■□■検察NO.2の失脚■□■第5回■□■ 平成11年(1999)4月10日
月刊「噂の眞相」誌の報じた、則定衛(のりさだまもる)・東京高検検事長の女性スキャンダルは、5年前の事件にもかかわらず、各方面に大きな衝撃を与えて、本人の辞意表明にまでいたった。(10日現在)
私はこのニュースに、読売の司法記者時代に直面した、検察の派閥対立と抗争を昨日のことのように思い出した。この事は書き出せばキリがないので、ある検察首脳のひとりを紹介したい。
東京高検次席、京都検事正、大阪検事長、最高裁判事、同長官を経て、さきごろ亡くなった岡原昌男氏。
さきの派閥対立は、一般には戦前の特高検察の流れの公安検察と、戦後の経済混乱で勃興した経済検察との対立と、とらえられているが、私は違う意見である。検察の正統派と政治に癒着する権力派との戦いと見る。前者の代表が岸本義広東京検事長、後者は馬場義続法務次官。悪名高い“馬場派の殺し屋”河井信太郎特捜部長を抱える。
馬場を切るために、総長を諦らめ代議士となり、法相となってと転換した岸本の選挙違反を、馬場は徹底追及して起訴した。岸本は失意のうちに逝き、その次席だった岡原は、実に7年間も京都検事正のままだった——私は「正論新聞」でこの事実を叩き、馬場の次の総長が岡原を大阪検事長とした。
岡原は定年前に最高裁判事の検察ワクに移った。馬場の偏向人事を正した総長の思いやりだったろう。そして長官へと進む。検事出身判事が長官になるとは、異例中の異例であるが、他の判事たちからクレームが出なかったことが、岡原の人格すべてを物語っているではないか。
検事も若い時にはその理想に燃えて、正義のためにのみ行動するが、年をとるとともに現実的になり、権力におごって自己中心的になり、金と女の誘惑に溺れながら、それを自己規制も批判もできなくなる。そこで、その人自身の人間性が出てくるのである。新聞記者とて、企業人とて例外はない。則定事件が5年前のことだろうが、どうして、今ごろ表面化したのかなどは、事件の本質には無関係である。
権力とそれに近い立場にある者に求められるのは、高い倫理性である。私はその例として、岡原昌男を想起した。長い記者生活で、則定のような人生の浮沈のドラマを見つづけてきた。三越の岡田茂社長の「なぜだ?」が、あれほど人口に膾炙(かいしゃ)されながら、則定官房長(当時)にはなんの教訓にもならなかったのだった。 平成11年(1999)4月10日