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迎えにきたジープ p.030-031 酒井元少尉はついにおちた
しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。
五 秘密戦の宣戦布告
二十二年四月、引揚が再開されて八日に明優丸、十日に大郁丸、十二日に信洋丸、十六日に米山丸、十九日に永徳丸と、引揚船は陸続として入港してきた。ところが、一船、二船の明優と大郁には元将校がまじっていたのに、三船の信洋丸からは元将校は一人もいなくなった。
ソ連では元将校の帰還をやめ、特別教育をしているという説が出て、日本人顧問団ではこれはオカシイとニラんでいた。五月になってウラジオの将校団が引揚げてきた。その中で長野県出身の酒井少尉という若い元軍医がCICに散々にしぼられていた。
『何も俺だけシボらなくてもいいだろう』
この若い元少尉は疲れ切って、しまいには腹立たし気に、訊問官の寄地(ヨリヂ)少尉に喰ってかかった。ピンときた寄地少尉は訊問を打切って顧問団に相談した。そこで、顧問団の一人が代って訊問し、カマをかけた。
『ソ連のスパイになるという誓約をしてきた男がいるか?』
『居る』
酒井元少尉はつい答えてしまった。
『それは誰だ?』
『……言えない』
たたみかけてくる質問に、酒井元少尉はハッと気付いて、固く口をつぐんでしまった。見込みがあるというので、調べ官は爪生(ウリウ)准尉に交替することになった。
そのころのCICは、すでにテイラーに代って、二世の山田(ヤマダ)大尉となり、その部下では瓜生と高木(タカギ)という二人の准尉が中心で、この二人の功名争いがはげしく闘われていた。また顧問団の主任ともいうべき前田元大佐は、園木という偽名を使っており、さらに匿名の三羽烏をそのブレーンにしていた。この三羽烏の日本人は、二人が元憲兵で他の一人は満洲育ちというらつ腕家揃いで、前田元大佐によいアドバイスをしていた
さて、瓜生准尉の手に渡った酒井元少尉は徹底的にしめ上げられた。酒井元少尉はついにおちた。あまりな精神的打撃に一切を告白した。ソ連から政治的な指令をおびてきているという自供をした、一月七日の遠州丸草田梯団の鈴木高夫氏は、「幻兵団第一号」ではあったが、この酒井元少尉の場合は政治的というより、純然たるスパイ指令であったから、いよいよ本格的になってきたのである。
迎えにきたジープ p.190-191 志位氏はソ連研究家として一流
四 三橋と消えた八人
この辺で少し、ソ連の秘密機関を系統的にみてみよう。ソ連側の直接の指導には、内務省系のものと赤軍系のものとがあった。赤軍系というのは沿海州地区をはじめ、ウラジオ、ウォロシーロフ、イマン、チタ各地区に一ヶ大隊約五百名、四十ヶ大隊約八千名の日本人が、「赤軍労働大隊」と呼ばれて、直接赤軍の管理下におかれたところがあったのである。ここでは日本人捕虜も赤軍兵士と同様の条件で、基地建設などの土工作業を行っていた。
他の日本人捕虜収容所は、ナホトカで帰還の送出をする第二分所が外務省の管轄であるのを除いては、すべて内務省の監督下にあった。
内務省の管轄にある捕虜の〝再武装〟教育ということは、とりも直さずオルグ要員の政治教育とスパイ要員の技術教育の二種類があったということである。
これらの学校のうちで、明らかにされたその名前をあげるならば、モスクワ共産学校、ホルモリン青年学校、同政治学校、同民主主義学校、ハバロフスク政治学校、チタ政治学校などの「政治教育機関」と、モスクワ無線学校、同情報学校、ハバロフスク諜報学校、イルクーツク無線学校などの「技術教育機関」とがある。
モスクワ無線学校というのは、三橋正雄氏の入ったスパースク、議員団のたずねた将官収容
所のあるイワノーヴォ、またクラスナゴルスクなど、モスクワ近郊に散在している。
たびたび引用するが、志位氏はソ連研究家として一流の人物であるから、同氏の近著「ソ連人」に、現れている部分を抜いてみる。これは同氏がスパイ誓約を強制させられる当時の、取調べに関連して書かれたものである。
三回目の呼び出しの時、私は自分の調書を読むことができた。それは訊問官が上役らしい大佐に呼びつけられて、あわてて事務所を出て行ったとき、机の上に一件書類が残されていたからである。
これによって私たちをいままで逮捕し、取調べていた機関がすっかりわかった。まず終戦直後の奉天で猛威を揮ったのが、ザバイカル方面軍司令部配属の「スメルシ」であった。この「スメルシ」というのは、「スメルチ・シュピオーヌウ!」(スパイに死を!)の略語で、文字通りのいわば防諜機関である。
これが進駐とともにやってきて、私たちを自由から〝解放〟したのだ。調書は「スメルシ」からチタの「臨時NKVD(エヌカーベーデー)検察部」に廻され、さらに、モスクワの「MVD(エムベーデー)戦犯審査委員会」に達している。
NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊
問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。
赤い広場―霞ヶ関 p040-041 “東京租界”にひそむ謀略の黒い手。
赤いとみられることが、生活上にも不便が多いとすれば、ソ連籍を放棄するのが当然であろう。
この傾向はスターリンの死とともに、一そうハッキリとしてきて、ミチューリン、スコロボード、アハナシェフと後に続くものたちが現れた。さらに目黒に住む元ロシヤ近衛騎兵大尉チェレムシャンスキー、元参謀大佐ストレジェンスキーらが白露委員会を組織した。
だが、最初に国籍放棄をして〝白〟に返った、老ミネンコ夫婦の小ミネンコは、あくまでソ連人である。それどころか、巣鴨にある赤系の本拠ソ連人クラブの委員で、いろいろな事業を活溌にやっている。
そしてまた、このヤンコフスキーである。この一家には第二次大戦中、ウラジオから北鮮清津に渡ってきて、〝ある目的〟の仕事をしていた、白系露人老ヤンコフスキーを父として、三人の息子と二人の娘がいた。
その息子の一人、アルセーニェ・ヤンコフスキーは米国籍人となり、歴とした情報担当の中尉となり、クリコフ誘致工作をやっている。他の二人の兄弟と父とはソ連に、二人の娘は中共治下の上海と南米チリとに、それぞれ別れ住まねばならなくなってしまった。
このヤンコフスキー一家の渦、これもミネンコ一家の渦と同じように、民族の宿命を肯負って〝東京租界〟の濁流へと流れこんでくるのだ。
白露委員会の幹部たちは、うらぶれた屋根職人や裁縫師にすぎないのだが、ソ連人クラブに集まる人たちは堂々たる実業家ばかりである。何のための事業であり、資金はどこから来、利潤はどこへ行くのか。
〝東京租界〟とは、単純な不良外人の巣喰う犯罪都市のことではない。密航と密輸と、賭博と麻薬と、そして売春、ヤミドル、脱税――この七つの大罪のかげには、謀略の黒い手がかくされているのだ。(第三集「羽田25時」参照)
秘められた「山本調書」の拔き書
一 先手を打つ「アカハタ」 二十九年八月十四日、ラストヴォロフの亡命について、日米共同発表が行われた。その三日後の十七日に、警庁記者クラブの公安担当記者たちと、当局側の指揮官山本鎮彦公安三課長(現同一課長)との懇談会が聞かれた。
その席上、山本課長はワシントンでのラ氏取調の状況をこんな風に話していた。
山本課長と公安調査庁の柏村第一部長(現警察庁次長)とが、ラ氏にはじめて逢ったのは、ワシントン特別区内のあるビルの一室、せいぜい六坪ぐらいの簡素な事務室であった。