シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年9月7日
少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。
「貴下はソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、役立ちたいと願いますか」
歯切れの良い日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。
私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。
「ハ、ハイ」
「本当ですか」
「ハイ」
「約束できますか」
「ハイ」
タッ、タッと、息もつかせずにたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を縦に振って答えた。
「誓えますか」
「ハイ」
しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまで持ちこむと、少佐は一枚の白紙を取り出した。
「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」
——とうとうくるところまできたんだ。
私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔を見ながら、刻むような日本語でたずねた。
「日本語ですか、ロシア語ですか」
「パ・ヤポンスキー!」(日本語!)
はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。
「漢字とカタカナで書きなさい」
静かに、少尉の声が流れはじめた。
「チ、カ、イ」(誓い)
「………」
「次に住所を書いて、名前を入れなさい」
「………」
「今日の日付、1947年2月8日……」
「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)
コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。
モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」
不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。
最後の文字を書き上げてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。
この誓約書を、いままでに数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。
「プリカーズ」(命令)
私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——
「ペールウィ・ザダーニエ!(第一の課題)1カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」
ペールウィ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。
「ダー」(ハイ)
「フショウ」(終わり)
はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立ち上がった。少尉がいった。
「3月8日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように」(つづく) 平成12年9月7日