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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.266-267 カッコよさの読者つなぎとめ

正力松太郎の死の後にくるもの p.266-267 杉並、世田谷が共産党議員の地盤であり、朝日の部数が多いということは、決して、江東に比べて〝知的〟だということではない。どうしても宅配を確保せねばならない〝家庭の事情〟は、朝日が第一。朝日の読者は不安定読者なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.266-267 杉並、世田谷が共産党議員の地盤であり、朝日の部数が多いということは、決して、江東に比べて〝知的〟だということではない。どうしても宅配を確保せねばならない〝家庭の事情〟は、朝日が第一。朝日の読者は不安定読者なのである。

このような朝日読者層の〝新興〟中産階級は、宅配なればこそ、月極め読者としてつなぎ止められる読者層である。
読売の金城湯池である江東方面は、いわば細民街であり、朝日のそれに相当するのが、杉並、

世田谷、目黒の知識人街であろうか。だが、果してどちらの住民が、収入面での稼ぎ頭であろうか。私は江東の細民街の住民の方が、所得(収入)が多いと判断する。いうなれば、美味いものを食っているといえよう。

この地区の人は、大衆紙の読売を購読するのを、それこそ買って読むためにとっているのだし、生活自体もカッコよさや見栄は二の次である。だからこそ、本質的に保守である山口シズエ議員を連続十回も当選させているではないか。細民とみられる人々が、保守を支持しているということである。

本質的に保守である勤め人層の多い、杉並、世田谷が共産党議員の地盤であり、朝日の部数が多いということは、決して、江東に比べて〝知的〟だということではない、と私は考えている。

四十三年十月の新聞値上げでは、三紙のうちで、朝日が一番早く打ち出し、読売が最後だった、ということは、極めて象徴的なことだと思う。

宅配がなくなって、スタンド売りになったとき、江東の読売愛読者は、気軽に走り出て読売を買うであろうが、杉並、世田谷の朝日読者は、面倒くさがってテレビ・ニュースですませてしまうであろう。つまり、どうしても宅配を確保せねばならない〝家庭の事情〟は、朝日が第一だとみるべきである。朝日の読者は不安定読者なのである。

何故、朝日は値上げするのか? 宅配制度を守るためである。前述したように、〝商魂〟によ

るカッコよさの読者をつなぎとめるためには、宅配死守しか途がない。

新聞代の小刻み値上

さて、新聞代値上げ後の情勢も、眺めてみる必要がある。三紙とも、四十三年は八十円という 小幅で現状を糊塗したのだが、再値上げ必至の情勢で、一年後の四十四年十一月からは、また九十円値上げである。何故かというと、朝日と読売の〝巨大化競争〟が、いよいよ激しくなってきているからである。三紙のトップを切る、五百万台の発行部数をもつ朝日は、ピタリと追随してくる読売の追いあげに、それこそ苦戦の最中である。値上げのトップをも切らざるを得なかったのは、追われる者の苦しさである。

最初、朝日社内では「一カ月千円」という破天荒な数字が、真剣に検討された。主として編集幹部の意見だったらしい。この値段は週刊文春誌なども伝えていた数字だが、その根拠は、大幅値上げによって、ひんぱんな小幅値上げを避け、思いきって経営の安定化を図る。昨今の心理的風潮が、「たかいものだからいいもの、美味いもの」と、倒錯的評価の傾向にあるので、高級紙「朝日」だけが実行し得る大幅値上げであり、朝日読者はそれでもついてくる、というにあっ た。

正力松太郎の死の後にくるもの p.268-269 新聞内部では業務が編集をリードしている

正力松太郎の死の後にくるもの p.268-269 〝士魂商才〟が〝商魂商才〟となり、さらに〝商魂〟のみになった。つまり、巨大化の傾向を強めつつある「新聞社」の実情が、全く経済効果オンリーとなり、紙面はアクセサリー化しつつある、といえよう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.268-269 〝士魂商才〟が〝商魂商才〟となり、さらに〝商魂〟のみになった。つまり、巨大化の傾向を強めつつある「新聞社」の実情が、全く経済効果オンリーとなり、紙面はアクセサリー化しつつある、といえよう。

最初、朝日社内では「一カ月千円」という破天荒な数字が、真剣に検討された。主として編集幹部の意見だったらしい。この値段は週刊文春誌なども伝えていた数字だが、その根拠は、大幅値上げによって、ひんぱんな小幅値上げを避け、思いきって経営の安定化を図る。昨今の心理的風潮が、「たかいものだからいいもの、美味いもの」と、倒錯的評価の傾向にあるので、高級紙「朝日」だけが実行し得る大幅値上げであり、朝日読者はそれでもついてくる、というにあっ

た。真意はそうとしても、狙いは、従来の行きがかり上、毎日も同額の千円にすれば、さらに読者を失って部数が減り、現在辛うじて維持している四百万台割れとなり、完全に蹴落せるということ。もしまた、同額の千円の値上げに踏みきれなければ、イメージの上でハッキリと格差をつけられるということで、多年の朝・毎時代の終焉を告げられる。

さらに、対読売戦をみると、読売読者は千円ではついてゆきにくいから、読売の販売経費はさらに増大し、その実力が疲弊するので持久戦にもちこめば、追随を振り切れるであろう、という観測にあったのである。

しかし、この千円案は、主として販売幹部の慎重論に押されて、七百五十円にまで後退してきた。そして、最終段階で、広岡社長の「新聞は安く大勢の人に読んでもらうべきものだ」という意見で、六百六十円に落着したと伝えられている。

新聞経営の健全なあり方として、販売収入と広告収入の比率が、六対四であるのがのぞましいといわれているが、現状では、これが逆になって、四対六。広告収入が常にリードを奪っており、それゆえに、広告主の発言権が増大して、紙面——編集権の独立をおびやかしている。

ある朝日編集幹部によると、このような小刻み値上げでは、値上げ当時こそ、収入比率は六対四となるが、すぐに、五対五となり、数カ月を出ずして、また四対六に逆もどりしてしまう、という。だからこそ、一年後には再値上げせざるを得なかった。

その辺の実情から、販売、広告などの業務系統に対し、紙面百年の計を考える編集が、思いきった千円値上げを提唱したものらしいが、ついに八十円の小幅値上げにとどまったものだ。このことは、今や新聞内部では、業務が編集をリードしていることを物語っており、〝士魂商才〟が〝商魂商才〟となり、さらに〝商魂〟のみになった経過を説明してくれるものである。

つまり、好むと好まざるとにかかわらず、巨大化の傾向を強めつつある「新聞社」の実情が、その経営を維持するために、全く経済効果オンリーとなり、紙面はアクセサリー化しつつある、といえよう。

この時、どうして朝日新聞だけの、紙面の退廃を責められよう、どうして、朝日記者にのみ、「新聞記者精神」を期待できよう。

強きにつき弱きをくじき、権力に密着し、読者に迎合し、ナリフリだけは構って、都合の悪い時は居眠りをし、東に引越しがあるときけば行って乱闘をし、西に珍らしいものがあると知れば招いて興行をする——朝日一万社員、社友、客員を養うためには、そうせざるを得ないのである。

新聞は、もはや、昔日と違った形の、単なるコミュニケーション産業に、変質しつつある。無冠の帝王とか、社会の木鐸とかの古語は、死語となりつつあるのだ。 社内における論説委員の地位の低下が、何よりも、雄弁にそれを裏付けよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.270-271 新聞社に入るなら第一に販売

正力松太郎の死の後にくるもの p.270-271 販売店は配達員の人手の確保その他、経営の苦しい内情をるると訴え、宅配確保の値上げの弁明を試みている。だが、私の十五年の新聞社生活の体験と知識とからいうと、販売店は儲かっているハズである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.270-271 販売店は配達員の人手の確保その他、経営の苦しい内情をるると訴え、宅配確保の値上げの弁明を試みている。だが、私の十五年の新聞社生活の体験と知識とからいうと、販売店は儲かっているハズである。

東京編集局長田代喜久雄はいう(新聞協会報43・11・19)。「紙面刷新三つの柱として、『今週の焦点』という囲み記事を日曜朝刊に新設。朝刊四めんを『ドキュメントのページ』として、記録、演説などの全文掲載。社説活字を大型化して『声』『人』と併せて『オピニオンのページ』を設けた」と。

情報の洪水の中の一つの対応策として、値上げの十一月一日からこうした紙面〝刷新〟を図ったというものであるが、「今週の焦点」は、生活のテンポが早くなったのを認めて、週刊誌に追従した発想である。新聞の記録性に頼った「ドキュメント」はよいとしても、「オピニオン・ページ」に、社説を物理的にのみ読みやすくして収容したあたり、まだ、田代にも〝古きよき時代〟への郷愁趣味がみられる。

刷新であるならば、何故、「社説」を投げ出さないのか。活字を大きくすれば、読んでくれるのだろうか。千円に値上げの発想を打ち出せる編集陣が、社説にこだわるあたりに、やはり、朝日の混迷せる紙面造りの原因があるようである。

大阪編集局長秦正流はいう。「宅配制度の崩壊は、時の流れでもあろう。読売の強力な追いあげに、朝日も懸命である。そして、三紙てい立の維持に必死の毎日——販売費はいよいよ高騰し、小刻み値上げが断続し、各社ともに戦力を使い果した時、ようやく、共販・共同集金などの合理化が検討されよう。その時、どの新聞が生き残っているかが問題である」

宅配の維持が、大新聞社の生存競争でもある。しかし、崩壊へと進みつつあることは、新聞人の眼にも明らかである。朝日、読売の一大激突のあとが、新しい〝新聞〟の夜明けである。その時、「紙面」はどうなっているのだろうか。

さて、それでは新聞の販売部門にも眼をそそがねばなるまい。

宅配制度維持のための、新聞販売店の労務改善を理由とする、新聞代の値上げ発表(四十三年)が行なわれたが、それに先鞭をつけたのは、四十三年十月十二日の日経である。従来の月ぎめ六百円を七百円とするのだが、これは経済紙だからさておこう。朝日は十七日。これを追随して毎日が二十日、さらに読売が二十三日と、いずれも、八十円値上げの六百六十円である。

宅配制度維持のための八十円の値上げであるが、この八十円が、全額、配達員のためにその報酬になるのであろうか。タクシー会社と運転手の関係が、そのまま、新聞販売店と配達員の関係にあてはまらないだろうか。

新聞販売関係の内報を見たり、値上げの解説記事を読むと、販売店は配達員の人手の確保その他、経営の苦しい内情をるると訴え、宅配確保の値上げの弁明を試みている。

だが、私の十五年の新聞社生活の体験と知識とからいうと、販売店は儲かっているハズである。第一、新聞記者を志す奴などバカの骨頂で、新聞社に入るなら、第一に販売、第二に広告といわれている。酒に女に、小遣いに不自由しないという、最近流行のハウ・ツウ式表現である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.272-273 販売担当者の〝オ大尽〟物語

正力松太郎の死の後にくるもの p.272-273 本社販売部員たちは、一歩社を出たら一切の経費が販売店もちで一銭もかからないという。社から出る規定の旅費、日当、宿泊料など、すべてが自分のポケットに残る。
正力松太郎の死の後にくるもの p.272-273 本社販売部員たちは、一歩社を出たら一切の経費が販売店もちで一銭もかからないという。社から出る規定の旅費、日当、宿泊料など、すべてが自分のポケットに残る。

もっとも、社会部記者一筋の私にとって、販売担当者の〝オ大尽〟物語は、あくまで誇張された〝風聞〟〝流説〟であって、どれ一つをとっても、裏付け取材したものではないことを、お断わりしておかねばならない。

まず、月中ごろに新聞の集金が来る家は、金があると狙われている家だという。もちろん、月末に集中しては、人手の都合もあって集金に廻りきれない、という理由もある。一軒の家では、五、六百円でも、百軒で五、六万円、千軒で五、六十万円の、まとまった現金が、早く入金する。そして、半月早く集金し、本社納金を半月おくらせると、一カ月浮くので、この現金を他に廻して、利ザヤを稼ぐというのだ。

本社販売部員たちは、一歩社を出たら一切の経費が販売店もちで一銭もかからないという。社から出る規定の旅費、日当、宿泊料など、すべてが自分のポケットに残る。販売担当員たちは、本社から販売店に行く集金係だから、店主はこれと協調してウマクやらねばならないからだ。

読者から集めた購読料は、サミダレ式に販売店主の手に入る。これを、本社に納金する時期如何で、如何様にも廻せるワケだ。何しろ、ツケなのだから、いいわけはどのようにもつけられる。販売スタンドが、何部入荷し、残部いくらだから、現金はいくらいくらというのとは、ワケが違う。ここに、販売店のウマミがある。

しかも本社からは、販売店の扱い部数によって、何部かの拡張用の赤紙(無料紙)がついてく

る。何カ月タダで入れるから、何カ月購読してくれと、捺印を求める、あのタダのサービス用新聞である。ところが、読者によっては、この本社の無料紙にも、キチンと購読代を払ってくれるお人好しもいるから、コタエられない。

さらに、自民党幹事長の、領収証のいらない機密費のような、「拡材」という、例のバケツやナベの、販売拡張用資材、略して拡材がある。新聞社の販売合戦の内幕をバクロしたら、それこそ、吃驚仰天の事実がでてくるであろう。しかし、販売経費なるものの実態は、永遠に誰からもバクロされないであろう。何故かといえば、バクロした者自身が、刑事責任を追及されるおそれもあるだろうし、全般的に、的確な証拠を入手することが困難だからである。

新聞協会の販売委員会が、拡材の規制や、地区ごとの不当競争を協議する。時たま、一般週刊誌などに、新聞拡張員同士の乱闘騒ぎや、刃傷沙汰が報じられるが、販売関係業界紙誌(もっとも、業界紙はすべて販売関係であるが)をひろげてみると、全国の大小のトラブル記事が目白押しに並んでいる。

販売委員会の様子を聞いてみると、各社の販売局長、部長クラスの委員が出席して、紛争当事社の委員は、それこそ、生れてこのかた、ポリバケツやナベ、カマなど、見たこともないような〝熱弁〟を振う。涙すら浮べて、「わが社はバケツなど拡材を使っていない」と、神にかけて誓うテイだそうだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 本社の販売関係者のオイシサ

正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという
正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという

販売委員会の様子を聞いてみると、各社の販売局長、部長クラスの委員が出席して、紛争当事社の委員は、それこそ、生れてこのかた、ポリバケツやナベ、カマなど、見たこともないような〝熱弁〟を振う。涙すら浮べて、「わが社はバケツなど拡材を使っていない」と、神にかけて誓うテイだそうだ。

その舌の根も乾かぬうちに、安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。数量も、値段も、正確に当ったりしない。それこそ、一山いくらの口である。

その辺には、本社の販売関係者のオイシサがあるらしい。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという——まさに、新聞の主張する「正義」のカゲの〝怪談〟ではある。しかし、確かに、家庭を訪れる拡張員はナベ、カマをタダでくれても、受領証を請求しないのだから、本人の胸先三寸、主婦が美人であれば、アレもコレもと、何でも気前よくおいてゆく。してみると、販売店主の段階でも、拡材の数量は胸先三寸であろう。さらにさかのぼれば、本社と販売対店主の関係、問屋対販売部の関係も、いずれも胸先三寸とあってみれば、ドンチャン、ガッポも満更のウソではなかろうというものだ。

新聞は刷れば刷るだけ、売れれば売れるだけ儲かるものではない。限界利益部数というのがあって、例えば、製作実費七百円のものを、広告料で補って、四百五十円で売っていたし、朝刊は朝、夕刊は夕方と配達時間が限定されているので、部数がふえれば、その経費にくわれて赤字になるというものである。

ここらに、新聞販売の数字の上の秘密やむずかしさがある。しかし、結論すると、新聞販売店が儲かる商売であることは、間違いない。どうも、タクシー会社と同じように、一台の認可をも

らえば運転手を確保できる限り、確実に儲かるし、その権利の転売だけでも莫大なものになるように、配達員を確保できれば、確実に儲かるものなのである。

販売店が音をあげているのは、タクシー会社と同じ、人手確保であって、メシがくえないということではない。まず第一に、新聞代値上げ問題に、この点を注目せねばならない。業界紙の記事をみても、店の権利の売買が行なわれており、経営不振で一家心中などというのは見当らない。

高い、安いという主観的な問題や、値上げの可否については、ここでは論じない。「宅配確保」のための値上げの意味を考えてみたいのである。

宅配は必らず崩れる

一般日刊紙の場合には、配達員の出入りが激しいのか、しばしば欠配があるのだが、ところが、アカハタ日曜版と、聖教・公明両新聞には、遅欠配いずれもないのだから面白い。その理由など云々しまい。タクシーになぞらえれば、会社タクシーと個人タクシーとの差違であろうか。

もはや、都会における生活形態は、朝メシ抜きの時代になっている。少くとも、通勤のための

盛り場付近での、牛乳の立ちのみ、そばの立ち喰いに変りつつある。つまり朝食の食卓で、新聞に読みふける時代は過去のものとなった、というべきであろう。