テッド・ルーイン」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.208-209 パイコワンは殺されそうだと

最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。
最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

狂気のように中尉を求めたパイコワンが、たずねたずねて上海の機関へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸として追われた彼女は、日本へ入国するために米人と結婚し、中尉を求めて渡ってきたのだと。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた日本へ移り住んだともいう。

私にその物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終るのを待っていた。

『素敵なお話ね。ロマンチックだわ』

そう呟いたきり、否定も肯定もしなかった。だが、何か隠し切れない感情が動いているのを見逃すような私ではなかった。

美しき異邦人

——何だろう?

そう思った時、私はフト、彼女にせがまれて、警視庁の公安三課へ連れていったことを思い出した。

当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

『ヤイ、ここが東京だからカンべンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!』と。

リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐しくて眼を少し大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。

しかし、パイコワンは、殺されそうだと騒ぎ立てた。その話をききに、〝密輸会社〟といわれるCATの航空士と住んでいた、赤坂の自宅に彼女を訪れたのが、交際のはじまりであった。

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』 彼女はこんな風にいった。

最後の事件記者 p.214-215 ルーインが堂々と歩いている!

最後の事件記者 p.214-215 大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。
最後の事件記者 p.214-215 大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。

誘惑と恫喝と取材の困難。

『お断りしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を獲得するということに御注意願いたい』彼は現在、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生れ、妻はハル

ピン生れ、息子は上海生れ、という、家族の系譜が、彼を物語る。

『御参考までに申上げますと、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく』彼は時計の密輸屋である。そして、彼はハルピン生れで、妻は天津ときている。

二人の取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や不法行為のメモがつづられていった。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れていた。

国際博徒の大親分

全世界を三つのシマに分けて、てい立する国際博徒の親分。シカゴ系のジェイソン・リーは、鮮系二世の老紳士だが、アル・カポネのお墨付をもつ代貸しだ。上海系の王(ワン)親分は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかぶっていた、リチャード・ワンという男で、青幇(チンパン)の大

親分杜月笙と組んでいて、銀座のVFWクラブにひそんでいる。マニラ系は、比島政界の黒幕テッド・ルーイン。その片腕ともいうべきモーリス・リプトンは元水交社のマソニック・ビルに陣取っていたのである。

リーやリプトンのインタヴューをつづけてゆくうちに、大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。ルーインはGHQ時代から「入国拒否者」となっており、独立と同時にそのメモランダムは外務省に引きつがれ、独立した日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。それなのに、ルーインが東京の街を、堂々と歩いているとは!

私は法務省入管局を訪れた。当時の所管は外務省の外局で、保管もほとんど外務省系の連中だった。ここが肝心要のところだ。私はアチコチで駄弁りながら、チャンスの到来を待っていた。

外国人登録カードの係官が、席を立つのを待っていたのである。そして、待つほどに、そのチャンスはやってきた。私は顔見知りの係官に、フト思いついた様子で、ルーインのことをたずねたものである。

彼は気軽に立って、担当の係官を紹介しようとしたが、その係官がいない。詳しい事情を知ら

ない彼は、氏名カードを繰ってくれたけれども、そのイニシアルの項には、ルーインのカードがない。

最後の事件記者 p.218-219 菊池寛賞、新聞部門第一回受賞

最後の事件記者 p.218-219 これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を行使して支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの、最初の鉄槌であった。
最後の事件記者 p.218-219 これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を行使して支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの、最初の鉄槌であった。

私は原部長と相談して、書く時期をみることになった。外務省のヤミ取引、というか、倭島局長のマニラ在外事務所長時代のヤミ取引で、ルーインのヤミ入国という特ダネは、まだしばらく

秘められることになった。

だが、書くべき時は間もなくやってきた。そして、この事実を重視した、衆院法務委員会が、社会党猪俣代議士の質問で追及した。その当日、委員会の記者席に坐っていた私の前を、倭島局長が通りすぎようとした。彼は政府委員として、この事件の責任者だ。

フト、彼の視線に私の姿が入ったらしい。彼は、一、二歩、通りすぎて立止った。クルリと振り向くと、グッと私へ憎悪の目を向けてニラミすえた。そして、政府委員席へと歩き出した。猪俣委員の鋭い質問がはじまるや、局長と、新聞のコラム欄では、「取引を外交と思いこんでいる」とヤジられて、すっかり男を下げてしまったが、これが二十八年七月九日のこと。

やがて、八月になると、ルーインが局長へ手紙をよこして曰く。

『私は、貴殿が、私の入国の協力者として、恥をかかれたとお思いなら、心からお詫び申しあげます……』

この「東京租界」は、十月二十四日から十一月六日までの間、タッタ十回ではあったけれども、続きものとして連載された。まだまだ材料はあったのだが、十一月十日の立太子礼のため、打切らざるを得なかった。

これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を、引続き行使して、その植民地支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの、最初の鉄槌であった。

そして、この続きものをはじめとするキャンペーン物で、読売社会部は、文芸春秋の菊池寛賞、新聞部門第一回受賞の栄を担ったのであった。

p57上 わが名は「悪徳記者」 三人の大物国際博徒

p57上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。
p57上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そして、この記事をはじめとするキャンペーン物で、文芸春秋の菊池寛賞の新聞部門で、読売社会部が第一回受賞の栄を担ったのである。

その第一回の記事に、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい編張り争い」と、国際バクチ打ちの行状がある。この時に登場を願ったのが、即ちこの王長徳である。つまり、東京租界を自分のシマ(縄張り)にしようと、三人の国際博徒の大物が争っている。その一人はアル・カポネの片腕、アメリカはシカゴシチーで東洋人地区の取締りをやっていた鮮系米人のジェイソン・リー。二人目は、フィリピンはマニラの夜の大統領といわれるテッド・ルーインの片腕、自称宝石商のモーリス・リプトン。どんじりに控えたのが、上海の夜の市長〝上海の王〟だという情報だった。

牧野記者と二人で、この大物バクチ打ちの所在を探し、リーとリプトンとにはインタヴューすることが出来たが、〝上海の王〟はその所在さえつかめない。調べてみると、この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そしてこの青幇の幹部の一人が経営していた、銀座二丁目の米軍人クラブのⅤFWクラブにもぐりこんでいるというところまで突きとめたが、どうしても会えない。他の二人には会えたのに、三人目が欠けたのでは面目ないと、考えこんでいる時、サツ廻りの上野記者が、『新橋に王という変った男がいますよ』と情報を入れてくれた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.204-205 今日限りで何もかもお終いです

赤い広場ー霞ヶ関 p.204-205 I wanted to know what caused this Masonic executive conflict. This is a serious problem. Now, on the earth divided into two worlds, liberalism, communism, and the ties that connect them are Jewish Freemasonry.
赤い広場ー霞ヶ関 p.204-205 I wanted to know what caused this Masonic executive conflict. This is a serious problem. Now, on the earth divided into two worlds, liberalism, communism, and the ties that connect them are Jewish Freemasonry.

Q氏は米軍の軍曹で、現地除隊をして日本に住みついてから、メーソンに入り異例の出世で

三十二階級まで上っていった人物だ。しかし、いろいろと問題の多い人で、彼の出世を快く思わぬ他の幹部が、彼を蹴落すための資料に違いない。

しかも、東京租界はクラブ・マンダリンの国際バクチでお馴染みの、マニラのギャンブル・ボス、テッド・ルーイン氏の一の子分、モーリス・リプトン氏もメーソンで、このマソニック・ビルに住んでいたではないか。

私はこのメーソンの幹部の対立が、何に原因するのか知りたかった。重大な問題であるからだ。今、自由、共産と二つの世界に分れた地球上で、思想も政治も、国境も国籍も越えて結ぶ紐帯は、ユダヤのフリー・メーソンであるからだ。まず第一報として、渋谷のフォーリン・ビジネスメンズ・クラブの国際バクチの、公判の成行にひっかけて、Q氏行状記の記事を書いたのだった。

続いて、この背後にあるメーソン幹部の対立を取上げようとして、忙しく働らいていたある日、珍らしく彼女から電話があった。夕食を御一緒にしたい、という話だった。願ったり、叶ったりである。

その夕べ、私は彼女と二人で銀座のある地下室の、高級レストランで、たのしい夕食をとっていた。

彼女の招待だから、食事が終ったら、別の場所へ誘って、ゆっくり話をきこうと考えながら、それでも、

『Q氏の記事、みた?』

と、親し気な口調でたずねたりした。

デザートが終り、コーヒーをほして、サテと立上った。御馳走様と礼をのべて、誘ひの言葉を続けようとしたとき、彼女は、犯し難いほど、重々しい気品にみちた表情に変った。

『やっぱり、私たちは、お友だちになれませんでしたワ。……ネ、今日限りで、何もかもお終いです』

『エ? だって……』

『何にも仰言らないで…。貴方に何も彼もお話してあげたい。貴方のその喉元まで、何故、何故、何故という声が、いっぱいに詰っているのが、眼に見えるのです……。

しかし、私にはそれができません。そして、私も、貴方とお別れしなければなりません。新聞記者でありすぎる貴方と、メーソンの幹部のことを知りすぎている私とは、お友だちでいることさえ、おたがいにとって不幸なのです』

私は立ちすくんだまま、彼女の差出した別れの握手に応えていた。

『それから、Q氏のことはもう不用です。御手数をかけました。……では、サヨウナラ』

赤い広場ー霞ヶ関 p.210-211 なぜ鳩山は特進したのか

赤い広場ー霞ヶ関 p.210-211 Shattuck was an undercover agent at the Canon Unit. After the return of Major Cannon, he managed Canon's accumulation. Shattuck joins Freemasonry and connects with Ted Lewin and Maurice Lipton.
赤い広場ー霞ヶ関 p.210-211 Shattuck was an undercover agent at the Canon Unit. After the return of Major Cannon, he managed Canon’s accumulation. Shattuck joins Freemasonry and connects with Ted Lewin and Maurice Lipton.

第一に「博愛王国」の話である。笠井氏の総領事と同時に、その知人の保険代理業R・シャタック氏が領事に任命されたという。

R・シャタック氏について語ろう。氏は冒頭に述べた仮名のQ氏その人である。氏については、二十九年九月十五日付読売の記事を引用しよう。

シャタック氏は、まだ三十前の若さだが、横浜の港湾輸送部隊の憲兵軍曹出身で、キャノン機関のキャノン少佐に可愛がられ、その機関要員として活躍していた。ところがキャノン少佐の帰米後、除隊してフリー・メーソンに加入、そこでルーイン氏の子分のリプトン氏らを通じて、ルーイン氏を知り、キャノン機関時代の腕を買われて、ル氏の腹心の一人になったという。

キャノン少佐が、密輸や隠退蔵物資の摘発などで職務外にかせぎためた私財のうち、日本へ残したものは貴金属、宝石をはじめ時価約五億円といわれ、これの管理に当っているのがシャタック氏で、さらにキャノン少佐の両腕といわれるビック・松井、グラスゴー両元准尉が、交代に二カ月に一度ぐらいの割で来日し、その会計監査をやっているといわれる。

またシャ氏はフリー・メーソンの極東最高責任者マイク・リビスト氏に可愛がられて、入会後数年にして三十二階級という高い地位にまで進んでいるので、当局ではシャ氏を中心とするフリー・メーソン、アメリカ特務機関、国際トバク団などの関係に重大な関心をもって捜査を進めている。

つまり、ナゾの女性が別れの言葉にいった、『Q氏のことはもう不用です』というのから考えると、シャタック氏を除こうとした動きには、終止符が打たれ、同氏はかえって確実な地位を占め、日本領事にまで任命された、とみるべきであろう。

「博愛王国」というのが、フリー・メーソンを背景とした王国らしいことは、フィリピン名誉公使が、三十三階級のオシアス氏であり、笠井、シャタック両氏とも、三十二階級であることでも、また、同国のシールの囲りの文字からも、容易に想像できよう。

そしてまた、オシアス氏は、例の〝フィリピンの夜の大統領〟テッド・ルーイン氏の後援者であり、ルーイン氏の子分、リプトン氏もまたメーソンである。

日ソ交渉のさ中に、鳩山首相がメーソンの最下位から二級上って、第三階級になり、その儀式にオシアス氏が来日した。首相の特進記事には、何故二階級特進したかが、少しも明らかにされていない。

前記産経の記事には〝友愛団体フリー・メーソン〟とあるが、メーソンは階級性の強い半宗教秘密結社であり、単なる友愛団体でないことは、今日ではもはや常識であろう。

では、何故、鳩山首相は二階級特進したのだろうか、どうして、その理由が公表されないのか。日ソ交渉の功により、と考えるのは、うがちすぎであろうか。

極東のフリー・メーソンの中に、日ソ交渉についての二つの意見が対立していた。それが二十九年秋ごろのことである。オシアス氏は三十三階級でもあり、一方の意見の旗頭であった。

反対派はオシアス氏直糸の、シャタック氏が、バクチ打の仲間であることを理由に、オシア

ス系勢力を叩こうとした。そして、私の逢った〝ナゾの女性〟に、その資料収集を命じた。しかし、オシアス派は強かった。