月別アーカイブ: 2022年6月

雑誌『キング』p.21中段 シベリア抑留実記 収容所生活

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 中段 収容所生活
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 中段 収容所生活

れていった。虱による発疹チブスが発生した。四千名の収容所の九割が罹病した。脳症を起こした患者は四十度以上の高熱のまま「内地行の汽車が出る出る」と叫んで吹雪の戸外へ飛び出した。罹病しないものは二メートルも凍りついた土をコチンコチンと突いて戦友の墓穴を掘っていた。毎日毎日の死亡者に屍室は収容しきれなくなった。昨日墓穴を掘ったものが、今日はその穴に埋められた。高熱は水を求め、水は下痢を起こし、内地の夢をみて逝った。ただ下痢を併発しないもののみが残った。

水道が引かれ、電燈がつき、肉が入り、脂肪が廻って、日ソ軍医を先頭に全員必死の防疫に厳寒期をすごした三月になってようやく下火となり、約二割の尊い犠牲をだして最初の冬の試練は過ぎさったのだった。

収容所生活

終戦時多くの部隊はおおむね部隊ごとにまとまっており、武装を解除してから、一本の列車が千五百名キッチリとして送られた。そのため各所とも建制の部隊

雑誌『キング』p.21上段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 上段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 上段

働は鉄のように守られた。しかも炭坑は二十四時間三交替で決して休まなかった。私達には働くどころではなかった。寒さと闘うのが精一杯だった。朝夕の点呼は一時間以上も屋外に立ち、働きが悪くて二時間三時間もの残業をやり、業間作業に使われ、八時間労働と聞こえはよいが、八時間の睡眠すらとれない有様だった。隙間風のもれるバラックの中で貨車の車軸からとってきた油を灯し、玉蜀黍粉の湯がいたものをすすった。水くみは隊列を作り、警戒兵が付いて一キロ以上も往復した。たまの休みには朝暗い中から起き、六キロも歩いて入浴にゆき、夜遅く飯抜きで帰ってくる。その入浴も桶に湯をもらって行水するのだった。

眼に見えて体力が消耗した。痩せて真黒な顔をして虱をたくさんつけていた。感冒が発病する、下痢は止まらない、凍傷ができる、なれない作業から負傷する。衣食住のあらゆる悪条件の結果は、感冒は肺炎に、下痢は栄養失調に、凍傷は凍冱(全身凍傷)にと進行し、バタバタと倒

雑誌『キング』p.20下段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 下段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 下段

れに風が吹き加わって体感温度は六十度にも七十度にも達しただろう。

防寒帽の垂れをしっかとおろし、鼻覆いをかけ、わずかに眼と口だけをのぞかせている。はく息は風をさけて細めた眼のまつ毛の一本一本を氷結させて見開くこともできない。覆いを外したらスーッと真白になって、夢中でこする鼻。厚い防寒大手套の中で握ったりひろげたりし、ちょっとでも曝したらもう温まってこない手。毛皮の防寒靴に二枚もフェルトを敷いても、足指を伸縮させながらの足踏みを止められない足。毛皮と真綿の外套にしみこみ、膝元からはい上る寒さは、ちょうど無数の針のように形のあるものではないかと思えた。

零下三十度を越えると屋外作業は中止という原則だったが、門を出かける時の寒暖計の示す三十度で、一度出たら何度に下がろうが八時間労

雑誌『キング』p.20中段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 中段 最初の冬—寒さ—
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 中段 最初の冬—寒さ—

ろうか、私がみたままの抑留二年の生活をお伝えし、小さな力でも結集して一日も早く皆が懐かしい故国に還れるようにと願っている。

おことわりしておきたいことは、地区により、労働も待遇も違い、さらに悲惨なところや、遥かに楽な方面もあったらしいし、私のいたのはシベリアの一炭坑町で、これがソ連のすべてではないということである。

最初の冬 —寒さ—

私達の経験した最初の冬の想い出は、誇張でなく正に地獄のようだったといえる。今思いだしてもゾッとするようなあの寒さは、もちろん行動のすべてが拘束され労働を強制されている環境のため倍加されているのだが、私達の寒さという感じを遥かに通り越してしまっていた。

最低は寒暖計に零下五十二度を記録したが、そ

雑誌『キング』p.20上段 シベリア抑留実記 まえおき

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 上段 地図 まえおき
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 上段 地図 まえおき

シベリア抑留実記

まえおき

船はいつか停まっていた。「内地だ」「日本だ」と呼び叫ぶ声に私も甲板に駆け上っていった。美しい国日本! 樹々の茂った山、青々とした野菜畑、赤い実に飾られた柿の木、藁ぶきの田舎家の白壁。上陸以来の行きとどいた扱いと、沿線いたるところの温かいもてなしとに、ありがたい国日本! とまたまた目頭を熱くしたのだった。それにつけてもなお六十万という残留同胞達は、酷寒期を迎えてどうしているだ

シベリヤ印象記(5) シベリヤ印象記のはじめに⑤

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年9月25日

昭和21年の5月、ようやくシベリアにも春が来た。5月の春、6月の夏、7月の秋。そして、8月は初冬で、月末には雪が降った。残酷なことだが、ソ連側にいわせれば、死ぬべき者はすべて死なせて、ようやく、本格的な捕虜の労働力を建設に役立たせる時がきた、ということだろうか。

捕虜名簿を作り出し、思想教育のプログラムもスタートした。私が帰国後に知ったことだが、ハバロフスクを中心に、「日本新聞」という宣伝紙を発行し、いわゆる民主化運動が進み出したのである。欧露のエラブカには将校収容所があり、ここから、瀬島龍三(伊藤忠顧問・大本営参謀)が、東京裁判にソ連側証人として出廷したこと。関東軍(在満部隊)の高級将校たちが、戦犯調査にかけられていること。日独のプロ将校たちの対比が際立っていたこと、などなど、いろいろなことが、読売新聞に復職して、引揚担当者として舞鶴に詰めていた私に分かってきた。

そうして考えてみると、21年9月ごろに、建制のままの作業隊であった、チェレムホーボ第一収容所の第一大隊、第二大隊(ともに北支軍)が、まず、下士官兵と将校とに分割された。将校は将校だけで作業隊を編成し、石炭掘りに従事させられていた。と同時に、下士官兵は、同地の他の収容所との間で、入れ替えが進められ、建制を完全に壊したのだ。

当時、第一大隊長だった塚原勝太郎大尉は「将校がどんなに働けるか、ソ連側に思い知らせてやろうじゃないか」と、檄を飛ばした。今までの建制では、三田小隊員54名の健康と作業との兼ね合いに、心を砕いていた私などは、その責任から解放されて、ただ肉体労働に専念できる気軽さにバリバリと働いたものだ。丸1年、シャベルを握りつづけたので、指の内側の丸みの角には、タコができて、手の平は真ッ平になってしまった。このタコがすっかり取れるまで、1年ぐらいもかかっただろうか。

こうして、わずか丸2年の俘虜生活ではあったが、人生体験としては、軍隊の丸2年以上の厳しさがあった。軍隊のそれは、生と死との隣り合わせではあっても、精神的には楽だった。天皇の軍隊ではあろうとも、祖国防衛であり、具体的には親兄弟、家族を守ることだったからだ。

だが、戦時俘虜の境遇は、ポツダム宣言によって、家族のもとに帰れるハズが、日ソ中立条約を破り、8月9日に宣戦布告とともに満州になだれこんできたソ連軍に降伏して、極寒の地に拉致され、強制労働を強いられている。精神がまず参ってしまった。

初めて体験する寒さ。この酷寒に加えて、飢餓である。昭和20年の終わりごろまでは自分たち自身で満州から持ってきた、米、味噌、醤油といった食糧があった。しかし、21年にはいると、手持ちの食糧はなくなり、ソ連側も対応できないための飢餓である。これがつづくのだから慢性飢餓である。

寒さ、飢え、栄養失調に、襲いかかってきたのは、発疹チフス。その間も休みなくつづく炭坑労働——。これを「地獄」といわずして、なんといおうか。

いままで、旧陸軍の兵制について、冗慢と思えるほどに述べてきたが、それは、シベリア捕虜について、理解されやすいように、との思いからであった。第一、私たちを軍隊に引っ張り出したのは徴兵制という、国の法律によってである。しかし、その持ち駒を、自由に、勝手に動かしたのは、陸士、陸大出身の職業軍人たちである。だが、建制のまま入ソしたとき、命令を出すのは、幹候出身の予備役将校しかいない。階級章こそ、少尉、中尉、大尉、少佐と順番があるが、みな、自分たちと同じなのだ。同じ隊にいて、生死を共にしてきた仲だから、「どうしてくれるんだ!」と、文句をつけられない。

中佐、大佐、少将、中将という高級将校。いうなれば、“軍閥”や“その片割れ”はいないのである。これではケンカにならない。団結して、ソ連と戦うしかない。ソ連は団結されたら困るから、建制をブチ壊すのだ。

寒さ、飢え、伝染病、重労働という生活の一断面ごとに書くことは多い。が、それに加えて、スパイである。同胞相争うように、ソ連は、民主化運動を進め、その運動のなかに“密告制スパイ”を作りはじめたのだった。この日本人同士の密告の中で訓練を重ねて「ソ連のための日本人スパイ」の、一本釣りが始まったのである。それは、米軍占領下の日本に帰るのだから、対米ソ連スパイを日本中に配置しよう、という計画だったのであった。昭和21年には、米ソの冷戦は始まっていたのである。

それに対して、米軍だって黙ってはいられない。引揚港・舞鶴に、米軍防諜部隊を配置して、引揚者のひとりひとりを訊問した。在ソ経歴を申告させ、「そこでナニを見たか」「スレ違った列車には何が積んであったか」、何十万という引揚者を調べるのだから、米軍は、居ながらにして、シベリアの全実情をつかんだのである。これを、軍隊用語で「兵要地誌」という。つまり、作戦計画を立てる時の基礎資料である。当時はまだ、偵察衛星も飛んではいなかった。さて、ここから、私の「シベリア物語」は始まる。——スパイのことからである。(つづく) 平成11年9月25日

シベリヤ印象記(6) モスクワからきた中佐

シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会

シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年11月27日

「ミーチャ、ミーチャ」兵舎の入り口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和22年2月8日の夜8時ごろのことだった。去年の12月初めに、もう零下52度という、寒暖計温度を記録したほどで、2月といえば冬のさ中だった。

北緯54度の、8月末といえばもう初雪のチラつくあたりでは、くる日もくる日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下2、3メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッ、と転がし廻している。

もう1週間も続いているシトーリナヤの炭坑の深夜作業に、疲れ切った私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

——きたな! やはり今夜もか?

いままで、もう2回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べを受けていた私は、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(おーい、何だい?)

第1回は、昨年の10月末ごろのある夜であった。その日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第1回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、恰幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。その中佐の姿を見た瞬間、私は直感的に事の重大さを感じとって、緊張に身を固くしていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ、日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。

「第一にソ連同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「よろしい。良く判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼し、ドアのところへきた時、いままで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パタジジー!(待て) 今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、いままでの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただ事ではないぞ、という予感が的中した思いだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは“モスクワからきた中佐”といっていたが、私は心密かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと考えていた。 平成11年11月27日

週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊 「チュレンホーボ」117師団
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊

シベリヤ印象記(7) 偽装して地下潜入せよ

シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
画像は三田和夫65歳(右から2人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
画像は三田和夫65歳(右から2人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)

シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年5月27日

それから1カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。“モスクワからきた中佐”との初対面のあとである。話は前後するが、それまでの呼び出しの様子を思い出して書きとめておこう。

当時、シベリア捕虜の政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変わりつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もうひとり通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、“偽装”して地下潜入せよ、ということになるのではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に“偽装”を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも“幻のヴェール”が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ3回目が冒頭に書いた2月8日の夜のことである。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウン、いますぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛布外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かが始まるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージノ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良く暖められた部屋に一歩踏み込むと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。

ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私はそんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴のカカトが、カッと鳴ったほどの、厳格な敬礼になっていた。 平成12年5月27日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

シベリヤ印象記(8) 冷たく光る銃口

シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)
シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)
シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)
シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)

シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年8月12日

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、見たことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳しいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分過ぎるほどの効果をあげていた。

「サジース」(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向かい側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当たっていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の、「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東板)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立ち上がってドアのほうへ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルと震えた。

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの部屋で二人の秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ころうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会いの男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人々だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引出しをあけた。ずっと、少佐の眼に視線を合わせていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いて、机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

——拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。(つづく) 平成12年8月12日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

シベリヤ印象記(9) 誓いの言葉

シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)

シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年9月7日

少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、役立ちたいと願いますか」

歯切れの良い日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずにたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を縦に振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまで持ちこむと、少佐は一枚の白紙を取り出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとうくるところまできたんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔を見ながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキー!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。

「漢字とカタカナで書きなさい」

静かに、少尉の声が流れはじめた。

「チ、カ、イ」(誓い)

「………」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「………」

「今日の日付、1947年2月8日……」

「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書き上げてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、いままでに数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

「ペールウィ・ザダーニエ!(第一の課題)1カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

ペールウィ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショウ」(終わり)

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立ち上がった。少尉がいった。

「3月8日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように」(つづく) 平成12年9月7日

シベリヤ印象記(10) 眠られぬ夜

シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年(2000)9月11日 画像は三田和夫 66歳(前列左から2人目 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年(2000)9月11日 画像は三田和夫 66歳(前列左から2人目 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
画像は三田和夫 66歳(前列アコーディオンの隣り 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
画像は三田和夫 66歳(前列アコーディオンの隣り 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
戦友会で歌われる「シベリヤの花」「異国の丘」
戦友会で歌われる「シベリヤの花」「異国の丘」

シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年9月11日

ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の“忠誠さ”をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令…と、私には終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後ろからガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——あるいは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子供があるのではあるまいか。

——誓約書に書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限はすでに命令されていることなのだ…。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然…。いや、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして無条件降伏して、武装を解いた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き換えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなこと今更いってもはじまらない。現実の俺は命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。(つづく) 平成12年9月11日

戦友会で歌われる「北支派遣軍の歌」
戦友会で歌われる「北支派遣軍の歌」

シベリア印象記(11) チャンス到来

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年9月25日

私に舞い込んできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの3月8日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼に訪ねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることになるのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の3月8日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから3、4時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明け始めたのだった。3月8日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……9日も終わった。1週間たち、1カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。(つづく) 平成12年9月25日

◇◆◇◆執筆者略歴◆◇◆◇
三 田 和 夫 78歳
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

メルマガ「シベリヤ印象記」は、「~(つづく)平成12年9月25日」とあるが、この(11)が最終回となった。「編集長ひとり語り」のほうは、1年以上後の、平成13年11月22日までつづくが、その間「シベリヤ印象記」の原稿を催促すると、三田和夫は「わかったよ。いろいろ考えてるから」と笑って答えたという。なにを考えていたのかわからないが、そのまま死んでしまった。

「シベリヤ印象記」は、じつはメルマガを含めると、3回も書かれている。

第1回目の「シベリア印象記」は、三田和夫が、昭和22年11月、シベリア抑留から帰還、読売新聞に復職して最初に書いた記事だった。その状況と記事内容は、『最後の事件記者』(p.076~p.087)に書かれている。

読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛

第2回目の「シベリア印象記」は、平成2年8月、ソ連旅行で45年振りにシベリアを訪れた紀行文を、『正論新聞』第587号から連載している。

正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク

つまり、読売新聞「シベリア印象記」、正論新聞「シベリア印象記」、そしてメルマガ「シベリヤ印象記」と、3回も書いているのだ。そんなこともあってか、メルマガ「シベリヤ印象記」の(6)~(11)は、『最後の事件記者』(p.116~p.133)の焼き直しになっていて新味がない。

メルマガの「シベリヤ印象記のはじめに①~⑤」は、78歳になった三田和夫の書き下ろしだが、若いころに書いた『赤い広場—霞ヶ関』『迎えにきたジープ』に比べると、論調がだいぶマイルドになっている感がある。

たとえば、「シベリア抑留60万人・死者6万人」と書いているが、それは、ソ連側・日本政府の公式発表の数字に過ぎない。また、最初の冬に推計800名(2割)が死んだと書いているが、以前はよく「零下50度、最初の冬に約半数が死んだ」と言っていた。『迎えにきたジープ』でも、「春がきて約3割、1200名減った」と数字はもっと大きい。戦後、『キング』に書いた「シベリア抑留実記」では2割だが、ソ連当局は実態を把握させないように、名簿を作らなかったり、収容所間で人員を動かしたりして、証拠湮滅を図っていたのだから真実のところはわからない。

10年前に戦後45年目の平和な時代のシベリア旅行を経験したことや、戦友会で戦友たちのいろいろな話を聞いているうちに、意見が変わった部分もあるのかもしれない。

『迎えにきたジープ』(p.096~p.110)には、証拠の有無は別として、細菌戦や収容所内部の状況、死亡者の扱いについて、三田和夫の体験・疑似体験が書かれている。

できれば、メルマガ「シベリヤ印象記」(つづく)で、『迎えにきたジープ』の続編を書いてもらいたかったものだ…。