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最後の事件記者 p.228-229 ラジオ東京報道部員の真島夫人

最後の事件記者 p.228-229 記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。
最後の事件記者 p.228-229 記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ。」

と、圧倒的なホメ方である。

これが十三日付夕刊の批評で、十四日朝刊は、「朝毎とも三橋の自供内容は、本紙の昨夕刊特報のものを、断片的に追い出してはいる」とのべ、さらに夕刊では、「昨夕刊やこの日の朝刊で、朝毎が本紙十三日夕刊の記事をほとんどそのまま追い、本紙もまたこの夕刊で、現在までに取調べで明らかになった点、として改めて本紙既報のスクープを確認している。こうして三橋がアメリカに利用されている逆スパイであることが、確認されてみると、十三日夕刊の特ダネは、大スクープであったことが裏付けされたわけで、特賞ものである」と、手放しである。

十五日には「朝毎は相変らず、本紙十三日夕刊の記事を裏付ける材料ばかりだ」、十六日になると、「本紙は今日もまた三橋関係で、第二の三橋正雄登場と、二度目の大ヒットを放ち、第一の三橋が紙面ではまだハッキリと固まらず、何かモヤモヤを感じさせている際であるから、この特報はまたまた非常に注目された。本紙のこの特報で、いよいよナゾが深まり、問題はますますスリルと興味のあるものとなった」十八日には「三橋の第一の家は本紙の独自もので、大小にかかわらず三橋問題は、本紙がほとんど独走の形であるのは称賛に値する」と、私の独走ぶりを、完全に認めてくれている。

古ハガキ紛失事件

年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

その日のひるころ、今のそごうのところにあった診療所へ寄って、外へ出てきたところを、バッタリとラジオ東京報道部員の、真島夫人に出会った。彼女は時事新報の政治部記者だったが、読売の社会部真島記者と、国会で顔を合せているうちに〝白亜の恋〟に結ばれて結婚、KRに入社した人だった。

ヤァというわけで、喫茶店に入ってダべっているうちに、フト、彼女が国警から放送依頼があったということを話した。都本部の仙洞田刑事部長が、何かの紛失モノを探すための放送依頼を、直々に頼みにきたという。

なんということのない座談の一つであったけれども、私には刑事部長が自身できたという点がピンときた。放送依頼などというのは、やはり捜査主任の仕事である。警察官としての判断によ れば、主任クラスが行ったのでは、放送局が軽くみるのではないか、やはり部長が頼みに行くべきだ、とみたのであろうが、それは、ゼヒ放送してほしいという客観情勢、つまり大事件だということである。

最後の事件記者 カバーそで 著者略歴

最後の事件記者 白ページー見返し jacket flap カバーそで
最後の事件記者 白ページー見返し jacket flap カバーそで
最後の事件記者 jacket flap カバーそで 著者略歴
最後の事件記者 jacket flap カバーそで 著者略歴

著者略歴

大正十年、盛岡市に生る。日大芸術科卒業。昭和十八年、読売新聞入社、直ちに社会部記者となる。昭和二十二年、シベリアより引揚げ、復職。法務府、国会、警視庁、通産省、農林省各記者クラブを経て、昭和三十二年六月、最高裁判所司法記者クラブ詰。昭和三十三年七月、横井事件に関連して、取材が「犯人隠避」罪に問われたため、読売新聞退社。

昭和三十三年九月、文芸春秋十月号に「事件記者と犯罪の間」百五十枚を発表。著書に、「東京秘密情報」「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」がある。

住所、東京都世田谷区世田谷二の一九五八

p58下 わが名は「悪徳記者」 並び大名の記者たち

p58下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。
p58下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。

これは発表である。誰でもが簡単に知り得ることは、これはニュースとしての価値が低いのは当然である。

例えば、両国の花火大会の記事は、ニュースではあるが、誰でもがこのニュースにふれることができる。公開されているニュースだからである。機会は均等である。

新聞記者の中にも、こういう公開されたニュースしか書けない記者がいるし、それが多い。特ダネの書けない記者である。それは、その記者が、不断の勉強を怠っているからである。記者の財産である、ニュース・ソースの培養を心がけていないからである。

役所を担当しても、その役所のスポークスマンしかしらないし、スポークスマンの言い分を文宇にして本社へ伝えるだけである。この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。だから、役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。心ある読者は、一度役所の記者会見なるものを覗いてみられよ。二十人もの記者がいても、質問の発言をするのは二、三人だけである。それは決して代表質問ではない。並び大名の記者たちには、質問すら浮かんで来ないのである。

あんたにやるよ

私はサツ廻りののち、法務庁、国会、警視庁、通産省、農林省、法務省と、本社の遊軍以外に、これだけの役所のクラブを廻ってみたが、どこのクラブでもそうである。記者会見で談論風発という光景は少ない。質問さえできない記者は、他社の記者の質問によって「成程そうか」と思い、本社へ送る時には、自分の質問であるかの如くよそおうのである。