二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。
1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。
2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。
私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。
1 お前は重労働五十年の刑に処せられる。
2 お前の大隊は直ちに伐採に出す、人事権は私が掌握している。
3 お前の大隊は一番遅れて内地に帰す。
しかし私は室を出た。二月十一日夜突然私の大隊は伐採作業の命を受けた。
三月十五日迄に前後二回呼出され、署名を強要されたが応じなかった。しかし極度の過労の為つぎつぎと部下は倒れて行くのを見て、私は遂に三月十六日署名した。
1 私の偽名を丸太波乗と云う。
2 『私はクレムペラーを持って来ることが出来ませんでした』と云って来る者(それは如何なる国の人であるか判らない)に次の情報を提供することを誓約する。
イ 内地に於ける細菌研究所の位置、内容、研究主任者氏名。
ロ 内地に於ける軍需工場の位置、内容、主任者氏名。
一九四七年三月十六日 署名
その後で中佐に、もし私が内地に帰還後情報を提供しなかったら如何になるかと問うた所『アナタの御想像にまかせます』と答えた。
注意事項として次の事項を云われた。
1 ソ連大使館に積極的に近づいてはならない。
2 舞鶴で米軍の調査を受けても、山の中で何も知らないと答えよ。
三月十七日私の大隊は伐採作業の中止を命ぜられた。
四月二日マルタ収容所で例の通訳と写真機(小型ライカ)を持った地方人に、写真撮影されようとしたが、目的を示さないので拒否した所、日本新聞にのせると称して半身脱帽(将校服、坊主頭姿)で三枚写された。
八月十五日ナホトカで突然例の通訳が来て『元気ですか、それでは願います』と云われた。
九月二十五日ナホトカ出港、二十七日舞鶴港に到着した。私の落着先は鳥取市内某方であるが、本年末又は明春には札幌市内某方(父の友人)に行く予定である。私の様に任務を命ぜられた者は、マルタ収容所だけでも二十名を下らない。
招かれざるハレモノの客
一 七変化の〝狸穴〟御殿
三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま
ぐるしく進みつつある。