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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく

正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。
正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。

最後に、前項でのべたABCレポートによる、読売との全部数差四十万が、追い抜かれはしないだろうか、という質問をした。

渡辺は、この時はじめて、静かな闘志を瞳に輝かせて、答えたのである。

「部数競争が、新聞のすべてではない。しかし、部数がトップであるということは、大切なことだ。社員の士気からいっても、朝日はこの競争にも勝ち抜く!」

銀行借入金、ついに百億突破

毎日新聞についても、〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく、一通りの解析を加えてみよう。

毎日は、大阪、東京、西部、中部の四本社制をとっているが、登記面では、大阪本店、東京、西部(北九州市)両本社が支店、名古屋の中部本社が別会社である。この歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実が、毎日新聞の分析の上で、大きなポイントにならざるを得ない。事業の主体が東京にありなが

ら、本田元社長の大阪編集主幹、上田前社長の大阪営業系出身とあっては、人事の主流は大阪系である。

本田〝天皇〟時代の様子については、すでに述べた通りであるが、その〝退位〟を迫ったのは、現会長の田中香苗ら東京系幹部による、一種のクーデターであった。そして、そのクーデターは、内外への影響を考え、流血の惨を避けて、暫定首班として人格穏健な上田常隆がえらばれたのであった。

国敗れて山河あり! 革命の推進力であった田中——梅島ラインには、この莫大な借金を背負った毎日新聞の経済復興には、メイン・バンク三和銀行との円滑な接衝が苦手だったらしい。そのため、銀行筋にもよい上田が浮んできたのである。

上田社長の就任第一声は、「社内民主化」であったからである。本田〝天皇〟時代の、全くのワンマン政治は、読売における正力の如く、実力とオーナーとしての権威に裏付けされた「ワンマン」と違って、法律的な代表権にのみ保護された、いわば、成り上り者の強権政治であったから、〝物言えば唇寒い〟陰湿な派閥を生んだのであった。

かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ

ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日と、朝日・読売との基本的な違い

正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…
正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…

かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ

ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。

そのように、営業畑が比較的波静かだったので、上田は、経理、広告、総務、人事などの部門を、順調に歩んできた。昭和九年ごろ、まだ三十歳の初期の青年上田常隆は、当時NHKで放送されて好評だった、友松円諦師の「法句経講義」に聞き入って、大いに開眼するところがあったという。この話からも判断されるように、その真面目で真摯な人柄が、次第に支持者をふやし、ことに、銀行筋の圧倒的信頼を集めていった。いうなれば、読売における務台副社長とも比肩される、銀行の支持だったのである。

上田社長は、その人柄ゆえに、社長となるや、直ちに、集団指導制の確立を図った。本田ワンマン時代の反動としても当然であるが、氏自身が、親分にへつらい、子分を養うタイプではなかったし、何よりも、彼の双肩には、「経営の建て直し」という、重大な使命が課せられていたからである。その第一声が、「社内民主化」であったということは、つまり、派閥という言葉をさけているが、派閥の存在を認め、その弊害が毎日の存立をおびやかした事実を卒直に承認した上での、派閥の打破であった。そのためにも、派閥の親分、師団長クラスを全部あつめて、その集団指導制をとり、その中で、派閥を序々にブチ壊してゆこうとしたかの如くみられる。つまり、河

野一郎を大臣にして、閣内協力のワクをはめるのと同じように、実力者たちで重役陣を編成し、各派閥の長老たちには「顧問」の地位を用意した。能力ある者が、その能力を「最大限に発揮できる」ように、「徹底的ディスカッション」による「集団指導制」——その安定の上にのった、社長としての「カジ取り」を考えたのである。

ここでまず、毎日と朝日、読売との、基本的な違いをみつめねばならない。つまり、毎日には、明治十五年以来、一世紀近い歴史がありながら、その歴史と共に歩んできた、資本家重役がいない、ということ。これを裏返せば、毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。株式はもちろん、社内株であるが、大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%、前社長上田常隆一・一%、原為雄(相談役)、安部元喜(客員)各〇・九%、本田親男(元社長)、後藤弁吉(客員)各〇・八%という分布である。しかも、この数字を前年度以前と比べてみると、社長交代などの異動のたびごとに、常に動いているのである。

ところが、朝日では、村山長挙一二・〇%、村山於藤一一・三%、村山未知子、同富美子各八・六%(計、村山家で四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%(計、上野家で一九・五%)と、両家の合計は六割となり、この数字、比率は、戦後一度も動いていない。

また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太

郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 毎日の百二十五億の借入金は多すぎる

正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。

また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太

郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。

このような、株主構成、つまり、経営体のあり方の差は、同時に、銀行資金の流入状態にも現れてくるのは否めない。「正力の読売」として、前だれ姿の〝正力商店〟ともいうべき、零細企業から出発し、中小企業から、大企業と育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがないことは、先にも述べたが、これを銀行別に借入金を調べてみると、住友の九二六(単位百万円)を筆頭に、以下、三井九二四、富士五八四、勧銀五六○と続き、大阪読売では、三和、富士、住友、東海の各一五四(計六一六)、三井信託一五八、安田信託一五〇、三菱信託一一六、長銀一一一となっている。東京本社の新社屋建設に備えてか、東京での借入金を整理して減らし、これを大阪読売に転嫁している。

「新聞の公器性ゆえに、銀行としては、新聞社には、ある程度の融資のおつきあいは申しあげねばならない」とは、某行幹部の言葉だが、読売の実情をみると、このおつきあいらしく、住友など十行から、合計四十一億四千五百万円を借りている。

これに対し、朝日はメイン・バンク住友から二二一七、長銀一六九八、日本生命一三七五、住友信託二一〇五、三菱信託八二八、富士七一三、三和五五二と、七行合計九十四億八千八百万

円。

毎日はどうかといえば、朝日の住友の二十二億をグンと引き放して、そのメイン・バンク三和から四二三一、日本生命二〇〇五、三菱二一七〇、大和一七〇七、住友九五〇、三井九七二、東洋信託四八八。七行合計百二十五億二千三百万円という、巨額の借入金を抱えている。

これを比べてみると、読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。もっとも、朝日も大阪本社の新社屋建設、毎日はパレス・サイドビル移転と、朝毎は移転、新築を終っているのに対し、読売はこれから二百億の本社建設にとりかかるから、借入金もふえるのだが、それにしても、毎日の百二十五億の借入金は多すぎる。有楽町から〝名誉ある撤退〟をして、土地を売ったにしては(四十三年度の資料の数字だが)相当な赤字だということがうかがえよう。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 今や東大出でないとダメなんだよ

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。
正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

この数字だけみても、毎日の調落ぶりは明らかである。本田から上田への政権交代が、三十六年一月だから、四十年度に合計で約七億(三和だけで四億)減らしたのは、上田の功績ともいえるが、有楽町から竹橋への移転は四十一年秋、つまり、有楽町の土地などを処分した時期なのだから、当然であろう。しかも、上田から現会長田中香苗、現社長梅島楨のコンビに変ったとたんに、借入金が二十六億もふえたのである。金融能力があったといえばいえようが、これでは、毎日新聞は全く斜陽の一途をたどっているとしかいえないだろう。しかも、発行部数は四百万の大台割れに近づき、読売の三倍の借金を抱えているのである。付言するならば、田中、梅島ともに、東京入社の東京系。本田、上田の大阪系に対する〝クーデター〟とみる所以だ。

東京拮抗の毎日人事閥

さて、数字による例証が、いささか長きに失したようである。角度をかえて、田中業績は未知

として、上田業績を眺めてみたい。

私が読売に入社した昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど、学閥華やかであったらしい。日大の私が、学閥なしで実力次第といわれていた、当時の読売をえらんだ理由の一つに、それがある。

ところが、上田時代の役員一覧表をみると、十六名の取締役に、三名の監査役、酒井衍(東大)、梶山仁(青学)、高原四郎(東大)と、十九名中、ナント東大が七名、京大二名、東北大一、商大三(東京、神戸、大阪)と官公立が十三名の過半数を占め、慶応はわずかに一名、早、明、青学、東亜同文、府立高工芸の各一名が続いている。「慶応でなければ人にあらず」どころか、官学にとって代わられているではないか。

さきごろ、停年退職した慶応出の毎日記者をたずねて聞いてみると、「今の毎日は変った。今や、役人と仲よくできる奴、つまり東大出でないとダメなんだよ」という。戦前に「三田会」(慶大出身者の会)を結成しようとして、同氏が社内を駈けまわったところ、「毎日三田会の会員でないと、人でないような傾向が出そうなほど、慶大出身の社員が多いから、会の結成はやめろ」と、社の幹部に注意されたという。ところが、同氏の停年間際になって「今度は人数が少ないから結成してもよい」と、お許しが出たのだ、と、同氏は嘆ずる。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ なされていた。