読売梁山泊の記者たち」カテゴリーアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.196-197 テッド・ルーインと倭島英二

読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。
読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

だが、私の取材は、この外人記者のレポートに刺激されて、三人の〝賭博王〟にインタビューすることであった。そして、三人それぞれに、印象深いのである。

まず、テッド・ルーイン——日本が独立したことによって、出入国管理も、日本側に引き継がれた。連合軍総司令官(GHQ)が、入国拒否者(エクスクルージョン)とした人物のリストは、日本政府によって、同じように指定された。

テッド・ルーインの情報を求めているうちに、ある情報通が教えてくれた。マニラから入国してきた、ザビア・クガート楽団の写真のなかに、ルーインが写っている、というのだった。身分を調べてみると、楽団のマネージャー。

私は、入国管理庁に行って、K事務官(現弁護士)に会った。然るべき紹介は得ていたので、K事務官は気軽に立ち上がって、ファイルのアルファベットを探してくれた。

「オカシイなあ、名前まちがっていない?」

と、彼は、テッド・ルーインのカードを取り出して、呟いた。そのカードには、赤スタンプの、EX CLUSIONが、押されていた。

「ドレドレ…」と、私も、のぞきこむ。しかし、日本入国の年月日が記入されていた。クガート楽団の入国日と一致した。

「ナゼ、入国できたのだろう…?」と、K事務官。「ありがとう、調べて見ますネ」と、挨拶もそこそこに、私は走っていた。

ルーインの代貸しのモー・リプトンが、マンダリン・クラブの段取りをつけ、その実況検分のため、ルーインは、どうしても、日本に入国する必要があった。

フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

私は、社会党の猪俣浩三代議士に、この件を話して、法務委員会で追及してもらった。その質問通告があった法務委に、本省に戻ってアジア局長になっていた倭島は、政府委員として出席してきた。

記者席にいた私の姿が、その前を通りすぎようとした、彼の視野に入ったのだろう。アジア局長は、一瞬、歩を止めて、私に鋭い一べつをくれた。数日前、局長室で渡り合った若僧の記者が、社会党にタレこんだナ、と、腹立たしい思いだったのだろう。

猪俣委員の質問が始まった。要点を衝いた良い質問だ。ナゼ、エクスクルージョンとGHQでさえ指定した、バクチ打ちのボスが日本に入国できたのだ、と。答弁に立ったアジア局長は、委員長に秘密会を要求して、記者席の私たちは、室外に追い出されてしまい、真相はヤミの中に消えた。

用事を終えたルーインは、日本からサンフランシスコに向かい、そこで逮捕された。

マニラ系のルーインとリプトン、シカゴ系のリーと、取材は進んだけれども、外人記者のいう「上海の王」は、その影すら、アンテナにかかってこない。サイコロ模様のある、金の腕輪をした女の子たちの〝情報〟も、サッパリだった。

国際都市・上海の賭博王というのだから、それは、当然、古くからの秘密組織「青幇」(チンパン)の首領である、杜月笙(と・げつ・せい)の流れを汲む人物であろう、と推測していた。

読売梁山泊の記者たち p.198-199 ルーインの代貸のモーリス・リプトン

読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。
読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。

最近出版された、「中国諜報機関」(光文社)という本を見ても、愛人の江青を毛沢東に捧げた男・康生は、中国共産党の特務のボスであった。そして、杜月笙の友人の虞洽卿(ぐ・こう・けい)という、上海の最大財閥の当主が、康生の主人であった、と、書かれている。

辻本デスクは、「どうした、もうすぐ締め切りだぞ。上海の王をつかまえないと、三題噺にならんじゃないか。早くしろよ」と、矢の催促である。

「南船北馬」という言葉がある。新潮国語辞典によれば、「シナでは、旅行に南方は船、北方は馬を用いることが、多かったことによる」として、方々をたえず続けて旅行すること、とある。

このことは、南方では船、北方では馬を掌握すれば、〝利権〟になる、ということで、それを支配する組織ができることは、洋の東西を問わない。南船を握ったのが、上海の秘密組織「青幇」(チンパン)である。それは、海賊にも通じる。

これに対し、北馬を握ったのが、北京の秘密組織「紅幇」(ホンパン)であり、同様に馬賊にも通じる、というものだ。

戦後のトーキョーの暗黒街を、シカゴ系のアル・カポネ直系のジェイソン・リー、マニラ系のテッド・ルーイン、そして、〝上海のワン〟の三大勢力が、支配権を争奪しようとしている、というのだから、穏やかでない。

そして、リーとルーインの足取りはつかめたのだが、ワンだけは、手がかりがまるでないのである。

上海の賭博王、というのだから、これは、青幇系であるに違いない、と判断したのだが〝青幇東京

事務所〟などと、カンバンを掲げているところなど、ありはしないのだ。

マニラ系のテッド・ルーインには、とうとう、インタビューができなかった。モンテンルパの戦犯収容所の件で、外務省は、ルーインとヤミ取引した。ルーインの密入国(イヤ秘密入国というべきか)を、私の調査で暴かれて、衆院外務委で追及された外務当局は、ザビア・クガート楽団のマネージャーとして入国させていたルーインの、出国を促したらしい。

従って、ルーインには会えなかったが、ルーインの代貸のモーリス・リプトンには、インタビューできたのである。

私の助手は、社会部の牧野拓司記者(のち社会部長)。アメリカ留学から帰国したばかりで、事件モノの経験がないのだから、通訳の仕事が主だった。

芝のマソニック・ビルに宿泊していた彼に、電話でアポ(アポイントメント)を取り、約束の時間に、ビルのロビーで待っていた。

この、マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。陸軍の将校クラブであった、九段の「偕行社」に対するものだった。

そして、戦後、フリーメーソンの本拠地となっていたもの。「幻兵団」事件で、ソ連の情報機関を調べるうち、米国のそれにも興味を持ち、キャノン機関などを知った。この、キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。

読売梁山泊の記者たち p.200-201 〝暗黒街のボス〟などに会うのは生まれてはじめて

読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった
読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった

ところが、牧野君は〝暗黒街のボス〟などに会うのは、生まれてはじめてのこと。緊張そのものである。

と、そこに、まさに、音もなく、ヒラリという感じで、ひとりの男が現われた。いかにも悪役顔をした、モー・リプトンである。

それが、アメリカ・ギャングの所作(しょさ)なのだろうか。やや目深に冠ったソフトを、左手の拇指で、グイとアミダ冠りに持ち上げるのだ。牧野君は、すっかり威圧されてあわてて、挨拶をし、私を紹介した。

だが、この男も、通訳付きの会話には、馴れていないのである。私には、ほとんど目もくれずに、私の質問を通訳する牧野君に、喰ってかからんばかりに、しゃべりまくる。

モー・リプトンの、ヤクザ英語の通訳に苦労しながら、私の質問の返事をすると、矢継早に反問する私の質問、それをリプトンに通訳すると、早口の彼の反論——。

それはもう、見ていて、気の毒なくらいの牧野君の周章狼狽ぶりであった。もっとも、私は余裕夕ップリ。リプトンが反論のために差し出す証明書の日付けが、話と違っていることを確認したり、彼が、手に握って振りまわす書類の表題が、話と違うことを、彼の手を押さえてのぞきこむなど、インタビューは成功であった。

だからこそ、これらの連中から、告訴状の一本だって、出てこなかったのである。「東京租界」キャンペーンが、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったれ

ばこそ、である。

そして、可愛い子に旅、の古諺の示す通り、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して、身についたのであった、と、私はいいたい。マソニック・ビルを後にした彼は汗ビッショリの姿であった。

それに比べると、ジェイソン・リーのインタビューは、はるかに落ち着いたもの、であった。第一、日本のヤクザの親分クラスにも、リプトン風のガサツな武闘派は少ない。

リーは、物腰の穏やかな、初老の紳士であった。たしか、日比谷の富国生命ビルの喫茶店だかで、コーヒーをすすりながらの、インタビューであった。

私の質問は、さきの外人記者の記事がネタである。しかし、リーは、「私は実業家で、だから、カポネ関係の人たちを知っているし、友人もいる。だからといって、私が賭博師だ、とはいえない」と、言いぬける。

「じゃ、あなたは、日本になにしにきた?」

と、タタミこむと、彼はサラリといった。

「日本という、新しいマーケットで、新しい事業の、なにに可能性があるか、の調査だ」

「で、結果は?」

「私が事業家だ、ということを証明する、現在、進行している事業がある」

読売梁山泊の記者たち p.202-203 〝上海の王〟が安キャバレーをやるだろうか

読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。
読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

リーは、東京の郊外に、「モーテル」を建設中だ、と説明した。いまでこそ、モーテルなどというものは、国道沿いに乱立しているが、この時、日本の活字媒体に、はじめてモーテルが紹介された。

「…モーテルとはモーターホテルをしゃれた意味で、郊外にドライブしたまま、車もろともに泊まる旅館で、一階がガレージ、二階が寝室といった構造のもので、いわば、アメリカの温泉マークである…」

リーの話から、とうとう、シカゴ系の賭博王という記事は、書けなかった。リーが、東京に賭博場を開くのに、適当な場所はないかと、相談を持ちかけられた、といわれる日本人も、その証言を拒んだからである。

つまり、モー・リプトンより、リーのほうがはるかに、〝大物〟であったのである。そして記事には、リーが建設中のモーテルの写真を入れて、「伝聞」でしか書けなかった、オトナシイ記事になった。もちろん、建設現場の写真を入れたのだから、現場を調べたのだが、とうてい、賭博場に転用できる設計ではなかったのだ。

戦後史の闇に生きつづけた上海の王

さて、こうなると、いよいよ〝上海の王〟のインタビューである。辻本デスクには、ハッパをかけられるし、連載開始日は迫ってくるし、私もいささかあせり気味であった。

そのような時、頼りになるのは、サツまわりと呼ばれる、入社三~四年目。地方支局で一通りの〝記

者修行〟をさせられ、本社勤務に戻ってきた、若い諸君である。

新橋、銀座の一帯を担当する、愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、銀座を担当する築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

すると、愛宕署まわりがいう。

「新橋の土橋のところに、黄色会館という、三階建てのビルがあり、一、二階が、ビッグパイプという、キャバレーなんです」

「ああ、大きなパイプのネオンをつけ、開店日に、三階の屋上から、十円札をバラまいたという、アレかい?」

「エェ、そうです。その、十円札のバラまきは『いずみ』(注=社会面左下隅のミニ・ニュース)に書きました」

「ウン、読んだよ。それで知ってるンだ」

「あすこの社長は、中国人で、確か、ワンといったと思います」

「へエ、じゃ、調べてみるか」

と、局面打開の途が、開けたようだった。しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。

——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!

読売梁山泊の記者たち p.204-205 「ウーン、オカシナ奴だな」

読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」
読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」

しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。
——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!

私は、この〝情報〟に、最後の期待を托したようだった。

——ウン、そのキャバレーの女の中に、サイコロ模様の金の腕輪の女が、まぎれこんでいるかも知れない!

サツまわりから、「社長は、黄色合同株式会社の王長徳」と、電話がきた。

「…どうも、左翼系らしいですよ。自由法曹団の布施達治弁護士と親しく、宮腰喜助、帆足計両議員の中共訪問に、資金を出した男、といわれてますよ。…ア、そうそう、あの黄色会館は、違法建築だ、といわれています」

私は当惑してしまった。

中共に追われて、日本へやってきた〝上海の王〟と呼ばれる博徒が、〝左翼系らしい〟といわれるような、派手な動きをするのだろうか。その上、当局に注目されるような、違反建築をやらかす、とは!

いまの土橋あたりは、もう埋め立てられて川はない。数寄屋橋と同じように、土橋も、地名だけで、橋はなくなっている。新橋から銀座、東京駅前には、ドブ川があって、これが埋め立てられ、高速道路と、銀座はコリドー街。もとの、読売本社前、いまのプランタンと、有楽町駅の間の、高速道路下の食堂街も、みな、ドブ川の埋め立て地だ。

その河川敷を、都に貸してほしい、材料置場にする、という陳情に、王長徳が現れたのは、昭和二十五年の三月、当時、改進党代議士だった、宮腰喜助が同道してきた。

だが、電話でアポを取り、黄色会館三階の社長室で、会った。恰幅の良い、中国顔の男だった。私は単刀直入に切りこんだ。

「私たちは、〝上海の王〟と呼ばれる、バクチ打ちの親分を探している。あなたも、ワンだが、〝上海の王〟というのは、あなたか」

「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」

「……」

さすがの私も、唖然として、次の質問が出なかった。リプトンは、ニセの書類を、次々に出しては、「貿易商」を装うことに失敗したし、リーは、これまた「事業家」としてはチャチなモーテルの建設で、シカゴのボスを否定した。

つまり、〝上海の王〟も、同じように、日本では法律で禁止されている、賭博場の経営を、当然、否定するであろう、とばかり、思いこんでいたからである。

それなのに、真ッ正面から、〝上海の王〟を名乗り、ある意味では、〝上海の王〟であることを、気取ってさえいるのである。このようなタイプの男は、「東京租界」の取材をはじめてから、はじめて出会ったからだ。

「ウーン、オカシナ奴だな。自分から名乗りをあげるなんて…。ホントに、認めたんだろうナ」

「まさか、私がウソの報告をしますか。牧野君も同席していたし…」

読売梁山泊の記者たち p.206-207 「東京租界」の第一回は王長徳

読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」
読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」

「で、金のサイコロ模様の腕輪は?」

「ウチで、外人記者のレポートで、その秘密を書いたので、止めてしまったと」

辻本デスクは、ふたたび、ウーンと唸って考えこんだ。

「どんな男だ? 日本における、過去の警察沙汰は、あるのか」

原四郎部長も、部長席から立ち上がって、私たちの話に加わった。

「ですが、私は、〝上海の王〟ではない、と思うのです。その最大の根拠は、都庁の外事課で調べた、彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国となっています。

つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をしていますし、中共に追われて日本にきたワケではないし、十一歳で、上海でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」

辻本デスクは、まだ、考えこんでいる。

「しかし、終戦時の混乱で、多数の外国人が密入国してますし、パスポートではなく、進駐軍の認めた証明書で、旅券代用になっているケースもあるんです。この、外国人登録証だけを、全面的には、信用できないのです」

「ウンウン。で、政治家との関わりは、事実あるんだな」

「どういう〝金〟なのか、ともかく、政治家や、自由法曹団の弁護士にも、献金しているようです」

「ヨシ、〝上海の王〟ではなくとも、話題性で取り上げよう。十一歳でビッグパイプという、アダ名を持つバクチ打ち、ということは世にもロマンチックな話…と、アホラシい記事にすれば、部長。案外、

オモロイかも…」

こんな経緯で、「東京租界」の第一回は、王長徳をオチョクッた記事でありながらも、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい縄張り争い銀座を舞台の第三国人」と、独立日本の現状報告として、シビアな記事にまとめられた。この王長徳なる人物、それ以来、それこそ山あり谷ありの、波瀾万丈の業績を積み重ねて、現在も、東京にいるのである。

のちに判明したことであるが、この読売記事を持ち歩いて、企業をオドシたりして、事件になり、服役したこともある。

私には、土橋のあたりを歩く時、あのドブ川とともに、黄色会館(のち、強制撤去)のあったあたりを、懐しく眺めたりする、想い出の取材であった。

さて、こうして、「東京租界」キャンペーンは、国際バクチと、シカゴ、マニラ、上海の三都市の代貸したちの暗闘、という、ドラマチックな展開でスタートした。

と同時に、その反響も大きかった。国内的な反響ばかりではなく、それは、独立国日本の、最初の〈占領政策批判〉であり、かつ、打ちひしがれていた、警察への〈叱咤激励〉であった。同時に、国民に対して、独立国の誇りと自信とを抱かせるものとなった。

読売梁山泊の記者たち p.208-209 警視庁当局の国際バクチの摘発

読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。
読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。

警視庁タイアップの華麗なスクープ

その、裏付けともいうべき、警視庁当局の自信に満ちた、国際バクチの摘発があったのは、翌昭和二十八年三月十七日の、クラブ・マンダリン事件であった。

その一階こそは、秦の始皇帝の後宮とは、かくやとも思わせる、豪華なレストランではあったが、二階は、モーリス・リプトンら、マニラグループの支配する、国際バチク場であったのである。

この摘発には、私は、警視庁防犯部の〝最大の協力者〟であった。私というよりは、読売新聞というべきであろう。私をキャップに社会部記者、警視庁クラブと本社遊軍との合作で、大摘発が成功した。スクープとは、当局から、特ダネのネタを頂くことではない。

「ア、三田さん? オタクでは、ジャパン・タイムズ、とっている? 社会部にはなくとも、外信部にあるでしょう?」

電話の主は、いきなり、こう切り出した。まだ、現職にあるといけないので、名前は伏せるが、英語に強いジャーナリスト。「東京租界」キャンペーンで知り合った日本人。彼は、その朝、ジャパン・タイムズをひろげていて、〝気になる〟広告を見つけた、というのである。

それは、銀座のチャリティ・パーティー。会場がマンダリン・クラブとあるのに、〝ひっかかった〟と、話す。

社会部記者の花形は、むかしは、警視庁クラブであった。各社とも、サツ廻りを卒業した、若手の俊秀を注ぎこむ。

コロシの一課(刑事部捜査第一課)担当は〝コロシの○×さん〟と呼ばれて、新人記者から、崇敬の視線を注がれるが、その日常生活は、一課刑事と親しくなるための、あまり、知的なものではない。

それを、横眼に見ながら、〝二課記者〟は呟く。「フン、コロシか。オレたちは、知能犯担当だもンな」

さらに、それを、鼻でセセラ笑うのが、公安記者である。「知能犯? どうせ、サギ師ダロ? 公安は、思想犯と外事なのさ。国際犯罪ッてのは、インターナショナルなンだ」

まさに、メクソ、ハナクソを嘲うの類だが、外事・公安担当だった私は、この電話を受けて、緊張した。広告の現物を見ると、もう、数日後に、そのチャリティ・パーティーは迫っていた。

女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。

街角で、「難民救済にカンパを」と、募金箱を突き出す連中。アレと同じように、目的不明のチャリティなのである。一日、二日と情報を集めてみて、名前の出ている、聖母病院も、関知していないことが、明らかになった。

「部長、東京租界の続きで、オモシロイのが手に入りました」

原部長も、あの、眼尻の下がった、可愛い笑顔で、ウン、ウンと私の報告を聞く。

読売梁山泊の記者たち p.210-211 秘密を厳守させるという〝部長命令〟

読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」
読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」

「…で、どうするつもりだ?」

「キャップ(警視庁詰め主任)には、もちろん、報告を入れましたが、警視庁クラブ中心で動くと、他社に気付かれる恐れが、あると思います。デスクを決めて頂いて、本社の遊軍記者中心でやりたい、と思います。…これが、英文紙に載った広告です」

私は、東京イブニング・ニュース紙と、ジャパン・タイムズ紙の広告を出した。

「モンテカルロの夜! 楽しいゲーム、期待にみちた、ゲームの数々! 楽しく遊んで、しかも、意義ある目的につくせよ!」

この広告の元(もと)原稿を、両紙の内部で調べてみると、「外人のみ」とあったのだが、両紙とも、広告部がハラを立てていた。

「独立国ニッポンに対して、〝外人のみ〟とはナンだ! 失敬な原稿だ。訂正させろ!」

そのクレームで、「外人歓迎」と、訂正したことを知って、私は、当時の綱井防犯部長の部屋に行っ た。

人柄のいい綱井防犯部長だったので、私はヒマな時など、遊びに訪ねては、ダベったりしていたものだ。

「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」

「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」

部長は、ニヤニヤと笑って、私の次の言葉を待っている。

「警視庁防犯部長として、まさに、〝大〟防犯部長として、歴史に残る仕事サ。それを、三田〝大〟記者が、まとめてきた。…だから絶対に、読売に独占させる、他社に洩れないよう、デカ(刑事)たちにも、秘密を厳守させるという〝部長命令〟を出してもらいたい」

「フーン。たいそうな前触れだナ」と、いいながらも、さすが、警察官である。柔和な眼の底が、キラリと光る。

「大部長と大記者の約束だよ。…イヤなら、オレ、帰るヨ」

「ヨシ、分かった。秘密の保持だナ。約束するよ」

現場の指揮を執る、隣室の上村保安課長が呼ばれた。廊下に出なくとも、部長室に入れるよう、内扉があった。

私は、いままで集めた資料と情報とを、部長と課長に示して、判断を求めた。バクチは保安課の所管であり、上村課長というのは、その道にかけては、大ベテラン。〝さすが〟という、情報を持っていた。

「宝石商を自称している、モーリス・リプトンが、さる十日に、再来日しているんです。そして、白光たちが、リプトンに投資を返してもらって、手を引いたあと、当局の監視が厳しく、この十七日限り、サロン・マンダリンは、閉鎖されることになっていたのです」

「ナルホド。その、最後の夜の十六日に、このパーティーをやる…」

読売梁山泊の記者たち p.212-213 協力して国際バクチを挙げようや

読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。
読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。

私は、英字新聞の広告の、パーティーの日取りのところを、指で示した。

「…リプトンの来日のことは知らなかった。やはり、サツはサツで、見るべきところを押さえているネ。しかし、英字新聞の広告、なンてのは、ブンヤでなきゃ、ネ。サツカンにはムリだよ」

「いやァ、さすがだ、と思いましたよ」

「ヨシ、それじゃ、これで、五分、五分。協力して、国際バクチを挙げようや。部長の前で、上村サン、秘密保持。現場には、読売の記者とカメラの立ち入りを認めてよ。でなければ、読売の独占スクープは崩れるよ…」

「分かった、分かった。じゃ、大記者サン、段取りは、保安課長と打ち合わせて、や」

「ウン。だけど、部長も課長も、夕方になったら、自室を使わないこと。遅くまで、灯がついていたら、スグ、各社にバレる…」

昭和二十八年三月十六日、午後一時ごろのことだった。パーティーは、その夜と、広告には、書かれてあった。

そこで、クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担した次第。しかし、クラブの入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、入り口の、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりして、内部への連絡を絶つなど、綿密な作戦計画を立てた。

私は、電通通りをブラブラしながら、目だけは、マンダリンの入り口に注いで、公衆電話で、上村

課長の直通に、人数を知らせる。

「課長。もう四、五十名は入ったよ。何時ごろの討ち入りだネ」

「そう、はやりなさんな。まだ九時じゃないか。水商売の営業時間の、十一時すぎでないと、やれないよ」

「そうか、じゃ、引きつづき、見張るよ」

「ウン、頼むよ」

そんなヤリトリがあって、私たちはイライラしたのだが、警視庁が手入れをした、と、いうことで、ニュースになるのだから、もう、ここまできたら、保安課長に、主導権を渡さざるを得ない。

ところが、のちに、大問題が起きる——それは、後述するとして、三月十七日付の朝刊の最終版の記事を紹介しよう。

(読売朝刊の記事)

この日、警視庁では、午後六時ごろ、クラブ・マンダリンで「慈善パーティー」を表看板に、賭博を開いていることを察知したが、慎重を期して、午後十一時以降の営業禁止時間に入るのを待ち、これを名目に踏みこむ作戦をとった。

午前零時、上村保安課長指揮の制私服警官三十五名が、「慈善パーティ」とはり紙をしたドアを排して、一せいに飛びこみ、ドア・ボーイが呆然としている間に二階へ。

読売梁山泊の記者たち p.214-215 バクチ場の手入れで場馴れ

読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」
読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」

(読売朝刊の記事)
この日、警視庁では、午後六時ごろ、クラブ・マンダリンで「慈善パーティー」を表看板に、賭博を開いていることを察知したが、慎重を期して、午後十一時以降の営業禁止時間に入るのを待ち、これを名目に踏みこむ作戦をとった。
午前零時、上村保安課長指揮の制私服警官三十五名が、「慈善パーティ」とはり紙をしたドアを排して、一せいに飛びこみ、ドア・ボーイが呆然としている間に二階へ。

とっつきの部屋にある、大きなダイス台を囲んでいた外人客が、あわてて台から飛び離れる。ビールを呑みながら、ふざけていた男女客の顔が、一瞬、蒼白となる間を縫って、警官は手ぎわよく、各グループのそばにつき現場の位置を保つよう、通訳を通じて、命令する。

ダイスの台の上には、いままで続けていたままに現金代わりのチップが散らばり、それを掻き集める熊手のような棒が投げ出されたまま。

厚いカーテンで囲まれた、奥の部屋には、係官も名前を知らない、二種類の賭博台が並び、その前に、動くに動けない客が、一瞬、しおれる。

証拠保全のためのカメラが、活躍をはじめ、パッ、パッとフラッシュがたかれるたびに、客は照れくさそうに顔をしかめ、係官の眼をかすめては、そっと、位置をかえようとするあわてかた。

外人客には、日本語のうまいものが多く、照れかくしに、係官相手に冗談をとばすものや、なかには、「学校へいくのだから、帰してくれ」と、ごねる若い客。

銀座の某キャバレーの名前をあげて、そこの女給と待ち合わせしているから、電話をかけさせてくれと、拝み倒すものなど、色とりどり。しかし、その間にやはり、一人が裏の窓から、屋根伝いに逃げたのが判り、係官をくやしがらせる。

現場写真をとり終わると、こんどは一人一人の、身分証明書の提示を求めて、名前を書きとり、簡単な調べののち、約一時間かかった手入れを終了。

警視庁から、応援にくり出した予備隊(当時は、機動隊をこう呼んだ)の警戒のうちに制服軍人を

MPに引き渡し、他の検挙者には一人に一人の警官をつけて、雪の中を大型トラックにのせて、警視庁へ——。

銀座から、有楽町の本社へもどって、締め切り時間に追われながら書いた私の原稿である。決して、名文ではないが、現場のフンイキは出ていよう。

電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は、課長から「午前0時突入」を知らされていた。

ホンの数分前、課長が、車を降り立つのを合図に、作戦通り、一人の私服が、ドア・ボーイに体当たりした。飛ばされ、尻餅をついたボーイは、ドアから、二、三メートルも離れて、ベルを押せなかった。倒れたボーイを別の私服が押える。

課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が、場内を見まわしながら、叫んだ。

「そのまま、そのまま!」

バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。

「そのまま、そのまま! 動くな!」

さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

読売梁山泊の記者たち p.216-217 上村保安課長は私の抗議を一蹴

読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」
読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「そのまま、そのまま!」
バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。
「そのまま、そのまま! 動くな!」
さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

俠客モノの映画などでは、手入れに敏速に反応して、灯を消したり、抵抗したりするのだが、それは、プロだからだろうか。

私の記者人生で、タッタ一度だけの、国際トバクの、現場の手入れは、従来のイメージとは、違っていた。

前出記事を、読み返すと、証拠保全のカメラは、なんか、ずっと遅いようだが、「そのまま」の声と同時に、フラッシュは、パッパッ光り出していたのだ。そして、客たちがほんとうに、我に返ったのは、私服につづいて、制服警官が入ってきて、その姿を見てからだった。その間、わずか、数分の出来事であった。

前出の記事の終わりの部分に、「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。本社で、原稿を書いている私は、警視庁クラブから、直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。

「なんだって、予備隊を動員したんだ。サイレンを鳴らして、本庁から出動したから、各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「エエ、現場で、上村とやり合ったのですが、庁内の第一予備隊を呼びやがった」

一足遅れて、マンダリンの二階に上がってきた課長は、四十人近い検挙者に、「これじゃ、手が足りない。予備隊を呼べ」と、係長に命令した。

そばにいた私が、抗議した。「予備隊を呼んだら、各社にバレる。約束が違う!」と。「この人数を見なさい。警官が足りない」と課長。「じゃ、庁内の第一は呼ぶな」「ほかでは、遠くて、時間がかかる。これだけの人数が騒ぎ出したら、一大事だ。ことに、外国軍人がいる!」

上村保安課長は、私の抗議を一蹴した。桜田門から銀座まで、サイレンを鳴らして、第一予備隊が、駈けつけてきた。

「でもキャップ。場内に入ったのは、ウチだけ。写真もウチだけ。仕方なかったンです。各社は、輪転機を止めても、見出し程度しか入れられませんよ」

「そうだナ。マ、よしとするか…」

原稿を出し終えてから、原四郎部長の家に電話で報告した。起きて待っていた部長は、

「十分だ、十分だ。朝刊見れば、ウチのスクープは歴然さ。ご苦労だった。いや、ご苦労」

いつも感ずることだったが、原四郎という部長は、実に、働き易い部長だった。「いいか、新聞記者というのは、結果論だ。書かなきゃダメだし、書いていれば、勝ちさ…」といっていた。

完璧な〝独占スクープ〟の狙いは、外れたけれども、この朝刊の紙面は、努力しただけのことはあった、のだった。

昭和二十七年秋の、「東京租界」の成功が、改めて、〝社会部の読売〟をアピールして、同年度を第一回とする、財団法人・日本文学振興会による、「菊池寛賞」の新聞部門を、原四郎が獲得したのであ

った。

読売梁山泊の記者たち p.218-219 「菊池寛賞」受賞

読売梁山泊の記者たち p.218-219 「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。
読売梁山泊の記者たち p.218-219 「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。

昭和二十七年秋の、「東京租界」の成功が、改めて、〝社会部の読売〟をアピールして、同年度を第一回とする、財団法人・日本文学振興会による、「菊池寛賞」の新聞部門を、原四郎が獲得したのであ

った。

「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。

選考は、同年二月二十四日、大谷竹次郎、山本有三、石川武美、阿部真之助、永田雅一五氏(振興会最高顧問)が出席、文学振興会が推せんを受け、かつ、独自にも選んだ候補から、五部門の授賞が決定された。

もちろん、読売社会部の「暗黒面摘発」は東京租界ばかりではない。原が社会部長に就任してから、新宿粛正やら、立正佼成会キャンペーンなど、読売の評価を高める、数多くの紙面活動があった。

それらの総合得点に、ダメ押しとなったのが、前年秋の東京租界だったのである。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

読売梁山泊の記者たち p.220-221 頭も人柄もいい次男坊

読売梁山泊の記者たち p.220-221 立松和博。エピソードに満ち充ちている男だった。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。
読売梁山泊の記者たち p.220-221 立松和博。エピソードに満ち充ちている男だった。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者

立松和博。朴烈事件の予審判事として著名な、父・懐清と、これまた、ソプラノ歌手として高名な、母・房子との血をうけて、頭も人柄もいい、次男坊であった。父は、早逝したが、その検察関係の友人たちが、立松を可愛がった。

父親と親しかったのは、検事ばかりではない。警視庁官房主事であった、正力松太郎もその一人で、海軍予備学生から復員してきた立松は、正力の口利きで、昭和二十年十月、人手不足の読売に入社した。

そして、戦前の司法記者であった、社会部長の竹内四郎にも、可愛がられた。私が入社した昭和十八年十月には、竹内は、筆頭次長であり、東京府立五中の第一回卒。私は、十六回卒だから、十五歳の差があったが、同じように、目をかけられたものであった。

そして、やがて、司法記者クラブ詰めとなって、立松と一緒に仕事をすることになる。まだ、法務庁の時代で、法務総裁は吉田茂首相の兼務。立松の紹介で、時の検務長官・木内曽益にも会う。木内と立松との会話を聞いて、立松の母・房子や、兄姉たちの様子をたずねる彼に、二人のつながりを感じていた。

この司法記者クラブ一年間の勤務は、ただただ、立松の華やかな、連続スクープのスターぶりに、圧倒されつづけていた。

昭電事件である。福田赳夫、栗栖赳夫、西尾末広と、読売は朝刊で、重要人物召喚を予告し、事態はその通りに展開したのだから、立松の活躍ぶりは、各社をして、歯ギシリさせていた。そのころ、政治家と役人とは「朝起きたら、まず、読売を広げて見る。自分の名前が出ていないのを確認して、ゆっくりと、朝日を読む」といわれたほどだ。

この立松について書き出したら、それこそ一冊の本になるほどの、エピソードに満ち充ちている男だった。そして、それをやったのが、本田靖春の「不当逮捕」(講談社)である。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。ドラマチックに生きた男の記録が、本田の名文で綴られている。

彼は、この著で、講談社のノンフィクション賞を得ている。その受賞パーティーが、東京会館で開かれた時、私は、彼にいった。

「おめでとう。立派な本で、受賞は当然だけど、立松と検察との問題で、ボクは意見が違うんだ。そのうちに『異説・不当逮捕』を書きたいよ」

売春汚職大誤報事件について、私も、本田の取材を受け、当時の検察について、質問されるままに、私の知識を語り伝えた。と同時に、立松の、当時の心理状態や、景山社会部長との関係についても、話したのだが、本田は、それを採らなかった。

本田の執筆態度を、非難しているのではない。その本の帯に謳われているように、「名誉毀損 逮捕 死 大新聞スター記者が越えられなかった、戦後史のハードル!」と、スターや英雄の最後が、悲劇

であることが、人びとに感動を与えるのを、認めてのことだ。

読売梁山泊の記者たち p.222-223 〝疑うことを知らなかった〟立松

読売梁山泊の記者たち p.222-223 ニュースソース、河井信太郎検事。野心家・河井検事に、利用され見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。昭電事件における連続大スクープというのは、河井の意図的なリークによるもの。翌日の逮捕状を新聞記者に見せるという、信じられない〈事実〉
読売梁山泊の記者たち p.222-223 ニュースソース、河井信太郎検事。野心家・河井検事に、利用され見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。昭電事件における連続大スクープというのは、河井の意図的なリークによるもの。翌日の逮捕状を新聞記者に見せるという

本田の執筆態度を、非難しているのではない。その本の帯に謳われているように、「名誉毀損 逮捕 死 大新聞スター記者が越えられなかった、戦後史のハードル!」と、スターや英雄の最後が、悲劇

であることが、人びとに感動を与えるのを、認めてのことだ。

読売記者時代の本田にとって、立松は憧れの人だったのである。何年かの、先輩、後輩の関係で、立松が、後輩には見せなかった〝素顔〟を知らず、かつ、そのニュースソースである、河井信太郎検事について、本田の取材は及ばなかった、のである。

立松は、確かに、悲劇の英雄であった。私をしていわしめれば、それは、野心家・河井検事に、利用され尽したあげく、見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。

裕福な家庭に、生まれ育ち、かつ、亡父懐清の〝遺産〟ともいうべき、人間関係に恵まれて、〝疑うことを知らなかった〟立松の、お人好しの悲劇でもあったのである。

誤報事件の本筋について、記述しておかねばならない。本田は、刻明に、時間的経過を記録しているので、私の、あいまいな記憶は避けて、その要所、要所を引用させてもらうことを、お断わりしておこう。

立松は、二度にわたって、両肺の胸郭成形手術を受け、そのための入院中に、ついでにと、胃潰瘍の手術もして、二年近くの療養生活を終え、社に戻ってきたばかりであった。

景山が、社会部長になって、初めての大汚職事件であった。私が、農林省の発表モノの特落ちをして、クラブ勤務から遊軍に配転されたのが、三十一年春ごろ。そして、約一年を遊軍ですごし、三十二年夏には、司法クラブ・キャップの萩原福三が、本社の通信主任となり、私が後任のキャップに出ていた。

そういう情況下で、立松が休職から復帰してきたのだった。もちろん、秋口だったと思うが、〝大遊軍〟勤務。当分は、遊んでいろという、景山の〝思いやり〟であった。

もうそのころは、昭和二十三年の昭電事件から十年近くもたっており、立松の〝輝かしいスクープ〟も、過去のこととして、半ば伝説化してしまっていた。病気休職などで、立松の存在感自体も薄れていたのだった。

昭和二十五年の社員名簿によると、当時の景山は、岡山市にあった中国総局長である。岡山の素封家の生まれであった景山は、地元に帰っていたのだろう。従って、昭電事件の本質も、立松のスクープの内容についても、十分な知識は、持っていなかったろう。

というのは、昭電事件における、立松の連続大スクープというのは、主任検事であった河井の〈政治的思惑〉からの、意図的なリークによるものだった。

それは、翌日の捕りものに用意された、逮捕状を新聞記者に見せるという、信じられない〈事実〉によって、裏付けされている。立松自身が、私にそう語っているからだ。

当時の検察のボスは、検務長官から、最高検次長検事になっていた、木内曽益だ。検事総長は、GHQ(連合軍総司令部)の指令で、法曹一元化が打ち出され、弁護士出身の福井盛太だった。

東京地検は、堀忠嗣検事正、馬場義続次席検事に、河井主任という態勢。そのボスの木内に、多分「立松の面倒を見てやってくれ」と、いわれたであろう馬場が、河井との間でどのような〝謀議〟をしたのだろうか。

読売梁山泊の記者たち p.224-225 検察が政治を支配していた

読売梁山泊の記者たち p.224-225 木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。
読売梁山泊の記者たち p.224-225 木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。

東京地検は、堀忠嗣検事正、馬場義続次席検事に、河井主任という態勢。そのボスの木内に、多分「立松の面倒を見てやってくれ」と、いわれたであろう馬場が、河井との間でどのような〝謀議〟をしたのだろうか。

当時の政治情勢を見ると、21・5・6に発足した、自由党総裁の吉田内閣は、第一特別国会招集の22・5・20に総辞職した。同6・1に社会党、民主党、国民協同党の、三党連立の片山哲内閣が発足。翌23・3・10まで続いたが、民主党の芦田均総裁に交代。社会党は、西尾末広国務相を入閣させた。そして昭電事件のため、半年後の十月十九日には、芦田内閣が倒れ、第二次吉田内閣になる。

これは、GHQ内部の対立が、そのまま、政界に反映したもので、右のGⅡウィロビー少将と、左のGSケージスとの、日本占領政策の対立であった。ウィロビーは、吉田茂を支持し、ケージスは社会党を支援した。つまり、木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。

いまにして思えば、GHQの威光で、検察が政治を支配していたのである。いまの検察が、政治に従属していることを思えば、〈政治的思惑〉で動く、野心家の検事がいたのだから、驚きである。

馬場は、福岡県甘木市の出身で、田川中学四修で五高に進む。あの容貌といい、出身といい、権力志向であったことは、容易に理解できる。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。

つまり、一社が(この場合は読売)、独占的に、かつ、継続にスクープしつづけることで、事件が、さらに強烈なインパクトを、各方面に与えることを、馬場と河井は計算済みで、それによって、GⅡが意図した、片山芦田内閣打倒に成功した、のである。

本田靖春は、こう書く。

《政府側の重ねての打ち消しにもかかわらず司法記者たちの目に、栗栖逮捕は時間の問題と映った。

そして、取材競争はかつてない熾烈な様相を帯びてくる。

彼らは、立松に一度ならず二度までも、痛打を浴びせられた。クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩にである。

もし、続けて三度、立松に名を成さしめるようなことがあれば、いよいよ鼎の軽重を問われる。ベテランたちにとって、ここは是が非でも、立松の独走を阻まなければならない場面であった。

しかし、彼らは、決定的な打撃を加えられる。立松は、地検の首脳陣が、部内に敷いた厳重な箝口令を、どのようにしてかい潜ったのか、九月三十日付の一面トップに、〈栗栖経本長官きょう召喚/昭電事件・任意出頭のかたちで〉の四段見出しで、鮮やかなスクープを決めたのである》

本田は、「箝口令をどのようにして、かい潜ったのか」と、講談調で扇子を叩いているが、その首脳陣がリークしているのだから、なんのヘンテツもないことである。

立松は、その後、警視庁クラブへ移り、捜査二課担当となる。が、ここでも、しばしばスクープを放つ。二課の刑事たちは、「読売サンは、デカ部屋に顔を出さずに、よく素ッパ抜いてくれるヨ」と、コボした。

それは当然である。大きな事件であれば、警視庁は、地検の指揮を仰ぎながら、捜査を進める。立松は、河井の自宅を〝夜討ち朝駈け〟で、話を聞いてくるのである。 当時の、東京地検の主任検事だった、河井信太郎との〝デート〟がなければ、情報が取れないのである。しかし、主任検事だから、各社とも、夜討ち朝駈けでマークしているのは、当然である。

読売梁山泊の記者たち p.226-227 ネタモトが河井検事

読売梁山泊の記者たち p.226-227 私が問題にするのは、河井検事のあり方である。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまった。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。
読売梁山泊の記者たち p.226-227 私が問題にするのは、河井検事のあり方である。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまった。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。

当時の、東京地検の主任検事だった、河井信太郎との〝デート〟がなければ、情報が取れないのである。しかし、主任検事だから、各社とも、夜討ち朝駈けでマークしているのは、当然である。

立松は、他社の記者との鉢合わせを、避けなければならない。そうでないと、ネタモトが河井検事だ、とバレてしまう。そのための細心の注意が必要で、夜討ちの場合は、河井の自宅から、ずっと離れたところに車を止め各社の様子をうかがう。

そのためには、各社の記者の、何倍もの時間が必要になる。睡眠不足と体力の消耗。彼は、そのころ流行していた、ヒロポンを用い出し、不規則な生活に、荒れていた。

こうして、立松の身体を蝕んでしまった原因は、〈昭電事件の立松〉という、スターの虚名であった。

この二年ほどの病欠。復職してきたとはいっても、心身ともに、充分でないことは明らかだった。

つまり、私が問題にするのは、河井検事のあり方なのである。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまったことである。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。

本田は、「…クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩、にである」と、書く。「司法記者会に入会したときは、弱冠二十四歳であった」とも。

ということは、ほとんど、マトモな記者としての訓練を受けていない、ということでもある。父親のコネで、検察幹部に可愛がられ、たまたま野心家の河井に出会った。その河井に、利用されて、リークされていただけの〝スター記者〟だったのである。

それはとにかくとして、本田は、売春汚職に、立松がタッチしてくる経過を、次のように描く。

《この十月十六日の夕刻、司法記者クラブ員だった滝沢記者が、日比谷公園の松本楼に呼び出されて、立松に相談を持ちかけられる。

滝沢記者は、立松に、全性連という、遊廓業者の団体の、幹部の浮き貸しの話を聞かされた。だが、滝沢は乗ってこないのだ。

「君、どう思う。これじゃ弱いか」

立松のことだから、復帰の初仕事は、トップ記事で飾ろうと、意気込んでいるに違いない。そうだとすれば、かりに、彼の仕入れた情報が正しいとしても、特捜部が追う本筋からは枝葉であり、いかにも弱い。

滝沢が沈黙していると、立松は彼の答えを先取りするようにいった。

「やっぱり、代議士が出てこないことには、しようがないか」

代議士といわれた滝沢は、小耳にはさんだばかりの噂話を、立松に、してみる気になった。

「マルスミっていうの、聞いてます?」

「競馬うま、かい」

「丸で囲った〝済〟の判こが押されているから、丸済み」

「それが、どうかしたのか」

「全性から、どういう経路をたどったのか。ともかく、献金リストが政界筋に流れて、その中の代議士のうち、何人かの名前の上に、丸済みのマークがある、というので、ちょっとした騒ぎになってい

るんだ、そうですよ」

読売梁山泊の記者たち p.228-229 もう一度ウラ付け取材を

読売梁山泊の記者たち p.228-229 立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」
読売梁山泊の記者たち p.228-229 立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」

「全性から、どういう経路をたどったのか。ともかく、献金リストが政界筋に流れて、その中の代議士のうち、何人かの名前の上に、丸済みのマークがある、というので、ちょっとした騒ぎになってい

るんだ、そうですよ」

椅子の背もたれに、両肘をかけて、天井へと立ち上る紫煙を、目で追っていた立松が、滝沢の説明の途中から坐り直した。

「おい、それだ。その線を追っかけよう」

「でも、全性の献金リストが、そう簡単に表に出るでしょうか。ガセネタかも、知れませんよ」

「ガセかどうかは、裏を取ってみれば分る。ともかく現物、それがなければ、写しでも手に入れるのが、先決だ」

「写しといえば、もう地検の手に渡っている、という話ですよ」

「そうか、それならなんとかなるだろう」

立松は、自信ありげに二度、三度うなずいて、やおら、火の消えかかったパイプを、口元へ運んだ》

本田は、「不当逮捕」の文中、立松が、落とし穴にはまりこんでゆく姿を、こう描写している。本田が、意識して描いたのか、どうかは、つまびらかではないが、滝沢の、「もう地検の手に渡っている」という話に、立松が、自信を得たフンイキが、良く出ている。

今でも、ハッキリと覚えているのだが、立松のメモを原稿に直した滝沢と、立松と私の三人が、その原稿をデスクに出す、という最後の段階で、私がいった。

「オレには、宇都宮が、そんな汚い金を受け取るとは、とても信じられない。明日、もう一度、ウラ付

け取材をしたらどうだね」

滝沢は黙っていた。彼は、私の部下であると同時に、立松の後輩であり、かつ、友人でもあった。

立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。

「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」

もちろん、〝政治家オンチ〟の立松のことだから、宇都宮や福田が、どんな政治家であるかなんて、知りもしないし、考えてみたことも、なかっただろう。

立松が、そこまでいうのだったら、もう仕方がない。彼に対して、私には指揮命令権がないのだから…。

こうして、読売新聞の大誤報、といっても朝日の伊藤律会見記よりは小さいが(というのは、朝日の架空会見記は、保存版から削除されて、白地になっているが、読売のは、マイクロフィルムにキチンと写されて、いまでも入手できる)とにもかくにも、つづいて「立松記者逮捕事件」へと発展する大誤報は、輪転機のごう音のなかで、何百万部と刷られていった。

三十年後に明かされた事件の真相

そしてさらに、三十年と六カ月の月日が流れて、昭和六十三年五月二十日、朝日新聞朝刊の呼びものであった、前検事総長・伊藤栄樹の回想記「秋霜烈日」の第十三回が、意外や意外、売春汚職事件 の内幕を、ズバリとバクロしてくれた。

読売梁山泊の記者たち p.230-231 〈真相〉だけは明らかにしておかねば

読売梁山泊の記者たち p.230-231 《そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである》この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。
読売梁山泊の記者たち p.230-231 《そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである》この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。

そしてさらに、三十年と六カ月の月日が流れて、昭和六十三年五月二十日、朝日新聞朝刊の呼びものであった、前検事総長・伊藤栄樹の回想記「秋霜烈日」の第十三回が、意外や意外、売春汚職事件

の内幕を、ズバリとバクロしてくれた。

《…売春汚職の捜査においては、初期からしばしば、重要な事項が読売新聞に抜け、捜査員一同は、上司から疑われているような気がして、重苦しい空気であった。

そのうち、読売新聞に抜ける情報は、どれも赤煉瓦(あかれんが=法務本省)へ、報告したものであることが、わかってきた。だんだん、しぼってゆくと、抜けた情報全部にタッチした人は、赤煉瓦にも一人しかいない。

そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである。事の反響の大きさに、あわてはしたが、犯人がわかって、ホッとした気分がしたのも、正直なところであった》

伊藤栄樹・前検事総長は、このあとにつづけて、《あれから三十年余、赤煉瓦にいた男の名前も、捜査員のなかで、ガセネタを仕掛けた男の名前も、すっかり忘れてしまった》と、わざわざ断わり書きをつけている。

この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。

この、売春汚職大誤報事件にひきつづいて「立松記者逮捕事件」となる。本田靖春の「不当逮捕」とは、このことをさしているのである。

立松が早逝し、河井も伊藤も幽明境を異にしてしまっている。当時の読売司法記者クラブ員、滝沢も寿里も、故人となってしまった。立松逮捕を指揮した、岸本義広・東京検事長もまた、失意のうち

に世を去ってしまっている。

この事件の当事者のうち、生き残っているのは、私ひとりである。やはり、どうしても〈真相〉だけは、明らかにしておかねばならない。

伊藤栄樹・検事総長が、その遺書ともいうべき、朝日新聞朝刊に連載した「秋霜烈日」(のち、単行本として出版)は、死期を悟っていた伊藤が、異例の退官直後の回想記執筆という、〝偉業〟をやってのけた、のであろう、と思う。

実際、伊藤が、あの〝赤煉瓦の男〟について、真相を語らなかったら、河井信太郎という検事は、日本の歴史に、最後まで、〝社会正義の権化〟であり、〝特捜の鬼〟として、その虚名を、実像としてとどめることになったであろう。

そしてまた、本田靖春の「不当逮捕」はまだしも、いまの若いジャーナリストたちは、新聞社の資料部から、むかしのスクラップを借り出して、無批判に、〝特捜の鬼〟と、河井を美化して書く。

昭電事件のころは、立松が大スター記者に祭りあげられていたのだから、河井の〝私的な利用〟であっても、まだ、よしとしよう。しかし、立松は、そのために、ヒロポンを打ち、身体をこわしてしまう。そして、売春汚職の大誤報事件では、河井の〝情報〟のせいで、立松は逮捕される。

それを見殺しにして、自分は、出世街道を進んで行く。立松のほうは、それから心身ともボロボロになり、不遇のうちに早逝したのである。あの時、なんらかの救済の道を探り、努力すべきが、人の

道であろう。

読売梁山泊の記者たち p.232-233 傲岸そのものの奴が多い検事

読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。
読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。

それを見殺しにして、自分は、出世街道を進んで行く。立松のほうは、それから心身ともボロボロになり、不遇のうちに早逝したのである。あの時、なんらかの救済の道を探り、努力すべきが、人の

道であろう。

さて、当時の読売司法クラブは、昭和十八年入社の三田をキャップに、同二十四年入社の滝沢国夫と、寿里(すさと)活の、計三名だった。前任のキャップの萩原福三は、本社の通信主任(サツ・デスク)となっていた。

昭和二十三、四年ごろ、立松、萩原と私の三人が、稲垣武雄キャップの下で、兵隊勤務をしていたのだが、本田靖春が「不当逮捕」に書いているように、立松が河井検事をネタモトにして、華やかに振る舞い、それを、マジメな萩原が、法律的に勉強して、後方支援するという体制だから、私は、張りこみなどの雑兵(ぞうひょう)勤務である。

そして、約一年で、国会遊軍に移るが、萩原だけは、そのまま司法クラブに残り、通信主任になって去るまで、ずっと、居ついていたものだ。その萩原のもとで、司法クラブにいた滝沢が、居残ることを条件に、私もキャップを受けたのだった。

というのは、藤原工大出の技術者である寿里が、新しい兵隊というのだから、滝沢が居てくれねば、戦力が落ちる。さらに、好都合なことには、滝沢は立松の弟分で親しい。大事件が起きれば必ず、立松に情報を頼みに行くだろう。

寿里は、その学歴にふさわしく、社会部記者としては、型破りであった。四季一回ぐらい、地検との呑み会が、会議室などで催されるが、ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。

「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」

はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。近くで、成り行きを見ていた私は、頃あいと見て、止めに入って、滝沢に連れ出させた。

寿里でなければできない芸当である。いまは、三塚派の長老に納まっているので、実名は避けるが、そのころは、政治部記者だった男が、吉原の小さな女郎屋のお内儀を、愛人にしていた。寿里の月給袋は、いつも、その店に〝直行〟してしまう。

「いやネ、その店には、読売の社員名簿があって、序列が、部員のマン中より上なら、貸してくれるんですよ。女郎屋のツケ、なんていうのは、この店だけだったでしょう」

私も、検事の自宅に、夜討ち朝駈けなど、ほとんどしなかった。それは〝物乞い〟同然で、私の新聞記者のプライドが、それを潔しとしないのである。エリート然として、まさに傲岸そのものの奴が多い検事に、ネタの物乞いをすることだからであった。

だから、寿里もハラに据えかねることがあったのだろう。酔った機会に、バクハツしたのだから、私は、心中、快哉を叫びながら、様子を見ていたのだ。

それに反して、滝沢は、やはりマジメで、兵隊の仕事、として、割り切っていた。萩原が、十年も司法クラブが勤まったのは、ハラの中で、検事たちをバカにしていたからだ。頭がいいから、過去の事件のケースから、判例に至るまで、良く記憶していて、若い検事などには、反対に教えてやるから

だ。オ説教をするのである。

読売梁山泊の記者たち p.234-235 これが新聞記者をダメにする

読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。
読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。

それに反して、滝沢は、やはりマジメで、兵隊の仕事、として、割り切っていた。萩原が、十年も司法クラブが勤まったのは、ハラの中で、検事たちをバカにしていたからだ。頭がいいから、過去の事件のケースから、判例に至るまで、良く記憶していて、若い検事などには、反対に教えてやるから

だ。オ説教をするのである。

昭和十八年入社の、青木と萩原と私とは、その性格から、よくこういわれた。デスクに仕事をいいつけられ、「そんなの、ダメですよ。モノになりっこありませんよ」と、言下に断わる三田。

デスクの前では、「ハイ、やってみます」と面従しながら、「こんな企画を出すデスクの下で働くのは大変だよ」と、腹背の萩原。それに対し、デスクの前で「ハイ」、実際に動く青木——仲間たちは、「青木が一番出世するナ」といっていたが、報知の編集局長で早逝した。

滝沢は、福島民友新聞の編集局長で役員にまでなったが、オーナーに嫌われて去り、これも逝った。寿里は、読売の閑職にいて、講演先で、酒を呑んで温泉に浸って死んだ。

話がそれたが、司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、その渕源は、昭電事件での、立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄ごろから、それが定着してきて、ロッキード、グラマンとなると、もう、検察批判などできない。「特捜部出入り禁止」などと、検事が思い上がってきたからである。

政治部の新人が、大臣や実力者に群がって、金魚のウンコになり、社会部では、中堅が検事の夜討ちに奔命する——これが、新聞記者をダメにする。

伊藤栄樹・元検事総長の遺書「秋霜烈日」は、伊藤ら特捜部の検事たちが、人事権を握る馬場義続・事務次官のもとで、前任の岸本義廣次官によって、法務研修所の教官にトバされていた河井信太郎を、

法務省刑事課長に呼び戻した事実から、やがては、特捜部長に返り咲くことを、憂えていたことを、示唆している。

そして、そのために、売春汚職の捜査資料(伊藤は、ガセネタ=偽情報、と表現する)を、河井刑事課長に流してみる。しかし、伊藤の叙述のうち、やや不正確な部分がある。

伊藤は、こう書いている。

《…売春汚職の捜査においては、初期から、しばしば重要な事項が、読売新聞に抜け、捜査員一同は、上司から疑われているような気がして、重苦しい空気であった。

そのうち、読売新聞に抜ける情報は、どれも赤煉瓦(あかれんが=法務本省)へ報告したものであることが、わかってきた》

この部分が、オカシイのである。前述したように、売春汚職を担当していたのは、司法クラブへきたばかりの寿里記者。古い滝沢は、まだ手を出していない。立松は、病欠中であり、本田が書いているように《…その点、わが社は初めに甘く見て少々出足がおくれている。こないだうちは朝日にやられて、今日は毎日だ…》と、《初期から、しばしば読売に抜け》ている事実は、なかったのである。

だからこそ、景山社会部長があせり、病欠上がりの立松を、直轄で起用するのである。戦線に投入された立松が、見ず知らずの若い検事の自宅に、夜まわりするハズがない。立松が顔を出したのは、河井刑事課長室ぐらいのものであろう。

カンぐれば、立松が現われたというニュースが伊藤らに伝わり、それなら、昭電事件以来の、河井

のリークを立証しよう、として、ガセネタを流した、とも考えられる。