第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし
ていた。
自分の部屋に入り、改めて、六法全書を取り出し、机上にひろげた。
第一〇三条(犯人蔵匿) 罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者、又ハ拘禁中逃走シタル者ヲ蔵匿シ、又ハ隠避セシメタル者ハ、二年以下ノ懲役、又ハ二百円以下ノ罰金ニ処ス
カタカナ書きの、刑法の条文が、それなりの重みをもって、私の視野に、飛びこんできた。
——オレはいま、間違いなく、刑法の罪を犯した…。
——しかし、これは私利私欲ではない。公器たる新聞の、取材のためであり、報道のためなのだ!
——新聞は事件なのだ。事件を扱わなくなった読売新聞の、編集幹部に覚醒を促すための手段なのだ。
新聞の編集局長や各部の部長などは、そのクビを、大勢いる部下の記者たちに、預けているのも、同然である。
古くは、朝日新聞の「伊藤律架空会見記」が、そうであり、近くは、「サンゴ礁事件」がそうである。部長、局長、社長のクビを飛ばすことができる。
読売の立松事件では、記事はデマだったが、ネタモトに法務省刑事課長・河井信太郎という、レッキとした人物がいたので、部長が左遷されただけで、局長はお構いなしだ。
なんと、美辞麗句を並べようと、私の今夜の行動は、まぎれなくも、「犯人隠避」である。
——これが、「事件」になるかどうかは、私の手で、安藤以下の指名手配犯人を警視庁に自首させられるか、捜査の手が早く逮捕されてしまうか、どうか、そのスピード如何にかかっている。もし、当局
の手が早ければ、私は犯人隠避罪の、刑事被告人になることは、間違いのないところである。
そう考えると、私は、急に脱力感に襲われて、虚しくなってきた。
——いったい、新聞記者、新聞記者って、ひとりでリキみ返っているが、新聞記者って、なんなのだ?
いつも私の寝ている間に、学校へ行ってしまって、顔を合わせるチャンスの少ない、子供たちの顔が、急に見たくなってきた。
子供部屋に行って、二人の男の子の寝顔を見ていると、虚しさが、一層つのってきた。
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
そして、しばらくののちに、私のクーデターは失敗する。私は負けるのだった。それもまったくの偶然からだった。
安藤の足取りは、まったくつかめない。上からは、ヤイヤイいわれる。刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。
もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。と、一枚の紙切れが入っていた。
「北海道、旭川市……。山口二郎」
手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。
手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。
「安藤組で、旭川市に土地カンのある奴はいない。山口二郎なんてのも、知らんな」
花田のカミさんが、刑事の質問に、どう答えたかは、私は知らない。もとより、カミさんの供述を、そのまま、ウ呑みにするハズはありはしない。私の推理では、小笠原が、花田に金でも送ってくれ、と手紙を書き、花田はカミさんにいいつけた。それで、送金のため、住所を残していた…?
北海道警察本部に手配が行き、この「山口二郎」なる人物が、何者であるかの捜査が始められた。
その日は日曜日で、私は、久し振りにくつろいで、自宅にいた。と、司法クラブの寿里記者から、電話があった。
「月曜日の朝、通産省の役人のサンズイ(汚職、汚の字がサンズイだから、こういう)で地検がガサをかけるんです。それほど、大きなヤマ(事件)ではないんですが、原稿、どうしましょう?」
「小さなサンズイなんか、どうせ、ベタ(一段の小さい記事)だろうけど、オレも晩飯を喰ったら、社へ出るから、その時に打ち合わせしよう」
久しぶりに、家族四人揃っての夕食ののち私は、車を呼んで出社した。日曜日の夜の編集局は、いつものような活気がない。ニュースが少ないからである。
寿里も、お茶を飲みに出たというので、私は、空いてるデスク(次長席)に坐ってなに気なく、机上の原稿に、目を落とした。少し前に、地方連絡が置いていった、北海道発の記事である。
その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。
「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。
——小笠原のことだ!
むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。
偶然にも、日曜日の夜、翌朝の、地検のガサ入れの打ち合わせに出社して、私は旭川署の動きを報じてきた、旭川支局発の原稿を見ることになってしまった。
手短かに、寿里記者との打ち合わせを済ましたのち、婦人部長の長谷川実雄(のち巨人軍代表)を訪ねて、経過を報告し、「警視庁は逮捕すると思うので、即刻、辞職したいと考えている」と、打ちあけた。
もちろん、前夜のうちに、塚原大尉にも電話して、事情を説明し、「警視庁から呼び出しがくるでしょうから、なにもかも、洗いざらい、ホントのことを話して下さい。下手すると、一泊か二泊、させられるかもしれませんけども、それ以上のことはないでしょう」と、話しておいた。
昭和三十三年七月二十一日の月曜日、私は朝早く、金久保通雄・社会部長の自宅を訪ね事情を説明して、前夜に用意した辞表を出した。部長は、警視庁の話も聞いてみよう、と一緒に刑事部長を訪ねた。当時の警視庁刑事部長は昭和十二年採用の新井裕であった。
その時、この修羅場をくぐったこともないエリート官僚は、塚原大尉に対する、私の説明を聞いて、こういい放った。
「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった
りするもンか!」
「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった
りするもンか!」
警察取材が長く、親しい警察官も、警察官僚にも友人が多くいるのだが、この言葉には激怒を覚えたものだった。
新井裕もまた、「幻兵団」の調べ官、二世のタナカ中尉と同じように、「記者の功名心? …信じられない…」と、いった。その心は、安藤組との深いつながりや、金の関係などを、疑っているようだった。
同席していた、捜査二課長は平瀬敏夫。若い彼は、一言も発せずに、私と新井裕とのヤリトリを聞いていた。
この新井は、のちに、警察庁長官にまで進む。が、私は彼を糾弾する。昭和五十年六月四日付の「正論新聞」一面のトップ記事である。
「大林組〝夜の社長〟と元警察庁長官」という大見出しである。大林組に寄生して、女の世話までしながら、同社の全資材からマージンを取っていた、福島県出身の代議士の息子がいた。菅家(かんけ)というこの男は、福島民報の記者だったが、当時の県警本部長の新井と親しかった。
多分、新井は、そのころ、日本航空顧問だったと思う。大林組が青山に落成させたばかりのマンションに、この菅家と新井とが、隣りあわせで入居していたのだった。つまり、菅家と新井のゆ着である。全国に作業所を持つ大手土建は、それぞれ、各地で事故を起こしたりするので、モミ消しには警察庁長官を利用していたのだろう。
刑事部長への経過説明のうちに、二課担当の子安記者が入ってきて、「二課ではビラを請求しました」と、耳打ちしてくれた。逮捕状のことである。
「新井さん。当然、強制捜査をされるんでしょうが、私としては、今朝、社会部長に辞表を出しました。これが、今日、受理されて、〝元読売記者〟になってから、逮捕されたいのです。いくらなんでも、現役記者のままでの逮捕では、社に迷惑をかけすぎます。…立松の場合とは、違うんですから、それぐらいの時間を下さい。こうして、自分から出頭してきているんですから」
交渉の末、社会部長が預かる形で、明日の火曜日正午に出頭する、ということで、決着がついた。
——明日の正午まで、丸二十四時間しか、自由の時間がないのだ。
社にもどる。辞表は持ちまわり役員会にかけられ、夕方には受理、発令された。仲間の萩原キャップが、「オイ、中村信敏弁護士を社でつけてやるからナ」と、気を配ってくれたのに、感謝した。
しかし、人間、落ち目の時にこそ、まわりの人の〈人間〉が目に見えてくる。
さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局
長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。
さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局
長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。
そして、それから一年ほども経っただろうか。読売本社へ顔を出したところ、バッタリと、深見和夫・広告局長に出会った。
「オイ、三田。この間、務臺さんと同じ車に乗った時、『三田は、どうしているンだ』と心配されていたぞ。社に来た時は、挨拶に顔ぐらい出してこいよ」
こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。正論新聞の十周年では、多忙のなかを割いて、帝国ホテルのパーティで、鏡割りをしていただいたほどである。
そして、私の腕時計は、45・7・21ツー・ミタ・フロム・ムタイと、裏に刻みこまれたオメガ。もうすでに、二十年を越えているが、ほとんど狂わない。務臺さんの読売社長就任の時、記念に下さったものである。
中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。
こうして、私は、中村弁護士と萩原とにつきそわれて、警視庁に出頭した。捜査二課の石村勘三郎警部補係で、調べ室に入った。
夕方になったころ、石村主任はニヤニヤしながら、「ブン屋をしていたって、見たことのないものを見せてやるよ」と、一枚の紙片をさし出した。
「フーン。逮捕状か。アレ? オレの名前が書いてあるよ!」
「ドレ、ドレ。アーホントだ。じゃ、オメェさんを逮捕しなくッちゃ!」
調べ室の中の千代部長刑事も、二人の若い刑事も、みんな、大笑いした。その日は形式的な調べだけ。十名近い雑居房で、監房長官は、暴力団右翼のボス。私は〝安藤のために、読売記者を棒に振った英雄〟として、その客分扱い。
雑居房の上席は、入り口に近い所から、奥の便器の側へと、下がってゆく。私は、ボスの次の場所で、日曜、月曜と二日つづきの寝不足に、グッスリと眠った。
石村主任は、おもしろい男だ。藤井丙午・八幡製鉄副社長を逮捕しようとして、令状請求書を持って、朝、課長室に入る。所轄署なら、令状警部と呼ばれる警部で、裁判所に逮捕状を請求できる。しかし、警視庁では、課長の決裁が必要である。業務上横領の容疑であった。
「……」
課長は、ジロリと石村を見て、黙ったまま横を向いてしまう。デスクの正面には、石村も黙ったまま、直立している。手には、令状請求書を持っている。
課長は、横を向いて、サイドテーブルで仕事をすることになる。上のほうから、待てという指令がでているからだ。…こうした日が何日もつづいた、ということだ。
そして、ある日。彼は、推せん枠で警部に昇進させられ、制服を着て、方面本部の刑事官として、捜査の現場から外されてしまう。のちに、警視で退官し、平和相互銀行に入り常務にまで栄進した。
逮捕の翌日朝、運動に出る時、「読売!」と、声をかけてきた男がいた。まだ、メガネの使用許可がとれず、遠いので、誰であるか分からない。
「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」
「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」
「ハハン。すると、安藤もパクられたのか。小笠原も、旭川から護送されたんだろう。それにしちゃ、顔を見ないネ」
「オメエ、ほんとに声をかけた男、知らねえ男かい?」
「そういってるダロ、元山と王の関係で、小笠原を紹介されただけで、安藤組なンか、だれも知らないよ」
「フーン…」
この時から、石村主任の態度が変わった。いままでは、まだ、疑っていたのだった。私がほんとうのことを供述していない、と。
萩原の配慮で、中食には、大増の弁当がさし入れられた。子安が、石村の部屋まで届けてくれる。もう、調べは終わってしまい、私は、朝から石村部屋で、ダベりながら、時間をツブしていた。
「しかし、なあ。捕まえたオレが、牛乳とパンを喰っているのに、捕まったオメエサンが、豪華な弁当を喰っているッてのは、少し、オカシイんじゃないか」
部屋持ち主任の石村以下、デカ長一、デカ二の合計四名と、私とが、みんなで揃って中食を取る。そんな冗談も出てくるフンイキだった。いわゆる〝石村学校〟と呼ばれ、石村式捜査が、若い刑事たちに叩きこまれていくという、〝捜査の職人〟だった。
やがて、満期日がきて、私は起訴された。その翌日、高検次席だった中村弁護士は、自分で書類を持ち歩いて、保釈の手続きを素早く済ませてしまった。やはり、ベテランの刑事弁護士であった。
だが、ベテランの刑事弁護士では、あまり収入にはならない。人柄もまた、商売向きではないので、友人たちが仕事をまわしてくれる。やがて、彼は、児玉誉士夫の顧問弁護士になった。やはり、友人の好意からだ。
当時、すでに児玉批判を強めて、そんな雑誌原稿を書いていた私のことを、彼は、よく知っていた。ある日、銀座の中村事務所に、ヒョイと立ち寄ってみた。
「オイ、三田クン。いままでは、読売以来の仲で、親しくしていたけれど、これからは、そうはイカンぞ。…なにしろ、オレは、児玉の弁護士になったんだから、キミとの付き合いにも、一線を画するからな」
ニコニコとして、そういっていた中村弁護士だったが、早逝されてしまった。 裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。
裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。
「一審は、有罪。懲役六カ月、猶予二年というところかな。二審でついてあげるから、一審は中村先生におまかせしなさい。拳銃不法所持の訴因について、争う余地があるから。でも、一審の裁判官は、冒険を試みはしないから、やはり有罪だよ」
私の、小笠原の指名手配犯人という認識は、横井英樹を射った拳銃の、不法所持犯人という認識であった。
ところが、小笠原が奈良旅館で語ったように、実際の射撃犯は千葉で、小笠原は誤手配であったことが、明らかになっていた。検察は、その時点で、小笠原の供述のなかに、むかし、拳銃の入ったボストンバッグを、東宝撮影所のロッカーに隠した、とあるのを取り上げて、私が小笠原を知る以前の、拳銃不法所持犯人と、訴因を変更していた。
——バカらしい。オレは、横井事件が発生してから、小笠原を紹介され、その時点で、横井を射った拳銃の不法所持犯人という認識はあった。それが、誤りだったとなれば、犯人という認識が崩れたのだから、無罪だ!
何年も前の、違う拳銃の不法所持犯人という認識など、まったく無かったのである。小野弁護士は、そのことを指して、「争う余地がある」と、いわれたのだった。
東京高裁で二審が始まった。小野主任弁護人で、審理が進んだ。当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。
小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧
問室に伺って、公判の打ち合わせがある。公判当日は、車で本郷の私邸にお迎えに行き、車でお送りする。次回の打ち合わせ、次回の準備と、私は、すっかりくたびれてしまい、控訴審が始まって、半年ほどで、控訴を取り下げてしまった。一審判決が確定した。懲役六月、執行猶予二年の刑であった。そして、猶予期間の二年間を、無事に、なにごともなく、満了したのだった——。
それと同時に、イヤ、それよりも早く、私は保釈出所すると同時に、文芸春秋本誌に、「我が名は悪徳記者・事件記者と犯罪の間」という、長文の原稿を書いていた。これは、その年、昭和三十三年十月号に掲載され、その年度の、文春読者賞にランクされるほどの評判で、これで、精神的な決着をつけ、控訴取下げ、判決確定、猶予期間満了で、物理的な決着をも、つけていたのだった。
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
この、私の安藤組事件の期間、原四郎は出版局長として、新聞から離れていた。だからこの〝事件〟に関しては、原のアクションはなかった。そして、この年の秋、新聞週間で講師になった原出版局長は、こういった。
「週刊誌ブームというのも、ラジオが思わぬ発達をとげたために、起こったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌など、つぶしてしまわねばならないと思う」
この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版
局長の言葉である。