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迎えにきたジープ p.206-207 その命を自らの手で絶っている

迎えにきたジープ p.206-207 Even if I enumerate as I can think of it, more than 10 Soviet repatriates have abandoned their lives that should be happy! What the hell is going on!
迎えにきたジープ p.206-207 Even if I enumerate as I can think of it, more than 10 Soviet repatriates have abandoned their lives that should be happy! What the hell is going on!

二十五年四月六日、「徳田要請(徳田球一氏がスターリン首相に反動は帰さないで欲しいと要請したという問題)」の証人として、国会に喚問された菅季治通訳が、『人間バンザイ、真理バンザイ』を叫んで、三鷹駅付近で中央線電車に飛込自殺をとげたことがある。

なぜ菅通訳は自殺せねばならなかったのだろうか。菅氏は在ソ間の後半期は、極めて積極的な行動をとり、カラカンダ地区という特殊な地区の、政治講習会を主宰した日本側の最高責任者だった。そしてこの講習生は、教育の最後に一人ずつ「幻兵団」の命令を与えられ、彼はその場に通訳として立会っていた。

しかし帰途には、彼は日和見主義者として吊し上げを受けた。徳田問題が起きてからはその対策に腐心して、声明発表など作為的に行動し、遂に証言の信ぴょう性を疑われだしたのであった。菅氏もまた憐れな日本人の一人として死んでいったのであった。

そしてまた、「吉村隊」事件の証人渡辺広太郎元軍曹が、二十四年五月十日に縊死した。更に同年九月二十九日、栃木県芳賀郡の川又雄四郎さんが引揚列車から転落死し、十一月二十六日深更、宮崎県宮崎郡佐土原町の恒吉好文さんが舞鶴入港前夜に入水した。

年が変った二十五年には、関東軍暗号班員松浦九州男元少佐が自殺し、埼玉県所沢市の小暮喜三さんが飛込自殺し、また、元関東庁内務部長中野四郎さんが入水し、高知市の元満鉄錦州

鉄道局露語通訳甲藤忠臣さんが服毒している。

思いつくままに列挙しても、十指に余るソ連引揚者が、幸多かるべきその命を、自らの手で絶っているではないか!

これは一体どういうことなのか!

最後の事件記者 p.110-111 ソ連引揚者の〝代々木詣り〟

最後の事件記者 p.110-111 私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。
最後の事件記者 p.110-111 私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

その彼女と、せまい道でバッタリだから、私があわてたのもムリはない。しかし、彼女はすぐには気付なかった。

いぶかしげに、スレ違ってからも、何度も何度も振り返り、ついには立止って、考えこむ有様。逃げ出したら怪まれて、追いかけられたら大変と、何も知らない妻をせかせながら、全神経を背後に配って、足早やに立去る時の気持ちは、夢の中で逃げ出すようなもどかしさであった。

何しろ、この事件以来、私はすっかり半陰陽のオーソリティになって、法医学に興味を抱きはじめたのだ。

何といっても、サツ廻りというのは、一国一城の主。これほど記者として面白い時代はないのに、サツ種のスクープが各社とも少しも見当らないのが不思議でならない。これならば、サツ廻りなどやめてしまった方が、人の使い方としては効果的である。

私の名はソ連スパイ!

〝代々木詣り〟の復員者

私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、かかさずにやってきていた。

そこでは婦人団体よりもテキパキと、援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ献身的な姿がみられた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

二十三年六月四日朝八時ころのこと。

最後の事件記者 p.224-225 私の「幻兵団」を大人の紙芝居と

最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。
最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕り、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任して報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件

で、ようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警祭がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような著意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連絡スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。