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Wikipediaより一部修正(1921年6月11日ー2002年2月15日[2]) 盛岡市に生まれる。1943年日本大学芸術科卒業。読売新聞社に入る。
1947年、シベリアより復員、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産省・農務省も各記者クラブ詰めを経て、最高裁司法記者クラブのキャップとなる。
1958年7月22日、横井英樹襲撃事件で犯人隠避容疑により逮捕される。25日間を留置場ですごし帰宅する。当時の新聞で、自身が愚連隊の一味として書かれていたという。読売新聞を退社し、翌年に株式会社三田コンサルティング・サービス(略称三田コン)を設立するも、2年ほどで倒産してしまう。以後、フリージャーナリストになる。
1967年、株式会社正論新聞社を設立する。
正論新聞(せいろんしんぶん)とは、元読売新聞記者の三田和夫により、1967年元旦に創刊された個人新聞である。資金難に苛まれて不定期刊となった。旬刊2ページから4-6ページ。週刊に切り替えて6-8ページとなった。やがて週2回各4ページで発行。日通事件を政治検察[1]の動きと見て、検察批判を行った。信条は、「庶民の率直な気持ちを紙面に反映し、権力、暴力など、力に屈しません」

雑誌『キング』p.102 「戦慄!! 幻兵団の全貌」 前文

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 タイトル 筆者名 前文
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 タイトル 筆者名 前文

見えざる影が狙ってる!
戦慄!! 幻兵団の全貌
讀賣新聞記者 三田和夫

私は新聞記者として、二年半にわたる長期間の調査に、忍耐と努力とを傾けて、この恐るべき事実を握った。今ここに、一切のデータをあげ、鐵のカーテンの奥の奥にかくされた〝幻兵団〟の全貌を赤裸々に公表して、平和な文化国家建設を阻むものの野望粉砕に資したい。

雑誌『キング』昭和25年5月号 目次 幻兵団の全貌

雑誌『キング』昭和25年5月号 目次 見えざる影が狙ってる! 幻兵団の全貌 三田一夫 一〇二 ※「三田一夫」となっているが、本文中は「三田和夫」なので、単純な誤植であろう。「三田一夫」の筆名も正論新聞など他ではよく使用している。
雑誌『キング』昭和25年5月号 目次 見えざる影が狙ってる! 幻兵団の全貌 三田一夫 一〇二 ※「三田一夫」となっているが、本文中は「三田和夫」なので、単純な誤植であろう。「三田一夫」の筆名も正論新聞など他ではよく使用している。

雑誌『キング』p.21 執筆者紹介 三田和夫

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 執筆者紹介
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 執筆者紹介

執筆者紹介

三田和夫氏は讀賣新聞社社会部記者。元陸軍少尉、昭和十八年度現役入隊、弘兵團に属し華北にあったが、終戦直前満洲に移駐し、公主嶺にて武装解除。昭和二十年十月入ソし、イルクーツク州チェレムホーボにて二年間炭坑労働に従事、最近復員された人。

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2)

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)
編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)

■□■戦争とはなんだ?(2)■□■第50回■□■ 平成12年9月2日

8月下旬になって、ソ軍の司令部も進駐してきたようで、新京は首都だということで、日本軍は南の公主嶺に撤退するということになった。と、在満の日本軍の将軍たち(少将、中将)は、ソ軍機で輸送されることになり、公主嶺の飛行場に集められた。

その時、私は将校伝令として、大隊長の命令で、飛行場にいた北支那派遣軍第十二軍第百十七師団長(私の部隊長である)の、鈴木啓久中将に会いに行った。何かを届けたのか、何を伝えに行ったのか、その部分の記憶がまるでない。

陸軍中将で、師団長の閣下の様子を見て、新品少尉の私は、愕然としたのだけは、鮮明に覚えている。つまり、ソ軍の捕虜となり、ソ軍機でどこかに連れていかれることへの恐怖にオロオロしている男をみたのである。

——これがオレたちの師団長なのか!

階級制の軍隊では、将軍などと接することは、下っ端の兵にはほとんどない。私自身も保定の士官学校に入った時と卒業した時の2回だけ、はるかかなたに学校長の少将を“望見”しただけ。鈴木師団長とは対で会い、会話を交わした、初の体験であった…。敗戦直後のことではあったが、日本陸軍の中央にいる将官の、あまりにも程度が低いのに驚き、その反動で、将校伝令の内容を忘れてしまったのだ、と思っている。

なぜこんなことを、事細かに書くのかというと、後日譚があるのだ。1、2年前のこと、「フォト・ジャーナリスト」という肩書きの人物が、東京新聞に記事を提供して、そこに鈴木啓久元中将が登場していたのだ。ソ連の収容所で調べを受けたのち、中国戦犯として満州の収容所に移され、何十年間かの後に、釈放、帰国し、その収容所(監獄)時代の自供調書の内容が記事になった。

私の同期生(予備士官)にも、シベリアから中国に引き渡され、昭和33年ごろ帰国した男がいる。バイカル湖畔の炭坑町チェレムホーボの収容所も一緒だったが、私が作業隊で出ていたのに、彼は大隊副官として作業割りやデスクワークをしていた。口下手で反応の遅い方だったが、それが災いして戦犯として中国渡しになった。

その戦犯の内容は、対共産八路軍の討伐作戦の時、壊れた家の材木で、暖を取った(彼の小隊員が)のが、放火、焼き尽くし作戦の責任者とされたらしい。そのような調書が取られる時、彼は口下手で反論もしなかったので、戦犯として12、3年も監獄暮らしをした。だが、帰国後に、彼の名誉回復があり、国慶節に招待されて、天安門上に立ったという。

そういう話を承知していたので、鈴木元中将が、監獄でどのような調書を取られたのか(しかも、公主嶺飛行場での狼狽ぶりに見られる小心者)、私には想像がつく。つまり、中国側のいいなりである。その内容たるや、従軍慰安婦の強制連行を命令したとか、中国人民に対する残虐行為を命令したなど、軍の実情を知るものにとっては、まさに噴飯モノなのだ。北支軍下の慰安婦は、すべて朝鮮人と日本人である(実体験から)。それがどうして“強制連行”か。第一、師団長が軍の慰安婦管理の命令を出す立場か。バカ気ている。記事提供者も新聞デスクも無知!

このフォト・ジャーナリストには、会合で出会ったので、それを指摘したら、不愉快気な表情で、なにもいわずいってしまった。私はこのような、ジャーナリストとしての訓練もなく、見識もなく、時流に乗るだけの連中の蠢動を厳しく阻止したい。

韓国人の元慰安婦が、自分の被害体験を訴えるが、それが事実かどうかの見極めもなく、媒体は大きく取り上げる。中国のどこで醜業を強いられたのか、地名と時期を明らかにすれば、まだ、その土地にいた日本軍の戦友会があるから、すぐ調べられる。

中国では、軍が朝鮮人と日本人以外の娼婦を認めなかった。それは、兵隊たちの部隊名や作戦名が、中国人に漏れないよう、中国語の話せない女たちを選んだ、防衛上の配慮だった。そして私の知る限り、彼女らは朝鮮人の売春業者に連れて来られ、管理されていた。軍は、衛生管理の面で関与していた。性病予防である。

さて、丸2年のシベリア捕虜から帰国して読売社会部記者に復職し、数カ月で戦後の日本にも馴れてきたころ、ナント、将官級の連中が、まだ生きていることを知って、ビックリしたものだった。大佐、中佐級の参謀たちとともに、ほとんどが自決したもの、と思いこんでいたからだった。

「戦争とはなんだ?」というテーマで、答えられるのは、司令官たちとその参謀たちだけである。いま、多くの体験談や目撃談が出ているが、それは、「戦闘」の名場面だけで、残虐も、勇壮も、「戦争」という大テーマのそれではない。陸軍士官学校、海軍兵学校出身の“職業軍人”たちは、いうなれば“軍事官僚”で、彼らが兵士たちの生命を左右し、国家を滅亡させたのである。

いま、警察官僚のキャリアたちの不祥事が続発しているが、私は、軍事官僚と彼らとをオーバーラップさせてみている。エリート意識のおごりである。日本国と日本国家の、50年前の敗戦の徹底追及がなかったため、ふたたび、同じ道を歩んでいる。国家は衰退から滅亡へと進んでいるようだ。

その第一の戦犯はマスコミである。その場その場の現象に飛びつくだけで、「社会の木鐸」という言葉は死語になってしまった。

その著書で、相手の名前を出して、中国人を袋詰めにして池に投げ込み殺した、といった男は、中国各地を講演して回り、名士気取りである。名前を出された男は、裁判に訴えて、現実には袋詰めできないと、勝訴したが、著者は平気の平左だ。鈴木元中将のウソを宣伝するヤカラも同じである。(続く) 平成12年9月2日

最後の事件記者 p.454-455 岩手銀行は倒産し母は預金を失った

最後の事件記者 p.454-455 「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。
最後の事件記者 p.454-455 「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。

そして、新聞記者という仕事への、直接の示唆は、日大芸術科時代の三浦逸雄教授であった。そしてまた、私の「新聞記者開眼」を裏打ちして下さったのは、母の従兄でもある小野清一郎先生であった。先生は、私の事件の弁護人を引き受けて下さったが、その時にこういわれた。
「文芸春秋の記事を読みましたよ。あのなかに、『オレも果たしてあのような記事を書いたのだろうか」という、反省のクダリがありましたネ。あの一行で、あの文章が全部、生きているので

す」——このように、私は、良き師、良き先輩、そして、ここに名を挙げるいとまもない多くの友だちたちに、恵まれて、今日があるのだ、と思う。

また、「職業的倫理」については、少年の日の、母の一言であったろう。この母は、八十七歳、米寿を控えてなお、末子の私のことを案じて、死ぬにも死ねない心境らしい。裏返せば、私は〝孝行息子〟ということか…。

医者だった夫に早逝された母は、三十三歳の若さで、六人の子を抱えて未亡人になった。夫の長兄のすすめで、遺産の大半を、故郷の岩手銀行に預金した。やがて、昭和八年の金融パニックで、岩手銀行は倒産し、母は預金を失った。その時から、母の苦闘の歴史が始まる。

母の妹は、岩銀の頭取に嫁していた。銀行は倒産して、預金者は被害を受けたが、頭取家は、事前に財産の名義を変えていて、被害は僅少だった。しかし、母は表立っては、そのことをいわなかった。

私が、中学生になって、自分の家の歴史に興味を覚えたころ、母は、私にだけソッといった。「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。

×       ×      ×

新聞の週二回刊という多忙のなかで、「正論新聞社出版局」の発足を決め、その処女出版にこの本をえらんだ。しかし、法人の設立もまだ全然だし、販売のルートもできてはいない。

その時、日本民主同志会の仲間である、恒友出版の斎藤繁人社長から、援助の手がさしのべられて、「発売元」という形で、本作りから販売まで、すべて面倒を見て頂くことになって、とにもかくにも、「正論新聞社出版局」はスタートした。斎藤社長には、末筆ながら、お礼を申し上げておく。

当分は、恒友出版のお世話になりながら、正論らしい〝意欲的な出版〟を目指して、努力をつづけてゆきたい、と考えている次第。本紙同様のご指導、ご叱正をお願い申し上げたい。

なお、収めた三篇のうち巻頭の「新宿慕情」だけは、共同通信社「記者ハンドブック」による送りがなを用いているので、他の二篇とは違う。しかし、「正論新聞」をはじめ、現在は、この用法に統一していることをお断りしておきたい。

正論新聞十周年パーティーを旬日に控えて

三 田 和 夫

新宿慕情 見返し /カバーそで 推薦文・原四郎

新宿慕情 見返し カバーそで 「正義感とリリシズム」読売新聞副社長・編集主幹 原四郎
新宿慕情 見返し カバーそで 「正義感とリリシズム」読売新聞副社長・編集主幹 原四郎

正義感とリリシズム

読売新聞副社長・編集主幹  原  四 郎

三田和夫君こそ典型的な読売社会部記者であった。そして身体には、いまもなお、読売社会部記者魂が、脈々と流れている。輝かしい足跡を残した彼は、横井殺害未遂事件を執ように追った後、読売を去った。だが、彼の強靭なペンは、さらに冴え、磨き抜かれ、正論新聞の主幹となって結実した。その正論新聞創刊十周年を記念して上梓された本書は、一貫して流れる正義感とリリシズムに充ち溢れ、読むものの心を捉えて離さないであろう。

新宿慕情 p.008-009 物書き一筋でもう四十年も過ぎた

新宿慕情 p.008-009 はしがき(おわり)昭和五十年十月 三田和夫 この著を、母の米寿の祝に捧げる 新宿慕情目次扉
新宿慕情 p.008-009 はしがき(おわり)昭和五十年十月 三田和夫 この著を、母の米寿の祝に捧げる 新宿慕情目次扉

旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず

に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。変わったというのも、〈良く〉変わったのであってほしい…。ともかく、十七年前の文章といまの文章とを比べていただくのも、その〈変わり方〉の証拠かも知れない。そんなつもりでの、旧作の再録でもある、のだ。物書き一筋で、もう四十年も過ぎた——。

昭和五十年十月                     三 田 和 夫

この著を、母の米寿の祝に捧げる——

新宿慕情目次

正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻

正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻 正力松太郎の死の後にくるもの 三田和夫著 腰巻推薦文/岩渕辰雄 山口シヅエ 川内康範
正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻 正力松太郎の死の後にくるもの 三田和夫著 腰巻推薦文/岩渕辰雄 山口シヅエ 川内康範

正力松太郎の死の後にくるもの
三田和夫著

正力松太郎の死の後にくるもの 腰巻 推薦文/評論家・岩渕辰雄氏 代議士・山口シヅエ氏 作家・川内康範氏
正力松太郎の死の後にくるもの 腰巻 推薦文/評論家・岩渕辰雄氏 代議士・山口シヅエ氏 作家・川内康範氏

正力松太郎の死の後にくるもの 腰巻

評論家・岩渕辰雄氏
三田君は犀利な眼で豊富なデータを駆使して、〝明日の新聞〟を展望している。

代議士・山口シヅエ氏
正力さんの評伝ともいえる三田さんの労作。新聞を知るための好読物です。

作家・川内康範氏
正力をめぐる人間模様が躍動的なタッチでまとめられており、飽きさせない筆力である。

読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 三田和夫

読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)
読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)
読売梁山泊の記者たち 腰巻 作家・大下英治「昭和二十年代、読売新聞は社会部全盛時代。そこには強烈な個性を持った名物記者たちが、梁山泊さながらに群れ集っていた。そのひとりの、〝最後の事件記者〟といわれる著者が経験した事件を通して、新聞記者のロマンと哀愁と非情とを語る。読み始めたらやめられない面白さである。」
読売梁山泊の記者たち 腰巻 作家・大下英治「昭和二十年代、読売新聞は社会部全盛時代。そこには強烈な個性を持った名物記者たちが、梁山泊さながらに群れ集っていた。そのひとりの、〝最後の事件記者〟といわれる著者が経験した事件を通して、新聞記者のロマンと哀愁と非情とを語る。読み始めたらやめられない面白さである。」

読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状

読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状01
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状01
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状02
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状02
読売梁山泊の記者たち (見返しに挟み込み) あいさつ状03 正論新聞25周年パーティに合わせて本書を発行し、来訪者へのおみやげのひとつとして贈呈したことがわかる。文中でふれている縮刷版刊行と35周年(没年の前年に当たる)パーティは実現しなかった。
読売梁山泊の記者たち (見返しに挟み込み) あいさつ状03 正論新聞25周年パーティに合わせて本書を発行し、来訪者へのおみやげのひとつとして贈呈したことがわかる。文中でふれている縮刷版刊行と35周年(没年の前年に当たる)パーティは実現しなかった。

(見返し挟み込み あいさつ状)

本日は、ご多忙中にもかかわらず、「正論新聞の二十五年を祝う会」に、ご臨席を賜りまして、誠にありがとうございました。

厚く御礼を申しあげます。

いかがでございましたでしょうか。パーティーは、お愉しみいただけましたでしょうか。

同封にて『読売・梁山泊の記者たち』(正論新聞連載「原四郎の時代」改題)(紀尾井書房刊)を、お届けいたします。

年寄りの繰り言、などとおっしゃらずに、温故知新のお気持で、この新聞の変革期に際して、心新たにお目通しいただければ、幸甚と存じます。

また、正論新聞(第六〇七号)も添えました。明年には、創刊号以来の縮刷版を刊行いたす計画でございます。

いずれにせよ、新世紀になります十年後には、今日にひきつづき「三十五年を祝う会」で、みなさまのお元気なお顔に接する喜びをご一緒したいと願っております。

本日は、ほんとうにありがとうございました。

平成三年十一月二十六日

発起人一同

三田 和夫

読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001 本文扉

読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001本文扉 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita
読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001 本文扉 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita

読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 三田和夫

読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 平成三年十一月二十六日 三田和夫
読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 平成三年十一月二十六日 三田和夫

献詞

平成三年十一月二十六日  三田和夫

もう、半世紀にもなろうという、昔、
昭和十八年十月一日。
大観の富士山が飾られた社長室。
正力松太郎社長から、親しく辞令を受け、
私の人生が、決定づけられました。

そして、戦後の二十年代、
「社会部の読売」という名声が、
朝・毎時代から、朝・毎・読の時代へ。
さらに、朝・読の時代を経て、
一千万部の読売新聞が、築かれました。

それも、これも、
販売の務臺光雄、紙面の原四郎という、
二人の巨人が、
大巨人・正力松太郎の衣鉢を継いだから、
だと思います——。
然るに、噫…、
お三方ともに、
すでに、幽明、境を異にされました。
ここに、本書をもって、
先哲の事蹟を明らかにし、
鎮魂の詞(ことば)といたします。

黒幕・政商たち jacket flap カバーそで

黒幕・政商たち jacket flap カバーそで 惹句:暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!
黒幕・政商たち jacket flap カバーそで 惹句:暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!

暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!

マイ・ホームの夢を喰う、住宅公団汚職。大銀行を舞台の取り屋の暗躍。国民の血税を吸って太る企業。——これらのマスコミでは報道されない色と欲の裏街道で、陰の主役たちは、何をもくろみ、何をしているのだろうか? 高級官僚群と政、財界人たちとの驚くべきつながりを、事実に即して描く異色のリポートである。

本書に実名で登場する著名人は600余名にのぼるが、なかでも佐藤栄作、川島正次郎、田中角栄、中曽根康弘の各氏や、児玉誉士夫、稲川角二、植村甲午郎、足立正、藤井丙午、水野成夫など、日本を動かす実力者たちの素顔が巧まずして描き出される。