幻兵団を実証する事件がつぎつぎと」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.150-151 同胞への〝恐怖のデモンストレーション〟

読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。
読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局(現公安調査庁)などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CIC(米占領軍情報部)が確実なデータを握っている時、日本側の治安当

局は、まったくツンボさじきにおかれて、日本側では、舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

「デマだろう」という人に、私は笑って答える。

「大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ」

紙面では回を追って、〝幻のヴェール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。

「よく生きているな」

親しい友人が笑う。私も笑った。

「新聞記者が、自分の記事で死ねたら、本望じゃないか」

ただ、アカハタ紙(現赤旗紙)だけが、ヤッキになってデマだと書いていた。読売の八回の記事に対し、十回も否定記事をのせ、左翼系のバクロ雑誌「真相」(現「噂の真相」とは違う)も、〝幻兵団製造物語〟というデマ記事で、私の記事を否定した。私には、その狼狽ぶりがおかしかった。そして、それから丸三年たって、二十七年暮れに、鹿地・三橋スパイ事件が起こって、「幻兵団」の実在が立証されたのであった。

アメリカ側の引揚者調査機関、NYKビル(郵船ビル)がその業務を終わった時、チェックされた「幻兵団」員は、多分、私もふくめて、七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記者としての、いわば〝出世作品〟であった。

幻兵団を実証する事件がつぎつぎと

「シベリアで魂を売った幻兵団」という、大きな横見出しの記事を、いま、改めて眺めてみると、〝魂を売った〟のではなく、〝魂を奪われた〟と、表現すべきだった、とも思うのである。

私にとっては、「スパイ誓約書」を書かされた、ペトロフ少佐のデスクの拳銃の、鈍い輝きよりは、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。

屈強な若者たち。とても、同じ捕虜には見えない、約二十名ほどの円陣のなかに、どこの、どういうグループで、ナホトカまできたのか、知るよしもなかったが、将校服に大尉の襟章をつけ、黒皮の長靴をはいた男が、土下座させられていた。

彼は、バリザンボウを浴びせられながら、ケ飛ばされ、階級章をムシリ取られ、長靴を切り裂かれて、衆人環視のなかで、いわゆる〝吊るし上げ〟にあっていた。

男は、ツバを吐きかけられ、殴られ、蹴られて、〝日本帝国主義の走狗〟として、人民裁判にかけられていたのである。それはまた引揚船を目のあたりにして、いっそう、望郷の念をつのらせている、数百人もの同胞への〝恐怖のデモンストレーション〟でもあったのである。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

読売梁山泊の記者たち p.152-153 「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝

読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。
読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

日本帝国主義の走狗といえるのは、中佐参謀——いうなれば、瀬島竜三中佐クラスであろう。ラストボロフ中佐に、萬葉集の合言葉をささやかれた、志位正二(モスクワ上空の日航機内で急死)も、少佐参謀であった。現日本共産党志位書記長の伯父である。

私たちは、バイカル湖の西岸、イルクーツクの北にある、炭鉱町のチェレムホーボから予備役将校ばかりの梯団で、昭和二十二年十月、引揚船の待つナホトカに着いたばかりであった。

捕虜生活も二年目に入って、従来の建制、旧軍隊組織のままの作業隊から、将校ばかりの作業隊に組み替えられ、大いに作業成績をあげていた。それまで「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝していた、「将校は、日本へ帰さない」から、「作業成績が良いものから帰国させる」の見本として、ダモイ(帰国)させるのだ、と聞かされていた。

だが、ナホトカに着いてみると、私たちのすこし前に、第一回の将校梯団が帰国したという。この、人民裁判にかけられている大尉は、その第一回梯団から、残されたひとりだったらしい。

そして、後続の私たちに、その光景を目撃させることは、あのスパイ誓約書にある「日本に帰ってからも…」の条項に、金縛りをかける効果は、十分すぎるほどであった。

明日の乗船を控えて、私は、スパイ下命者である、ペトロフ少佐が突然いなくなって、第一の課題であった、「収容所内の反ソ反動分子の名簿作成」が、流れてしまった幸運をよろこんでいた。

もしも、私が名簿を提出していたら、その名前の同胞は、永遠にダモイできなかったかも知れない。あの大尉も、襟章をつけ、長靴をはいていたところをみると、欧露エラブカの、日独同居の将校ばかりの収容所にいたのかも知れない。

エラブカ収容所における独軍将校は、毅然として、ジュネーブ条約による待遇を要求し、もちろん労働を拒否し、バターの定量を監視するほどの余裕を持っていたそうだ。

それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

「私の名前を出さない、という約束をして下さいね」

その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で逢いましょう〟という、耳もとでの熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交差点で、そのマーシャそっくりの女性を見つけて、ハッと心臓の凍る思いをしたといった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。

「どうしても、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……」

彼は黙っていた。やがて、ポツンと、一言だけいった。

読売梁山泊の記者たち p.154-155 所轄の北沢署に保護を頼んだ

読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。
読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。

「殺されるかもしれないから」

彼の表情は、まったく真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私は見た。

「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。

ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から玄関を見通す階段へ一歩踏み出したところ、アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。

玄関のドアにはまったガラス。その上のラン間のガラスに、一条の懐中電灯の光が走っていたのだ。

その光は、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には玄関を去ってゆく足音さえ聞こえない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻はその後、その時のことを想い出しては、「あれほど恐ろしかったことは、まずちょっとなかったわね」と、よくいった。

あの懐中電灯の光の主が、保護を頼んだ警官なのか、あるいは、何かの配達か。また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

幻兵団の記事に対する意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCIC(米軍防諜部隊)が、私と私の記事とを疑ったのである。

「私の名前のコーサクは、耕す作ると書くのですから、多分、百姓の出身ですネ」

担当官の二世のタナカ中尉は、私の気持ちをほぐそうとするかのように、そういって笑った。私も、いっしょになって笑った。

しかし、調べは厳しかった。

「ナゼ、あの記事を書きましたか。ソ連のスパイ組織をバクロして、恐いと思わないのですか。死への恐怖を感じないのですか」

「軍隊と捕虜とで、どうせ一度は死んだものと思えば、『死』なんて、コワクはありませんよ。ことに、新聞記者が、自分の書いた大きな記事のために殺されたとすれば、それは日本語で、本懐というものじゃありませんか。私に悔いはありませんよ」

「?…。仕事のために死ぬ? コワクない、本懐だ?…信じられない…記者の功名心?」

タナカ中尉には、この「死生観」が、どうしても信じられないようであった。

じつは、彼の思考はもうひとひねりしたものだった。スパイ組織のバクロという、コワイ記事を書いて、平気でいられるのは、その記事のリアクションがないという保証があるからではないか?

保証があるということは、つまり、この男は、反ソ的な記事を書くことによって、米軍側に取り入り、ソ連のためのスパイを、効果的にしよう、としているのではないか?

読売梁山泊の記者たち p.156-157 三年も前にスクープしていた

読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。
読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

だが、私は、この記事によって、〈有力なニュースソース〉を得た。陸士出身の少佐だから、五十三期ぐらい。復員官として、舞鶴で引揚援護業務にたずさわり、復員が終了してからは、厚生事務官。やがて、内閣調査室出向となり、のちに、調査官。

その氏名は、〝情報の世界〟に棲む者の礼儀として、まだ、明らかにはできない。が、私の記者としての視野を、大きく展開してくれた、優れたアドバイザーであった。ただいま現在、日常的に使われている「情報」という言葉とは、まったく意味の違う「情報」の時代だったのである。

昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」というのが、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。

この日、斉藤昇・国警長官(いまの警察庁長官)が、参院外務委での答弁で、「戦後ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

二十七年秋から、警視庁記者クラブの「七社会」詰めとなっていた私は、その日何も知らないで、夕刻、社に上がってきた。斉藤長官の答弁の原稿が、ちょうどそのころ、社に入ってきて、原部長が目を通したばかりだった。

だいたい、出先の記者クラブ詰めの記者、ことに、警視庁クラブの記者などは、部長には、あまり、顔を合わせたがらないものだ。というのは、デスクとだけの黙認で、いろいろと、〝悪事〟を働いているのだから、部長と話をしたりすると、ツイ、露見する危険があるからである。

例えば、カラ出張やら、インチキ伝票やらで、デスクの呑み屋のツケを払ったり、取材で足をだしてしまった経費を、然るべく処理しているからである。ついでながら、つけ加えると、このような〝処理〟は、この業界での、長年にわたる習慣で、しかも、不法領得の意思がないので、〈横領罪〉には当たらない。念のため。

身についた〝習慣〟で、部長に近寄らないよう、素早く、遠い席に座ろうとしたら、顔をあげた部長と、目線(めせん)が合ってしまった。間髪を入れずに、部長が、叫んだ。

「オイ、まぼろしッ! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて、入籍されたゾ!」

「…?」

満面に笑みを浮かべた、ゴキゲンの良い原チンの顔は、可愛い。いま風なら、カワユーイのであるが、当の私には、その理由が分からないのだから、当惑しながらも、部長のゴキゲンに合わせて、オリエンタル・スマイルを浮かべながら、部長席に寄っていった。

「オイ、これだよ」

デスクが、朱(赤字の校正)を入れていた原稿をわたしてくれた。読み進んでいくうちに目頭が熱くなってくるのを感じていた。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

読売梁山泊の記者たち p.158-159 日本のソ連通を総動員

読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。
読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

昭和二十三年当時、吉田茂・兼任法務総裁の法務庁記者クラブに行った。その時のキャップは、ハンニャの稲ちゃんこと稲垣武雄だった。長い間の警察記者のボスであった稲ちゃんは、私を、当時の国警本部の村井順警備課長に紹介してくれた。

村井課長は、私のスパイ体験を、はじめて熱心に聞いてくれた最初の人物であり、竹内社会部長とも親しかった。竹内四郎が、私の我がままを、大きく許してくれたのには、村井順の推輓もあったのである。

六十三年一月十三日、七十八歳で亡くなり、二月五日の、晴天ながら寒い日に、青山葬祭場で、最後の別れを惜しんだが、村井順なかりせば、あるいは、稲垣武雄のような、先輩記者にめぐり合わなかったなら、「幻兵団」は、〝大人の紙芝居〟で終わったかも…。

昭和二十五年春、それこそ、四十年後の現在では、とうてい信じられないような、〈米ソ・スパイ合戦〉が、米軍占領下のトーキョーで展開されていた。首都東京のド真ン中で、当時七百万都民が、何気なく生活している時から、すでに米ソの、〝熱いスパイ戦〟がおこなわれていたのである。

ここで予備知識として、米国側の諜報機関の概略を説明しておこう。

連合軍の日本占領中、東京駅前の郵船ビルには、総司令部幕僚第二部(GⅡ)指揮下米軍CIC(防諜部隊)と、総司令官直属のCIS(対諜報部——軍の部隊ではない)とがあり、米大統領直属のC

IA(中央情報局)は、ほとんどメンバーもおらず、積極的な活動もしていなかった。

CICはその名の通り、軍内部で諜報を防ぐ部隊なのだが、その一部には、秘密諜報中隊があり、これが積極的にソ連の諜報網の摘発を行ない、CISがこれに協力していた。

さてこのCISは、全国の主要都市に、それぞれ要員を駐屯させていた。情報というものは、どんなに断片的で、小さなことでも、それが収集され、整理されると、そこには意外な事実さえ浮かんでくるものなのだ。

戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。これを押さえれば、日本の対ソ情報は真暗になる。とりもなおさず、アメリカの対ソ情報もつぶれる、というのが狙いで、ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

そこで米国側にとっては、占領下にあった日本のソ連通を総動員して、旧軍の作戦参謀や情報参謀、それに憲兵、特務機関員、特高警察官などを、CICの秘密メンバーとせざるを得なかった。

そればかりでは足りない。ソ連引揚者に眼をつけるのは当然で、彼らほど最新の知識を持ったものはいないのだ。舞鶴引揚援護局内に一棟の調べ室を作り、二世の連中が分担して、引揚者の一人一人から情報を集めた。

そのために引揚者たちは、せまい小部屋で友好的に尋問され、いい話がでると、まず〝ひかり〟(当時のタバコ)がすすめられ、話が詳しければ、果物までが出された。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

読売梁山泊の記者たち p.160-161 二~三割の日本人が死んだ

読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。
読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

昭和二十二年の秋、舞鶴に第一回の将校梯団が上陸してきた。ソ連側は将校は帰さないと宣伝したり、収容所では、対将校階級闘争が盛んになっていたころだったので、こうして将校ばかりが、何百名と、まとまって帰ってきたのは、珍しいことだった。

彼らも、型のごとく調べられた。すすめられた〝ひかり〟を、珍しそうに眺めながら、彼らはそれを深々と吸いこんでは、それぞれのソ連見聞記を話し出していた。

私たち、第二回目の将校梯団が、第一大拓丸で、舞鶴に上陸したのが、昭和二十二年十月三十日。ナホトカを出港する時に目撃させられた、大尉の人民裁判があったのだから、第一回の将校梯団の帰国も、十月はじめごろだったに違いない。

ソ連側は、はじめは、統制が取りやすいので、日本軍捕虜を、建制(軍隊組織)のまま収容所に入れたのだが、最初の冬、昭和二十年暮れから、二十一年春までの間に、どこの収容所でも、二~三割の日本人が死んだ。

生まれてはじめての酷寒——私たちのところでも、寒暖計で零下五十二度を記録した。しかも、風速一メートルで、体感温度は一度下がる。慢性飢餓と重労働。シラミによる発疹チフス、栄養失調と、まさに、いまにして想えば、生き地獄であった。

こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

この建制を崩して、捕虜をゴチャまぜにすることには、もうひとつ、目的があったようである。それが、はしなくも、第一回の将校梯団で、米国に発見された。

その中に一人、軍曹がいた。いや、はじめは少尉だといって、将校梯団の一員らしく、振る舞っていたのだが、身上調査から乙幹の軍曹だということが、バレてしまったのだった。ウソと分かってからの、その男は、全く狼狽して、ソワソワと落ちつかず、何か挙動がオカシイのだ。

報告をうけた二世のサカモト大尉は、自分で調べようと思って、その男を呼び入れた。風呂から出れば、ドテラでアグラをかくような、二世らしからぬ二世であるサカモト大尉は、日本人の気持を良く知っていたのだ。

大尉は、そのニセ少尉の心配ごとが、彼自身の予想していたようなもの、ではないかと思って、まず優しく、家族の話などから持ちかけ、その男の気持を落ちつかせてやった。

男はあたりを見回してから、泣きそうな顔で大尉に聞いた。

「国際法とかでは、日本人が外国でしてきた約束とか、日本にいる日本人が、外国の刑法で罰せられる、というようなことがあるんでしょうか?」

大尉は、密かに期待しながらいった。

「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

読売梁山泊の記者たち p.162-163 元ハルピン陸軍病院長・I少将

読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。
読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

煙草をすすめて、自分もつけた。

「少しも恐いことはないよ。何もかも話してごらんなさい」

男はオドオドしながらも、彼の恐しい体験を語りだした。大尉は、黙ったまま深くうなずいた。

こうして舞鶴CICは、はじめて引揚者の中にソ連製のスパイがいることを知った。

「ソ連スパイが、引揚者にまぎれて、投入されつつある」——こんな重大な事実を発見した、舞鶴CIC、およびCISからは、報告書を携え、ピストルで武装した将校が、伝書使となって東京の本部へ飛んだ。

それからは、ソ連情報の収集ばかりではなく、ソ連スパイの摘発が、郵船ビルの重要な仕事となった。復員局から「復員業務について占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします」というハガキが、日本全国の引揚者のもとに届けられた。

往復の旅費、日当、食費も日本政府から支給され、北は北海道から南は鹿児島まで、容疑者と、容疑者の情報保持者が郵船ビルに集合させられたのである。

数日で終わる者もあったが、数週間、数カ月間もかかる者がいた。試みに、郵船ビルの表口に立って見ていると、夕刻には、嬉々として現われる者と、足取りも重くうなだれて来る者とがいた。

米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」

そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

その中の一人に、元ハルピン陸軍病院長をしていたI少将がいた。仔細に見れば、I少将のどこかに、緊張に引きしめられた、あるカゲが見られたであろうが、さすがのCICも、元将官には敬意を払って、多くを追及しなかった。

その元少将が引揚後のある日、何となく後ろめたさを覚えながらも、もう小一時間も、靖国神社の境内を、そぞろ歩いていた。

困惑と期待との入りまじった、不思議な感情だった。半分はウソだと思ったし、半分は行かずにいられない、脅迫感を覚えていた。

やがて、彼がちょうど境内を一回りして、また大村益次郎の銅像にもどってきた時、一人の男が彼に声をかけてきた。

——ああ、やっぱり!

そう思った瞬間、I元少将は、思わず声とも叫びともつかない音をあげてしまった。

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。