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迎えにきたジープ p.094-095 高良女史・ナゾの秘書松山繁

迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.
迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ

フ(無職)らが幹部になっている。この中で注目されるのはユシコフであって、彼は銀座八丁目の千疋屋二階にあるナイトクラブ「ハト」の経営者であった。

クラブ「ハト」というのは代表部員たちの溜り場のような店で、客のほとんどが外人ばかりである。ラ氏の工作舞台であったろうことも当然考えられようが、何よりもユシコフはこの店で二人の白系露人をかくまい、またしばしば代表部へ出入していたのである。

この二人というのはさる二十六年七月二十九日、北海道宗谷村から漁船を利用して樺太へ密航しようとして逮捕され、二十七年七月末に札幌地裁で講和の大赦で免訴になった、ウラジミール・ボブロフとジョージ・テレンチーフの二人である。

そしてまたこのユシコフとボブロフの二人は、二十八年三月十六日、西銀座のナイトクラブ「マンダリン」で、〝モンテカルロの夜〟という偽装慈善パーティの国際バクチを開帳して検挙された主犯でもある。

講和発効となって日ソの関係はまた新しく展開した。当時の岡崎外相の国会での発言によれば、現在の日ソ関係は、『降伏関係ではなく、独立国としての日本とソ連との休戦関係』である。代表部としては前二期の工作の成果が実って、この時期に備えるのを待っていた。

第三期工作は成果の誕生とその育成が狙いだ。高良とみという、人間の善意しか理解できな

い(?)ような老婦人が、モスクワ会議へ代表となって飛入りしてきたのも幸先が良かった。チョロまかしやすいタイプの人である。まさに鴨が葱を背負ってきたという処であろう。

女史は、ハバロフスク郊外六十キロの日本人墓地に詣で、『緑の若草が萌え、やすらかな雰囲気を感じた』という。何故六十キロも離れた墓地ではなく、同地帰還者のいう同市周辺に無数にある墓地に詣でて、一掬の涙をそそがなかったのだろう。女史がどの程度シベリヤ捕虜問題に正確な知識をもち、どうしてその墓を日本人の墓と確認したのであろうか。平和で安らかな一刻であったろう。

さらにまた女史はシベリヤで将軍に会って、日本人戦犯への慰問袋、文通自由を確認したという。ああ、どうして女史は……と、女史の一挙手一投足に不安と危惧とを感じない者があるだろうか。

だが、この高良女史問題も二十七年八月九日付の読売紙に報ぜられた「ナゾの秘書、松山繁」の記事が述べているように(第二集〔赤い広場—霞ヶ関〕に詳述)それは決して偶然ではない。ソ連の対日工作はつねに一貫して流れているのである。

迎えにきたジープ p.208-209 鹿地・三橋スパイ事件日誌

迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952
迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952

鹿地・三橋スパイ事件日誌

▽昭和二十七年

九月二十四日 米軍による鹿地氏不法監禁という、いわゆる鹿地事件英文怪文書が大阪国際新聞社に送られ、「鹿地事件」がジャーナリズムに取上げられた。

十一月九日 鹿地亘氏(48)=本名瀬口貢、東京都新宿区上落合一ノ三六〇=は、昨年十一月二十五日午後六時すぎ転地療養先の神奈川県藤沢市鵠沼で散歩に出たまま行方不明になっていたが、同氏夫人の池田幸子さん(42)が藤沢署に捜査願を提出した。

十二月六日 日中友好協会内山完造氏(68)と鹿地氏夫人池田幸子さんら近親者が『鹿地氏は米軍に

不法監禁されている。私は六月まで一緒にいた』という元駐留軍コック山田善二郎氏(24)を伴い、港区芝車町六二の左社代議士猪俣浩三氏を訪れ鹿地氏の救出措置を依頼した。

同七日 一年余にわたり失踪していた鹿地氏は同夜八時半ごろ突然新宿区上落合一ノ三六の自宅に帰ってきた。

同八日 猪俣浩三氏は衆院法務委員会で、鹿地氏からの「私は訴える」という声明書を発表した。

同九日 在日米軍スポークスマンは八日夜、鹿地氏が米軍に監禁された旨の日本の新聞報道について、『鹿地氏は二十六年末に尋問のため一時監禁されたが、その後釈放されている』と語った。

三橋正雄氏(39)=東京都北多摩郡保谷町下保谷二三八=が国警東京都本部に自首、当局では電波法違反で取調べを始めたところ『私は米軍の鹿地氏逮捕の真相を明らかにするために自首した』と、自供した。

同十日 鹿地氏は衆院法務委員会で証人に立ち、昭和十三年三月の漢口の国民政府軍事委員会顧問の反戦運動時代から咋年十一月米軍に拉致され、そして釈放されるまでの経緯を証言した。

同十一日 在日米大使館は鹿地氏失踪以来の沈黙を破って『鹿地氏の逮捕は外国スパイの容疑だった』と発表。また国会でも岡崎外相、齋藤国警長官らが衆院法務、参院外務各委員会などで『鹿地氏にはスパイの疑いがある』と言明した。

同十二日 電波管理局では三橋氏の自供により同夜十一時四十五分から三十分間にわたりソ連からの

無電連絡の呼出しのコールサインをキャッチした。その発信地はウラジオストックであることが確認された。

同十四日 国警都本部では三橋氏は昨年五月、某国人の紹介で鹿地氏と知り合い、鹿地氏が米軍に逮捕されるまで都内や江の島電鉄鵠沼駅付近などで、前後六回街頭連絡していたと自供したことを明らかにした。

同十五日 国警都本部は三橋氏が『アメリカにも通報していた』と自供したことから、二重スパイと認定した。

同二十三日 鹿地氏夫妻は衆院法務委員会で、三橋氏とのレポの模様や米軍により沖繩へ連行されたことなどを証言した。

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.080-081 吉野松夫・元関東軍ハルビン特務機関員

赤い広場ー霞ヶ関 p.080-081 Matsuo Yoshino, the Harbin secret military agent of the Kwantung Army
赤い広場ー霞ヶ関 p.080-081 Matsuo Yoshino, the Harbin secret military ex-agent of the Kwantung Army

しかし、ラ事件に関する日米往復文書をみると、一月二十七日付アリソン大使の通報に対し岡崎外相は翌二十八日付で、実に完全な抗議の申入れを行っている。「厳重に貴大臣限りの極秘の情報」という条件付文書に対し、外相の返事は完璧なものであるから、これには当然事務当局が関係しており、しかも捜査当局も参画した形跡があるので、この異動が無関係とはいいきれないと思う。複雑怪奇な外務省高官たちではある。

この間の真相を村井氏は否定するが、日暮氏は知っていた。そして「アカハタ」はラ氏失踪が、村井―日暮―曾野の三角関係の謀略だと、先手でいっている。

四 志位自供書に残る唯一の疑問

「山本調書」にはさらにラ氏の供述として「吉野松夫」なる人物についての、詳細な活動状況が書かれてある。この吉野氏は前述のアカハタでは〝警察の手先〟として、激しい罵言を浴せられているのは、すでに紹介した通りである。

これは一体どうしたことであろうか。ラ事件に関連して、吉野氏の名前が公けにされたのは、アカハタについで、私が二回目だ。つまり、私が彼の名前を明らかにする以前に、アカハタが彼を敵陣営の人間として極めつけているということだ。しかし「山本調書」には、吉野松夫氏が如何なる人物を使用し、如何なる手段で、如何なる情報を入手して、そして、その情報をラ氏に提供していたかということが、ラ氏の任意の供述として記録されている。

このように、その情報原や獲得法などの詳細についてまで報告していたことについては、ラ氏は『その情報が如何に確度が高く、如何に経費を投じ、如何に努力をしたか、ということで、報酬を多額に要求しようとする伏線だと考えていた』と、吉野氏を批判しているという。

同氏は元関東軍ハルビン特務機関員で、白系露人工作を担当、チョウル白系開拓団の監督官ともいうべき形で副村長をしており、セミョーノフ将軍(白衛軍、日本側白系軍の軍司令官)の姪を妻にしていたといわれる。終戦時にはハルビンでソ連側に逮捕されたが、特務機関員なのにもかかわらずシベリヤ送りにもならずに、二十一年大連経由で引揚げてきた。もちろん、妻やセミョーノフ将軍は処刑されたことはいうまでもないことである。その後、露語に巧みなところから、日ソ通信社や旧朝連(朝鮮人連盟)に関係、二十七年には日ソ貿易商社進展実業の通訳として、樺太炭の積取りのため樺太へ出張したこともあるという人物である。

ラ氏の吉野氏に関する供述内容は、さる二十五年春ごろ、元ソ連代表部員ポポフ氏と歌舞伎座付近の某料理店ではじめてレポをし、以来ポポフ氏の帰国に際してラ氏に申送られて、ラ氏が失踪するまでの約四年間にわたって、月三―四万円の報酬で、①在日白系露人(戦後ソ連籍を取得した赤系も含む)情報、②米空軍関係情報、③日本側警察情報などを流していたという。そしてその情報原として義弟S氏(船員)、元ハルビン機関員H氏(ジョンソン基地勤務員)ら

の名前をあげていたという。

赤い広場ー霞ヶ関 p.158-159 高良女史はソ連圏の在日出納責任者さ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.158-159 Albert Lee's lawyer threatened me, "If you don't revoke the article, you'll have $ 4 million in damages and $ 6 million in compensation, as well as a defamation case."
赤い広場ー霞ヶ関 p.158-159 Albert Lee’s lawyer threatened me, “If you don’t revoke the article, you’ll have $ 4 million in damages and $ 6 million in compensation, as well as a defamation case.”

ところがこの三人がソ連に入ったのだから大変である。AP通信の記者がその米人の許へきて、『旅費は貴方が出したそうだが本当か』という。これを聞いてビックリした米人は岡崎外相に会って、『米人が共産党の旅費を出したというのでは大変だ。是非私のサインのある証拠をなくしてくれ』と頼み込んだ。岡崎外相はOKとばかりに一件書類を取寄せて破り捨て公文書毀棄をやってのけたというのである。

 しかしこの話ではリー氏が無関係だという立証はされなかった。相手方の日本人弁護士は私に対して『取消さないなら、名誉棄損と同時に四百万ドルの損害賠償と、六百万ドルの慰謝料請求訴訟も起す』と脅かした。

 私は再調査の結果、原社会部長に『大丈夫です』と報告した。期限付の最後通告がきたが黙殺したところ、ついに訴訟は起されなかったので、私は事実だったと信じている。

 もう一つ記事の後日譚で村上氏のことがある。例の記事の取材の時、村上氏は最後に『もしもこんなことをスッパ抜くと貴方は大衆の怒りを買いますよ、国際的にも……』と私を脅かしたが、別の機会に母堂と令妹とに逢うことができた。

 御両人の語る村上氏の像は、私に〝ナホトカ天皇〟津村謙二氏を想い出させた。村上氏はそ

の後、日ソ親善協会の役員をしていると聞いたが、私には村上氏がやがていつの日にか、『俺はヒューマニストだったンだ』と呟く日があるように思えてならない。だが、その村上氏にあのように強く、口をつぐませているものの正体は何だろうか。

 当局のあるアナリストはこう語っている。

 高良女史はソ連圏の在日出納責任者さ。女史が最適任と太鼓判を押されて、マークされたのだ。そしてモスクワ経済会議にひきつけられてマンマと乗ってきたわけだ。その時に〝莫大な金額〟を渡された。これが「高良資金」の実態で、女史はこれを香港の銀行にあずけている。ソ連圏の国際会議などに出かける者は香港までの七万円の旅費さえあれば、あとは香港で高良名儀のトラベラーズ・チェックを受取ってゆく仕掛さ。娘さんの小切手もその一部だろう。三十七万円だって? ゼロが三つ、四つ落ちているんぢゃないかな。可哀想なのが松山繁君さ。一般論として任務の終ったスパイはどうなるかと思う? 厳重な箝口令をしかれて、あとは飼い殺しさ。しかし、「高良資金」を日本に持ち込まないで、香港にプールしておくところがミソだよ。そこに香港の香港たるところがあるんだよ。ウソだと思ったら、香港の中國銀行ビル華潤公司の孫氏をたずねてみたまえ。まず二億だネ。

 この言葉をそのまま信ずるとしよう。そうするならば、われわれはシベリヤ・オルグの姿とつねに一貫して流れているソ連の対日政策の実態と、そしてソ連秘密機関の周到緻密にして、

完璧な諜報調略の手口とを学ぶことができよう。