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最後の事件記者 p.134-135 スパイ団のことを書きましょう

最後の事件記者 p.134-135 シベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされ…たと…生命の危険まで懸念している…事実が明らかになった。
最後の事件記者 p.134-135 シベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされ…たと…生命の危険まで懸念している…事実が明らかになった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。

私はこのナゾこそ例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿がボーッと浮び上ってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会で、Kという引揚者がソ連のスパイ組織の証言を行った。その男は、「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて「日本新聞」の編集長にまでノシ上った男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

『チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう』

『何をいってるんだ。今まで程度のデータで、何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか』

若い私はハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。

魂を売った幻兵団

すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。

そして、同時に国会も担当して、吉村隊や人民裁判と、引揚関係の委員会も探っていたが、二十四年秋には、国会担当の遊軍に変って、いよいよ、ソ連スパイの解明に努力していた。

その結果、現に内地に帰ってきているシベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされた、と信じこんで、この日本の土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになった。

そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあった。

さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの、勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

最後の事件記者 p.188-189 記者さんでいらっしゃいますか

最後の事件記者 p.188-189 『あのう、私たち兄妹は、Aさんの仲の良い友人なのですが、Aさんの容態は如何でしょう。何しろ、妹が心配してどうしても見舞にというものですから…』
最後の事件記者 p.188-189 『あのう、私たち兄妹は、Aさんの仲の良い友人なのですが、Aさんの容態は如何でしょう。何しろ、妹が心配してどうしても見舞にというものですから…』

ようやく学校友だちをみつけて、彼女に、一緒に見舞に行ってくれ、と頼みこんだ。

『だけど、新聞記者は入れないんです。だから、ボクはあなたのお兄さんになります。記者だということは黙っていて下さい』

大きな果物カゴを買うと、お見舞という札と、目立つようなリボンを飾った。これが小道具である。それをもって、私は彼女と二人で、再び聖母病院に行った。しばらく離れたところでみていると、廊下の入口の巡査を囲んでワイワイやっていた記者たちが、一人減り二人減りして、毎日の某君一人になった。

『あのう、記者さんでいらっしゃいますか』

『ええ、そうですが……』

彼はやや得意然と答える。私にも経験があるのだが、事件の現場などで、こういわれると、何かやはりうれしくて、胸をそらせたくなるものだ。彼は私たち二人をみ、そして、見舞の果物カゴをみた。

『あのう、私たち兄妹は、Aさんの仲の良い友人なのですが、Aさんの容態は如何でしょう。助かりますでしょうか。何しろ、妹が心配してどうしても見舞にというものですから…』

『あ、Aさんですか、大丈夫ですよ。生命には別条ありません。だけど、ウルサくて入れてく

れませんよ』

これで大丈夫である。この会話を立番の巡査に聞かせたかったのだ。記者でさえないことを、第三者、しかも記者に立証させれば、もう充分だ。私たち二人は、また向うの椅子にもどって坐った。やがて、その一人の記者は、しきりに「入れろ」とネバっていたが、あきらめて食事に出ていった。

この機会を狙っていたのだ。私は彼女をうながすと、急いで巡査のもとへ行った。

『アノ、お願いです。元気な顔をみてくるだけですから、入れてやって下さい。この妹が、どうしてもッて、いうもんですから』

巡査はうなずいて、通してくれた。病室の入口の巡査も、第一の関門を通ってきた女連れなので、容易に入れてくれた。私はワクワクである。

ドアをあけて、中に一歩入ったとたん、私は驚いた。病室の中にも一人の巡査がいるではないか! 女二人、男二人が、一室の中で左右に分れてねている。巡査は、その中央のツイタテの処で、フロの番台のように坐っている。

彼女はAさんのニコヤカな表情に迎えられたが、私へは誰の顔からも反応がない。果物をAさ

んの枕許におくと、巡査に背を向けて内ポケットの写真をとり出した。

赤い広場―霞ヶ関 p062-063 内調の内紛を暴露するアカハタ。

赤い広場―霞ヶ関 p.62-63 内調の内紛を暴露するアカハタ。
赤い広場ー霞ヶ関 p.062-063 The Akahata exposes the internal trouble of the Cabinet Research Office.

そして、それらの人々は、もちろん、日本の社会の指導階級ともいうべき、あらゆる地位にあり、教育も、名誉も、さらに将来をも持っている人たちばかりであった。

そして「アカハタ」はこのメムバーを先手を打って発表しているのである。

三怪文書おどる内閣機密室 総理府官房調査室、略して内調は日本の機密室である。二十七年四月、特高のなくなった戦後に警備警察制度を設け、国警本部初代警備課長となった内務官僚村井順氏によって創立された情報機関である。

この調査室は創設以来あらゆる意味で各界から注目されている。二十七年十二月、当時の緒方副総理の提唱した、新情報機関の構想の基礎となったのも、この内閣調査室である。

ところが、さる三十年四月下旬ごろ、その内情について、いわゆる〝英文怪文書〟が、各官庁、政府内部にバラまかれた。戦後の大事件である帝銀、下山、松川、鹿地などの事件に登場した〝英文怪文書〟の伝である。

つづいて、この英文とほぼ同内容のガリ版刷り怪文書が、「極東通信社極秘特報第一〇八号」と銘打たれて、再び関係各方面にバラまかれたのである。

その内容は、ラストヴォロフの手先のスパイが内調に喰い込んでおり、重要機密を抜かれた内調ではその対策に苦慮しており、木村室長は辞意を表明したが、結局は引責辞職せざるを得

ないだろう、という要旨である。

この怪文書の狙いは、明らかに前警察庁人事課長という内務官僚である、木村行蔵の追 い出しを図ったものである。では、この内務官僚の追い出しを図ったのは誰か?

怪文書とはしょせん怪文書であり、’デマである。こうしてはしなくも、ここにその内情をバクロした〝日本の機密室〟の内粉の真相は何か?

これこそ内調創立当時の村井順室長(現京都警察隊長)と曾野明外務省情報文化局課長(現ボン駐在参事官)との対立にはじまる、内務対外務官僚の主導権争いであり、同時に如可に官僚たちが、この小さな機関の将来を重要視しているかということである。

この争いが、祖国を想う至情からの争いならば、何をかいわんやであるが、果して事実はどうか。ここにその実情を抉ってみよう。

まず、怪文書からみよう。昭和三十年四月二十日付の「極東通信社極秘特報第一〇八号」は、普通の白角封筒の裏に「極東通信社」とのみ、下手なペン字で記されて、同日東京中央局の消印で配達されている。

このペン字は、筆跡をわざとゴマカして、左手かまたはペンを逆に使った字である。内容はワラ半紙にやはり下手な横書の字だ。