の重役陣をみてみると、まずトップに村山藤子氏。いうまでもなく、朝日新聞の由緒ある社主夫人である。続いて、河合良成、岡部三郎の両代表取締役が並ぶのだから、村山夫人は「会長」であろうか。

それから、キラ星の如くつらなる重役陣をトクと眺めて頂きたい。丹沢善利、同利晃父子、福島敏行(もちろん日通である)、小佐野賢治、永田雅一、川崎千春(京成)、江戸英雄(アア、名門〝三井不動産〟)、河田重(日本鋼管)、佐野友二(不二サッシ)、清水富雄、功刀 和夫といったところである。菊池寛実、土屋久男は、死亡で消されている。

社名でハハン、この重役陣でハハーン、うなずかれる方が多いに違いない。だが、村山家の当主夫人が、たとえ、有名な事業家とは申しながら、アサヒ・ビルやフェスティバル・ホール、病院などの経営ならともかく、関西から千葉くんだりの田舎まで出張って、〝黒い霧〟スターたち

の群れに投じられようとは!

このナゾトキを求めて、取材してみると、ヒントがみつかった。「朝日新聞外史」(細川隆元)一九四頁である。昭和二十八年の八月、永田大映社長と村山夫人が、事業のことで会談した際、「常務の永井大三が、近ごろ事ごとに社長にタテついて困る」という話が出た。かの有名な「朝日騒動」のプロローグである。永田社長は、朝日出身の河野建設相に相談して永井常務を朝日から追い出すのなら、公団副総裁あたりのポストを用意して、引退の花道をつくってやるべきだという。そして、同書二〇〇頁には、村山夫妻と、河野、永田の四者会談が開かれるクダリがある。

そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

京葉土地開発の発足は、昭和三十八年八月である。〝河野学校〟の優等生たちに、会長にとカツがれたのは、この「河野との意気投合」だけのエンではない。このグループの中の、巨頭に「朝日新聞に巣喰うアカたちの追出しをお手伝いしましょう」と、まンまと言い寄られたのだといわれる。

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 管財人に朝日広告社の中島隆之

正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

——このとう本の物語る事実。ここに朝日新聞の体質の一部がのぞかれる。ついでにいうならば、河野一郎は農林省詰めの政治記者。緒方竹虎を筆頭に、篠田弘作、橋本登美三郎、志賀健次郎と、朝日出身の政治家は、みな保守党である。

さる四十三年六月二十一日の各紙は、河出書房に対し、東京地裁が会社更生法の適用を認める決定を行ったと報じた。その中の一行、管財人に朝日広告社専務の中島隆之が選ばれた、とあるのを見落してはいけない。

それよりすこし前、五月三十日付の朝日は「河出書房、また行詰る」という、大きな記事を出しているが、それについた「解説」の中に次のような部分がある。

「本の宣伝費は、売りあげの一〇%というのが常識になっているのに、河出の場合は、月間の売り上げ八億円に対して、広告と販売促進に三億円を使った、とさえいわれている」

この記事、まことにオカシイ。広告主が広告媒体をえらぶ時、効果を考えなかったらどうかしている。河出が新聞広告をするのに、スポーツ紙やエロ夕刊紙に重点をおいたとした ら、〝汚職〟の臭いがする、とみられても仕方ないだろう。河出の〝常識を無視した〟(前出朝日記事)広告出稿は、当然、朝日新聞に集中したとみるべきだろう。縮刷版を繰って、各社への出稿比率を調べるまでもあるまい。業界内部の常識である。

河出書房、三十二億円の負債で倒産となれば、その影響するところは大きい。六月一日、中小企業庁が、河出の下請け業者たちの連鎖倒産の防止措置として、百十社に対して「倒産関連保証適用企業」指定の決定を行なったことでも判る。これらの下請けの零細業者たちは、今まで河出の勘定をもらうのに、多くが河出自振りの手形で受取っているからだ。

振出人が河出書房の手形など、もはや反古同然である。どこで割引いてくれるだろう。だが、河出だって商売をしていたのだから、東販、日販などの大手取次店からの集金があるハズだ。取次店振出しの手形が、河出に入れば、河出が裏書きをして、また支払いに使う。このような「廻し手形」なら安全だから、業者たちは、河出の売り掛け金はどうなっている、と騒ぎ出した。

と、そこで、出版界の消息通は、声をひそめていう。

「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」

こうして、今や、出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と、エンサの叫びを放っている。常識を無視して誇大に新聞広告をやる、それで売る、また、広告する、そして売る——この悪循環の揚句の果ての倒産である。いみじくも、前出の朝日記事はいう。

「河出が全集物を昨年たてつづけに出しはじめたとき、業界ではこれを自転車操業のはしりとみて、すでに今日の危機を予想していたといわれる」

業界で予想していたのなら、広告代理店も、新聞社側も知らぬハズはあるまい。広告を掲載

し、料金はガッチリ取り立てる——商売は、トランプのババヌキみたいなもの、とはいいな がら、このトッポさ。朝日新聞広告部は、中身にヤカマしいだけではなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 朝日新聞社の本質をかい間みる

正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。
正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。

業界で予想していたのなら、広告代理店も、新聞社側も知らぬハズはあるまい。広告を掲載

し、料金はガッチリ取り立てる——商売は、トランプのババヌキみたいなもの、とはいいな がら、このトッポさ。朝日新聞広告部は、中身にヤカマしいだけではなかった。

これには、後日譚がある。読売、毎日両社は、その扱い代理店ともども、朝日より深手を負ったことは確かである。そして、会社更生法適用の記事が、読売、毎日共に四段抜きのトップなのに、朝日は二段二十五行。さすがに気がさしたのであろうか。この〝商売〟、新聞社のやることだけに果して、釈然たり得るであろうか。

——ここにもまた、われわれは朝日新聞社の本質を、かい間みることができる。倫理綱領さえ設けて、広告内容の審査を行ない、公然と不掲載を断行する、朝日広告部の姿勢を通して……。

防衛庁と伊藤忠商事をめぐり、自殺者まで出した、いわゆる「機密ろうえい事件」に関して、防衛庁の防衛研修所長が不起訴処分となったことがある。

さる四十三年五月十二日、朝日と読売の記事をみくらべてみよう。

朝日記事。「防衛研修所長は不起訴、機密ろうえい=一段六行=防衛庁機密ろうえい事件を調べていた、東京地検公安部は、十一日、防衛庁防衛研修所長 有吉久雄氏(四十八)の自衛隊法五十九条(秘密を守る義務)違反容疑について、容疑不十分で不起訴処分とした」

読売記事。「防衛研所長は不起訴、機密ろうえい事件=一段十八行=東京地検は、前航空自衛

隊第二技術学校 副校長川崎健吉一等空佐(四十八)の、防衛庁機密ろうえい事件に関連して、防衛庁防衛研究所所長 有吉久雄氏(四十八)(東京都目黒区中央町二の六の六)を、自衛隊法五十九条(秘密ろうえい)違反の疑いで調べていたが、十一日朝、容疑不十分で不起訴処分にした。

有吉氏は、四十年九月から四十二年六月まで、防衛庁長官官房防衛審議官だったが、四十一年末ごろ、港区赤坂の防衛庁内で、朝日新聞篠原宏記者に、職務上保管していた『秘』の表示のある、『第二次防衛力整備計画事業計画案の概要』を閲覧させた疑いで、取り調べを受けていた」

読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、すでに、有吉所長の取調べが報道されており、その結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。

さらにまた、前述した「佐々木環一億円サギ事件」のさいの、板橋署の六人の刑事が、佐々木の愛人宅で入浴したり、ソバ代を踏み倒したという、キャンペーン記事がある。

朝日のキャンペーン記事については、糸川ロケット事件をはじめ、問題にしなければならないものが多くあるので、それは後の機会にゆずって、ここでは、その終りの部分に触れたいと思う。

四十二年八月二十七日付の、読売、毎日には、警視庁が朝日に対し、記事取り消し方を申し入れた旨が報じられているが、そのことは遂に、朝日には掲載されなかった。

読売は、「……と、朝日新聞に報道された問題について、警視庁は二十六日午後九時半から、

槇野警務部長らが、異例の記者会見をし、『一部に誤解をまねくようなことはあったが、入浴、昼寝、昼食代踏み倒しの事実は、きょうまでの調査結果で無根とわかった。このため、朝日新聞社に記事の取り消しを含めた善処方を求めた』と、発表した。……」

正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日は訂正も取消しもしない

正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。

四十二年八月二十七日付の、読売、毎日には、警視庁が朝日に対し、記事取り消し方を申し入れた旨が報じられているが、そのことは遂に、朝日には掲載されなかった。
読売は、「……と、朝日新聞に報道された問題について、警視庁は二十六日午後九時半から、

槇野警務部長らが、異例の記者会見をし、『一部に誤解をまねくようなことはあったが、入浴、昼寝、昼食代踏み倒しの事実は、きょうまでの調査結果で無根とわかった。このため、朝日新聞社に記事の取り消しを含めた善処方を求めた』と、発表した。……」

毎日は、「……といわれた問題について、二十六日夜、槇野警務部長が、朝日新聞社に記事の取消しを含む善処方を、口頭で申し入れた。警視庁が同日まで監察した結果では、同紙に報道されたそのような事実はないという。槇野警務部長の話。調査結果と報道に違う点があったので、記事の取消しを申し入れた。こちらとしては、事実についてたしかめた結果、現段階では捜査員の規律違反はなく、処分を考えていない」

だが、この件について、朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。ただ、九月一日付で、「刑事の言動に配慮、〝脱線事件〟で警視庁」という三段見出しの記事が出た。これによると、「警視庁は三十一日午後『捜査は協力者など、一般市民に細かい心づかいを払う必要があった』と反省、今後は捜査の運営方法を改善し、捜査員の教養につとめるとの方針を明らかにした」そうだが、この警視庁のアッピールは、庁内のクラブ所属のどの新聞にものっていない。

しかもこの記事は、「協力者たちの主張と警視庁調査との食違いは、主として次の三点である」として、次の一段「入浴、踏み倒しの事実はない」との見出しで、槇野談話二十行がつづく。さらにそのあと、「なぜ真実がいえないのか」の一段見出しで、朝日記事の証言者T子さんの談話

十九行がある。いつまで待っても、朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。

六人の刑事の、その妻と子供たち、身内の人々、警察官全般へと、夕立雲のようにモクモクと、黒くひろがってゆく「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。

——これも、朝日新聞のもつ、体質の一部である。古くは「伊藤律架空会見記」の大虚報をはじめとして。

朝日新聞を中心に、「人」と「事件」を通して、現在の新聞が直面している諸問題を解析してゆくため、いくつかの既刊の「朝日論」にも眼を通してみた。

草柳大蔵「現代王国論」の中の「朝日論」は、〝論〟ではなくてCM、もしくは〝入社案内〟である。ことに、「……それほど朝日は、軍閥に抵抗し財閥に汚されず……」(文春刊、同書一三一頁)の一行に、それが尽きるのである。同書の表紙カバーの著者紹介を見ると、「雑誌記者、新聞記者を経て」とあるのだが、いずれも社名がない。

選挙の度に立候補する、ある特殊団体の幹部の肩書に、「元読売記者」とあるのを、私はかねて不審に思っていた。ある日、古い社員名簿を調べてみると、昭和十八年版、八王子支局の末尾に、「八丈島通信員(嘱託)」として、その人物の名前がでていたのである。まさしく、〝元読売記者〟ではあった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 草柳大蔵と佐藤信

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

著者の経歴紹介は、読者にその文章に判断の根拠を与えるもの、でなければならない。フリーの新聞記者という職業がない日本のことだから、社名のない「新聞記者」という表現は、事実をまげてお提灯を書くための考慮であろうか。朝日新聞とは、このような群小〝記者〟に、朝日コンプレックスを抱かせる新聞なのである。

封建制に守られる〝大朝日〟

佐藤信「朝日新聞の内幕」「新聞を批判する」の二著は、これまた、私に非常な興味を抱かせた。社歴十八年、昭和四十年に調査部員に配転された、社会部、学芸部のベテラン記者だった著者は、これを〝侮辱〟と判断して、辞表を郵送して退社した。

だが、会ってみると、彼は依然として〝朝日人〟であり、その一流意識には、いささかの乱れもない。口を極めて、朝日新聞の先輩や同僚を罵るその著書の内容からは、想像もできないことである。朝日新聞の紙面について語る彼の印象は、私にとっては、〝現役の大朝日 記者〟であった。何故かならば、「紙面の勝負」に生きつづけてきた新聞記者であるならば、社の如何を問わ

ずに、「紙面」に対する批判は、常に徹底していたからだ。

群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙はその著書の極端に対照的な内容と相俟って、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

朝日は〝村山家の朝日〟であった。この点は、読売が〝正力の読売〟であるのと、全く同じである。これに比べて、毎日は強力な資本家を持たず、常に、サラリーマン重役によって、右往左往してきたという、体質の差があった。

戦後の朝日と読売の共通点はそればかりではないのだ。長谷部忠・馬場恒吾の代理社長の時期を持ち、それぞれにストライキを経験した。だが、毎日にはストによるお家騒動の体験がない。

けれども、朝日と読売とが、体質的に違う点は、朝日には、編集、業務を通じて、村山派と反村山派があるが、読売には、正力派直系と非直系派とはあっても、反正力派というのがないということである。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 「朝日文化人」(酒井寅吉)の推せん文

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

こうして、全社員九千四百三十三名(昭和四十二年十一月名簿)に及ぶ、大集団の人間関係は、極めて複雑なものとなってくるのである。何故、複雑怪奇になってくるかといえば、東京閥、大阪閥(これは毎日とて同じである。西から東にきた新聞の持つ宿命である。発祥の地と、政治経済の中心との対立である)、それに加えて、硬派新聞(政経中心)の、硬派、軟派閥の対立があり、さらに加えて、反村山派という〝民族問題〟があるのだった。

単一民族の単一国家である日本には、米国のような民族問題の悩みがない。読売がそれである。正力一本である。毎日は、東西の対立こそあれ、朝日のように、反村山という、根源的な対立拮抗の要因がないので、権力の推移が明快単純で、暗さがない。

かつて、読売が立正佼成会に対して、糾弾のキャンペーンを、展開したことがあった。昭和三十一年のことである。このキャンペーンは、見るべき成果をあげることなく、長沼妙佼教祖の過去が、宿場町の娼婦であったということで、お茶を濁して転進せざるを得なかったのである。

この時の教訓は、宗教団体というのは、外部からの圧力には、内部問題はタナあげにして団結し、徹底して組織自体を守るということであった。歴史にまつまでもなく、宗教団体は、内部崩壊以外では倒れない。つまり、読売のキャンペーンが、偶発的にスタートしたもので、十分な内

偵と準備とをしていなかったから、内部に腐敗がありながら、いわば佼成会に〝団結の勝利〟を謳わせる結果となったのであった。

朝日の強さもここにある。長い社の歴史の間に培われた、「大朝日」意識は、もはや信仰に近い形で、全朝日新聞社員の中に、根を下ろし切っているのである。伝統である。

それだから、いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「朝日文化人」(酒井寅吉)という本の推せん文を書くに当って、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

一体、この信仰に近い形にまで高められ、定着した「大朝日」意識とは何であろうか。やはり、昨日、今日の成り上りとは違った、伝統と実績の然らしむるところであろう。細川隆元(注。大正十二年入社、政治部長、ニューヨーク支局長を経て、終戦時の東京編集局長、昭和二十二年、編集局参与で立候補のため退社。現社友)によれば、大正十二年四月入社組が、日本の新聞の最初の試験入社組で、約二百五十人の受験者から十五人が採用されたという。そして、こののち試験入社組は、「練習生」と呼ばれて、朝日の人脈の中心となるのだ。「月給は普通採用の者より十円も多く(注。七十五円)、社内でもあまりコキ使ってはならぬといわれている。君たちが朝日の幹部になるんだからネといわれた」という。(「朝日新聞外史」)

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 練習生制度が「大朝日」意識の根幹

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。

大正十二年の新入社員月給が七十五円。このベラボウな高給が、やはり、朝日の伝統となってゆくのである。私が、読売に入社した昭和十八年十月。戦前、最後の試験入社組、採用と同時に、見習社員である。朝日の練習生に相当しよう。試験によらない入社組は、準社員と呼ばれていた。軍隊の階級でいえば、見習士官と準士官の差である。

その時の私の月給が、俸給六十五円、物価手当二十円の計八十五円。貯金八円、税三円五十銭のほか、健保や積立金をひかれて、手取り七十円三十銭である。大正十二年から二十年後の読売の初任給が、朝日と同じだということである。

朝日の、この練習生の精神教育というのが、まさに日本陸軍の士官学校と同じである。幹部候補生を教育する予備士官学校は、あくまで下級幹部の養成である。現役志願をしても少佐どまりで、やっと中堅幹部だ。だから幹部候補生は、一般兵と全く同じ生活、教育訓練を経てくるので、残飯喰いから馬グソ拾い、ビンタからホーホケキョまで体験して学校に進む。

だが、大将、元帥へと進む士官学校では、エリート少年だけを集めて、汚濁にもませることなく、徹底した指導階級の育成をめざしている。三代将軍家光の宣言「予は生れながらの将軍にして」と、全く同じである。朝日の「練習生」制度は、士官学校の士官候補生制度と、軌を同じゅうしていよう。大正十二年から、ほぼ半世紀も続いてきた、この練習生制度が、「大朝日」意識の根幹である。

細川隆元の大正十二年で二百五十人に十五人、佐藤信の昭和二十三年で二百人に一人(同期七人採用)という競争率もまた、当時の俊秀を集めた、士官学校、兵学校の競争率に匹敵するであろう。ちなみに、昭和十八年の読売は五百人に十人採用であった。大正十二年の朝日と、俸給、競争率がほぼ同じである。

だが、軍隊には下士官、兵という〝汚れ役〟がいるが、軍隊の戦闘にも似た、記者の取材戦争で、練習生の将校ばかりでは、一体、誰が兵隊の〝汚れ役〟をやるのか?

ある練習生記者の一人がいう。「そのために、コドモさん(注。給仕あがりの記者)がいるんだ」

草柳大蔵はいう。「待遇制度のような措置をつくり、社員として出世するコースのほかに、記者として完成するコースを設けていることだ。いわば、朝日の記者街道は〝二車線〟になっている」(現代王国論)

ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。練習生以外の社員である。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。

正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 醜い人間関係と身分制度

正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。

〝面喰いの朝日〟という言葉もある。「緒方竹虎は一面貴族的な風格もあり、いわゆる朝日新聞を対外的に代表するのに、打ってつけの風貌と風格を備えていた」(細川隆元)ことが理由で、美土路昌一が明治四十一年入社、緒方が三年おくれての後輩だが、社内での序列では、反対に緒方が美土路より三年ぶり先んじていたといわれている。「緒方にくらぶれば、美土路の短軀な風貌は、決して見栄えがしなかった」(細川隆元)だからである。

現役である限り、外部から、練習生と非練習生との差別は判らない。私も、多くの記者クラブで、朝日記者たちと付き合ったが、この差別を知らなかった。もちろん、社員名簿をみても特記されていない。

しかし彼らの内側では、この階級社会が厳存しているのである。練習生の誰も彼れもが、私の知っている朝日記者の一人一人について、即座に、何年組か、練習生か、それ以外かを、打てば響くように答えてくれる。彼らの関心の深さを物語っていよう。

そして、給仕出身記者の現職を名簿でみる時、草柳大蔵流に「朝日の記者街道は〝二車線〟」などと、美化した表現を用いて、現実をおおいかくすことに、憤りさえ感じたのだ。そしてまた、〝面喰いの朝日〟は練習生であることの要件の一つに、端正な、知的な〝ジャーナリストら

しい〟容貌が求められているのを知った。朝日社員で造作が悪いのは、練習生でないと知るべきであろう。細川隆元の意識にさえ、「朝日を代表するに相応わしい顔」という、貴族趣味がひそんでいる。

あてはめてみるならば、東京と大阪、硬派と軟派、村山派と反対派、練習生と無資格者の対立が錯綜複雑化しているのだから、〝病めるアメリカ〟以上である。外部からはうかがうこともできない、この醜い人間関係は、その身分制度と相俟って、内部では血みどろな権力闘争を繰りひろげている。「新聞社とても、所詮人間の集りであり、嫉視、反発、陰謀、抗争、謀略、憎み合い、相互扶助、忠誠、愛社、親和、美談、悲喜劇、ありとあらゆる人間性露出の場であることに変りがない」(細川隆元)と、社友さえも認める。

外部から眺める限り、朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。