最後に、前項でのべたABCレポートによる、読売との全部数差四十万が、追い抜かれはしないだろうか、という質問をした。
渡辺は、この時はじめて、静かな闘志を瞳に輝かせて、答えたのである。
「部数競争が、新聞のすべてではない。しかし、部数がトップであるということは、大切なことだ。社員の士気からいっても、朝日はこの競争にも勝ち抜く!」
銀行借入金、ついに百億突破
毎日新聞についても、〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく、一通りの解析を加えてみよう。
毎日は、大阪、東京、西部、中部の四本社制をとっているが、登記面では、大阪本店、東京、西部(北九州市)両本社が支店、名古屋の中部本社が別会社である。この歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実が、毎日新聞の分析の上で、大きなポイントにならざるを得ない。事業の主体が東京にありなが
ら、本田元社長の大阪編集主幹、上田前社長の大阪営業系出身とあっては、人事の主流は大阪系である。
本田〝天皇〟時代の様子については、すでに述べた通りであるが、その〝退位〟を迫ったのは、現会長の田中香苗ら東京系幹部による、一種のクーデターであった。そして、そのクーデターは、内外への影響を考え、流血の惨を避けて、暫定首班として人格穏健な上田常隆がえらばれたのであった。
国敗れて山河あり! 革命の推進力であった田中——梅島ラインには、この莫大な借金を背負った毎日新聞の経済復興には、メイン・バンク三和銀行との円滑な接衝が苦手だったらしい。そのため、銀行筋にもよい上田が浮んできたのである。
上田社長の就任第一声は、「社内民主化」であったからである。本田〝天皇〟時代の、全くのワンマン政治は、読売における正力の如く、実力とオーナーとしての権威に裏付けされた「ワンマン」と違って、法律的な代表権にのみ保護された、いわば、成り上り者の強権政治であったから、〝物言えば唇寒い〟陰湿な派閥を生んだのであった。
かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。
編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ
ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。