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雑誌『キング』p.128左側上・中段 幻兵団の全貌 スパイ団は日本国内に

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.128 上段・中段 四、日本に於ける実態
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.128 上段・中段 四、日本に於ける実態

四、日本における実態

昭和二十四年十二月二日、舞鶴に入港した第六船団最終船信洋丸で、二十四年度の引揚げは打ち切られた。同年五月のソ連政府声明によれば、十一月までに九万五千名を送還して、日本人捕虜は全員帰還する、ということであったが、対日理事会で問題となり、二十五年に入ってから異例の冬期引揚げが二回も行われ、高砂丸によって五千名近い人たちが帰ってきた。

一月二十二日入港の第一次、二月八日入港の

第二次の引揚者たちの情報によれば、もはやシベリアに残留する同胞は、それほど多くない模様である。

すると、数万にのぼる誓約書を書いた人々は、大半がすでに日本に引き揚げていることになるわけだ。このスパイ団の舞台は、もはや日本国内にうつっている。

Ⓐに属する人々は、『ナホトカにて乗船次第任務解消すべし』と命令された者もあるように(タ

雑誌『キング』p.108上段 幻兵団の全貌 私の幻兵団との闘い

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 上段

だ。私はひとりつぶやいた。『これは何か、重大な秘密がひそんでいるぞ』と。もはや私は自分がワエンヌイ・プレシヌイ(軍事俘虜)であることも忘れていた。作業場ではソ連労働者が『ソ米戦争は始まるだろうか』『お前達の新聞には次の戦争のことを何とかいているか』としきりにたずねていた。〝日本新聞〟の反米宣伝は泥臭いあくどさで、しつように続けられている。アメリカ——日本——ソ連。そしてスパイ。私は心中ひそかにうなずいていたのだった。

やがて、私も故国に向かうダモイ梯団に加わって出発した。船中では『誓約書』という言葉を小耳にはさんだ。舞鶴ではさらに数多くの、断片的な情報をつかんだ。そして、私の推理を裏付けるように、昭和二十一年春に、当時はまだ新聞といえないほどお粗末だった〝日本新聞〟が、同志編集者を募る旨の紙上広告を発表し、それに応募した男が前述の四つの謎をもつ男だったことも知るにいたった。私は、『ソ連地区抑留日本人で組織されたソ連側のスパイ網』の存在を確信した。

私は帰京して出社するや、直ちに社会部長にこれらの状況を説明して、その組織や目的の調査をはじめることを報告した。こうして私の〝幻兵団〟との戦いがはじめられた。昭和二十二年十一月はじめのことだった。

迎えにきたジープ p.110-111 生き残りだけの捕虜名簿

迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.
迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

シベリヤにも遅い春がやってきた。四月ともなれば、丘から丘へと連なる大地のうねりにも青味がかかって、美しい林のはずれから、澄んだ小川のほとりまでも、茎の短いタンポポが、鮮やかな黄色の絨毯をひろげたように咲き乱れる。

だが、春を迎えた収容所の人員は、約三割も減って二千七、八百名しかいなかった。その行方はあの可愛らしいタンポポにでも、たずねるよりは仕方があるまい。そして、生き残った人たちに対してだけ、やっと捕虜名簿のカードが作られはじめていた。

二 マイヨール・キリコフの着任

それから四年が過ぎて、昭和二十五年の春、信濃、高砂、両引揚船が舞鶴に入港して、ソ連地区の引揚は打ち切られた。

都心には新しい高層ビルが、競争のようにどんどん建ち聳えている。そのどれもが自動車でいえばフォードのように明るいが、幾分安っぽい感じのものだ。大通りには欧洲車は影をひそめて、赤、青、黄と派手な米国製高級車が洪水のように流れている。

盛り場にはクラブとかキャバレーとかいう社交場が妍を竸い、ネオンが妖しくまたたいている。ショーウィンドウにはスマートな商品が豊富に飾られている。そしてその商品の殆どが、衣類も化粧品も菓子までが米国製だ。

舗道をぞろぞろ織りなすように行き交う人たちは誰もが美しく装っている。人妻か娘か判ら

ない婦人たちは、最新流行の服だ。そして職業の全く判らないような男たち。

日本の庶民生活とは何の関係もないこのような事柄が、戦後数年間のうち東京にみちあふれてきた。

だが、身近かな喫茶店やパチンコ屋でさえ、その資本主や経営者には、難しい漢字の三字名や、片仮名の外国人たちが並んでいる。外国人の賭博場ができ、月島の埋立地に上海や香港のような華僑の街をつくろうという計画までが樹てられる。

密輸と密入国。植民地気質の出稼ぎ外人たちは大きな悪事を働らいては飛行機で逃げ出す。大陸や外国から引揚げてきた鮮、華、露などの混血児。赤系に変った白系露人、無国籍のエミグラント、もはや東京は八百万都民と何のかかわりもなく、怪しげな国際都市として、その性格までも変貌していた。

高級住宅地である麻布の高台を滑るように走ってゆく外国製車が一台。ナムバープレートには「SPACJ—35」とあるから、ソ連代表部の車だ。見馴れない型だからモロトフに違いない。ZIM式六基筒九十五馬力。モロトフ工場製でソ連が誇る新車ジムだ。

前に二人、後に二人と、いずれも座席の中央をあけて四人のソ連人が乗っている。車はグングンとスピードを出して虎の門から桜田門へと向った。警視庁のクスんだ建物を左にみて右へ

大廻り、祝田橋の信号にかかってギュッと停った。たちまち七、八台の車が後につかえる。

迎えにきたジープ p.128-129 恐しい誓約書を書きました

迎えにきたジープ p.128-129 In Harbin, like every night, Communist Party military police squad with large pistol patrolled the dance halls. The purpose was to hunt for the Kuomintang special agency (kuo-tau).
迎えにきたジープ p.128-129 In Harbin, like every night, Communist Party military police squad with large pistol patrolled the dance halls. The purpose was to hunt for the Kuomintang special agency (kuo-tau).

ソ連潜入! 別れねばならなかった愛する和子への、一沫の哀愁を抱いて、彼は特殊任務のため、再び黒河に潜行した。渡河の機会を狙っているうちに、やがて終戦の日が来た。逃げる暇もないソ連軍の進撃に、彼は捕虜としてシベリヤに送られたのであった。

彼が青木大佐の部下として舞鶴で働らいていた、二十四年の九月ごろ、初の中共引揚として、大連集結の婦女子が高砂丸で帰ってきたことがある。その中に華やかな色どりをみせていたのは、中共の享楽追放でハルビンを締出されたダンサー・グループであった。

こうして、再び相見ることはないはずの、勝村と和子はめぐり逢った。解逅の感激はロマンチックであったが、十年近い歳月の流れという現実はきびしかった。

長い長い抱擁と涙ののち、鋭く勝村に問いつめられて、いまはチェリーと名乗る和子は、その赤い密命にのろわれた数奇な運命を語った。

『覚悟はしていたものの、やはり、あなたが憲兵に連れていかれてからは、一月余りも毎夜泣き通しでした……

野獣のようなソ軍を防ぐために、進んでシルクローズのダンサーになりました。これがそもそもの悪夢の始まりだったのです。ソ連兵が去り、国民党が中共に追い出されて、どうやら秩序が回復しかけてきたころです。

中共の享楽追放は、ハルビンの街のネオンを一つ消し、二つ消し、重税と厳重な取締りとで、私たちの回りにもヒシヒシと迫ってきました。

毎晩のように、何回となく、木のケースに入れ長い飾り紐をつけた大型拳銃を、ブラブラさせながら、五人、十人と隊を組んだ中共の執法隊が廻ってくるのです。

第一の目的は国特(クオトオ)狩り、つまり国民党特務を摘発しようというのです。そのため、私たちには密告のノルマが課されたほどです。

第二の目的は課税です。踊っている中国人は住所、氏名、職業を調べられ、果して遊ぶだけの正規な収入があるのか、不正な金ではないかとニラまれ、それだけ収入があれば遊ぶ余裕があるとして、それだけ重税を課せられるのです』

和子は苦しい想い出に眉をしかめた。

『こうしてお客が減り、私たちの生活が苦しくなってきたとき、ソ連の政治将校のイワノフスキーが足繁く通いはじめました。やがて、私たちを身動きのならない羽目におとしこんで、スパイになるようにと脅迫するのです。

身体を投げ出して逃れようとした人もありました。けれども無駄でした。汚されたうえに更に脅迫が続くのです。一人落ち、二人承知し、次々に恐しい誓約書を書いてゆきました。そし

て私もとうとうその一人になりました。

新宿慕情146-147 ダリヤ姐さんの消息は…

新宿慕情146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。
新宿慕情146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。

赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 志位氏の手記から引用しよう

赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 He thrust a small piece of paper hidden behind his palm   into my pants pocket.
赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 He thrust a small piece of paper hidden behind his palm into my pants pocket.

また「私はアメリカのスパイだった―キャノン機関の手先として」(サンデー毎日二十八年八月二日号)板垣幸三氏は、終戦時樺太でソ連軍人のボーイ(十五才)となり、北鮮を経て密輸船で日本へ入国、キャノン機関で教育され、最後は同機関のアジトの赤坂見付のドライヴ・イン(ラテンクォーター)のボーイになっていたが(当時二十三才)、鹿地事件で表面化したキャノン機関攻撃のため、法務委員会に証人として引張り出されたというだけの人物である。

志位氏の手記(著書「ソ連人」)のうち、興味深い幾つかの個所を引用してみよう。いずれもドラマチックであるが、〝彼とその相手以外の誰にも分らない事実〟である。

二十六年九月はじめのある朝、私はいつものように家を出ると、経堂駅に通ずる道を、急ぎ足で歩いていた。私がとある町角を曲ったとき、この辺ではあまり見かけない一台のジープが道端に止まっていて、運転手らしい男が、エンジンに首を突込んで油まみれていた。なんだ故障だなと、何気なくそのジープの横を通り過ぎて私がものの十歩も歩かないうちに、

『ギブ・ミイ・ファイヤー!』

早口の英語が私の後から追ひかけてきた。ふり返った私はポケットからライターを出して、その声の主の咥えていた煙草に火をつけてやった。

ふと見上げた私の眼と彼の眼がかち合った。ものいいたげなその視線、背のすらりとした明るい顔つきの若い白人だった。

煙草に火をつけ終るやいなや、彼は手のひらに隠していた小さな紙片を、私のズボンのポケットに突込んだ。それはほんの一瞬のことであった。私が、また一、二歩行きかけて、手をズボンのポケットに入れたら、

『アフター・ナーウ(あとで)』

と、白人の英語がまた早口に追いかけてきた。私はそのままバスの停留所に急いだ。

始発のバスのなかで、私は汗にまみれた小さな紙片を人眼を盗むようにして、素早く読んだ。

『あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時テイコク劇場裏でお待ちします。もしだめなら次の水曜日の同じ時間、同じ場所で……』

金釘流の日本文、判読するのに一寸骨は折れたが、「協力」のためのレポであることはすぐ私につかめた。『子供たちもワンワン泣いています』という吹き出しそうな言葉は、明らかにあの合言葉の上の句であった。しかも日時、場所を指定してきていた。

来るべきものがついにきた。回答までの三日間私の頭脳はめまぐるしく回転した。ここでまず一番簡単な方法―それは、CICにこのことを報告することであった。しかもそれは占領下の当時の状況のもとでは、私にとってもっとも安全かつ有利かも知れなかった。 だがここで私がCICに報告すれば、私があの終戦の時に決心し、シベリヤで考え、舞鶴で心に誓った「全員引揚げの促進」がすべて嘘になる。まだ多くの同胞が、あの暗いシベリヤから帰ってきていないのだ。私はどんなことをいわれようと、自分自身を裏切ることはできないと、こう考えた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 東京租界の「租界」たる所以

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement's crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.
赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement’s crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.

親しい交際が続いたのち、戦争が二人をへだて、また解逅させた。その時には彼女は米国人の妻として、エキゾチックな美貌にひかれる外人たちに囲まれ、佐多さんと同じグループで、ドルや自動車やヤミ物資を動かす女になっていた。

すでに米国人の夫とも別れ、ヤミドル団の主犯セッツ氏が経営する、偽装の真珠会社の輪出部員の肩書で、セールス・マンとして〝マダム黒真珠〟の名をほしいままにしていたのである。

彼女は高い石塀に囲まれた家に住み、外出のたびごとに衣裳から装身具まで変えるという、豪しゃな生活ぶりだったが、さすがに外務省の一事務官として地味に暮していた高毛礼氏と逢うときには、十余年前の姿をおもわせる平凡な三十女になっていたという。

あとの二人は元外務事務官I・八重子さん(三五)と元GHQ勤務K・和子さん(四三)の両女であるが、高毛礼氏との関係や犯罪事実についての確証がないので、当局では内容を厳秘に付している。

だが、読者はいままで述べてきたうちで、次の部分を想い起して欲しい。即ち、本人は否定したが、村井前内閣調査室長の外遊に英国人諜報員がつきまとっていたという事実と、同様に本人は否定したが、志位氏に自殺せよとささやいた東洋人とは、まぎれもなく印度人であったという事実とである。再び強調するが、国際諜報謀略戦とは、決して単純なものではないということであり、眼前の現象(事件)に左右されて、透徹した冷静な判断を誤まり、真相を見失い勝ちだということである。

そしてまた、麻薬とかヤミドルといったような〝租界犯罪〟がはびこる都市こそ、国際スパイの檜舞台でもあるのだ。〝東京租界〟と米ソスパイ戦の因縁もここにある。

国際ヤミ屋を装った怪外人たちの惹き起す群小事件も、彼らが意識するとせざるとに拘りなく持つ、その政治的、思想的背景に着眼すれば、今更のように〝東京租界〟の〝租界〟たる所以がうなずけるであろう。(「羽田25時」参照)

シベリヤ・オルグの操り人形たち

一 除名された〝上陸党員〟

二十九年八月十三日の夜、山本課長の帰国後のラ事件最後の裏付け捜査が終った。明十四日早朝、係官たちは手分けして、家宅捜索やら容疑者の逮捕やらに出動する。その年の二月三日警視庁に自首してきた志位氏は、舞鶴から呼ばれてここ警視庁の別館調べ室で最後の取調べを受けていた。夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。