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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 朝日の紙面は信じられない

正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る
正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る

ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件

以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。

「投書の生命」とは、「責任と信頼」、ではない。「声なき民の声」を、マスコミ構成にのせることである。表現媒体をもたぬ個人に場を与えることである。その声の内容が、真実であることである。冒頭の「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。国会の決算委、法務委などの発言すら、恐喝の片棒担ぎに利用される時代に、新聞が謀略や私利私欲に利用されないため、まず疑わねばならないのである。女個人のグチやタメイキとは違うテーマが論じられている欄なのである。

結びの「いずれにせよ、他人の名をかたった卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得るのを、他人事みたいに思っているようである。ニセ投書として知っていて掲載したのだという、〝積極的犯意〟はなくとも「未必の故意」(自分の行為から一定の結果が生ずるであろうことを知り、かつ、これを容認する心理状態)は、新聞という立場から、十分認められるのだ。もちろん、一月の事件の時でも、「この欄の純粋性と使命感をはなはだしく汚損する」という、〝お詫び〟ではなくて〝お叱り〟があっただけである。

朝日ジャーナル誌の投書も同様である。匿名希望で(投書文中に、「氏名、住所を書くこ とだ

けは控えさせて下さい」とある)あればなおのこと、少くとも学校当局に、「皮肉なことに『朝日ジャーナル』すら、白昼公然と読むこともはばからねばならぬほどです」かどうか、確かめるべきである。学生課長は呆れ果てながら、「学内書店でも売ってるし、学生相談室にも備付けているし、図書館には『前衛』まである」と反ばくしている。

朝日の紙面は信じられない

さて、これらの事実から、朝日新聞についてのさまざまな論拠が得られたように私は思う。さきに述べた、一カ月で十六回という訂正記事の件だが、さらに断わり書きをつけ加えるならば、この「訂正」を出した掲載面は、政治、社会、文化、運動、外電、特集と、編集局の各部にわたっているということである。つまり、ここでは「声」欄について相当な紙数を費したのだが、これは「声」だけの問題ではなく、編集局全般についていえることだ、ということである。

社会面についていおう。

例の「板橋署六人の刑事」事件である。さらにまた、「糸川口ケット」「科学研究費」など、伊

藤牧夫社会部長(西部編集局次長)時代の、一連のキャンペーン記事が、読者には眼をみはらされたものである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 文中には〝無責任な談話者〟が登場

正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま実戦に参加しては、書きなぐっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま実戦に参加しては、書きなぐっている。

社会面についていおう。
例の「板橋署六人の刑事」事件である。さらにまた、「糸川口ケット」「科学研究費」など、伊

藤牧夫社会部長(西部編集局次長)時代の、一連のキャンペーン記事が、読者には眼をみはらされたものである。

これについては、面白い資料がある。光文社発行の、「宝石」誌(42・11月号)が、「宝石レポート」という、特集記事で、「〝紳士〟をやめたか? 朝日新聞社会部」というのを取りあげている。「刑事入浴事件、コラーサ号、東大宇宙研問題など、独走的紙面作りは何を意味するか」という、リードがこの記事の内容を示していよう。

ところが、翌十二月号に、伊藤牧夫の抗議と反論、編集部のお詫びと釈明とが、併せて掲載されたのである。

編集部のお詫びから。「編集では、さっそく取材記者を集め、指摘された部分の事実関係を調査しました。その結果、遺憾ながら、かなりの個所で、事実誤認ないしは記述の不正確があることが判明しました。誤ったデータにもとづく批判によって、朝日新聞社会部の名誉を傷つけたことに対し、慎んでお詫びいたします。

ただ、私たちは、意図的に朝日新聞社会部を誹謗攻撃しようとしたものでないことは、ここに釈明させていただきます。今回はたまたま、取材記者間の意志の疎通を欠くといった不手際から、取材内容のコンファーム不足、引用文献の点検不十分をきたし、上記の事態を招いたものであります」

この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。〝今回はたまたま〟とはいうが、抗議されないで、ホオかむりのまますませているであろう、他の多くの記事があることを物語る。

文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま(うけても成果がなかったか?)、実戦に参加しては、書きなぐっている。その〝独特〟な表現手法は、文章の叙述の中に、括弧で仮名の談話者を入れてゆくやり方で、これが、それぞれの本社員記者にも伝染しつつある。

宝石レポートを読んで、第一に感じたことは、前文で「新聞協会賞を受賞していない」という、決定的な一行が出てきたので、これはクサイ記事だということだった。協会賞は昭和三十二年からはじまったから、十年経っている。協会というあり方からいって、その間に朝日がうけられない可能性は少ない、うけているに違いないというのが常識であろう。しかも、それは協会への電話一本で確認できることではないか。それを怠っている。

果せるかな、文中には、E紙記者、C紙記者、D紙記者、B紙記者という、〝無責任な談話者〟が、この順で登場してくる。イニシアルでないのなら、登場順にB、C、D、Eと出せばよいものを、そこにゴマ化しがうかがわれるのだ。そのくせ最後には、T紙記者が出てくる。これですべて社名のイニシアルと、思いこませようという〝詐術〟である。週刊文春の特集「あの〝特ダ

ネ〟記者は今どうしている?」(40・10・18)に登場させられた、私自身の体験からいっても、「と氏に近い人は説明する」「氏の友人の一人はいう」「というのは、ある古手の社会部記者だ」と、多くの人物に取材しているような表現をとっても、実はすべて私一人の話なのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 朝日の報道が「公正な報道」なのか

正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。「報道の姿勢」さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。「報道の姿勢」さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。

果せるかな、文中には、E紙記者、C紙記者、D紙記者、B紙記者という、〝無責任な談話者〟が、この順で登場してくる。イニシアルでないのなら、登場順にB、C、D、Eと出せばよいものを、そこにゴマ化しがうかがわれるのだ。そのくせ最後には、T紙記者が出てくる。これですべて社名のイニシアルと、思いこませようという〝詐術〟である。週刊文春の特集「あの〝特ダ

ネ〟記者は今どうしている?」(40・10・18)に登場させられた、私自身の体験からいっても、「と氏に近い人は説明する」「氏の友人の一人はいう」「というのは、ある古手の社会部記者だ」と、多くの人物に取材しているような表現をとっても、実はすべて私一人の話なのである。

話が横道にそれたが、伊藤の抗議と反論にもどろう。本文中「六人の刑事」について、伊藤の談話と思われるものがある。

「警察官が民衆に協力を求める場合の態度、警察と民衆のつながり、を考えてほしかったですね。相手の社会的地位、収入状態、服装などによって、態度や言葉づかいがちがうでしょう。それでいいのか、ということです。警察官のモラルといったものも、あるのじゃないか。それを問題にしたかった」

伊藤の署名のある文にも、事実の違いや、論理のつじつまについての指摘以外、伊藤の「意 見」がでている。

「私たちは、日ごろ取材活動の中で、公務員、とくに警察官の市民に対する行動が、ややもすると慎重な配慮を欠き、人権侵害になりかねない事例を少なからず見受ける。いまの日本では、そうした場合、市民の泣き寝入りに終るのが普通である。警察官対市民個人の関係では、〝弱いもの〟は通常市民である。弱い市民のために、キャンペーンすることはおかしい、というのが、D

紙記者の意見ならば、私は賛成できない」

さきに述べたように、この二つの文章を読んでみると、「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。

前者は、宝石レポートの文中の談話だから、伊藤の文章ではない。従って、ニュアンスの違いもあろうが、後者は伊藤のものだ。前の談話は、シナリオ作家か、演出家、もしくはプロデューサーの〝談話〟である。これをもしも、「報道の姿勢」というならば、それもよかろう。しかし、その姿勢で、その姿勢さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。

警察官と民衆のつながり、警察官のモラル——それを〝問題化〟したかったのは理解できるが、果して、「六人の刑事」事件は、朝日の報道が、事実を伝えていて「公正な報道」なのか、どうか。その点が明らかにされていないではないか。

読者は、入浴したのか、シャワーで身体をふいたのか。ソバ代を払ったのかどうか。警視庁の「記事取消しを含む善処方」申し入れを、どう処理したのか。知りたいのは事実だけである。

「公正なる報道」とは、国民の基本的な権利である「知る権利」の代理行使である。つまり、新聞記者や新聞社が得ている、いろいろな特権(例えば、刑法の名誉棄損の免責条項など)は、知る権利の代理行使のために、国民が新聞人に許しているものであって、いうなれば、〝公僕〟である。記者は「知る権利」への奉仕者なのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 朝日社会部の「六人の刑事」事件

正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。
正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。

「公正なる報道」とは、国民の基本的な権利である「知る権利」の代理行使である。つまり、新聞記者や新聞社が得ている、いろいろな特権(例えば、刑法の名誉棄損の免責条項など)は、知る権利の代理行使のために、国民が新聞人に許しているものであって、いうなれば、〝公僕〟である。記者は「知る権利」への奉仕者なのである。

ところが、伊藤は全くこれに答えていないではないか。それどころか、「入浴、踏み倒しの事実はない」という警視庁槇野総務部長談話に対し、「なぜ真実がいえないのか」という、T子さんの談話が同量つづく。両者の対立点が如何ともなし得ないので、最後までこうした扱いをするのならば、何故、初期のT子さんサイドの〝断定記事〟を、取り消すか訂正しないのか。

後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。果して、警官対市民の関係で、弱いのは、市民だろうか? サツ回りの経験もある伊藤だが、築地八宝亭事件のあったころと、現在では全く違っている。遵法精神にみちた、〝善良なる市民〟は、私は、警官より強いと思う。伊藤のいう市民とは〝虞犯性〟市民か、犯罪容疑者のことであろう。それほど、警官は変ってきているのだが、伊藤は〝大〟朝日社会部長として納まりすぎて、現状にうとくなったのであろう。

借問するならば、では、新聞対警察の関係で、どちらが弱いか、警察対大学の関係で、通常どちらが弱いのか? 大学対新聞はどうか。まさに、藤八拳である。弱い強いが、六人の刑事問題の本質と何の関係があろうか。

伊藤は、この「抗議と反論」の結びで、こうもいう。「新聞批判は大いに結構であるが、それがためには、まず、事実関係の正しい把握と、その背景を十分理解したうえで、論評を加えて頂

きたい。無責任な第三者の談話や文章を、事実の裏付けなしに、そのまま引用することは、文章を書くものとして、厳につつしむべきことである、と強調しておく」(傍点筆者)

引用文を原稿用紙に引き写しながら、私は、フト、朝日の伊藤社会部長批判のための、私自身の文章のような錯覚におちいった。だがこれは、伊藤牧夫の文章であった。「宝石」に叩かれてみて、はじめて、この文章のようなイロハに気付いたのであろうか。〝わが身をつねって、他人の痛さ〟を知ったのであろうか。好漢、でき得べくんば、「六人の刑事」の事件以前に、この一文を草すべきであった。冒頭の〝新聞批判〟を、「警察批判」と訂正したうえで——。

こうしてみると、朝日社会部の「六人の刑事」事件は、如何とも正常なる判断力では理解し難いのである。理解し難いから、いろいろな〝風說〟が、したり顔の〝消息通〟たちによって流されるのである。板橋署の記者クラブから、朝日が除名されたシッペ返し〝説〟なども、その一つである。糸川ロケット然り、科学研究費、しかりである。キャンペーンなら、もっとスッキリした形のキャンペーンができないのであろうか。

決定的な点は、「宝石」の記事に対し、伊藤は当面の責任者でありながら、相手の片言雙句に文句をつけるだけで、キャンペーンの趣旨など、一つも本質論をやらない。これもオカしい。〝風説〟が多く流れるのは、疑惑があるから、理解に苦しむからである。

一部の読者は、「六人の刑事」キャンペーンを目し、朝日新聞の反権力闘争の一環として理解 しているようである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 人事派閥の暗闘から生れたキャンペーン記事

正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーン。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、敵にならないから安心なのだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーン。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、敵にならないから安心なのだ。

一部の読者は、「六人の刑事」キャンペーンを目し、朝日新聞の反権力闘争の一環として理解

しているようである。つまり、「警察不信」を宣伝する紙面が、意識的に(シロをクロとまではいわないにしても、訂正も取り消しもしない点)作られていることから、編集幹部の指揮のもとに、一定の方針にもとづいている〝反権力、反体制〟紙面だとうけとられているのである。

だが、私の見解は違う。「声」欄の高松喜八郎が、美術記者出身で、学芸部二十年。次長十年、部長三年の経歴をもっていて、なおもあのような〝無責任、的はずれ〟の弁解を活字にする人物である。伊藤牧夫は昭和二十四年入社、「八宝亭殺人事件」をはじめ、売春汚職などで活躍した、経歴十分の社会部記者で、その人柄からいっても、反体制紙面作りを意識できる男ではない。

元朝日社会部記者の佐藤信が、単純明快にこう〝解説〟する。

「伊藤は、例の九十六時間ストで、スト破りをやった男だ。それで、会社側、広岡社長の線に認められた。ところが、田代編集局長は広岡系列ではなく、田代局長は社会部長に、自分の子分の京都の岩井弘安支局長をもってこようとしている。伊藤社会部長としては直接上司の編集局長によって、部長の地位をおびやかされているワケだ。そのため、伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーンである。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、局長以上にとって敵にならないから安心なのだ。要するに、読者が理解できないというのは、人事派閥の暗闘という、新聞の次元でないところから生れた、キャンペーン記事だからサ」

佐藤の〝解説〟が正鵠を得ているかどうかは別として、伊藤牧夫は〝責任〟をとるどころか、西部とはいえ「局次長」に栄転していった。

司法記者の聖域〝特捜部〟

「何か書かねば——。何かやらねば——」といった、〝追いつめられた記者心理〟の好適例は、さる昭和二十五年九月二十七日の、「伊藤律架空会見記」という大虚報である。朝日の神戸支局員が、マ元帥政令による日共九幹部の追放で地下潜行中の伊藤律と、宝塚山中で会見したという、特ダネをモノした。ところが、その記事をよく読んでみるといろいろ疑点がでてきたわけだ。こうして、三日後には「ねつ造記事と判明、全文取消し陳謝」という社告となる。さすがにこの時は、編集局長にいたるまで、責任を問われたのであったが、原因は、海運記者から警察に配置換えになって抜かれっぱなし、何かヒットをということであったし、「職業と〝朝日〟の重みに押しつぶされたんだ」(当時大阪学芸部記者の作家・藤井重夫=週刊文春40・10・18)といわれる。

このような実例をもち出すまでもないが、社会部記者として十五年の経歴をもつ私にしてみて

も、佐藤の〝解説〟が、一番うなずけるのである。それ以外、どんな〝説〟も、やはり納得ができない。「六人の刑事」キャンペーンは、前述の〝佐藤解説〟で、それではじめて理解される。